富山鹿島町教会

礼拝説教

「赦すのはあなただ」
サムエル記下 第14章1〜33節
マタイによる福音書 第6章9〜15節

 月の第四の主の日には、サムエル記下よりみ言葉に聞いています。先程、第14章の全体を朗読していただきました。これだけでも随分長いところを読んでいただいたわけですが、しかしこの14章は、ここだけ読んだのでは意味が通じないのです。14章の話は、13章からの続きです。13章と合わせて読むことによって初めてこの14章に語られていることも理解できるのです。そういうわけで、本日は13、14章の全体からみ言葉に聞いていくことになります。あまりにも長くなるので、朗読は14章だけにしたのです。

 14章に語られているのは、一言で言ってしまえば、ダビデ王のもとから追放されていたアブサロムという人が、帰ることを赦されたということです。そのいきさつが詳しく語られているわけですが、そもそもこのアブサロムは何故追放されたのか、何が原因だったのか、ということが、13章に語られているのです。13章を読みながら、そのことを振り返ってみたいと思います。

 アブサロムは、13章1節にあるように、ダビデ王の息子です。このアブサロムにタマルという美しい妹がいた、そして同じくダビデの子であるアムノンが、このタマルに恋をした、ということからこの話は始まっているのです。アブサロムとタマルとアムノン、彼らは皆、ダビデ王の子供です。つまりアムノンがタマルに恋をしたというのは、兄が妹を好きになった、ということなのです。ただ、この二人は父はダビデですが、母は違います。サムエル記下の第3章2節以下に、ダビデの息子たちのリストがあります。それによると、アムノンはダビデの長男で、その母はアヒノアムという人です。アブサロムは三男であると記されています。その母はマアカという人です。ここには六人の息子の名前が記されていますが、母親はみんな違うのです。そしてこれらの息子たちは、ダビデがまだエルサレムでイスラエル全体の王となる前に生れた人たちです。王になってからもさらに多くの息子たちが、これまた沢山の女性たちから生れています。その内の一人が、前回読んだ第12章において、部下だったウリヤの妻であったバト・シェバが産んだソロモンです。このように、ダビデ王には、まことに多くの女性たちとの間に、沢山の子供たちがいたのです。ダビデという人ははっきり言ってかなりの女好きです。バト・シェバとの話はそれによって彼が犯した大きな罪です。「英雄、色を好む」という言葉はダビデのためにあると言ってもよいかもしれません。さて話を戻すと、アムノンとアブサロムは異母兄弟であり、タマルはアブサロムの妹と言われていますから、アブサロムと同じマアカの子だったのでしょう。つまりアムノンは腹違いの妹に恋をしたのです。しかもその思いは、ただあこがれる、というようなものではなく、肉体的な欲望を日々募らせていくようなものでした。そしてついにアムノンは、策略を用いてタマルと二人きりになる機会を作り、強姦してしまったのです。当時のイスラエルでは、このような異母きょうだいどうしの結婚ということも不可能ではなかったようです。だからアムノンはタマルと正式に結婚する、という道もあったのです。しかし彼はそれをせず、ただ力づくで彼女を犯し、そしてさらに悪いことに、そのように一旦思いを遂げてしまうと、今度は逆に彼女のことを疎ましく思い、憎むようになって追い出してしまったのです。アムノンによって弄ばれ、捨てられたタマルは深い絶望の内に兄アブサロムのもとへ身を寄せます。アブサロムは妹の受けた屈辱、苦しみによって、アムノンに対して深い憎しみ、憎悪を抱くようになります。しかし彼はその時は何も言わず、何事もなかったかのようにふるまいながら、復讐の機会を伺うようになったのです。

