富山鹿島町教会

礼拝説教

「思い起こす信仰」
申命記 第8章2〜20節
マタイによる福音書 第16章1〜12節

 マタイによる福音書を読み進めてきて、本日から第16章に入ります。16章のはじめのところには、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、主イエスに、「天からのしるし」を求めたことが語られています。これと同じようなことは、既に12章38節以下に語られていました。そこでは、律法学者とファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せてください」と言ったのです。それに対して主イエスは、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と答えられました。それは本日ところの4節の答えと同じです。12章の方では、その後に、「ヨナのしるし」とはどのようなものかということが語られていき、さらにはそれと並んで、ソロモン王の知恵を聞くために訪ねてきた「南の国の女王」のことも語られています。それらのことを通して、しるし、つまり証拠を見て納得しようとするのではなくて、ヨナよりも、ソロモンよりもまさるものである主イエスのみ言葉を聞くことの大切さが教えられていたのです。しかし本日のところでは、それらのことは語られていません。主イエスは、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とだけ言って、彼らを後に残して立ち去られるのです。それは、このことを通して何かを教えようとしておられるという姿ではなくて、むしろファリサイ派やサドカイ派の人々に対する拒絶、決別の姿勢です。12章とこことでは、同じような話が繰り返されているようではありますが、描かれている主イエスのお姿、その姿勢はかなり違うのです。

 そのような、12章との違いに目をとめて読んでみる時に気づくのは、ここでは、ファリサイ派とサドカイ派の人々が、「イエスを試そうとして」天からのしるしを求めた、ということです。この言葉は、12章の方にはありません。ここでの、しるしを求める問いは、主イエスを「試そう」という意図をもってなされているのです。主イエスはここで彼らによって「試され」ているのです。この「試す」という言葉は、この後何回か出てきます。いずれも、ファリサイ派の人々が主イエスを試そうとした、という形でです。そして実はこの言葉が、ここより前においてはどこに出てきていたかというと、それは4章の1節と3節なのです。そこには、主イエスが伝道を始められる前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたということが語られています。その「誘惑する」という言葉が、実は本日ところの「試す」と同じ言葉なのです。4章3節に「誘惑する者」とありますが、それは文字通りに訳せば「試す者」という言葉なのです。つまり、主イエスはここで、あの荒れ野の誘惑以来、ひさしぶりに誘惑を受けたのです。試されたのです。ファリサイ派とサドカイ派の人々が言ったことは、主イエスにとって、あの悪魔の誘惑と同じ意味を持っていたのです。天からのしるしを求める、それは、先ほどもちょっと言ったように、証拠を求めるということです。主イエスこそ神様から遣わされた救い主である、神の子であるということを証明する証拠です。「天からの」というのですから、神様が直接示して下さる何らかの驚くべきしるしによって、なるほど主イエスは神の子、救い主なのだと納得させてほしい、ということです。それはまさに、あの荒れ野の誘惑において、悪魔が言ったことでした。特に第二の誘惑、神殿の屋根から飛び降りてみろ、というのは、そんな高い所から飛び降りても、天使たちに支えられて無事に降り立つことができる、そういう驚くべきしるしを人々に見せてやれば、みんながお前を救い主だと信じるぞ、ということです。しるしを示して人々を納得させてやれ、というのは、まさに悪魔のささやきなのです。そういう誘惑、試みを主イエスは再びここで受けたのです。ですから、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言って立ち去られたお姿は、あの荒れ野の誘惑において、悪魔の誘いをきっぱりと拒絶されたお姿と重なるのです。

 ヨナのしるし、それは、12章で語られていたように、旧約聖書ヨナ書に語られている、ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中に飲み込まれていて、そして吐き出されて神様がお与えになった使命を果していった、ということです。その三日三晩ということから、それは主イエスが十字架につけられて殺され、葬られて、三日目に復活する、そのことを指していると考えられます。つまり主イエスの復活こそ、あなたがたに与えられるただ一つのしるしであり、他のしるしは与えられない、と言われているのです。主イエスの復活こそしるしです。これほど大きなしるしはないと言えるでしょう。しかしそのことに思いを致す時に直ちに気づかされることは、そのことを見聞きしたはずの当時の人々も、みんなが信じたわけではないということです。私たちは今日、主イエスの復活ということを聞いて、そんなことが本当にあったのかな、と疑いを抱くわけですが、それは当時の人々も全く同じだったのです。主イエスの復活は、当時も今日も、信仰によって受け止めるほかにはないことです。信じて受け止めればそれは大きなしるしとなります。しかし信じなければしるしにはなりません。ヨナのしるし、つまり主イエスの復活がただ一つのしるしであるということは、信じることなしに何かの証拠によって納得させられる、ということはあり得ないということです。信じることによって初めて、しるしはしるしとしての意味を持つのです。

