富山鹿島町教会

礼拝説教

2001年 クリスマス記念礼拝
「この世に蒔かれた小さな種」
詩編 第126編1〜6節
マタイによる福音書 第13章31〜35節

 言うまでもなくクリスマスは、神様の独り子、私たちの救い主イエス・キリストが、この世にお生まれになった、そのことを覚え、記念する時です。主イエスがお生まれになったのは、ユダヤの国の首都エルサレムの宮殿の中ではなくて、小さな田舎町ベツレヘムの、馬小屋の中でした。生まれたばかりの乳飲み子イエスの寝かされたところは、清潔なシーツやふわふわの布団の敷かれたベッドではなく、牛や馬の餌を入れる飼葉桶の中だったのです。神様の独り子が、この世の救い主が、そんなところで生まれるなどとは誰も思わないような場所で、主イエスはお生まれになったのです。その時その誕生を祝ったのは、天使のお告げを受けてやって来た羊飼いたち、あるいは星の導きによって東の国からやって来た博士たちだけでした。それらの話は、美しい、心温まるエピソードです。しかし、その馬小屋の外の世界に目を転じるならば、それは普段と何の違いもない普通の夜であり、世界の人々はその夜を、何の特別な意識もなく、普段通りに過ごしていたのです。後に世界の歴史を、紀元前と紀元後とに分ける境目となる出来事が起こったことなど、誰も気づかなかったのです。

 それから二千年の時が経ちました。今クリスマスは、世界中の国々で祝われています。おそらくクリスマスを知らない人は、世界の人口全体の中で、非常に少数なのではないでしょうか。たとえばイスラム教の人たちだって、私たちがラマダンというイスラム教の断食期間のことを聞いたことがある程度には、クリスマスのことを知っているでしょう。それをお祝いするかどうかは別にしてです。そういう意味では、日本人だって、クリスマスを祝う理由は基本的にはないはずです。同じキリスト教の祭りでも、イースターはほとんど無視され、ペンテコステに至っては聞いたこともないという人が多いのですから、クリスマスだって、「あれは西洋の、キリスト教のお祭りで、我々には関係ない」と言ってもよさそうなものです。しかしクリスマスは日本でも、いやに盛大に祝われています。その中では、教会のクリスマスの祝いなど、貧相で、みすぼらしく、「あれでもクリスマスか」などと言われてしまうようなものかもしれません。私たちはそういうことに決してケチをつけたり、文句を言う必要はないでしょう。この日本ですら、クリスマスがかくも盛大に祝われ、人々がそれを喜びの時として、その喜びの内容はともかくとして、とにかく喜びの時として受け止めている、これはすばらしいことです。喜ぶべきことです。二千年前、ユダヤの片隅の、ベツレヘムの貧しい馬小屋で、誰にも気づかれずに起こったあの出来事が、今、世界中に、この日本にも、私たちにも、喜びをもたらしているのです。

 それは、主イエスのおっしゃった通りのことが起こっているのです。主イエスは、「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」と言われました。からし種、それは本当に小さい、粉のような種です。地面に落としたらもうどこに落ちたかわからないような種です。それが成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が枝に巣を作るほどになる、それほどに大きくなるのです。二千年前、誰にも気づかれず、喜ばれず、祝われなかった主イエス・キリストの誕生が、今や、世界中の人々の祝いと喜びの時になった、そのことをこのたとえ話と重ね合わせることができるでしょう。また主イエスはこうも言われました。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」。パン種、それは小麦粉を発酵させ、ふっくらとしたパンにするパン酵母、イースト菌です。それは粉全体の量と比べれば、ほんの一握りです。それがパン生地に混ぜ合わされ、こねられ、寝かせられているうちに、生地全体が膨らんでくるのです。二千年前、ベツレヘムの馬小屋で、この世という生地の中にそっと入れられたパン種、主イエス・キリストが、この世界全体に影響を及ぼし、世界を大きく変えていったのです。どう変えていったのか。二千年前と今とで、果してこの世界は、人間は良くなっているのだろうか、それは難しい問いです。必ずしも良くなっているとは言えないのではないかとも思わされます。しかし、クリスマスを人々が基本的に喜びの時として祝っているということは、イエス・キリストというパン種が、粉全体に、世界全体に、良い影響を及ぼしている、この世界をおいしいパンへと作り変える働きをしている、と考えられている証拠であると言えるでしょう。少なくとも、クリスマスを祝おうという思いが植え付けられているということは、私たち日本人の心にも、この主イエスというパン種が、意識はしていなくても、随分影響を及ぼしているということは言えると思うのです。それは、ユダヤの人々ですら誰一人として主イエスの誕生を祝うどころか意識もしなかった二千年前の現実から考えれば、まさに奇跡と言ってよい、夢のようなことです。

