富山鹿島町教会

礼拝説教

「命の代価」
詩編 第4編1〜21節
マタイによる福音書 第16章21〜23節

私の後ろに
 先週に引き続いて、マタイによる福音書第16章21節以下を読みます。ここには、主イエスがご自身の受難、苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを予告されたこと、それに対して弟子のペトロが「そんなことを言うものではありません」と主イエスを諌めたこと、すると主イエスが「サタン、引き下がれ」と大変厳しい言葉で叱ったことが語られています。先週は、23節の、主イエスのペトロに対する叱責の言葉までを読みました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。このペトロに対するお叱りの言葉に続いて、主イエスは弟子たちにこう言われたのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。ここを原文で読んでみますと、23節の主イエスのペトロへの叱責の言葉と、この24節との間には、言葉の上で密接なつながりがあることがわかります。「サタン、引き下がれ」という言葉は、直訳すると、「退け、私の後ろに、サタンよ」となるということを先週申しました。そしてその「私の後ろに」という言葉は、主イエスがペトロたちを弟子として招かれた時の言葉、4章19節の「わたしについて来なさい」にもあったのです。あそこも直訳すると、「従いなさい、私の後ろに」となるのです。このことから、「サタン、引き下がれ」というあの大変厳しい叱責の言葉には、実は主イエスの招きがある、ということを申しました。主イエスは、ペトロを「お前はサタンだ」と断罪し、裁いておられるのではなくて、むしろペトロを、弟子として本来おるべき場所に立ち返らせようとしておられるのです。弟子として本来おるべき場所、それは「主イエスの後ろ」です。弟子とは、つまり信仰者とは、主イエスの後ろにつき、主イエスの歩みに従っていく者です。ペトロたちはそういう者として招かれたはずでした。ところが今、主イエスがご自身の苦しみと死を予告されると、ペトロに代表される彼らは、「それはとんでもないことです、そんなことを言うものではありません」と主イエスを諌めている、それは、主イエスの後ろにつくのではなく、むしろその前に立ちはだかっていることです。そういうペトロに対して主イエスは、「あなたはわたしの邪魔をする者、つまりサタンと同じになっている。そうではなくて、私の後ろについて従ってくる者となれ」と言われたのです。そしてその「私の後ろに」という言葉が、24節にもあるのです。「わたしについて来たい者は」というところです。ここも直訳すれば、「私の後ろについて来ようと望む者は」となります。つまりこの24節は、主イエスの後ろにつき、従っていく弟子たちのあるべき姿を教えているみ言葉なのです。ですからこの「わたしについて来たい者は」という言葉が大事です。この24節には、主イエスの弟子として、主イエスを信じその後に従っていく者の歩むべき道が示されているのです。

自分を捨てる
 「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。これが、主イエスの後に従っていく弟子、信仰者のあるべき姿です。自分を捨てよと言われています。自分を捨てるとはどういうことでしょうか。自分のために、自分の望みや願いをかなえようとする、自分が得をし、楽をできるようにする…それらの一切の思いを捨てる自己否定ということを私たちはすぐに思い浮かべます。そしてそれは「他者のために」ということと結びついています。「自分のためではなく他の人のために」「自分よりも人のことを大事にし、優先させる」「自分は二の次にして人のために尽す」、それが「自分を捨て」ということだろうと私たちはすぐに思うのです。「自分の十字架を背負って」というのも、その関連でとらえられます。十字架を背負うとは、苦しみを負うこと、それを忍耐することです。今言ったような意味で自分を捨て、他者のために生きようとするところには苦しみが伴います。自分の思いや欲望を抑え、我慢する苦しみです。そういう苦しみを負って自己否定に生きることが、主イエスに従っていくこと、信仰だと私たちは思っているところがあるのではないでしょうか。しかしそれは、「自分を捨て」という言葉から私たちが言わば勝手に連想していることに過ぎません。主イエスが言っておられることはどうもそれとは違うのです。次の25節にはこうあります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。ここで問題になっているのは、自分の命を本当に得ることはどうしたらできるか、ということです。「自分の命を救いたい」と思っている者はかえってそれを失う、しかし逆に、主イエスのために命を失うように見える生き方をする者こそが、本当に命を得ることができるのだ、というのです。つまり、本当の意味で自分の命を得ることができるような生き方をすることが勧められているのです。それは、「自分はどうなってもよい」ということとは違います。自分のことなど考えるのをやめる、ということではありません。むしろ、本当に自分のためになることは何かを真剣に考え、求めることです。そのことは次の26節になるともっとはっきりします。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。「何の得があるか」と言われています。それは勿論自分にとっての得です。本当に得になることは何か、よく考えよと言われているのです。つまりここには、損得の計算があります。勿論それは、どちらがお金が儲かるかというような、目先の損得ではありません。しかし自分にとって何が本当に得か、ということではあるのであって、それはいわゆる自己否定とは違うでしょう。自分のことなど二の次にして、というわけではないのです。つまり、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」というのは、自分のことなど一切考えない、自分のためではなく人のために、ということとは違うのです。むしろ、このことこそ本当に自分のためになる、自分を本当に大切にするとはこのような生き方をすることなのだ、ということが教えられているのです。

