富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「死も、命も、キリストの愛の内に」
イザヤ書 第50章4〜9節
ローマの信徒への手紙 第8章31〜39節

 私たちは本日の礼拝を、召天者記念礼拝として守っています。お手もとに、召天者の名簿をお配りしました。この教会の教会員として主のみもとに召された方々、また、教会員の家族で、幼くして天に召された方々や、まだ洗礼を受けるには至っていなかったけれども、共に礼拝を守り、教会でお葬式が行われた方々がこの名簿に収められています。本年新たにこの名簿に加えられたのはお二人です。一人は、Tさんです。この6月に、35歳の若さで、事故のために亡くなられました。昨年のクリスマス礼拝を共に守ったこの若い兄弟の突然の死は、私たちにとって大きな衝撃であり、また人間の命の脆さを改めて深く考えさせられる出来事でした。もう一人は、Nさんです。Nさんは、奥様のC子さんと共に、日本聖公会で洗礼を受けたクリスチャンであられました。高岡に住むお子さん方のもとに引っ越してこられて以来、この教会の礼拝に出席しておられました。C子さんは89年に亡くなられ、この教会でお葬式が行われました。名簿の24番にお名前があります。もう何年も前から、ご病気のために共に礼拝を守ることはできなくなっておられましたが、先月の23日に天に召されました。ご家庭の事情で、お葬式は行われていません。そして本日、この礼拝の後の教会納骨堂での墓前祈祷会において、奥様のご遺骨も納められている当教会の納骨堂に納骨をします。本日の礼拝は、このNさんのお葬式をも兼ねつつ守りたいと思っております。

 名簿にお名前を記して覚えているのはこの43名の方々ですが、これは記録が残っている方のみであって、戦前のこの教会の歩みの中で天に召された方々については、空襲によって記録が失われてしまっているのでわかりません。私たちが顔は勿論名前も知らないそれらの方々もまた、この教会の歩みを支えてこられた私たちの信仰の先達です。それらの方々にも思いを馳せつつこの礼拝を守りたいと思います。

 先日、昼の祈祷会の後、出席者の方々でこの名簿を作成したのですが、その時にある方が、「随分増えましたね」と言われました。実際、私がこの教会に参りました時に比べて、この名簿はもう倍以上に増えています。しばらく前までは、この召天者記念礼拝の週報の報告のところに、これらの方々のお名前を全部並べていたのです。しかしもうそれをしているスペースがなくなってきたので、数年前からこのような名簿を作ってお配りするようになりました。これは基本的に、増えることはあっても減ることはない名簿です。これからも増え続けていくのです。ここに集っている私たちの全てが、基本的にはいつか、この名簿に加えられていきます。つまり私たちもいずれ、死の力に捕えられ、その支配下に置かれていくのです。そのことを免れることができる者は一人もいません。死は、遅かれ早かれ、必ず私たちを捕え、支配するのです。私たちの人生は、そこに向かっての歩みです。そのことは、年を取ってきたらそのうち考えればよい、ということではありません。Tさんの死の現実が示しているように、死は、35歳の、頑健な、健康そのもののスポーツマンをも、あっという間に捕えてしまうのです。「人間、明日の命はわからない」とよく言います。私たちはそう言いつつ、でもそれが自分のことだとは思っていないのではないでしょうか。自分の命が明日失われるとは思わずに日々を生きているのです。しかしその私たちのすぐ傍らに、死の深淵がぽっかりと口をあけている。それがいつ私たちをのみ込んでしまうか、わからないのです。

 このような言い方は、いたずらに恐怖心を煽るようなことにもなりかねない、そういう意味で気をつけなければならないことだと思いますし、皆さんの中にも不快な思いを持つ方がおられるかもしれません。しかしこのことを敢えて語るのは、恐怖を引き起こすためでもなければ、皆さんを死の現実によって脅して、信仰を持たせようということでもありません。むしろ逆に、私たちはこのことをしっかり見つめつつ、しかしそれによって動揺させられたり恐ろしがったりするのでなく、喜びと希望をもって、毎日毎日をしっかりと歩むことができるのだ、ということを確認するためです。確かに私たちは、明日をも知れぬ命を生きています。そして人生の行き着く先には死が待ち受けており、それを免れることはできません。けれども私たちは、そのことから目を逸らして見ないようにすることによってではなく、そのことをしっかりと見つめつつ、なおそこで喜んで、希望をもって、明るく、元気に生きることができるのです。そのことを高らかに宣言しているのが、本日与えられている聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第8章31節以下なのです。