 その機会は二年後に訪れました。羊の毛を刈る祭り、農業で言えば収穫の祭りに王子たちを招待したアブサロムは、その宴席でアムノンを殺したのです。ダビデ王は、長男アムノンが、同じ息子の一人であるアブサロムによって殺されたことを深く嘆き、アブサロムに対して激しく怒りました。そのためにアブサロムはエルサレムにいることができなくなったのです。13章37、38節にこうあります。「アブサロムは、ゲシュルの王アミフドの子タルマイのもとに逃げた。ダビデはアムノンを悼み続けた。アブサロムはゲシュルに逃げ、三年間そこにいた」。ダビデがアムノンの死を悼み続けている間、アブサロムは亡命生活を余儀なくされたのです。彼が追放されているというのはこういう事情でした。その状態は三年に及んだのです。しかし13章の終わりの39節にはこうあります。「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」。長男アムノンの死を悲しみ嘆き、アブサロムに対して怒っていたダビデの心は、時と共に次第に和らいでいったのです。そしてむしろ、このことによって自分のもとから失われてしまったアブサロムを惜しむ思いが起って来たのです。ダビデは、息子たちの中でもこのアブサロムを特に愛していました。アブサロムは、14章25節に「イスラエルの中でアブサロムほど、その美しさをたたえられた男はなかった。足の裏から頭のてっぺんまで、非のうちどころがなかった」とあるように、大変美しい若者でした。そしてこの13、14章の記事からわかるように、意志が強く、行動力もある人だったようです。そういうアブサロムをダビデは頼もしく思っていた、しかし彼がしたことを思えば、簡単に赦すことはできない、自分のもとに帰ることを認めることはできないのです。ダビデの心にそういう葛藤が生じていったことが13章の終わりに語られているのです。

 ところで、13章に語られているこのアムノンとアブサロムの物語は、いろいろな角度から見つめることができます。一つには、これはダビデ王家の後継者争いという面を持っていると思います。ダビデの王権を誰が受け継ぐのか、誰が次の王になるのかという問題です。順当に行けば、長男であるアムノンがそれを受け継ぐということになるでしょうか。しかしこのアムノンは、今申しましたような大変大きな過ちを犯しました。彼の一連の行動は、彼が一国の王たり得る器ではないことを示しています。一方アブサロムは、意志と行動力に優れ、そして何よりも野心があるのです。そのことは、この後の15章以下を読んでいくことによってはっきりします。それらを考え合わせるならば、彼がアムノンを殺したのは、妹タマルが受けた屈辱への復讐という意味もありますが、むしろそれを口実にして、第一の王位継承候補者を抹殺したということでもあったように思うのです。つまりここにはまことにどろどろとした人間の権力争いのにおいがします。そしてこのことは、単に誰がダビデの王権を継承するかということではありません。ダビデは、主なる神様によって王として立てられたのです。そして神様は、あなたの子孫がこの王国を受け継いでいくと約束して下さいました。つまりダビデの王位の継承は、この神様の約束の継承、祝福の継承なのです。その継承がどのようになされていくかは、神様の恵みがどう受け継がれていくかということですから、神の民の歴史においてとても重大なことです。そこにおいて、人間はいろいろな思惑を持ち、計略をたて、行動する、しかしそれらの全てを通して、神様のみ心が実現していく、ということをサムエル記下の後半は語っているのです。

 そのような王位継承ということとは別の角度からこの出来事を見つめることもできます。これは、ダビデの家庭における兄弟どうしの不幸な争いです。何故このようなことが起ってきたのか、と考えていく時に、そこにはダビデ自身の問題があったということを思わずにはおれません。アムノンがタマルにしたことは、若者としての激情や無分別ということがあるにせよ、根本的には、ダビデがバト・シェバにしたことと同じです。好きになった相手を、何がなんでも自分のものにしてしまおうということです。ダビデは、王としての権力をもって、夫ウリヤを戦死させるということによってそれをしたのです。同じことをアムノンは、何の権力もない若者として、あのような仕方でしたのです。要するにアムノンはダビデの血を受け継いでいるということです。13章21節に、アムノンの仕業を聞いたダビデが激しく怒ったとありますが、息子の犯した大きな罪に怒ってみたものの、それは実は自分自身がしたことだったのです。そしてそれゆえに、あるいはさらにアムノンが長男であったということも関係しているかもしれませんが、ダビデは激しく怒ったけれどもこのことに対してアムノンを罰するようなことは何もしなかったのです。結局見過ごしにしてしまったということです。そしてそのことが、後のアブサロムによる復讐を呼んだということができるでしょう。アブサロムは、父ダビデが下そうとしない罰を、父に代って行う、そういう口実を得ることになったのです。このように、ここで起った悲惨な出来事の背後には、ダビデ自身の罪と、また不適切な処置とがあります。このような不幸を招いたのはダビデ自身だと言わなければならないのです。

