富山鹿島町教会

礼拝説教

「まことの安らぎを求めて」
マタイによる福音書 第11章25〜30節

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 私たちは皆、疲れています。この世を生きていくことは疲れることです。疲れの中には、さわやかな疲れ、スポーツに汗を流した後のような、気持ちの良い疲れというのもありますが、ここで問題になっているのはそういう疲れではなくて、ただただため息しか出ないような疲れ、明るく積極的に前向きに生きていく力を奪うような疲れです。そういう疲れは、肉体のつらさからよりも、むしろしばしば人間どうしの関係から生じてきます。私たちは、人間関係に疲れてしまうのです。しかしだからと言って、疲れる人間関係を一切持たずに、一人で孤独に生きていけるかというと、それはできません。社会生活を送っている以上それはできないというばかりではなく、人間の本質から言ってそれはできないのです。人間という字は人の間と書く、ということがよく言われます。人間は、人々の間で、人々との交わりの中でしか生きることができない者だというのです。私たちは完全な孤独には耐えられない、人と人とのぬくもりある交わりを必要としているのです。人間関係を求めているのです。しかしその人間関係が、しばしば私たちを疲れさせる、私たちから力を奪うのです。このことを、「ヤマアラシのジレンマ」と言うことがあります。ヤマアラシは、全身に鋭い棘を持っているのです。そのヤマアラシが、お互いのぬくもりを求めて寄り添おうとする、するとお互いの棘がお互いを刺して痛い思いをするのです。私たち人間はそれと同じではないでしょうか。私たちはお互いに、棘を持っているのです。人を刺し貫き、痛い思いをさせていく棘です。そういう棘を持った者どうしが交わりを持とうとする、ぬくもりを求めて寄り添おうとする時に、相手の棘が自分を刺し、自分の棘も相手を刺すのです。そしてお互いに傷を負う、痛みを覚える、その傷と痛みによって私たちは疲れ果ててしまうのです。

 また私たちは重荷を負って生きています。どんな重荷を負っているか、それは人それぞれ様々でしょう。仕事をしている人は、自分の責任分担を重荷として負っています。家庭の主婦だって、家族の生活を守り整えていくという大きな重荷を負っています。あるいは学生も、学びの課題という重荷を負って、それをこなしていかなければなりません。そういう、負うべき重荷が何もない人などはいないのです。しかしそれらの重荷は、ある意味では人生の励み、生きがいともなるものかもしれません。しかし重荷はそのようなものばかりではありません。私たちの人生をひたすら圧迫し、歩みを停滞させ、いや命そのものをも奪ってしまうような重荷もあるのです。例えば病気という重荷です。老いという重荷もそうです。自らの病気や老いのみではありません。家族の病気や老い、それも重荷としてのしかかって来ます。そしてさらには、愛する者の死という苦しみ悲しみが、重荷として負わされてきます。いわゆる天寿を全うしての死の場合には、家族が負わされる悲しみの重荷はそう大きくはないかもしれません。しかしそうではない場合、若くしての死、事故や事件による突然の死によって、家族たちにのしかかる悲しみの重荷はまことに大きいものです。先日の、アメリカにおける同時多発テロ事件によって、六千人を越える人々が、突然、理不尽なテロによって殺されました。それによって、数万人の人々が、そういう悲しみの重荷を負わされたのです。その人々がこれからずっと、その重荷を背負って生きていかなければならないということを私たちは忘れてしまってはならないのです。