 「ヨナのしるし」とはそういうものですが、主イエスは本日の箇所で、そういう説明をなさるのではなく、彼らを後に残して立ち去られました。荒れ野の誘惑で、「退け、サタン」と言って「試す者」である悪魔を追い払われたのと同じように、試そうとする者たちから去っていかれたのです。しかしその「ヨナのしるし」についてのお言葉に先立って、本日のところには2、3節が語られています。天からのしるしを求めた人々に対して主イエスはこう言われたのです。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」。夕焼けだと明日は晴れだ。朝焼けだと今日は天気が悪くなる。それは私たちも知っていることです。私たちはそのように自分で空模様を見分けながら生活しています。それはある意味、天に現れるしるしを読んでいるのです。そういうことを毎日しているのに、「時代のしるし」は見ることができないのか、と主イエスは言われたのです。聖書が手で書き移されて伝えられてきた写本の中には、この2、3節がないものもあります。従ってここはもともとあったものではなく、後から加えられた言葉なのではないか、とも考えられています。話の筋から言っても、1節からすぐに4節につなげた方がつながりがよいかもしれません。そういう意味ではこの2、3節はあまり大事にしなくてもよいのかもしれません。しかしここに語られていることも、次のような点においてやはり大切な意味があるのではないでしょうか。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、天からの大きなしるしを求めたのです。しかし主イエスはそれに対して、あなたがたは毎日の生活の中で、いろいろなしるしを見て、それによって歩んでいるではないか、と言われたのです。主イエスについても、あるいは主イエスにおいて実現しようとしている天の国、神様のご支配、救いについても、同じようにあなたがたのごく身近なところに見るべきしるしがあるのだ、それを見落とさないようにしなさい、と主イエスは言っておられるのではないでしょうか。「時代のしるし」を見なさいと言われています。「時代のしるし」という言葉は、このように訳すのがよいのかどうか、疑問があります。「時代の」と言うと、「現代はどのような時代か」ということになり、社会の情勢や人々の風潮などにどのようなしるしが現れているか、という話になります。しかし、もともと使われている言葉は「時代」という意味ではありません。前の口語訳聖書では、「時のしるし」となっていました。これは「時」という言葉なのです。しかし、ただ均一に流れていく時間、時計によって測られていく時ではなくて、ある意味を持つ時、特別な時、そういう意味では機会とかチャンスとも訳せるような、そういう時を意味する言葉です。あなたがたの身近な所に、日々の生活の中に、そのような時のしるしがある、空模様を見分けるのと同じように、そういう時のしるしを見分ける目を養いなさい、と主イエスは語っておられるのです。

 私たちの身近なところにある時のしるしを見分ける、それはどのようにしたらできることなのでしょうか。その問いを胸の内に留めつつ、次の5節以下を読んでいきたいと思います。この5節から、弟子たちが登場します。4節までの話は、主イエスがお一人でおられた時のことのようです。その事情は、15章の終わりの39節に語られています。そこに「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」とありました。主イエスはお一人で先に舟に乗って、ガリラヤ湖を渡られたのです。その行った先で、4節までの出来事がありました。そして弟子たちは後から追いついてきたのです。ところがその時に彼らは、パンを持って来るのを忘れていた。主イエスの後を慌てて追って来たので、食料の調達を忘れていたのです。しまった、失敗した、と思いつつ到着した弟子たちに、主イエスは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われました。それは4節までの話を前提としての教えであることは言うまでもありません。しかし弟子たちはその話を聞いていません。それで、主イエスが突然「パン種」という言葉を使われたのを聞いて、「自分たちがパンを持って来るのを忘れたことをしかられたのだ」と思ってしまったのです。何ととんちんかんな受け止め方だろうかと思います。しかし、何か気になっていることがあると、全然関係ない話もそのことと結びつけて受け止めてしまう、ということは私たちにもよくあることです。特に、「このことで失敗した」という思いがあると、人の言葉が全てその自分の失敗を責めているように聞こえてしまう、ということは誰でも経験があることではないでしょうか。この時の弟子たちもまさにそういう心理状態だったのでしょう。自分たちの失敗を主イエスにしかられたと思ったのです。