 さてそこから話は14章に入ります。ダビデの気持ちが、追放状態にあるアブサロムの方に傾いていることを敏感に察知したのは、ダビデの軍司令官だったヨアブでした。ヨアブはダビデにアブサロムを呼び戻させるために動きます。このヨアブの行動の背後には、アブサロムこそダビデの王国を受け継ぐべき者だという彼の期待があったと言えるでしょう。しかし、兄殺しという大きな罪を犯したアブサロムを、ダビデは何事もなかったかのようにただ呼び戻すことはできません。その罪の赦しが与えられなければアブサロムは戻ることはできないのです。ヨアブはダビデがその赦しを与える決断を下すために一つの策を講じます。彼は一人の女をダビデのもとに遣わし、自分のかかえている問題に解決を与えてくれるように願わせたのです。王はそのように、民の訴えに裁定を下し、判決を与える最高の裁判官としての権威をも持っているのです。

 女がダビデに語った問題とは、自分の二人の息子がいさかいを起こし、一人がもう片方を殺してしまったということでした。親族の者たちは、この兄弟殺しの罪人を引き渡すように自分に迫っている。それは彼に犯した殺人の罪の償いをさせるため、つまり彼を殺すためです。しかしそうなれば、やもめである彼女は二人の息子を両方とも失うことになってしまいます。一人の息子をいさかいによって失ったことだけでも大きな悲しみなのに、そのためにもう一人の息子をも失わなければならないとしたら、自分はもう生きていけない、という嘆きを彼女はダビデに訴えたのです。ダビデはこれを聞いて、「わたしがお前のために命令を出そう」と言います。それは、残された一人の息子の命を誰も求めてはならない、殺された息子のための復讐をしてはならない、彼の罪を赦さなければならない、という命令です。彼女は、そのダビデの言葉だけでは満足しません。そのことを主なる神様の前ではっきり誓ってくださいと言うのです。それが、11節に語られていることです。「『王様、どうかあなたの神、主に心をお留めください。血の復讐をする者が殺戮を繰り返すことのありませんように。彼らがわたしの息子を断ち滅ぼしてしまいませんように。』王は答えた。『主は生きておられる。お前の息子の髪の毛一本たりとも地に落ちることはない』」。ここで、「主に心をお留めください」と彼女が言っているのは、主なる神様の前で誓ってくださいということです。そしてダビデが「主は生きておられる」と言って「お前の息子の髪の毛一本たりとも地に落ちることはない」と宣言したのは、主なる神様の前で誓ったということです。それによってダビデは、その誓ったことを必ず実行する義務、責任を負うことになったのです。そこまでダビデの言葉を得た上で、彼女は自分が訪ねてきた本当の目的を語ります。13、14節です。「主君である王様、それではなぜ、神の民に対してあなたはこのようにふるまわれるのでしょう。王様御自身、追放された方を連れ戻そうとなさいません。王様の今回の御判断によるなら、王様は責められることになります。わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば、再び集めることのできない水のようなものでございます。神は、追放された者が神からも追放されたままになることをお望みになりません。そうならないように取り計らってくださいます」。兄弟を殺した者が、その罪のために裁かれ、殺される、そのようにして二人共に失われてしまう、そのようなことはあってはならない、それを神はお望みにならない、神はむしろ、その罪を犯した兄弟が赦されることを望んでおられる、そのように王様がご判断なさるのでしたら、あなた自身がその神様のみ心に反することをしているのではないですか、兄弟殺しの罪を犯して追放されている者をいつまでもそのままにしておくことは、あなたが今主なる神様に誓って実行すると言ったことと違うではありませんか、そう彼女は言ったのです。ダビデはこれを聞いて、このことが全てヨアブの差し金であることを悟ります。そしてヨアブに命じて、アブサロムを呼び戻させたのです。

