富山鹿島町教会

礼拝説教

イースター記念礼拝
「キリストと共に生きる」

詩編 第98編1〜9節
ローマの信徒への手紙 第6章1〜14節

 本日はイースター、復活祭です。主イエス・キリストの復活を記念するこの日は、キリスト教会の最大の祝い、祭です。しかしイースターは、わが国においては、クリスマスほどには人々に知られていませんし、年中行事として定着していません。それは一つには、イースターは年によって日がずれる、ということが関係しているかもしれません。昨年のイースターは4月15日でした。ですから、本日をもって終わる2001年度には、イースターが二回あったことになるのです。イースターの日は、春分の後の最初の満月の後の日曜日ということになっています。ですから、春分の日の後、いつ満月になるかによって、かなりの違いが生じるのです。

 しかしそういう日程の問題とは別に、イースターが身近なものにならないのは、主イエスの復活を記念する、ということのわかりにくさ、あるいはそれが奇異なことに感じられる、という点があると思います。誕生を記念するクリスマスならば、それぞれの誕生日の祝いと同じように理解できるけれども、復活を記念するとはどういうことだろうか。そんなことが本当にあったのか、ということから始まって、いろいろな疑問がそこには生じてくるのです。けれども、このことだけは歴史的事実として確認することができます。それは、キリスト教会が、その初めの頃から、主イエスの復活を覚え、その日に集まって礼拝、集会を持っていったということです。使徒言行録を読むと、「週の初めの日」に信者たちが集まったことが繰り返し語られています。週の初めの日、それは日曜日です。その朝、主イエスは復活されたのです。それゆえに日曜日は「主の日」と呼ばれるようになりました。その日に、教会は礼拝を守っていったのです。それは決して当たり前のことではありません。ユダヤ人たちのいわゆる安息日は、当時も今日も、土曜日です。それは週の七日目です。神様が六日間でこの世をお創りになり、そして七日目に休まれた、そのことから、七日目の土曜日が聖別され、安息日となった。その旧約聖書に記されている安息日を、キリスト教会は日曜日、週の初めの日に変えたのです。それはある意味で旧約聖書の教えとは違うことをする、という大胆なことです。現にキリスト教の中でも、そのように考え、聖書に記されている安息日は土曜日であるとして、礼拝を土曜日に行っている教派もあります。しかし基本的には、キリスト教会は日曜日に礼拝を守るようになったのです。そしてそのキリスト教が当時のローマ帝国の中にどんどん広まり、迫害の時代を経て、ついにはその国教、国の宗教にまでなっていった、そのために、教会の礼拝の日である日曜日を休日とする、ということが定められていったのです。それは紀元4世紀になってのことです。つまり、教会が日曜日に礼拝を行うということの方が、日曜日が休日であるということよりも古いのです。教会は、日曜日が休日だから、集まりやすいからその日に礼拝をしているのではありません。それは逆で、教会がキリストの復活を記念して日曜日に礼拝を守っていたから、その日が休日になったのです。そこに至るには、信仰者たちの、迫害の中での厳しい戦いがありました。文字通り命がけで信者たちは日曜日の礼拝を守っていったのです。そのことによって、日曜日休日が勝ち取られたのです。私たちはそのことを決して忘れてはなりません。教会は日曜日に礼拝を守る、私たちはそれを、ともすれば、せっかくの休日なのに…、と思ったりします。しかし本来は、日曜日は、礼拝のために休日なのです。私たちの信仰の先達たちが、命がけでそれを確立してくれたのです。その恩恵に今私たちは、この日本においてもあずかっているのです。

 そして話をもとの筋に戻すならば、信仰者たちのそのような命がけの戦いの力の源となったのが、主イエスの復活だったのです。彼らは、主イエスの復活を記念する礼拝を守るために、命をささげたのです。それが、毎週日曜日の礼拝でした。つまり、毎週の日曜日は、小さなイースターなのです。私たちは毎週日曜日にここで、主イエスの復活を記念して礼拝を守っているのです。毎週の礼拝の大本がこのイースターにあるのです。そういう意味で、イースターは教会の最大の祭なのです。

 キリストの復活はこのように、教会の、そして私たちの信仰の中心であり根本です。それなくしては、礼拝も、信仰も成り立たないような土台です。しかしそれでは、キリストの復活を信じるとはどういうことなのでしょうか。何故そこから、今見てきたような、迫害に耐える力、命がけで礼拝を守っていく力が生れるのでしょうか。本日はそのことを、ローマの信徒への手紙第6章から聞き取っていきたいと思います。

