富山鹿島町教会

礼拝説教

「悔い改めない不幸」
イザヤ書 第14章12〜17節
マタイによる福音書 第11章20〜24節

 本日与えられている聖書の箇所、マタイによる福音書第11章20節以下は、まことに説教のしにくい箇所です。しかしまた同時に、今私たちが、私たちのこの世界が、人類が、しっかりと聞かなければならないみ言葉がここに語られているということもできると思います。本日のこの箇所には、小見出しにあるように、主イエスが、悔い改めない町をお叱りになった、その叱責の言葉が記されているのです。悔い改めない、それは自らの罪を認めて神様に赦しを願おうとしないことであり、さらにもっと根本的には、神様と本当に向き合おうとしないで、よそを見ていること、人間とこの世界の事柄だけを見つめていることです。私たちはいつもそのように、悔い改めない歩みをしているのではないでしょうか。いろいろと後悔することはあるし、反省することもある、あれはまずかったから今度からはもっとこうしようという思いはしばしば持つのです。しかしそれは自分が神様の前に罪人であると認めることとは違います。まして、神様の赦しを求めてその前に跪くようなことは、私たちはなかなかしようとしないのです。私たち一人一人の歩みにおいてそうであるだけではありません。もっと広く、この世界、人類の歩みに目を向けていく時に、私たちは今、深刻に、悔い改めを求められているのだということは明らかです。アメリカでの同時多発テロ事件は全世界に大きなショックを与えました。何千人という人々が殺され、その中には日本人も多数含まれています。我々も攻撃を受けたのだ、日本人はもっと怒れ、と煽っている評論家もいます。しかしこの悲惨な恐ろしい出来事は、そういうことよりもまず、私たちに、悔い改めを求めているのではないでしょうか。憎しみが肥大化していって、直接関係のない何百人何千人の人々を殺すようなことを平気でしてしまう。むしろそれが正義であるように思ってしまう。そしてそれに対して、今度は報復がなされようとしている。憎しみが憎しみを、暴力が暴力を生み、結局同じように多くの人々が犠牲になっていくということが起るかもしれない、同じく正義の名によってです。そのような事態を深刻に憂い、そこに人間の罪を認め、神様に赦しを求め、憎しみが憎しみを生み、それがエスカレートしていく悪循環から抜け出す道をさぐり求めていくことこそ、今私たちがしなければならないことだと思うのです。しかし私たちは、この世界は、人類は、そのような悔い改めをなかなかしようとしない。「相手が悔い改めるならこちらも悔い改めてもよい」という姿勢です。それでは、いつまでたっても悔い改めは起らないのです。

 主イエスは、悔い改めない町々をお叱りになりました。「数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので」とあります。「奇跡」と訳されている言葉は、前の口語訳聖書では「力あるわざ」となっていました。こちらの方が原文の言葉のニュアンスを伝えています。「力」という意味が根本にある言葉なのです。またそこには、日本語に訳されていない「彼の」という言葉が原文にはあります。直訳すれば「彼の力あるわざ」です。彼というのは勿論主イエスです。主イエスの力あるわざが数多く行われたのに、悔い改めなかった町々が叱られているのです。