人生を支えるもの
 今読んだ26節の、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」ということについて考えたいと思います。全世界を征服して自分のものにしても、その途端に死んでしまったらまことに虚しいのです。だから、昔の多くの皇帝たちは、不老不死の薬を手に入れようと手を尽したのです。しかしどんなに巨万の富を積んでも、それは手に入りませんでした。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」、どんな代価を払ってもそれは買い戻すことができないのです。しかしこれは昔の皇帝たちだけの話ではありません。全世界を手に入れることなどできない私たちにも決して無関係ではないのです。このことを考えるために参考になるのは、ルカ福音書第12章16節以下の、主イエスのたとえ話です。「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれています。ある人が、畑が豊作で、有り余るほどの穀物、財産を手に入れ、それを倉にしまいこんで、「これでもう自分の人生は安泰だ」と言った。すると神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃったというたとえです。このたとえ話は本日の26節と通じるものがあります。あの金持ちが「愚か」であったのは、財産によって自分の人生が支えられ、安泰になると思ったからでした。彼は、自分の命を支配しておられる神様を見つめていなかったのです。自分の人生を根本において支え、導き、支配しておられるのは神様であることを忘れていたのです。「全世界を手に入れても、自分の命を失う」とはそういうことです。人間が手に入れることができるもの、自分のものとして蓄えることができるもの、それによって人生を支えることができる、安心することができる、と思ってしまうときに、私たちは人生を本当に支えている方を見失ってしまうのです。25節の、「自分の命を救いたいと思う者はそれを失う」というのはそういうことを言っているのでしょう。「自分の命を救いたいと思う」、それは、自分が様々の意味で持っているもの、自分の蓄え、自信、自分はこれだけよいことをし、神様に仕えているというような自負、そういったもので、つまり自分の力で自分の命を救おうと思い、また救うことができると思っていることです。あの金持ちが、穀物を倉に貯めこんで、「もう安心だ」と思った、それが「自分の命を救いたいと思う」者の姿なのです。しかしそれは愚かなことです。私たちの命は、人生は、そのような私たちの力や努力、何を持っているかということによって支えられるのではないのです。それらの全てを越えて、神様が、私たちの命を導いておられるのです。その神様の守りと支えをいただくことこそが、本当に命を得ることになるのです。

命の代価
 私たちが本当に命を得ることは、私たちの力によるのではなく、神様の恵みによるのだ、ということがここで教えられているのです。つまり私たちは、自分の命の代価を支払うことはできない者だということです。自分の命を救いたいと思ってどんなに熱心に努めても、それこそ自分のことは二の次にして人のために尽していくような自己否定に生きたとしても、それでもって自分の命を救うことはできません。自分の命の代価はそれよりもはるかに高くて、とても支払うことなどできないのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第49編にそのことが語られています。この詩は、地上の富や権力を持っている者たちを恐れたり、うらやんだりする必要はない、ということを歌っています。彼らがどんなに豊かな財産を持ち、力を持っているとしても、それで自分の魂、命を贖うことはできない、どんなに豊かな、力ある者も、結局は死んでいくのであって、その時に富や力を持っていくことはできないのだ、と言われているのです。そのようにこの詩編49編は、人間の富や力とそれに寄り頼むことの虚しさを語っています。その中に、16節があるのです。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」。この言葉が、この詩の中心です。人間の力や富は命を救うことはできないが、神様のみがそれをして下さり、死の力から命を救い出して下さる、命の代価は神様のみが支払うことができるし、支払って下さるのだ、ということです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。私たちは、自分でその代価を支払うことのできない者です。その代価は、神様のみが支払うことができるし、支払って下さったものなのです。
 神様が、私たちの命の代価を支払って下さった。それが、独り子主イエス・キリストの十字架の死です。主イエスが私たちのために、多くの苦しみを受け、殺されたことによって、その神様の独り子の命が、私たちの命のための代価として支払われたのです。このことによって神様は、私たちの魂を贖い、陰府の手から、つまり死の力から取り上げて下さったのです。このことは、神様が私たちの命、魂を、どれほど価高いものと考えていて下さるかを示しています。神様にとって私たちの命、魂は、独り子の命に匹敵するものなのです。独り子主イエスの命を私たちの救いのために犠牲にして下さった、それほどまでに、神様は私たちのことを大切に思っていて下さるのです。