 私たちが背負っている重荷は、その他にも様々なものがあるでしょう。一人一人がそれぞれ、自分にしかわからない、自分に与えられている重荷を背負っているのです。しかしそういう個人的な重荷のみならず、社会全体が負っている重荷もあります。今この世界が負わされている最も緊急の重荷は、あのテロ事件に対するアメリカの報復攻撃がなされようとしていることです。アメリカは全ての国をこの戦いに巻き込もうとしています。ある意味では第三次世界大戦に参戦するように求めているのです。しかしこの戦いは、相手がはっきりしません。どうなれば勝利し、戦いが終るのか、それもはっきりしません。下手をすればいつまでも終らない泥沼の戦いになるかもしれないのです。わが国の政府は、そういう見極めなしに、ひたすら急いでこの戦いに参戦しようとしています。そこにあるのは、世界の平和のためにこの国が何をすべきか、という見識よりも、ひたすら「遅れをとってはならない」という思いのみであるように見えます。このような世界の、また国の動きも、私たちの上に大きな重荷となって負わされているのです。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 様々な重荷を負って疲れ果てている私たちに、このように語りかけておられる方がいます。「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」。その「休ませる」というのは、仕事などから一旦離れて休む、そしてリフレッシュされて、新しい気力と力を与えられて再び働きに戻っていく、そういうことを意味している言葉です。もう疲れの原因が全て取り除かれて、一切疲れなくなる、というのではありません。また、重荷が全部取り去られて、これからは身軽になって歩める、ということでもありません。この世を生きている限り、この人生を歩んでいる限り、私たちは疲れを覚えるのです。重荷を負わされるのです。それを全て捨ててしまおうとしたら、この世から出て行くしかありません。死ぬしかありません。生きている限り、疲れはあるし、重荷もなくならないのです。しかしそこに「休み」が与えられる。それによって私たちは疲れを癒され、リフレッシュされ、新しい力を与えられて、もう一度、疲れる人生の歩みへと、重荷をしっかりと背負って歩み出していくことができる、そういう休みを、わたしがあなたがたに与えると、この言葉は語りかけているのです。

 私たちにこのように語りかけておられる方とは、イエス・キリストです。イエス・キリストが、「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言っておられるのです。けれども、イエス・キリストという方が今、この地球上のどこかに住んでおられるわけではありません。キリストは、約二千年前にこの地上を生きられた方です。しかし今は、目に見える姿で地上におられるわけではありません。聖書は、キリストは十字架にかけられて死に、三日目に復活し、四十日後に天に昇られ、今は天におられると語っています。だからこの地上のどこかへ行けばキリストに会えるというものではないのです。「わたしのもとに来なさい」と言われるけれども、いったいどうしたらこのキリストのもとに行くことができるのでしょうか。29節には、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。ここに、私たちがキリストのもとに行くとはどういうことであるかが語られています。「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」、それがわたしのもとに来ることだと言われているのです。

 「軛を負う」ということのイメージは、今はなかなかつかみにくくなりました。家畜に軛を負わせて農作業などをする、という光景がそもそも私たちの生活の中からなくなっています。私自身もただ知識として知っているに過ぎないのですが、軛というのは、家畜に負わせてその動きをコントロールして、たとえば鋤を引かせるためのものです。軛を負わされた家畜は、自由には動けません。飼い主の指示する方向に、指示された時に歩かなければならないのです。ですから軛は、不自由、束縛の象徴でもあります。聖書の中にも、「奴隷の軛」という言葉が出てきます。そうすると、イエス・キリストの軛を負うとは、イエス・キリストに従い、その教えや指示通りに生きていく、ということになるでしょう。それを別の言い方で言えば、「わたしに学ぶ」ということになるのです。この「学ぶ」という言葉は、「勉強する」と言うよりも、「弟子になる」という意味です。ただイエス・キリストの教えを学んで理解するというのではなくて、キリストに従っていく、ついていく、そして師であるキリストを見習っていく、ということです。キリストのもとに来るとは、そのように、キリストの軛を負い、弟子になることなのです。

 「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われています。しかしそれは本当だろうか、と私たちは思います。今申しました、軛を負うということにしても学ぶということにしても、決して「安らぎを得られる」「休みを与えられる」ようなことではないのではないか。むしろ、様々な重荷を負って疲れ果てているところに、さらに新たにキリストの軛という重荷まで負わせられて、もっと疲れることになるのではないか。ただでさえ学ばなければならないことが多いのに、もう一つキリストに学ぶという課題まで与えられて、もうパンクしてしまう、ということになるのではないか。教会に行って、キリスト教信仰を学ぶ、或いはクリスチャンになるということに対して、そういうイメージを持っている人は多いのではないかと思います。それは新たな重荷を背負ってますます疲れる生き方をすることだ、というイメージです。たまの日曜日ぐらいゆっくり休めばいいのに、朝から教会に出かけていく、なんと疲れる生き方だろうか、というイメージです。けれどもここには、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られています。キリストの軛を負い、キリストに学んでいくところに与えられるのは、安らぎだ、休みだというのです。それは何故なのでしょうか。