 弟子たちのその思いに気づいた主イエスはこう言われました。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか」。おまえたちがパンを持って来るのを忘れたなどということの話をしているのではないのだ、というわけです。この主イエスのお言葉は、「私はおまえたちの失敗を責めているのではないから安心せよ」というだけのことではありません。「信仰の薄い者たちよ」と言われています。この言葉はこれまでにも何度か出てきましたが、文字通りに訳せば「信仰が小さい」ということです。主イエスは弟子たちの信仰が小さいと言われたのです。それは彼らが、パンを持って来るのを忘れたことをしかられた、と思っていることに対してです。その思いは単なる誤解ではなく、あなたがたの信仰の小ささの現れだというのです。何故弟子たちのこの思いは信仰の小ささの現れなのでしょうか。そのことが、次の9節以下に語られていきます。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」。「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と主イエスは言われるのです。何をか。それは、主イエスが五つのパンで五千人を満腹にさせて余りも出たという14章に語られていた出来事をです。また、七つのパンで四千人を満腹にさせたという、先週の礼拝において読んだ、15章の終わりの出来事をです。いずれの場合にも、人間の常識からすれば到底足りない、一人にほんのひとかけらほども当らないというパンで、みんなが満腹するという奇跡が行われたのです。主イエスはそのようにして、ご自分のもとに集まって来る人々の空腹を満たして下さるのです。そのことを、一度ならず二度までも、弟子たちは目撃したのです。目撃しただけではなく、彼らはそのみ業の中で用いられたのです。主イエスが祈って分けたパンを配ったのは弟子たちでした。そしてみんなが満腹した後、余ったパン屑を集めたのも弟子たちでした。主イエスの奇跡を彼らは言わば体で体験したのです。そのことを、覚えていないのか、忘れてしまったのか、と主イエスは言っておられるのです。そのことを覚えているなら、パンを忘れた、パンがないと困る、どうしよう、などということに思いを奪われてしまうことはないはずだ、みんなの空腹を満たして下さる主イエスの力に信頼して安心していることができるはずだ、ということです。それができずに、パンを忘れたからしかられた、と思ってしまうところに、彼らの信仰の小ささ、あるいは不信仰があるのです。

 弟子たちはあの五つのパンで五千人の奇跡や、七つのパンで四千人の奇跡を忘れてしまっていたのでしょうか。そんなはずはありません。あのように大きな出来事や体験が記憶に残らないなどということはないのです。しかし彼らは、それを覚えていることができなかったのです。この「覚えている」という言葉は、むしろ「思い起こす」という意味です。ただ記憶に残っているというのではなくて、それを積極的に思い起こす、そして思い起こすということは、そのことが、現在の自分の生活、行動、思いにおいて生きた働きをするということです。弟子たちは、あのパンの奇跡を忘れてしまっていたわけではありません。しかしそれを今言ったような意味で思い起こすこともできてはいなかったのです。パンの奇跡の体験が彼らの中で生きた働きをしていなかったのです。その結果、パンを忘れたという現実に直面した時にあの奇跡の記憶が何の力にもならなかったのです。これが、彼らの信仰の小ささ、あるいは不信仰の内容です。ここから私たちは大切なことを教えられます。それは、信仰とは思い起こすことだ、ということです。与えられた神様の恵みの体験、救いの体験を思い起こすこと、それを忘れてしまわないで記憶に留めている、というだけではなく、積極的に思い起こし、それによって今現在の自分の歩みが支えられ導かれていく、それが信仰なのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第8章2節以下はそのような信仰を教えています。その2節に「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい」とあります。荒れ野の苦しい旅路において、神様が天からのパンであるマナによって彼らを養って下さった、その神様の恵みと導きの中を歩んできたことを常に思い起こすことが求められているのです。それは、ただ記憶に留めておくということではありません。これからの歩みの中で、様々な、それまでとは違う新しい苦しみ、困難が襲いかかってくるのです。その時に、しかし、主なる神様が自分たちを守り、導き、必要なものを与えて養って下さることを信じて、その神様に信頼して、主なる神様から離れないで歩むことが、荒れ野の旅を思い起こすことです。つまり、新たに襲ってくる苦しみ、困難の中で、神様の恵みと守りと導きを信じてそれに立ち向かっていくことが、思い起こす信仰なのです。聖書が教える、私たちの信仰の根本はこの「思い起こす」ということにあります。旧約聖書の全体は、イスラエルの民に、この申命記が語っているように、エジプトの奴隷状態からの解放と、荒れ野の旅の導き、そして約束の地を与えて下さったその神様による救いの恵みを思い起こさせようとしています。そして新約聖書の全体は、キリストの教会に連なる私たちに、神様が独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活によって、私たちの罪が赦され、新しい命、永遠の命の希望が与えられている、その救いの恵みを思い起こさせようとしています。私たちは、聖書によって、主イエス・キリストによる救いの恵みを教えられ、そしてそれを常に思い起こしつつ生きる者となるのです。それが、洗礼を受けて教会の枝となることの意味です。そして洗礼を受けた私たちは、主イエス・キリストの十字架の死による救いを覚え、思い起こすために、その肉と血とを指し示す聖餐にあずかりつつ歩むのです。私たちの礼拝も、そこで語られる説教も、聖餐も、すべては主イエス・キリストによる救いの恵みを思い起こすためです。そのことを常に思い起こしつつ、それに支えられて私たちは日々の生活を生きるのです。この「思い起こすこと」をやめてしまうならば、私たちは日々新たに襲ってくる苦しみや悲しみ、あるいは自分の失敗、罪、それらのことに心を奪われ、その中に埋没し、そこから抜け出すことができなくなってしまうのです。