 キリストの復活を信じる、ということを私たちはともすれば、キリストの死体が息を吹き返し、むくむくと起き上がった、という出来事を信じること、と思ってしまうかもしれません。しかしこのローマの信徒への手紙第6章で、繰り返し「キリストが死者の中から復活した」と語られる時に見つめられているのはそういうことではありません。ここで見つめられているのは、いわゆる肉体の蘇生、ということではないのです。9節に、「そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」とあります。ここに、復活の意味が明らかにされています。つまりそれは、死の支配から抜け出すこと、もはや死に支配されない者となることです。死に勝利すること、と言ってもよいでしょう。キリストの復活の意味はそこにあるのです。ですからそれは、単なる死体の蘇生ではありません。死んだ者がもう一度生き返らされる、ということなら、主イエスご自身の行われた奇跡の中にそういうことがありました。死んでしまった少女を生き返らせたこともあったし、ラザロの復活の話はよく知られています。死者が生き返ったということなら、既にそういう例があったのです。しかし主イエスの復活はそれらとは全く意味が違います。あの少女にしても、ラザロにしても、主イエスによって一旦生き返らされたけれども、やがて年をとって死んでいったのです。そういう意味では、やはり死に支配されたままだったのです。しかし主イエスはそうではありません。復活したけれどもしばらくしてまた死んでしまったのではないのです。主イエスは、もはや死に支配されない者となられた、もう死なない者となられたのです。死の力に対する完全な勝利がそこにはあるのです。キリストの復活とはそういう出来事なのだ、と聖書は語っています。そこに目を向けることによって初めて、この出来事の持つ意味と力とがわかるのです。先ほど、ここで見つめられているのは、肉体の蘇生ではない、と申しました。それは、キリストの肉体が復活しなかった、ということではありません。復活は、キリストの思い出が弟子たちの心の中によみがえり、それが生き続けた、というような単なる精神的な事柄ではないのです。そんなことから、あのような、迫害に耐えて主の復活を記念する礼拝を守り続ける力が生れることはないでしょう。キリストは、体をもって確かに復活されたのです。しかしその「体の蘇生」ということに目を奪われていると、復活の本当の意味はわからないのです。キリストの復活は、死に対する勝利です。死の支配が打ち破られたのです。そこに焦点を合わせる時に、肉体の復活も、奇異なことではなくなるのです。

 さて主イエスの復活はそのように死に対する勝利ですが、今の9節に「死者の中から復活させられたキリスト」とありました。4節にも、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられた」とあります。キリストの復活は、「させられた」と受身で語られているのです。このことはとても大事です。主イエスの復活は、主イエスがご自分で死の力を打ち破って復活してきた、ということではないのです。父なる神様が、主イエスを復活させたのです。主イエスは復活させられたのです。つまり死の力に勝利されたのは、主イエスではなく、父なる神なのです。これはどっちでもいいことではありません。主イエスが死に打ち勝って復活したのなら、復活は、主イエスの、すばらしい、英雄的な行為ということになります。しかし、父なる神が主イエスを復活させて下さったなら、それは、父なる神様が主イエスに与えて下さった大いなる恵みということになるのです。これがどちらであるかは、私たちに大いに関係してきます。主イエスは私たちと同じ人間になって下さった神です。神でありながら、私たち人間を代表する者となって下さったのです。私たちは、この主イエスに従い、その後についていくのです。その主イエスが、ご自分の力で死を打ち破って復活したのなら、私たちも、自分の力で死と戦い、勝利しなければならないことになります。しかし私たちにはそんなことは出来ません。そこで、主イエスと私たちの間には、とうてい越えることのできない溝が生じてしまうのです。しかし聖書は、主イエスは父なる神の恵みによって復活させられた、と語ります。復活を、死に対する勝利を、主イエスは神様の恵みとして受けたのです。それは、私たちを代表してのことです。主イエスが死者の中から復活させられたということは、私たちも、同じ復活を、死に対する勝利を、神様の恵みとしていただくことができる、主イエスがその先駆けとなって下さったということなのです。4節の「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」という言葉はそのことを言い表しています。キリストの復活は、私たちが新しい命に生きるために、父なる神様が与えて下さった大いなる恵みなのです。