 主イエスの力あるわざとは何でしょうか。それは主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出したり、死んでしまった人を生き返らせたりした奇跡のことだけを言っているのではありません。私たちは礼拝においてマタイによる福音書を連続して読んできているわけですが、これまで読んできたところは明確にある構造を持っていました。主イエスが人々の前での活動を開始されてからのことに絞って言えば、5章〜7章に、「山上の説教」という形で、主イエスの教えがまとめられていました。そして次の8章と9章には、癒しを中心とする様々な奇跡のことが語られていました。そして10章には、主イエスが弟子たちを伝道のために派遣することが語られており、今読んでいる11章は、主イエスの活動に対して人々からどのような反応があったかということを語っているのです。つまり主イエスの力あるわざとして見つめられているのは、5〜7章の教えと、8、9章の奇跡の両方です。それらが、ここに出て来るコラジンとかベトサイダ、そしてカファルナウムというガリラヤの町々で語られ、行われたのです。しかしその町々の人々は、その主イエスのみ言葉とみわざをちゃんと受け止めなかったのです。彼らは、主イエスの奇跡に驚きはしました。またそのみ言葉を聞くために大勢の人々が集まっても来ました。ですから、全然反応がなかったというわけではないのです。けれどもそれは、「悔い改め」ではなかった。神様の方にしっかりと向き直り、自分の罪を認め、神様に赦しを乞うという反応にはなっていなかったのです。そのような彼らの様子は、まさに私たちと同じだと言わなければならないでしょう。彼らは主イエスのすばらしい奇跡を幾つも見たのに悔い改めなかった、とんでもない人々だ、とは言えないのです。私たちも、主イエスの力あるみ言葉を与えられています。礼拝において、山上の説教を読んできました。主イエスが、神様の独り子、救い主としての権威をもってお語りになった教えを聞いたのです。その中には、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という教えがありました。また「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えがありました。主イエスはこれらの教えによって、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を呼んでいく悪循環を断ち切る道をお示しになったのです。「目には目を、歯には歯を」という、自分が受けたのと同じ損害を相手にも与えるという復讐の掟によっては、その悪循環を断ち切ることはできないのです。何故なら、人は自分が与えた痛みは小さく感じ、自分が受けた痛みは大きく感じるものだからです。だから、復讐は復讐を、憎しみは憎しみを生んでそれが雪だるまのようにふくれあがっていくのです。それを断ち切るためには、一切復讐をしない、受けた痛みは自分だけで耐え、仕返しをしない、相手から受けた損害を自分が一方的に引き受ける、そして相手を赦すということがどこかで起らなければならない。例えばそういう教えを主イエスは語られ、それを私たちは聞いたのです。しかし私たちは相変わらず、「目には目を、歯には歯を」という思いをもって生きている、そういう思いによってこの世界は動いていこうとしている。主イエスの力ある教えが語られても、私たちは悔い改めようとしないのです。主イエスのお叱りを受けなければならないのは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムだけではない。私たち一人一人、私たちの町、私たちの国、私たちのこの世界なのです。

 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と主イエスは言われました。「不幸だ」とはどういうことでしょうか。お前にはこれから不幸なことが起る、かわいそうに、でもそれは私の言うことをきかなかったからで、自業自得だ、ということでしょうか。確かに、この後語られていくことは、神様の裁きの日に彼らが受けるであろう罰のことです。それはあの悪徳の町ソドムや、異邦人の町ティルスやシドンへの罰よりも重いものになると言われているのです。そういう不幸がお前を襲うのだというのが「お前は不幸だ」の意味なのでしょうか。口語訳聖書ではここは「わざわいだ」となっていました。「わざわいだ」というと、むしろ呪いの言葉のように感じられます。主イエスは、悔い改めようとしない町々を呪われたのでしょうか。この「不幸だ」「わざわいだ」と訳されている言葉は、原文においては、「不幸」とか「わざわい」という意味を持った言葉ではありません。それは文法用語では感嘆詞と呼ばれるもので、訳すならば「ああ」とか「おお」という言葉なのです。嘆きと悲しみを表す感嘆詞です。ですからここで主イエスは「ああコラジン、ああベトサイダ」と言われたのです。それは主イエスが、これらの町々のことを心から嘆き悲しんでおられる、その気持ちの現れです。ですから主イエスの思いは、「お前たちには不幸が襲いかかる。それは自業自得だ」というのではないし、ましてやこれらの町々を呪っておられるのではないのです。主イエスの数多くの力あるわざが行われ、示されたのに、悔い改めようとしない人々のことを、主イエスは心から嘆き悲しんでおられるのです。