 このように、二千年前のベツレヘムの馬小屋の出来事と、今、世界中でクリスマスが祝われているという事実を見比べてみる時に、私たちはこれらのたとえ話に語られている通りのことが起こっていると実感することができます。けれどもそれでは、このたとえ話を実際に聞いた当時の人々はどうだったのでしょうか。主イエスがこのたとえを語られた時、まだ、クリスマスという祝いや祭りはありませんでした。ましてや、主イエスのことが世界中に知られているなどということもありません。主イエスは当時ユダヤからも辺境の地と見なされていたガリラヤ地方で伝道を始められ、結構多くの人々が主イエスのもとに集まって来るようにはなっていました。次第に名前が知られ始めていたことは確かです。しかしユダヤ人みんなが主イエスを救い主と信じていたわけではありません。そしてイエスのもとに集まっている群れがこれからどうなっていくのか、このイエスの説いている教えがどう広まっていくのか、それはまだ何とも言えない、未知数だったのです。そのような中で、天の国は、つまり神様の救いは、最初はからし種のように小さいが、やがては見上げるような木になる、パン種は少量でも粉全体を膨らませていくように、多くの人々に影響を与えていく、と主イエスが語られても、人々はよくて半信半疑、悪ければ「何を大ぶろしきを広げているんだ」ぐらいにしか思わなかったのではないでしょうか。つまりこれらのたとえ話は、当時の人々にとって、決してわかりやすい、実感できるようなものではなかったのです。そしてそれは、実は私たちにとっても同じなのではないでしょうか。クリスマスは世界中で祝われている、そのことだけを取り上げるならば、確かに二千年前には考えられなかったようなことが起こっています。けれどもそれが本当に、主イエスが語られたことの実現なのでしょうか。

 主イエスが語られたこの二つのたとえは、いずれも、「天の国はこれこれに似ている」と言って始められています。それは先週の礼拝で読んだ24節以下の「毒麦のたとえ」も同じでした。先週も申しましたが、この「天の国」というのは、死んだ後行く「天国」のことではありません。これは「神様のご支配」という意味の言葉です。神様のご支配が私たちの上に、この世界に確立する、それが私たちの救いなのです。ですから「天の国はこのようなものだ」ということは、神様の救いとはこのようなもので、このように実現する、ということです。神様の救いは、からし種のように、あるいはパン種のように私たちに与えられる、と主イエスは言っておられるのです。多くの日本人も楽しくクリスマスをお祝いしている、ということで、この主イエスのみ言葉が実現したと言えるのでしょうか。主イエスが思っておられたのはこのようなことなのでしょうか。

 天の国が、即ち神様のご支配が私たちの現実となる、それは、私たちが神様のご支配を信じ受け入れ、それに服する者となるということです。それによって神様の救いが私たちに与えられるのです。そのことを表しているのが、洗礼です。洗礼を受けて教会の群れに加えられるというのは、天の国、つまり神様のご支配を信じ、それを受け入れること、そこにこそ自分の救いがあると信じてそれを求めることです。大変喜ばしいことに、本日この礼拝において、三名の方々がその洗礼を受け、主イエス・キリストを信じる者の群れに加えられようとしています。三名同時の大人の洗礼はかなり久しぶりのことで、本当に嬉しいことなのですが、それは裏を返せば、洗礼を受ける人がいかに少ないか、ということでもあります。クリスマスを喜び祝っている人は多いけれども、その中で教会に足を運ぶ人はまことに少なく、ましてや洗礼を受けて神様のご支配を受け入れる人は数える程しかいないのです。このことは、まだ洗礼を受けておられない方、あるいはクリスマスを祝いながら教会に来ようとしない世の中の多くの人々を批判するために言っているのではありません。そうではなくて、これが私たちの置かれているクリスマスの現実だ、ということです。つまり二千年前に蒔かれたからし種が、今本当に見上げるような木になっていると言えるのか、はなはだ心もとない現実の中に私たちはいるのです。主イエス・キリストというからし種は、本当に鳥が巣を作ることができるような大木となっているのか、主イエス・キリストというパン種は、この世界全体に本当に良い影響を与え、おいしいパンへと膨らませているのか、私たちにとってもそれは半信半疑のことであり、ともすれば、そんなことは大ぶろしきの大言壮語だと感じずにはおれないような現実の中を私たちは生きているのです。