命の代価を支払うのは誰?
 ところが、私たちはこの神様のみ心がなかなかわかりません。神様が独り子の命を私たちのために支払って下さる、その恵みがわからないのです。主イエスの受難予告に対して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったペトロの姿はそのことを示しています。神様の独り子がその命を自分たちのために支払って下さろうとしているのに、それを受け入れないのです。それは先週も申しましたように、彼が、主イエスに別のことを期待しているからです。苦しみを受けて殺されるような道ではなく、もっと栄光ある、勝利の道、力に満ちた道を歩むことこそ救い主に相応しいと思っているのです。そしてそれは、自分たちもその栄光と勝利の道を歩みたいということです。主イエスに従っていくことで、神様の栄光に満ちた力ある者となり、敵対する力に勝利することができる者となることを願っているのです。それは言い換えれば、自分で自分の命を救うことができる者になりたいということです。自分の命の代価を自分で支払うことができる者になりたいということです。主イエスが救い主であるとは、そのように自分が力ある者となるために助けてくれるということだと思っているのです。
 そのようなペトロに、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。それは、「わたしが苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることによって、神様があなたがたの命の代価を支払って下さろうとしている、そのみ心を受け止めよ」ということです。そして弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と言われました。それは、「自分で自分の命を救うことができるような強い者、力ある者となろうとするのでなく、主イエスの後についていって、主イエスによって与えられる命をひたすら受ける者となれ」ということです。それこそが、「自分を捨てる」ことなのです。つまり「自分を捨てる」とは、すばらしい自己犠牲の行為をすることではありません。主イエス・キリストの十字架の死による救いと、そこに示されている、神様の恵みによってのみ与えられる命をこそ求め、自分の力や努力で救いや命を獲得しようとする一切の思いを捨てることです。そしてひたすら主イエス・キリストの後に従って、というよりもむしろくっついて歩む者となることです。主イエスなしにやっていけるような自分になろうなどというプライドを捨てるということです。「わたしのために命を失う」とはそういうことです。人にどう思われても、どんなにみっともない、惨めな生き方だと言われても、ひたすら主イエス・キリストの後ろにくっついて生きる、それが弟子、信仰者であるということなのです。そしてそこにおいてこそ、私たちは、本当に自分の命を得ることができるのです。神様が、この私のために独り子の命という代価を払って下さった、自分の命はそれほどまでに価高いものなのだということを知ることができるのです。そこには、自分で自分の命を救おうと思い、自分の命の尊さを自分で量ろうとしていくところには決して得ることができない喜び、感謝、平安があるのです。