 23節には、カファルナウムのことが語られています。この町は、主イエスがガリラヤ伝道の根拠地としていた町です。弟子のペトロの家がそこにあり、主イエスはそこを定宿としてガリラヤのあちこちに出かけられたのです。つまりカファルナウムの人々は、主イエスとの接触が最も多かったのです。8、9章に語られている奇跡の多くも、カファルナウムでなされています。主イエスのみ言葉とみわざによって悔い改めるとしたら、このカファルナウムの人々こそ真っ先に悔い改めるべきなのです。その町がしかし悔い改めようとしない、主イエスはそのことを嘆き、「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と言われました。この言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第14章12節以下から来ています。そこをもう一度読んでみます。「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた。墓穴の底に」。ここに語られている「お前」、天にまで昇り、いと高き者のようになろうとしたが、陰府に、墓穴の底に落とされた「お前」とは、バビロンの王のことを言っています。イスラエルを滅ぼして捕囚の憂き目に遭わせているバビロン、主なる神にも打ち勝ち、もはや何者も自分に逆らうことはできないと驕り高ぶっているバビロンの王、しかしそのような栄華は一時のもので、主なる神のみ心によって命は取り去られ、死んで墓に葬られていく、その国も滅びていくのだということが語られているのです。このバビロンの王の運命が、カファルナウムに当てはめられています。主イエスのみ言葉とみわざを目のあたりにしながら悔い改めようとしないことは、バビロンの王と同じことをしていることになるというのです。バビロンの王は、「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と言ったのです。つまり、自分が神になろうとしたのです。神の前に跪き、従う者ではなく、自分が支配者、主人となろうとしたのです。悔い改めないとはそういうことなのだと主イエスは言っておられます。悔い改めようとしない、それは、自分の罪を本当に認めることはなかなか困難だ、神様の前に、赦してくださいと跪く謙遜な思いを持つことは難しい、そうしなければならないことはわかっているのだが、なかなかできない、ということではないのです。悔い改めようとしない私たちの心にあるもの、それは、自分が主人、王であろうとする思いです。神様に従うのではなくて、自分が神の座に座ろうとしているのです。それが、人間の罪です。アダムとエバが神様に背いて、禁断の木の実を食べてしまい、その罪によってエデンの園、楽園を追放されてしまった。それは、「これを食べれば神のようになれる」という誘惑によることでした。神の下で生きるのではなく、自分が神になって、主人になって生きようとすることが人間の罪の根本であることがそこに示されています。悔い改めようとしないというのも、その罪によることなのです。だから、人間は弱いものだからなかなか悔い改められないのではないのです。そうする気がないのです。自分の主人は自分ではなく神様だということを受け入れる気がないのです。私たちはそのことをごまかしてしまっているのではないでしょうか。悔い改めたいと思ってはいるのだが、自分の弱さによってそれができない、とか、自分だけ悔い改めても、世の中全体が変わらない限り問題は解決しない、とかいろいろと理由をこじつけて、悔い改めないことを正当化しようとしています。しかしそれは要するに、悔い改める気がないということであり、神様の前に跪くのはいやだということなのです。

 主イエスはそのような人間たちの、私たちの姿を心から嘆き悲しんでおられます。そして、そのように悔い改めようとしない者たちには、神様の裁きにおいて厳しい罰が与えられるのだということを語っておられるのです。本日の箇所は説教がしにくいと最初に申しましたのはそのためです。説教は、聖書に語られている福音、神様の救いの知らせ、その喜びの知らせを語るものです。しかしこの箇所には、悔い改めない者たちへの厳しい罰が予告されているのです。いったいここからどのような福音が、救いの知らせが聞き得るのだろうかと途方に暮れるのです。ここでの主イエスのお言葉は、私たちにとって、やさしい恵みの言葉と言うよりも、厳しい威嚇の言葉です。悔い改めなければ、厳しい罰を受けることになるぞと主イエスは私たちに警告を与えておられるのです。この警告を私たちはしっかりと聞かなければならないでしょう。悔い改めないことは、今申しましたように、神様の前に跪くことを拒むこと、神様を神様として敬い従うことを拒絶することです。それは私たちが、神様に宣戦布告をするのと同じです。神は自分の主人としての地位を奪おうとしている敵であると宣言することです。そのように神に宣戦布告をするならば、神が私たちを敵として滅ぼすことを不当だと言うことはできません。ここに語られている裁きや罰は当然の帰結なのです。