 ヨアブによって遣わされたこの女は、前回読んだ12章における預言者ナタンと同じ役割を果たしていると言うことができます。12章では、ダビデが部下のウリヤからその妻バト・シェバを奪い、ウリヤを殺して自分の妻にしてしまった、それは罪だということを指摘する働きをナタンがしています。彼はダビデに、金持ちの男と、一匹の小羊しか持たない貧しい男の話をしました。金持ちは、自分の家畜を惜しんで、貧しい男のかけがえのない小羊を奪ったのです。それを聞いたダビデが、そんな男は死刑だ、と言うと、ナタンは「それはあなただ。あなたこそその金持ちと同じことをしているのだ」と言ったのです。ウリヤからバト・シェバを奪ったダビデはまさにこの金持ちの男と同じことをしたのでした。しかしナタンに「それはあなただ」と言われるまで、ダビデは自分の罪に気づきません。この金持ちはけしからん、ということはわかっても、それが自分のことだということには思いが至らないのです。それと同じことが、この女との話において起っています。女は自分の二人の息子のいさかいと、それによって起った殺人を語ります。そして兄弟を殺した息子がその罪のために重ねて失われようとしている現実を語ります。それに対してダビデは、そんなことになったらいけない、その息子は赦されるべきだ、と言うのです。しかしそれがまさに自分自身の問題であり、自分こそ罪を犯した息子を赦すことが求められているのだ、ということにはなかなか気がつかないのです。そのダビデにこの女は、ナタンと同じように、「それはあなただ。あなたこそアブサロムを赦して呼び戻すべきなのだ」と語ったのです。

 12章に引き続いて、ここには私たち自身の姿が語られていると言えるでしょう。私たちは、12章におけるダビデと同じように、人の犯している罪や過ちはよく見えるのです。それは罪だ、と正しく判断できるのです。しかしそれが自分のこととなると、たちまち目が曇らされてしまいます。同じことを自分がしていてもそれに気づかない、自分が罪を犯していることには思いが至らないのです。そのような私たちは、あのナタンの、「それはあなただ」という指摘をしっかりと受け止めなければなりません。それを本当に自分のこととして聞くことができるかどうかが、私たちが本当に神様を信じて生きる者となれるかどうかの分かれ道なのです。

 そしてそれと同じように、この14章においては、私たちは、罪を赦すということにおいても、人のことならば適切に、冷静に判断し、「赦してやるべきだ、そうしないといつまでも憎しみの思いから抜け出すことができないで、苦しみが増すばかりだし、ますます不幸な事態になっていく」と言うことができるということが示されています。しかしそれがひとたび自分自身のことになると、そういう適切な、冷静な判断ができなくなってしまう。「赦せない」という思いに捉えられてしまう、あるいは、このダビデがまさにそうだと思うのですが、自分が人を赦していない、ということ自体に気づくことができないのです。そのような私たちは、ダビデと共に、この女の、あなたこそ赦すべき者だ、赦すのはあなただ、という指摘をしっかりと受け止めなければならないのです。これを本当に自分のこととして聞くことができるかどうかが、私たちが本当に神様を信じて生きる者となれるかどうかの、もう一つの分かれ道なのです。