 最後の38、39節にこのように語られています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。ここに様々なものが並べられていて、それらはしかし、主イエス・キリストによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできない、とあります。それは言い換えるならば、これらのどんなものによっても、私たちの人生から喜びが、希望が、失われてしまうことはない、ということです。そしてその喜びや希望を脅かす様々なものの筆頭にあげられているのが死です。死の力によっても、私たちの喜びや希望は失われないのです。確かに死は私たちをいつか必ず捕え、この肉体の命は取り去られていく、しかしそれでも、私たちは喜びと希望を持って生きることができるのです。それは、私たちは死の力に敗北しない、むしろそれを打ち破って勝利するのだ、という勝利の宣言です。37節に「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とあります。この勝利が、死の力に対しても及ぶのだと38節は言っているのです。

 私たちの人生を脅かすものは死の力だけではありません。「命も」とあります。死ぬことだけが喜びや希望を脅かすのではないのです。むしろ生きていることそのものが、苦しみに満ちており、それが喜びや希望を奪っていく、死んでこの苦しみから逃れて楽になりたいと思うことがあるのです。生きていくことにもそういう苦しみがある。しかしそれもまた、私たちから喜びと希望を奪うことはできない、私たちはその苦しみに対しても勝利することができる、と語られているのです。その次には、「天使も、支配するものも」とあります。ここで考えられているのは、私たちの人生に影響を及ぼし、支配している、人間を越えた力です。そういう力によって私たちの人生は翻弄されています。誠実に努力していけばそれが必ず報われる、とは限らないものがこの人生にはあるのです。例えば景気の動向などということがそれに当ります。景気という、個人の力や努力ではどうにもならないものによって、人生が翻弄されていくのです。景気ならばまだ、経済のメカニズムで説明ができます。しかし人生には、全く説明不可能な様々な事柄が起こってきます。何故、今、自分に、このようなことが起こるのか、その原因がどこにも見出せないようなことがあるのです。そういう人間を超えた力に支配され、振り回されていることを感じる時に、人はその原因を様々なところに求めていきます。先祖の霊の祟りにしてみたり、名前の字画のせいにしてみたり、家の方角が悪いと言ってみたりするのです。そのようにして、様々な「占い」が生まれるのです。しかし聖書は、そのような占いとははっきりと一線を画すのです。占いの世界に語られているような、様々な人間を超えた力がたとえ働いているとしても、そういうものによって私たちの喜びと希望は左右されない、そのような力に対しても、私たちは勝利するのだ、と聖書は語っているのです。

 「現在のものも、未来のものも」とあります。現在この世界に起こっていること、六千人を越える人々がテロによって殺されたこと、見えない相手から送られてくる炭疽菌による被害が拡大していること、テロリストに対する攻撃のための空爆によって一般市民が巻き添えになって殺されていること、そして先日の報道によれば、食料支援が途絶えたアフガニスタンで、この冬、十万人の人が餓死する心配があること、これらのことは私たちにとってもはや他人事ではありません。それによって私たちのこの世界の平和、喜び、希望が危機に瀕しているのです。そして未来のもの、これからこの世界がどうなっていくのか、何が起こっていくのか、そこに大きな不安があります。これらのことが、この世界と私たちの人生を深刻に脅かしているのです。しかしその「現在のものも、未来のものも」、私たちの喜びと希望を失わせることはない、そこにおいても、私たちは勝利することができるのだ、と語られているのです。

 死によっても、生によっても、いかなる力によっても、どんな出来事によっても、失われてしまうことのない喜びと希望が、私たちには与えられている。その喜びと希望の内容は、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」です。死を筆頭とするこの世のどんなものも、その神の愛から私たちを引き離すことはできない、と言われているのです。「キリスト・イエスによって示された神の愛」とはどのようなものなのでしょうか。そしてそれは何故、この世のいかなるものによっても失われてしまうことがないのでしょうか。