 けれども、それでは主イエスはここで、そういう厳しい罰を示すことによる威嚇、おどしを与えようとしておられるのでしょうか。それがこの箇所から読み取ることができる最終的なメッセージなのでしょうか。そうではないのではないか、と私は思います。なぜならそれは、「ああコラジン、ああベトサイダ」と深い嘆き悲しみの声をあげられた主イエスのお姿とは合わないと思うからです。そこで、まだとりあげていなかった二つのみ言葉に注目していきたいと思うのです。それは21節の後半の「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」というみ言葉と、23節の後半の「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない」というみ言葉です。これは、コラジンやベトサイダをティルスやシドンと、カファルナウムをソドムと比較することによって、それらの町々の罪の深さをきわ立たせている言葉です。ティルスやシドンは先ほども申しましたように異邦人の町で、旧約聖書においてしばしばおごり高ぶりの代表として言及される町です。ソドムは勿論創世記19章で罪のために神に滅ぼされた悪徳の町です。主イエスは、「お前たちのところで行われた奇跡」つまり主イエスの力あるみ言葉とみわざが、もしそれらの町で行われたなら、彼らは悔い改め、救いにあずかったに違いないと言われます。それほどに、お前たちの反抗の罪は重いということです。これは表面的にはそのように、悔い改めようとしないイスラエルの人々の罪の重さを言っている言葉なわけですが、その裏には、別な思い、メッセージが隠されているように思うのです。ティルスやシドン、それはイスラエルの町ではない、異邦人の町、主なる神様への信仰とは無縁な町です。つまり主なる神様のもとへと悔い改めることから最も遠いはずの町です。ソドムも、史上最悪の悪徳の町、腐敗、堕落の象徴として今も語り継がれる町です。主イエスは、そのような町の人々が、わたしの力ある言葉とわざを見聞きしたならば、悔い改めるのだと言われたのです。それは、これらの町の人々の方が今のガリラヤの人々よりもまだマシな連中だからではありません。その悔い改めを引き起こすのは、主イエスの力あるみ言葉とみ業なのです。主イエスのみ言葉とみ業とは、それだけの力をもったものなのだ、とうてい悔い改めることなどあり得ないような者たちをも、悔い改めさせ、神様の前に跪かせ、罪を認めて赦してくださいと願わせるような力をそれは持っているのだ、ということが語られているのです。あなたがたが今見聞きしている主イエスのみ言葉とみ業とは、そのように人々を悔い改めさせ、新しくする力を持っている。だから、あなたがただって悔い改めることができる、いや、悔い改めて欲しい、主イエスはそう語りかけておられるのではないでしょうか。

 昨日から、ミッション・バラバの人々を題材とした映画「親分はイエス様」が富山でも上映されています。そのチラシなどに書かれているこの映画のメッセージは、「誰だってもう一度やり直せるんだ」ということです。それは言い換えれば、「あなたも悔い改めることができる」ということでしょう。主イエスのみ言葉とみ業は、どんな罪の中に、どんな弱さの中に、どんな事情の中にある者をも、悔い改めさせ、新しくする力を持っている、それが、元ヤクザのクリスチャンであるミッション・バラバの人々が証ししていることなのです。

 主イエスのみ言葉とみわざ、それは山上の説教と8、9章に語られていることのみではありません。この福音書全体がその力あるみ言葉とみわざを私たちに証ししているのです。その全体を通して示されていることは、主イエス・キリストが、ただ教えを語り、奇跡を行われただけではなくて、私たちの全ての罪を背負って、ご自分は何の罪もないのに、十字架の死刑の苦しみを受けて下さったということです。神様を敵として宣戦布告する私たちの罪の結果である裁きとその罰を、神様の独り子である主イエスが代って引き受けて下さったのです。悔い改めない者たちが受けるであろうとされている厳しい罰、それを主イエスは私たちの代わりに受けて、私たちをそこから解放して下さったのです。また、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生み、それがふくれあがっていく悪循環を断ち切らなければならない、そのためには、受けた痛みは自分だけで耐え、仕返しをしない、相手から受けた損害を自分が一方的に引き受ける、そして相手を赦すということがどこかで起らなければならない。その教えを、主イエス自らが実行して、私たちの罪がもたらした痛みを自分だけで耐え、損害を一方的に引き受けて下さったのです。それが、主イエス・キリストの力あるみ言葉とみわざです。そして父なる神様はその主イエスを、十字架の死から復活させて下さいました。主イエスは今も生きて、聖霊の働きによって私たちと共にあり、私たちを守り導いていて下さるのです。この主イエスによる神様の力ある恵みのみわざによって、私たちは悔い改めることができる。主イエスは、私たちが悔い改めてみ前に跪き、罪を認めて、赦しを願い、主イエスの弟子となって、主イエスに聞き従って生きる者となることを、待っておられるのです。期待しておられるのです。そのことこそが、この箇所が私たちに語りかけている最終的なメッセージであると信じます。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年9月23日]

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