富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝

「光り輝く主イエス」
詩編 第27編1〜14節
マタイによる福音書 第17章1〜13節

ペンテコステ
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエス・キリストの復活の後、集まって祈っていた弟子たちに、聖霊が降り、彼らが力を受けて主イエスのことを宣べ伝え始め、教会が誕生したことを記念し、祝う日です。ペンテコステは、言葉をそのまま訳せば、「五旬祭」となります。使徒言行録第2章1節ではそう訳されています。言葉の意味としてはこれは、「五十日目」ということです。「ペンタ」というのはギリシャ語で数字の5です。昨年の同時多発テロで標的となったアメリカ国防総省は、五角形の建物であるところから「ペンタゴン」と呼ばれています。ペンテコステとペンタゴンは言葉の上でつながりがあるわけです。五十日目とはいつから五十日目なのかというと、それはもともとは過越の祭りからであり、私たちで言えばイースターからです。主イエスの復活の日から五十日目のこの日に、弟子たちは聖霊を受け、教会がこの世に誕生したのです。

教会の誕生
 教会が誕生する、とはどういうことでしょうか。教会はどのようにして誕生するのでしょうか。とんがり屋根のてっぺんに十字架のついた建物を手に入れて、「今日からここを教会にする」と宣言すれば教会が誕生するのでしょうか。いや、私たちは、教会というのは建物のことではないということを知っています。現に、ペンテコステの出来事の時に、建物などはなかったのです。あったのは、主イエスを信じる者たちの群れだけです。教会というのは、その信仰者たちの群れのことです。そうすると教会とは、信者たちが何人か集まって、今日から我々は教会だ、と言えばそれで誕生するのでしょうか。そうではありません。教会はそういう人間の思いや決意によって誕生するのではなくて、神様のみ力によって、神様のみ業によって誕生するのだ、ということを、ペンテコステの出来事は示しているのです。弟子たちに聖霊が降り、それによって教会が誕生した、というのはそういうことです。

聖霊の働き
 しかし、聖霊が降ることによって何が起こるのでしょうか。言い換えれば、聖霊は私たちの中で何をして下さるのでしょうか。私たちが毎週礼拝において告白している日本基督教団信仰告白には、聖霊の働きについて、「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ」と語られています。私たちを清くし、信仰においてよい実りを結ばせて下さる働きを聖霊はして下さるというのです。また本日のような、聖餐にあずかる礼拝において私たちがいつも告白している、教会の基本的信条の一つであるニカイア信条にはこうあります。「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました」。ここには、聖霊が私たちの主であり、命を与えて下さる方であること、そしてその聖霊が、預言者を通して、つまり神様のみ言葉を伝える人々を通して、具体的には聖書を通して、私たちに語りかけてきたことが示されています。そしてこのニカイア信条の言葉を受け継いで、1890年(明治23年)に、日本の教会で初めて制定された信仰告白、日本基督教団信仰告白の土台ともなっている「日本基督教会信仰の告白」には、「父と子とともに崇められ、礼拝せらるる聖霊は、我らが魂にイエス・キリストを顕示す」とあります。つまり、聖霊は、私たちの心に、主イエス・キリストを顕わし、示して下さるのです。これらのことが、聖霊のお働きです。まとめてみるならば、聖霊は、私たちの主であり、命を与えて下さる方である、その命は、主イエス・キリストを顕わにし、示して下さることによって、つまり主イエスを信じる信仰を与えて下さることによって与えられる、そしてその信仰において私たちがよい実を結ぶことができるようにして下さる、これが聖霊のお働きであって、この聖霊のお働きを受けるところに教会は誕生するのです。ペンテコステの出来事において弟子たちに起ったのもそのことでした。彼らは、聖霊によって、主イエス・キリストのことをはっきりと示されたのです。つまり、主イエスこそ、神様の独り子であり、私たちのために遣わされた救い主であり、主イエスの十字架の死と復活によって、神様の救いのみ業が実現した、即ち神様が私たちの全ての罪を赦して下さり、その恵みを受けて生きる新しい命を与えて下さった、ということをはっきりと信じる信仰を与えられたのです。この信仰を聖霊によって与えられたがゆえに、彼らは力を受けて、主イエス・キリストを宣べ伝え始めることができたのです。伝道を始めることができたのです。それが、ペンテコステ、聖霊降臨の出来事でした。このように、弟子たちは、聖霊によって、主イエス・キリストとその救いのことが本当にわかり、信じる者とされたのです。主イエスとは何者であるか、を明らかに示されたのです。