 新しい命に生きると申しました。その新しさとは何でしょうか。新しい命と言うからには、古い命との対比がなされています。その古い命と新しい命の違いは何なのでしょうか。そのことが語られているのは11節です。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。これは、古い命が死んで、新しい命への復活が与えられている、ということを語っているのです。古い命が死ぬ、それが「罪に対して死ぬ」、新しい命に生きる、それが「神に対して生きる」と言い表されています。古い命は罪に対して生きる命、新しい命は神に対して生きる命なのです。「対して」という言い方はわかりにくいですが、説明的に訳せば、「罪の方を向いて」と「神の方を向いて」ということになります。私たちは、生まれつきの古い命においては、「罪の方を向いて」生きているのです。その古い命が死んで、「神の方を向いて生きる」新しい命が与えられる、それが、「新しい命に生きる」ことなのです。

 罪の方を向いて生きている者が、神の方を向いて生きる者となる、そういう決定的な方向転換が起ることが見つめられていますが、それは単に右を向いていた者が左を向くようになる、というような簡単なことではありません。生まれつきの私たちが、罪の方を向いて生きているというのは、ただ罪を好んでいるとか、罪に陥る傾向がある、というようなことではなくて、罪に支配されてしまっている、罪の奴隷になっているということです。6節には、「罪に支配された体」「罪の奴隷」という言葉があります。それが、古い命を生きている私たちの実態なのです。私たちはこの一週間、受難週を歩み、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを覚えてきました。そしてそのことは、自分の罪を覚えることであり、罪のゆえに死ななければならない者とは「あなたのことだ」という神様からの指摘を受け止めることだ、ということを、先週の礼拝において示されました。また、さらにそれ以前から、受難節、レントの時を歩みつつ、私たちを汚れた者、罪ある者とするのは、私たちの外側にある何かではなく、自分の心の中にある思いであり、それが言葉となって外に現れてくる、それによって私たちは、人を傷つけ、殺す者となるのだ、ということをみ言葉によって示されてきました。み言葉によって明らかにされる私たちの罪は、まことに深刻なものです。それは私たちの、それこそ心の中にしっかりと根を下ろしており、私たちがちょっとやそっと反省をしたり、悔いてみたところでどうにもならない根深いものなのです。私たちはこの罪に支配されてしまっています。神様の方に向き変わることなどできないのです。罪に支配されたこの古い命、古い体は、死ななければなりません。馬鹿は死ななきゃなおらないと言いますが、罪に支配された私たちこそ、死ななければそこから抜け出すことはできないのです。そしてそのことが、キリストの十字架の死において起った、と聖書は告げています。キリストは、私たちと同じ人間になって下さり、私たちの代表となって下さったと先ほど申しました。罪に支配され、そこから抜け出すことができない、もはや死ぬしかない私たちの代表として、主イエス・キリストは、十字架にかかり、苦しみを受け、死んで下さったのです。キリストの十字架の苦しみと死は、私たちのためであり、私たちに代ってキリストがそれを引き受けて下さったのです。キリストの十字架の死において、私たちの、古い人、罪に支配された体が死んだのです。先ほどの11節の「自分は罪に対して死んでいる」というのは、このキリストの十字架の死によることです。つまり11節はその前の10節を前提としているのです。10節に「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」とあります。私たちは、このキリストの十字架の死と復活によって、11節にあるように、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考え」ることができるのです。従って、「神に対して生きる」新しい命は、復活した「キリスト・イエスに結ばれて」生きることです。あるいは8節の言葉で言えば、「キリストと共に生きる」ことです。このように、キリストの十字架の死と復活とに自分自身を重ね合わせていく時に、古い自分が罪に対して死んで、神に対して生きる新しい自分が生れるのです。あの根本的な方向転換はそのようにして与えられるのです。

 けれどもこのことは、私たちが勝手に、「キリストの十字架の死は私たちのための身代わりの死だった、キリストの十字架において、私たちの、罪に支配された古い体が死んだのだ」と言ってよい、ということではありません。また、キリストの復活と共に、私たちに新しい命、神に対して生きる新しい自分が与えられている、ということも、私たちが勝手にそう考えればそうなる、というものではありません。キリストの十字架と復活に自分自身を重ね合わせることは、私たちの思いでできることではないのです。神様が、主イエスが、それを許して下さって初めて、そうすることができるのです。その神様の許しはどこに示されているのでしょうか。