 その「キリスト・イエスによって示された神の愛」の内容が、31節以下に語られているのです。まず31節にあるのは、「神がわたしたちの味方である」ということです。神様が私たちの味方であって下さるのだから、この世のどんなものも、私たちに敵対できない、というのです。このことは、これだけを読むと、神様が私たちの思いや計画を実現するために味方をして下さる、私たちの気に食わない敵はやっつけて下さる、というふうにも受け取られてしまうかもしれません。しかしそういうことが語られているのではないのです。神様が味方であるとは、次の32節に語られていることをして下さるということです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。神様は、私たち全ての者のために、その御子を死に渡して下さったのです。それが、主イエス・キリストの十字架の死です。主イエス・キリストは、神様の御子、神の子であられました。まことの神であられたのです。その主イエスが、私たちと同じ人間となって、この世に来て下さいました。それは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さるためでした。主イエスが私たちの罪を背負って身代わりになって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦されて、主イエスの義、正しさを与えられて、神様の子として、その恵みの下で生きることができるようになったのです。それは御子イエス・キリストの恵みによることであると同時に、父なる神様が、その独り子を、私たちのために惜しまず死に渡して下さったということでもあるのです。神様は、ご自分の一番大切なものを、いやものと言うよりも、自分自身でもある独り子を、私たちに与えて下さったのです。神様が私たちの味方であられるとはこのことなのです。ですからそれは、神様は私たちの願いを何でも聞いて下さるとか、私たちが何かをしようとすると必ずそれを支持して下さるということではありません。この「味方」は「援軍」のような意味ではなくて、神様が私たちのことを本当に愛していて下さり、私たちに本当に必要な恵みを必ず与えて下さるということです。その神様の愛が、独り子イエス・キリストによって私たちに与えられているのです。

 33節に、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」とあります。誰かが私たちを訴える、ということが見つめられています。それは裁判所に訴え出るということではありません。私たちが訴えられる、それは神様の前で、神様に対して罪を犯している者として訴えられるのです。あの人は神様に背くこんなことをしている、こんなふうに隣人を傷つけている、表面的にはよい人を装っているかもしれないが、心の中ではこんなことを考えている、そういうふうに私たちは訴えられるのです。誰が訴えるのでしょう。それは私たちが知りつつあるいは知らずに傷つけている隣人かもしれません。あるいは、他人は誰も訴えることはなくても、私たち自身の心が、自分が人には絶対に見せることはなくても心の中で抱いている思いについて、自分自身を訴えるということもあるでしょう。そういう外からあるいは内からの訴えによって、私たちは、先ほどの、神様が味方であられるということを見失ってしまうのです。神様が私たちを本当に愛していて下さり、私たちのために御子をも死に渡して下さった、それによって私たちの罪を赦して下さっている、その、キリスト・イエスによる神の愛を見失い、そこから引き離されてしまうのです。神様に愛されているということがわからなくなってしまうのです。そういうことに対してこの33節は、私たちに対するその訴えは勝利しない、と言っているのです。それは、私たちは訴えられるようなことはしていない、潔白だ、ということではありません。私たちは確かに、隣人から訴えられて当然なことをしているのです。自分の心の中にそういう罪があることは、自分自身がよく知っているのです。しかしその訴えは勝利しない、それは、神様が私たちを義として下さるからです。神様が私たちに、無罪の判決を下して下さるのです。それは私たちに罪がないからではなくて、御子イエス・キリストが、その私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったからです。罪人として死ななければならない私たちに代って、御子イエス・キリストが死んで下さったことによって、神様は私たちを義として下さるのです。赦して下さるのです。私たちはその神様の赦しの恵みのもとにしっかりと置かれているのだ、それが、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」という言葉の意味なのです。「神に選ばれた者」という言葉も、正しく理解しなければなりません。それは、私たちは神様に選ばれた特別な、優れた者なのだ、などと自分を誇っている言葉ではありません。神様が選んで下さって、義として下さった、その神様の恵みのみが私たちが義とされる根拠だ、ということです。私たちが立派な者だからとか、何か良いことをしたからとか、神様に従ったからとか、そういう私たちの側の何らかの理由によってではなく、ただ神様が恵みによって私たちを選んで下さり、御子イエス・キリストの十字架の死によって義として下さったから、もはや私たちへの訴えは勝利することはないのです。