 ここではっきり申しておかなければなりません。主イエス・キリストがこれらのたとえ話で語ろうとしておられることは、「私の教えはやがて大きな木となり、世界全体に影響を及ぼすようになる」ということではありません。いや、そういうことも含まれてはいます。しかしそういう「今に見ていろ」というようなことがこのたとえの中心ではないのです。このたとえにおいて私たちが読み取らなければならない最も大事なことは、天の国は、つまり神様のご支配は、即ち私たちの救いは、最初はからし種のように小さいということです。まさに吹けば飛ぶような、蒔かれたらもうどこにあるのかもわからなくなってしまうような、そんな小さな種から天の国は始まるのだ、ということです。天の国は、神の国、神様のご支配なのですから、それが鳥が巣を作るほど大きな木であるのはむしろ当然のことです。そうでなければ天の国とは言えないのです。だからこのたとえは、天の国はこんなに大きいのだ、と言っているのではなくて、それがあの小さな、目立たないからし種から始まるのだということを言っているのです。それはただ最初は小さい、というだけのことではありません。パン種のたとえがそこで生きてきます。パン種は粉に混ぜられると、もう見えなくなるのです。どこにあるのかわからなくなるのです。隠されてしまうのです。33節に「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると」とある、その「混ぜる」という言葉は、「隠す」という意味でもあります。パン種は生地の中に隠され、その隠されたものが全体を膨らませていくのです。天の国、神様のご支配もこのように隠されている、「ここにある、あそこにある」と見えるものではない、そういう意味では、そんなもの本当にあるのか、と疑えばいくらでも疑えるのです。しかしその今は隠されている神様のご支配が、着実に力を発揮して、私たちを、この世界を変えていく、天の国はそのような力を秘めたものなのだ、ということをこのたとえは語っているのです。

 天の国は、神様のご支配は、今は隠されている、それがこれらのたとえが語っていることです。そしてこのことは、主イエスが天の国のことを、たとえ話をもって語られた、その理由ともつながっていくのです。今私たちが読んでいるこの13章は、たとえ話が集められている章です。その10節以下には、なぜたとえを用いて語るのか、という問いに対する主イエスの答えが語られています。主はこう言われました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」。つまり、たとえで語るのは、難しいことを分かりやすく説明するためではないのです。分かる人には分かるが、分からない人にはますます分からなくなる、それが主イエスのたとえ話の性格です。ですからそれは「謎かけ」と言い換えてもいいのです。そこには隠された答えがあるのです。それが分かる人には、謎全体がよく分かる、しかし答えが分からない人には、謎は謎のままで、いったい何を言っているのか、ちんぷんかんぷんなのです。そのようにたとえ話自体が、事柄を明らかにする働きと隠す働きを同時にしています。天の国のことがそのようなたとえ話によって語られるのは、天の国自体が、隠されたものだからです。それは説明されれば誰でもわかるものではないし、証拠をあげて証明してみせることができるものでもないのです。隠されているものを、隠されているものとして語るしかないのです。本日のところの34節以下に語られているのはそういうことでしょう。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる』」。「天地創造の時から隠されていたこと」、それが天の国、神様のご支配です。それを語るのに一番ふさわしい手段が、たとえ話だったのです。