自分の十字架を背負って
 主イエスの後ろにくっついて生きること、それは自分の十字架を背負って主イエスに従うことです。主イエスは私たちのために十字架の苦しみと死への道を歩まれました。その主イエスにくっついて生きる私たちの歩みも、栄光への道ではなく、十字架を背負う歩みとなるのです。私たちが背負う十字架とは何でしょうか。一つにはそれは、私たちが主イエスを信じ、主イエスにのみまことの命と救いがあることを信じて生きる時に、この世の常識や、様々なしがらみの中で受ける妨害、無理解による苦しみです。信仰に生きることによって生じるこれらの苦しみを、私たちは背負っていくのです。それが、主イエスの後について、従っていくことです。そのことを抜きにしては、主イエスの十字架の死によって与えられる命の恵みにあずかることはできないでしょう。
 しかし私たちが背負って主イエスに従う十字架はそれだけではありません。信仰によって生じる苦しみ以外にも、私たちは様々な苦しみを体験します。特に人間関係において、私たちの人生は苦しみの連続であると言ってもよいのです。それは人間の罪によって起ってくることです。人の罪によって様々に傷つけられ、苦しみを受けることがあります。また逆に自分自身の罪のゆえに、人を傷つけ、苦しめてしまうことがあります。人間関係における苦しみにおいては、常にその両方のことが同時に起っていると言わなければならないでしょう。そして私たちは、他人の罪によっても自分の罪によっても、苦しみを受けるのです。そのような苦しみは、主イエスに従うことによって生じるわけではありません。けれども、私たちが主イエスに従っていくというのは、先程申しましたように、主イエスの十字架によってこそ私たちに命が与えられていることを受け止めていくということです。その主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちの、そして私たちが関わりを持つあの人この人の、罪を背負っての、その赦しのための苦しみであり死だったのです。その主イエスの後について従っていくときに、私たちが人の、また自分の罪のために受ける苦しみは、主イエスが私たちの罪の赦しのために受けて下さった十字架の苦しみと重なっていくのです。その苦しみもまた、主イエスに従う者の背負うべき十字架となるのです。人の罪による苦しみを背負い、それを赦すこと、また自分の罪の事実を認めて自分の重荷として背負っていくこと、それらのことを通して、私たちは主イエスの後ろについていくのです。
 さらにそれだけでなく、私たちの人生には、人間の罪とは直接関わりのない苦しみもあります。病気や老い、事故や障害などによる苦しみ、これは自分であれ人であれ、誰かのせいにすることのできない苦しみです。何故自分にこのような苦しみがふりかかるのか、説明のできない苦しみです。そのような苦しみによって、私たちの人生はしばしば脅かされるのです。それも、信仰とは関わりなくふりかかってくるものですが、しかし主イエスの十字架による救いを信じ、神様が独り子の命をも私たちの命の代価として支払って下さったことを信じて歩む時に、それらの苦しみもまた、信仰と無関係ではなくなるのです。信じればそのような苦しみがなくなる、ということはありません。しかし神様が独り子主イエスの命を私たちの命の代価として支払って下さったということが、それらの苦しみの中で私たちを支えていくのです。たとえどのような苦しみに脅かされていても、私たちの命は、神様が本当に大切なものとして導き、支えていて下さるものなのだ、ということを信じることができるのです。その時それらの苦しみを忍耐して生きることも、主イエスに従うものの背負う十字架となるのです。要するに、主イエスの十字架による神様の救いの恵みを本当に見つめ、そこにこそ命があることを信じて生きるならば、私たちの受ける全ての苦しみは、主イエスに従う者の背負う十字架となるのです。

再臨を待ち望む
 主イエスの十字架の死によって、神様が私たちの命の代価を支払って下さり、私たちにまことの命が与えられる、そのまことの命は、この世の終わりに、主イエスが父なる神様の栄光の内にもう一度来られる、その時に約束されていることです。そのことが27節に語られています。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。ここには、主イエスの再臨において行われる裁き、いわゆる最後の審判のことが意識されています。神様が「それぞれの行いに応じて報いる」と言われているのがそれです。このことは、十字架にかけられて殺され、三日目に復活した神様の独り子主イエス・キリストこそが、全世界を裁く方であられるということを語っています。そのご支配と力は、今は隠されているけれども、世の終わりには必ずそれが顕わになり、裁きが行われるのです。いったいその裁きに自分は耐えられるだろうか、「行いに応じて報い」られるとしたら、果して救いに価するだけの行いを自分はすることができているだろうか、と私たちは不安を覚えずにはおれません。けれども、聖書は私たちに、その最後の審判、裁きは喜びをもって待ち望むべきことだと教えているのです。28節に、「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」とあることもそれを示しています。ここには、主イエスの再臨と世の終わりがもうすぐにも来る、と考えていた初代の教会の人々の信仰が反映していると言われますが、大事なことは、再臨が近いか遠いかではなくて、それが喜びをもって待ち望まれているということです。主イエスによる裁きに、私たちは不安や恐怖を覚える必要はないのです。その裁きは、私たちの命の代価としてご自分の命を与えて下さった方による裁きなのです。私たちの命を、何よりも大切なものとして尊重して下さる神様が裁き主であられるのです。私たちはこの神様の裁きに確かな希望を置いて、それぞれに与えられている十字架を背負って、主イエスの後にくっついて生きるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年5月12日]

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