 生けるまことの神様を信じる信仰は、自分が神様の前で罪人であることを認めることによってしか生れません。生まれつきの私たちは、何とかして自分を正当化しようとしながら生きています。いろいろな言い訳を考え出し、それを認めてくれるような勝手な神様を考え出し、利用していこうとするのです。しかし生けるまことの神様は、私たちの一切の自己正当化を打ち砕き、「あなたは罪を犯している」とはっきり宣言なさるのです。神様を信じるとは、この神様の宣言を自分のこととして受け入れることです。そしてその時にそこに、神様からの罪の赦しが与えられるのです。その罪の赦しによる平安は、私たちが自分で自分を正当化し、いろいろと言い訳を考えていくことによって得ようとしている、しかし決して本当には得ることができない平安とは全く違うものです。それは私たちが自分の中に自分で作り出す平安ではなくて、私たちの外から、生けるまことの神様から与えられる平安です。それゆえにそれは私たちの心の状態、罪の意識や良心の呵責、そういうことによって左右されないまことの平安なのです。その平安は、私たちが神様の前に自分の罪を認めてその赦しを願うところにのみ与えられるのです。そして私たちがこの神様からの罪の赦しの恵みに本当に生かされ、その平安を与えられていくことは、私たち自身が人の罪を赦すことと切り離してはあり得ないのです。神様の前に自分の罪を認め、それを神様が赦して下さる恵みをいただくことは、今度は自分が人の罪を赦す者となることにおいてこそ本物になるのです。別の言い方をすれば、神様による罪の赦しということが、私たちの自分勝手な思い込みや自己正当化の一種ではないことは、私たち自身が人の罪を赦すことにおいてのみ明らかになるのです。

 本日共に読まれた新約聖書の箇所は、主イエスが「こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」のところです。ここを共に読んだのは勿論、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」、私たちがいつも祈っている言葉で言えば、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りとの関連においてです。またその最後のところには、この祈りを受けて、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とも語られています。天の父なる神様が、独り子主イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の苦しみと死とそして復活によって、私たちの罪を赦して下さった、その恵みをいただいて生きるのが私たちの信仰です。その赦しの恵みにあずかることは、私たちが、自分に対して罪を犯す者を赦すことと別のことではない、両者は一つなのだということをこの祈りは教えています。この祈りを毎日真剣に祈りつつ生きることが、私たちの信仰なのです。

 しかし私たちが人の罪を赦すその赦しは、いつも中途半端なものです。ダビデはアブサロムを赦して呼び戻しました。しかし二年間にわたって、アブサロムと顔を合わせようとはしなかったのです。それは本当に赦したことにはなっていません。アブサロムはそのことで再び苛立ち、「何のために自分を呼び戻したのか。赦す気がないなら死刑にすればいいだろう」などと言い出したのです。このようなことが、次の15章で彼が父ダビデに対して反乱を起こす原因となっていったと言えるでしょう。つまりダビデはここでもまた、中途半端な、不適切なことをしてしまったのです。アムノンに対しても、怒りながらも罰することをせず、アブサロムに対しても、赦しながらも本当には赦していない、そういうダビデの、中途半端で一貫性のない姿がここには目立ちます。それが事態をどんどん悪化させているのです。しかしそれはそのまま私たちの姿だと言わなければならないでしょう。私たちは現実の生活の中で、なかなか本当に自分の罪を認めて悔い改めることができないし、本当に人の罪を赦すこともできないのです。そしてこのような中途半端で不適切な行動を繰り返してしまうのです。それが私たちの現実だということを認めなければなりません。その現実の中にどうしようもなく取り込まれてしまっている私たちに、主イエスは、あの「主の祈り」を与えて下さったのです。これを祈りつつ日々歩みなさいと言われたのです。それは、「自分の罪を神様に赦していただくためには、人の罪を全て赦せる人間になりなさい」という戒めではありません。そんなことができる人などいないのです。しかしそれではこの祈りは実現不可能な理想論、たてまえだけの絵に描いた餅なのかというと、決してそうではないのです。この祈りを祈ることによって、私たちは、日々、神様から、「赦すのはあなただ」という語りかけを受けるのです。この神様の語りかけを、日々の具体的な現実の中で真剣に聞きつつ生きること、それが私たちの信仰なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年4月28日]

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