 34節はそのことをもう一度言い直しています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。もはや誰も、私たちを罪に定めることはできないのです。それは私たちが潔白だからではなくて、主イエス・キリストが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるからです。誰かが私たちを神様に訴える、この人はこんな罪を犯している、こんなに神様をないがしろにしている、人を傷つけている、自分中心のわがままな思いを持っている、嫉妬や憎しみというどろどろとした暗い思いに捕えられている、そういう訴えに対して、主イエス・キリストが、神様の傍らで私たちのために弁護して下さるのです。「執り成す」とはそういうことです。その主イエスの弁護は、「この人にもこんな良い所がある」とか「この人がこんなことをしたのはこういう事情があったからで、情状酌量の余地がある」というものではありません。そうではなくて主イエスは、「私がこの人のために、その罪を負って十字架にかかって死にました。そのことによって、この人の罪の償いはもう済んでいます。だからそのことに免じて、この人を赦してください」という執り成しをして下さっているのです。その主イエスの執り成しがあるから、もはや誰も私たちを罪に定めることはできないのです。だから私たちは、もはや自分の罪を取り繕わなくていいのです。あれこれと言い訳をしなくていいのです。素直に、「私は罪人です」と認めればいいのです。そしてその罪を主イエスが赦して下さっていることを確信していいのです。

 主イエス・キリストは、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方」であると語られています。私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストは、父なる神様によって復活させられた方でもあるのです。それは、主イエスの十字架の死によって私たちの罪が赦される、ということで神様の救いが完成するのではないことを示しています。私たちの代りに誰かが死んで、罪の償いがなされ、私たちが赦されて義とされればそれで一件落着ではないのです。神様はその主イエス・キリストを死者の中から復活させられました。それは主イエスが、死に打ち勝つ新しい命を得て、その命によって私たちのための執り成しをして下さるためです。その執り成しによって私たちは、主イエスの復活の命にもあずかっていくのです。つまり、主イエス・キリストによって示された神の愛は、私たちが罪を赦されて、義とされた者として平安に歩み、そして平安の内に死ぬ、ということを最終目的としているのではないのです。神様にとって、死は、平安の内に受け入れるべきものではなく、克服されるべきもの、滅ぼされるべき敵なのです。そしてその死に対する克服、勝利が、主イエス・キリストの復活において成し遂げられたのです。復活して神の右に座っておられる主イエス・キリストの執り成しによって、私たちは、この死に対する勝利の恵みにもあずかっていくのです。それは、私たちも、この主イエスの復活にあずかって、肉体の死を越えた彼方に、新しい命、永遠の命を与えられ、天に昇られた主イエスと同じ新しい体を与えられるという希望です。その希望の根拠、保証が、主イエス・キリストの復活なのです。私たちのこの肉体とこの命は、何十年かの地上の人生の末に死んで、滅びていきます。死の力のとりことなっていくのです。しかし神様は既に、独り子イエス・キリストにおいて、その死の力を打ち破り、復活の恵みを確立して下さっています。死はもはや私たちを最終的に支配する力ではなくなっているのです。主イエス・キリストによって示された神の愛こそが、私たちの肉体の死をも包み込む最終的な支配を確立しているのです。それゆえに、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。召天者の方々は、死の支配の下に既に置かれました。今生きている私たちも、遅かれ早かれ、その支配を受けることになるのです。しかしその死の力も、もはや私たちの主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の愛から私たちを引き離すことはできません。死においても、私たちを本当に支配しているのは、この神の愛なのです。私たちは、召天者の方々が、この神の愛のご支配の内に置かれていることを信じるのです。そしてそのことによって、むしろ私たちが、本当に喜びと希望を持って生きていくことができるのです。なおしばらくこの世を歩む私たちの人生に、どのような困難が、苦しみが襲い掛かってくるかわかりません。しかしその生きる苦しみも、主イエス・キリストにおける神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。だから私たちは、苦しみに耐えて生きていくことができるのです。また私たちには理解できない様々な力がこの世に働いており、私たちの人生を翻弄しても、それらの力を超えて、主イエス・キリストにおける神の愛が私たちを支配しているのです。だから私たちは占いなどに左右されずに、自由に生きることができるのです。また現在の世界の情勢、そしてこれからどのようなことが起こっていくのか、それはまことに予断を許さないものがあります。不安が、恐怖が、そして憎しみがこの世界をさらに覆っていくということがあるかもしれません。しかしこの世界に何が起ころうとも、主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神様の愛は変わることはないのです。私たちをこの神の愛から引き離すことができるものは何もないのです。それゆえに私たちは、この世界の平和を脅かし、人々を恐怖と憎しみに陥れようとする力を冷静に見つめ、神の愛に支えられて、喜びと希望をもってそれと戦って行くことができるのです。そしてこの地上の人生を終えて神様のみもとに召されるその時にも、私たちは、主イエス・キリストによって示された神の愛の下にしっかりと置かれているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年10月28日]

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