光り輝く主イエス
 ペンテコステの出来事において弟子たち一同に示されたこのことが、前もって、何人かの弟子たちにのみ明らかにされた、それが、本日与えられている箇所、マタイ福音書第17章1節以下です。ここには、主イエスが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子のみを連れて高い山に登られ、そこで、主イエスのお姿が光り輝くお姿に変わったのを弟子たちが見た、ということが語られています。これは要するに、主イエスの神の子としての栄光のお姿を彼らが見たということです。そしてそこには、モーセとエリヤが現れました。どちらも、旧約聖書を代表する人物です。モーセはあの出エジプトの指導者であり、イスラエルの民に神様の律法を伝えた人です。エリヤは預言者の代表です。旧約聖書に語られている、神様のイスラエルの民への救いの歴史の全体が、この二人の中に凝縮していると言ってもよいでしょう。その二人が現れて、栄光の姿の主イエスと語り合ったのです。それは、旧約聖書における神様の救いの歴史が、主イエスに引き継がれるということを示しています。主イエスこそ、神様が約束して下さり、預言者たちが語ってきた救い主である、ということがこのようにして示されているのです。そしてそこには神様のみ声が響きます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」というみ声です。父なる神様ご自身が、この主イエスこそ私の子だ、と宣言され、そして主イエスこそ、神様のみ心を行う者、み心に適った仕方で救いの歴史を完成に至らせる者だと語られたのです。三人の弟子たちは主イエスの光り輝く栄光のお姿を見、神様のこの宣言を聞いたのです。それは弟子たち一同がペンテコステにおいて聖霊の働きによって示されたことの先取りです。神の子であり救い主であられる主イエスの栄光を彼らはここではっきりと目撃させられたのです。

受難と栄光
 何故、今この時点でこのことが彼らに示されたのでしょうか。それを知るためには、これまで私たちが読んできた第16章を振り返って見なければなりません。16章には、ペトロが、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに答えて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表したことが語られています。主イエスこそ神の子、救い主であられるという信仰をペトロたちは与えられたのです。すると主イエスはそのときから、ご自分がエルサレムに行って多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することを語り始められました。受難の予告が開始されたのです。主イエスが神の子であり、救い主であられることは、多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、復活するということを通して実現するのだということが示され始めたのです。しかしペトロはそれを理解することができず、主イエスに、「そんなことはとんでもない、あり得ないことです」と言って諌めました。それに対して主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しくお叱りになり、そして「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われたのです。主イエスの受難をあり得ないこととして否定したペトロは、主イエスに神の子、救い主としての栄光のみを期待しているのです。そしてその主イエスに従う弟子である自分も力と栄光の道を歩みたいと思っているのです。しかし主イエスは、ご自分がこれから歩む道は十字架の苦しみと死への道であり、従って弟子たち、信仰者の歩みも、十字架を背負う苦しみの歩みになる、そのことをわきまえて従って来い、と言われたのです。本日の17章の、主イエスの栄光のお姿が示された話はそのすぐ後に続いています。このことによって、受難を予告し、十字架の苦しみと死へ向って歩み始めておられる主イエスが、その隠された本質においては神の子としての栄光に光り輝く方なのだということが明らかにされているのです。主イエスは、十字架の苦しみと死を通して、復活の勝利と栄光に至る方です。16章27節には、「人の子(つまり主イエス)は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来る」とありましたが、その父の栄光に輝く姿がここにひと時示されたのです。それゆえに、自分の十字架を背負って主イエスに従う信仰者の歩みは、16章25節に、「わたしのために命を失う者はそれを得る」とあるように、本当の意味で命を得ることに至る歩み、光り輝く主イエスの栄光にあずかる希望への歩みなのです。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネ
 しかしこの光り輝くお姿を見ることができたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちだけでした。何故この三人だけなのか。それはおそらく、26章36節以下と関係があるでしょう。それは主イエスが捕らえられ、十字架につけられる直前に、ゲッセマネという所で深い嘆き悲しみの内に祈られたという箇所です。その主イエスの悲しみの祈りに伴われたのが、ペトロとゼベダイの子二人、つまりヤコブとヨハネなのです。つまりこの三人は、主イエスの最も深い苦しみのお姿の目撃者となるのです。彼らが今、主イエスの栄光のお姿の目撃者とされているのは、このことのための準備であると言うことができるでしょう。彼らは、栄光に光り輝く神の子としてのお姿を見たあの主イエスが、十字架の死を前にして苦しみ悶えるお姿を見るのです。逆に言えば、今十字架の死を目前に苦しみ悶えている主イエスは、あの栄光に光り輝くのを見た神の子なのだ、ということを示されるのです。この両方のことが一つであることを見つめるときにこそ、栄光に輝く神の子が、私たちのために十字架の死に至るまで徹底的に低くなって下さった、という主イエス・キリストの本当の恵みがわかるのです。