 このことは、苦労を避けて楽をしていては本当の安らぎは得られない、負うべき軛を負い、学ぶべきことをちゃんと学ぶ努力をしてこそ本当の安らぎが与えられるのだ、ということではありません。そこも、多くの方々が誤解しているところです。つまり多くの宗教は、様々な形での修行を求めるのです。苦しい修行を経ることによって、平安や安心が、あるいは求めているご利益が与えられるのだと教えるのです。宗教とはそういうものだというイメージが私たちの中にあります。だから、聖書の教えもそのパターンに当てはめて読んでしまうのです。すると、「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」ということも、その修行の一環となる。それを経ることによって安らぎが得られるという話になるのです。けれども、イエス・キリストがここで言っておられるのはそういうことではありません。安らぎは、「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」という苦しい修行を通して与えられる境地だ、と言っているのではないのです。そうではなくて、わたしの軛を負い、わたしに学ぶこと自体に安らぎがあると言っておられるのです。それは、「わたしは柔和で謙遜な者だから」です。キリストの軛を負い、キリストに学ぶ、そのキリストとはどのような方であるかによって、その軛を負うことの、彼に学ぶことの意味や内容は違ってくるのです。

 イエス・キリストは柔和で謙遜な方です。柔和という言葉は、優しく柔らかなというイメージを持っています。それはともすれば、軟弱な、弱いということにもつながります。しかしイエス・キリストが柔和であられるという時に、それは決して、優しいけれども弱々しいということではありません。キリストの柔和さとは、力による戦いという手段に訴えるのではなく、むしろ自らが苦しみを引き受けることを通して事を成し遂げていく、ということです。つまりこの柔和さは、内に強靭な力を秘めた優しさです。その力が、敵を傷つけ殺すために発揮されるのではなく、むしろ自らが苦しみを引き受け、敵意や悪意を受け止めることによってそれを乗り越えていくために発揮されていくのです。それがキリストの柔和さです。またキリストは謙遜な方です。それも、私たちが普通に思う謙遜とは大分違うことです。キリストは、聖書の証するところによれば、神の独り子です。ご自身がまことの神であられる方なのです。その神である方が、一人の人間となってこの世に生まれ、歩まれたのがイエス・キリストです。キリストの謙遜とは、神が、私たち人間のために、天の栄光を捨ててこの地上に降り、私たちと同じ人間になって下さったということなのです。神様が、私たちのために徹底的にへりくだって下さった、その神の謙遜の姿がイエス・キリストなのです。そして、この柔和さも謙遜も、最終的には一つのことに集約していきます。それは、イエス・キリストの十字架の死です。キリストの柔和さは、敵意や悪意を受け止め、自らが苦しみを引き受けることによってそれを乗り越えていくことだと申しました。それがキリストの十字架において起っていることなのです。キリストは私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さいました。私たちの罪、それは神様に逆らうことです。神様を敬うのではなく、自分が主人、王になろうとすることです。それは神様に対して敵意を抱くことです。キリストはその私たちの神様への敵意をご自分の身に受け止め、ご自分が十字架にかかって死ぬことで、その敵意を乗り越えて下さったのです。先ほど、ヤマアラシのジレンマということを申しました。私たちは外に向かってつき出した棘を持っている。その棘が罪です。お互いの罪が、お互いを刺し貫き、痛みを与えているのです。キリストの十字架は、その私たちの罪の棘によって、キリストご自身が刺し貫かれたということです。隣人を刺し貫こうとする私たちの棘をキリストが代って引き受けて下さり、それによって私たちがもはやお互いの棘で突き刺し合うことなく寄り添うことができるようにして下さったのです。キリストの柔和さはこの十字架の死にこそ表されているのです。キリストの謙遜もそうです。十字架の死は、罪人である私たちが受けるべき罪の報いを、キリストが代って受けて下さったということです。神の独り子であられる方が、人間になって下さっただけでなく、罪人の身代わりになって死んで下さったのです。そこにキリストの謙遜が極まっています。このキリストの謙遜によって、私たちは、罪を赦されて新しく生きることができるのです。

キリストが柔和で謙遜な者であるとはこういうことです。そのキリストのもとに来て、その軛を負い、弟子となることが、聖書の教える信仰です。それは、新しい重荷を負わされてますます疲れる生活を送ることではありません。キリストの軛を負い、弟子となる時、私たちは、人の罪によって傷つき苦しむ自分の傍らに、イエス・キリストが共におられ、共にその傷と苦しみを受けていて下さることを知らされるのです。また、自分の罪によっていつも人を傷つけてしまう自分の傍らに、イエス・キリストが共におられ、私たちの棘を受け止め、その傷を引き受け、それによって私たちを赦して下さっていることを知らされるのです。お互いの罪の棘によって傷つけ合い、人間関係の痛みによって疲れ果てている私たちは、そのようにして、キリストの柔和と謙遜によってその傷を癒されていくのです。また、様々な重荷を負ってあえいでいる私たちは、キリストの軛を負う時に、イエス・キリストが自分の重荷を共に背負って、並んで歩いて下さっていることを見出すのです。この軛というのは通常二頭の家畜を並べてつなぎ、働かせるものだそうです。つまり私たちがキリストの軛を負う時、そこには私たちと並んで共にこの軛を負っている者がいる。それは、柔和で謙遜なイエス・キリストです。キリストの軛を負うことによって、私たちの歩みは、柔和で謙遜なイエス・キリストと共に生きる歩み、キリストが私たちの重荷を共に負って下さる歩みとなるのです。