 この手紙を書いた使徒パウロがここで語っているのは、洗礼において与えられる恵みです。パウロは、自らも受け、教会の信仰者たちが皆受けている洗礼を念頭に置いてここを語っているのです。洗礼は、もともとは、全身を一旦水の中につける、という儀式でした。その意味することは、一つには、罪を水によって洗い清めることです。もう一つは、古い自分が一旦死んで、新しく生きる、新生ということです。その両方の意味を持つ洗礼を、主イエスは人々に授けるようにと弟子たちにお命じになったのです。それは、4節に語られているように、私たちが、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなり、そしてキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。またこのことによって、キリストの十字架の死による罪の赦しが私たちに与えられ、私たちが、罪に対して死んだ者として、罪から解放された者として、つまり、罪を洗い清められた者として生きるようになるためです。主イエスが洗礼を授けることを命じて下さったことによって、キリストの十字架と復活に私たちが自分自身を重ね合わせていく道が開かれたのです。言い換えれば、主イエスご自身が、「私の十字架の死と復活は、あなたがたのためだ。私の十字架の死において、あなたがたの、罪に支配された古い人が死んだのだ。そして私の復活において、あなたがたに、新しい命、罪から解放され、赦されて、神に対して生きる新しい命が与えられているのだ。あなたがたは、父なる神が与えて下さるその恵みにあずかることができるのだ」と宣言して下さったのです。私たちはこの主イエスの宣言によって、自らを、キリストの十字架の死と復活とに重ね合わせていくのです。それが、洗礼を受けるということです。その洗礼において、キリストの十字架の死は私たちの死となり、キリストが父なる神様によって復活させられたことは、私たち自身が新しい命の恵みを神様から与えられることとなるのです。

 主イエスの十字架の死と復活に自分自身を重ね合わせると申しました。しかし本当のところは、主イエスが私たちにご自分を重ね合わせて下さったのです。主イエスは神の独り子、まことの神であられたのに、私たちと同じ人間となって下さり、ご自身を私たちと重ね合わせて下さいました。そして、本当は私たちが、自分の罪のために死ななければならないその十字架の死を引き受けて下さったのです。それは主イエスが徹底的に、ご自身を私たちと重ね合わせて下さったということです。私たちが意識していない、目を背けている、深い深い罪の姿にまで、ご自身を重ね合わせて下さったのです。主イエスの十字架は、そのように主イエスが私たちの本当の姿にご自身を重ね合わせて下さった結果です。そしてその主イエスに、父なる神様は、復活の恵みを与えて下さいました。死の力を打ち破り、新しい命、もはや死に支配されることのない命を与えて下さったのです。それは、同じ恵みを私たちにも与えて下さるというみ心の表れです。徹底的に私たちにご自身を重ね合わせて下さった主イエスは、私たちに与えられる神様の恵みを、先駆けとして、代表として受けて下さったのです。それゆえに今や私たちは、復活して今も生きておられるキリスト・イエスに結ばれて、キリストと共に、神に対して生きることができます。神様の方を向いて生きることができます。それは、自分の罪が、主イエスの十字架と復活によって赦されていることを確信して生きることであり、死の力を打ち破った神様の恵みが私たちを包んでいることを信じて生きることです。勿論、赦されたからといって、私たちの罪がなくなってしまっているわけではありません。私たちはなお、繰り返し罪に陥っていく死ぬべき体をもって生きるのです。しかし主イエスの十字架の死によって赦され、復活によって新しくされていることを喜びつつ、12節以下に語られているように、自分自身を、義のための道具として神に献げていくことに努めるのです。また勿論、主イエスの復活にあずかったからといって、私たちの今のこの命、この体が、もう死なないものとなっている、ということではありません。私たちが主イエスの復活と同じ、もはや死ぬことのない復活の命と体を与えられるのは、世の終わりにおいてです。今のこの命と体は、時が来れば死んで、朽ちていきます。しかし、主イエスの私たちのための復活を信じる私たちは、その肉体の死が、私たちを最終的に支配するものではないことを確信することができるのです。私たちはやはりいつか必ず死んでいく、しかしその死も、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みの内にあり、主イエスの復活にあずかる新しい命へ至る一つのステップとされているのです。主イエスの復活はそういう希望を私たちに与えます。この喜びと希望を毎週新たに確認していくのが、主イエスの復活の記念日である主の日、日曜日の礼拝なのです。この喜びと希望によって、私たちの信仰の先達たちは、主の復活を覚える主の日の礼拝を、命がけで守っていくことができたのです。私たちも、イースターの恵みに毎週毎週預かりつつ、同じ喜びと希望に生きるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年3月31日]

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