 天の国、神様のご支配、私たちの救いは、私たちにも隠されています。二千年前は隠されていたが、今は顕わになっている、というわけではありません。二千年前と今と、果してこの世界は、人間は、良くなったと言えるだろうか、と先ほど申しました。技術文明は確かに飛躍的に向上しました。そのために随分便利な時代になっています。しかし人間の本質は少しも変わってはいない、むしろ技術が進んだだけ、人間の罪の及ぼす影響が大きくなり、より悲惨な出来事が頻繁に起こるようになっていると言わなければならないでしょう。私たちの心に根深く巣食う憎しみの思い、自分の欲望や主義主張のためには人の命を何とも思わないような心、それはむしろより大きくなっているようにも思います。そのような悲惨な現実に覆われたこの世界のどこに、天の国、神様のご支配などあるか、そんなものは人間の願望が生み出した絵空事ではないか、天の国、神の支配などというありもしないものを見つめるのはやめて、自分の目の前の現実をどうするか、それに取組んでいくのが先決だ、そういう声が、私たちの外からも内からも起こってくるのです。そのような中で今私たちはクリスマスを迎えました。クリスマスをどんなに盛大に祝ったところで、私たちの、またこの世の罪に満ちた悲惨な現実が変わるわけではありません。それぞれが個人的に抱えている様々な苦しみ、悲しみ、心配に解決が与えられるわけでもありません。私たちはそのことをよく知っています。そういう意味では、世間のクリスマスの祝いと、教会の祝いとの間に、根本的な違いはないのです。世間の祝いは虚しいけれども教会の祝いは本物だ、などと簡単には言えないのです。私たちのクリスマスの祝いが、何がしか本当に意味あるものとなるためには、ここに語られているからし種のたとえ、パン種のたとえを、そこに示されている、神様の隠されたご支配を、しっかりと聴き取っていかなければなりません。クリスマスの出来事は、この世界に、私たちの心に、主イエス・キリストというまことに小さなからし種が、パン種が蒔かれたということです。この種は、本当に小さな、吹けば飛ぶようなもので、これが蒔かれたところでこの世界がどうなるものでもない、何の力も、影響もない、と思われるようなものです。そういう意味では、私たちのこの礼拝も、二千年前のベツレヘムの馬小屋と同じで、一歩この外へ出れば、世界は、イエス・キリストの誕生とは関わりなく、関心もなく、そんなことは無視して動いているのです。しかし私たちは今、このたとえによって、神の国の秘密を示されました。この小さな、取るに足らない、目立たない種が、空の鳥が来て枝に巣を作るほど大きな木になるのです。このパン種が私たちの心という、またこの世界という、まことに頑なな粉を、やわらかく発酵させ、よい香を放つおいしいパンにしていくのです。そのために、からし種は蒔かれてその姿を失っていきます。パン種も粉の中に混ぜられ、隠されて、見えなくなります。どちらも、自らの姿を失い、消えうせていくのです。そのことを通して、大きな木が育っていき、おいしいパンが膨らんでいくのです。それは、主イエス・キリストが、十字架にかかって死んで下さったことを象徴しています。主イエスがからし種として、パン種としてこの世に蒔かれたというのは、ただこの世に来られたというだけではなくて、私たちのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことを意味しています。ヨハネ福音書の12章24節に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われているのはそれと同じことです。天の国、神様のご支配は、この主イエスの十字架の死を通して、私たちの中で、育っていくのです。そのことの一つの現れが、私たちが神様のご支配を信じて、洗礼を受け、教会に加えられることです。そのようにして私たちの中で、天の国、神様のご支配が進展していくのです。そしてこの神様のご支配は、やがていつか、鳥が巣を作るような大木となります。粉の全体を脹らませ、おいしいパンにします。そのことを、私たちはまだ見てはいません。私たちが目にしているのは、小さなからし種であり、ひとつまみのパン種なのです。しかしそれは天の国の、神様のご支配の種です。それは神様によって必ず、大きな木へと成長させられていくし、私たちの心とこの世界全体によい影響を及ぼしていくのです。そのことを信じることが信仰です。私たちのクリスマスの祝いを世間の祝いと違うものとし、一時のうさ晴らしではなく、本当に意味のあるものとするのは、この信仰なのです。

 それゆえにクリスマスは、二千年前の出来事をただなつかしみ、それを記念する、というだけの時ではありません。あのベツレヘムの馬小屋を私たちの心の中に再現してほのぼのとした思いになることが目的ではないのです。私たちはここで、天の国、主イエス・キリストによって成し遂げられている神様の恵みのご支配、私たちの救いを、からし種として、パン種として心に蒔かれて、そしてそれぞれの生活へと、この世へと遣わされていくのです。ベツレヘムの馬小屋で主イエスとお目にかかった者たちは、その外の世界へと遣わされていきます。主イエスの誕生など、少しも意識せず、全く無視してそれぞれの思いで営まれているこの世界、神様のご支配が隠されていて見えない、ただ信仰の目によってしか見ることができない、その世界へとです。しかし私たちはそこで希望を失うことはありません。神様のご支配は、独り子主イエスの誕生と、十字架の死、そして復活と昇天を通して、確実に私たちに与えられ進展しているのです。そのことを信じて、揺るぎ無い希望がそこにあることを確認して、私たちはこの礼拝から、それぞれの生活へと旅立っていくことができるのです。その時、本日共に読まれた詩編126編が、私たちの信仰の歌となるのです。他国に捕え移されている捕囚の苦しみの中で、何の希望も見出せないように見える現実の中で、神様の救いの約束、捕囚からの帰還を告げる言葉を聞いて、そこに希望を見出し、喜ぶ歌です。

主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
わたしたちは夢を見ている人のようになった。
そのときには、わたしたちの口に笑いが
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。

主よ、わたしたちのために
大きな業を成し遂げてください。
わたしたちは喜び祝うでしょう。
主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように
わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年12月23日]

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