 柔和で謙遜な方であるイエス・キリストと共に歩むところには、まことの安らぎがあります。本当に休みを与えられ、リフレッシュされて、自分の重荷をしっかりと負って生きていく新しい力を与えられることができます。それは決して、もう一つ別の重荷を背負い込んでますます疲れていくような歩みではないのです。30節には、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。イエス・キリストの軛は負いやすい、それは、イエス・キリストが、ただ私たちに軛を負わせ、私たちをこき使おうとしておられるのではないからです。キリストは、私たちと共に、この軛を負って下さいます。いや、むしろ私たちより先に、軛を負い、重荷を負って、十字架への道を歩んで下さったのです。そのキリストと共に負うのだから、この軛は負いやすいのです。またそこで与えられるキリストの荷は軽いのです。それは私たちがすでに背負っている重い荷に加えて、軽いものではあるがキリストの荷も背負わされるというのではなくて、キリストが共に負って下さることによって、私たちの肩に重くのしかかっている荷が軽くなるということです。あるいはキリストが私たちの重荷を取り除いて下さり、代りに軽い荷を背負わせて下さると言ってもよいかもしれません。私たちの肩から荷物がなくなってしまうわけではありません。軛を負うからには、自分の思い通りに生きるわけにはいかないのです。イエス・キリストを信じ、従っていく信仰の歩みは、確かにある軛を負い、荷を負って歩むことです。しかしそれは負いやすい軛、軽い荷なのです。逆に私たちがキリストの軛を負うことを拒み、あくまでも自分の思いの通りに、自由に生きようとする時、私たちはあのヤマアラシのジレンマから逃れることはできません。またそこでは人生の全ての荷を自分一人で背負わなければならないのです。そこにあるのは、お互いに傷つけ合う痛みに疲れ果て、重荷にあえぎつつ、しかも休むこともできないという歩みなのではないでしょうか。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 イエス・キリストが今私たちに、こう呼びかけておられます。このイエス・キリストのもとに行って、まことの安らぎを与えられたいのです。どこへ行けば、このイエス・キリストにお会いすることができるのでしょうか。地上のどこかへ行けば会えるというものではない、と先ほど申しました。けれども、この福音書の一番最後のところ、28章19節以下にはこのように語られています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス・キリストは約束して下さいました。私たちは今、イエス・キリストをこの目で見ることはできません。だからどこかへ行けばお会いできるということはありません。けれどもそれは逆に言えば、いつでも、どこでもイエス・キリストと共に歩むことができる、ということです。イエス・キリストは目に見えない仕方で、いつも、私たちと共にいて下さるのです。しかしそれは、いわゆる背後霊のように、私たちのそばにいつもついている、という話ではありません。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」、そこに、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束が与えられているのです。これはつまり、教会において、礼拝を守り、イエス・キリストの教えを常に新たに聞きながら歩むことです。どこかの場所へ行くことではなく、礼拝をすることこそが、イエス・キリストのもとに行くことであり、そこでイエス・キリストは私たちと共にいて下さるのです。この礼拝は、私たちが、柔和で謙遜な方であるイエス・キリストとお会いする場です。そしてここで私たちはキリストの軛を負い、キリストに学ぶ弟子となって生きていくのです。世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいると約束して下さったキリストは、今この礼拝の場で、私たちに出会い、共に歩もうとしておられるのです。礼拝において、主イエス・キリストと出会い、共に歩むところにこそ、まことの安らぎがあります。様々な重荷を負ってあえいでいる私たちであり、この世界ですが、その中で私たちは、礼拝を守りつつ、柔和で謙遜な主イエス・キリストと共に軛を負って歩む者でありたいのです。そのことによって、私たちの重荷は、私たちが負うことのできる、軽い荷となるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年9月30日]

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