 ここで、先ほど保留にしておいた問いに戻りたいと思います。それは、私たちの身近なところにある時のしるしを見分ける、ということはどのようにしたらできるのか、という問いでした。その答えがまさに今見てきた、「思い起こす信仰」にこそあるのです。身近な所にある時のしるしを見分けるとは、私たちの日々の生活の中の、ごく身近な所にも、神様のご支配や、主イエス・キリストの恵みが示されていることに気づくことです。そのしるしを見分けて、神様に感謝し、主イエスと共に生きていくことです。それができるためには、私たちは、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを常に思い起こさなければならないのです。それは何度も言っているように、ただ記憶しているということではありません。知識として知っているだけでは、思い起こすことにはならないのです。思い起こすとは、そのことを通して今の現実を見ることです。自分の直面している現実、そこには様々な苦しみや悲しみや困難がありますが、それらを、主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みを思い起こしつつ見つめるのです。ある意味では、そういう色眼鏡を通して現実を見るのです。色眼鏡で見たら、現実を正しく把握することができない、自分の独りよがりな見方にしかならない、それは私たちの思いという色眼鏡で見た場合のことです。しかしこの色眼鏡は、主イエスによる神様の救いの恵みという色眼鏡です。その色眼鏡をかけて見つめる時に、そこには、普通の目では見ることができない、隠されている真実が見えてくるのです。主イエス・キリストによる神様の恵みの下に自分はある、という真実です。自分の周りの現実の中にその隠された真実を見出していくこと、それこそが、身近な所にある時のしるしを見分けることです。「時のしるし」の「時」という言葉は、ある意味を持つ時、特別な時、機会とかチャンスとも訳せるような言葉だと申しました。主イエスによる神様の恵みを常に思い起こしつつ生きる「思い起こす信仰」によってこそ、私たちは自分の生きているこの時を、意味のある特別な時、神様の恵みにあずかる機会、チャンスとして見つめることができるのです。

 この「思い起こす信仰」に生きていく時に、私たちは、主イエスが注意しなさいと警告しておられる、ファリサイ派とサドカイ派のパン種から自由になることができます。ファリサイ派とサドカイ派のパン種とは、しるしを求める彼らの思いです。つまり、証拠を求め、それによって納得しないと気が済まないという思いです。彼らがそういう思いに陥るのはある意味では当然です。何故なら、彼らは、思い起こすべき神の恵みを知らないからです。神の恵みを知らないから、自分で救いを、その確信を獲得しなければならないのです。そのために彼らは熱心に努力しています。しかし努力で救いの確信は得られません。どうしても何か証拠が欲しいのです。しかし私たちは、主イエス・キリストによって、その十字架の死と復活という、思い起こすことができる恵みを与えられています。神様が、罪人である私たちを愛して、独り子の命を与えて罪を赦して下さり、神様の恵みの下で生きる新しい命を与えて下さった、その一方的な恵みを示されています。その恵みを思い起こしつつ生きる時に、私たちにはもう証拠などいらないのです。証拠がなければ信じられないという歩みではなく、日々の身近な生活の中で、神様の恵みのしるしを、ここにも、あそこにも見出して喜ぶことができる、そういう歩みを与えられるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年4月14日]

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