わたしたちの「山の上」
 彼らは、主イエス・キリストの神の子としての栄光をかいま見るひとときを与えられました。それは後に、聖霊が降ることによって全ての弟子たち、信仰者たちにも示されていった栄光です。教会はこの聖霊のお働きによって誕生し、今も歩んでいるのです。つまり私たちも、聖霊の働きによって、この三人の弟子たちが体験したのと同じことを体験し、目撃するのです。どこにおいてか。それはこの礼拝においてです。礼拝において、聖霊なる神が私たちに働いて下さり、私たちの心に、主イエス・キリストを顕示して下さるのです。主イエスこそ神の独り子、救い主であられる、その栄光を悟らせて下さるのです。そしてその主イエス・キリストが、私たちのために、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったこと、私たちのために肉を裂き、血を流して下さったことを聖霊が示して下さるのです。本日共にあずかる聖餐はそのことを私たちが味わい知るために主イエスが定めて下さったものです。礼拝においてみ言葉が語られ、聖餐が執り行われる、そこに、聖霊が働いて下さり、私たちに、主イエス・キリストのことを本当に分からせて下さり、その栄光のお姿に触れさせて下さるのです。つまり、ペトロたちが主イエスの光り輝くお姿をかいま見ることを許されたあの山の上とは、私たちにとってはこの礼拝の場なのです。ペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と言いました。それがそのまま、礼拝に集う私たちの思いです。礼拝に集い、主イエス・キリストの本当のお姿、その栄光に触れることができるのはなんとすばらしいことでしょうか。私たちは毎週、この主イエスの栄光のお姿をかいま見る恵みを聖霊によって与えられているのです。

洗礼、按手
 本日はこの後、一人の兄弟が洗礼を受け、一人の幼子が幼児洗礼を受けようとしています。洗礼を受けるとは、教会の群れに加えられることです。そしてその教会は、聖霊のお働きによって誕生し、聖霊に支えられ、導かれて歩んでいる群れです。洗礼を受けることによって、私たちはこの聖霊のお働きの下に生きる者となるのです。それは、ペトロたちがあの山の上で体験し、ペンテコステの出来事において弟子たち一同に示されたあの主イエスの栄光のお姿を、毎週の礼拝において示され、また聖餐によってそれを体験しつつ生きる者となることです。
 またこの礼拝において、新たに選ばれた長老、執事の按手が行われます。長老、執事の任務は、聖霊のお働きによって設立され、導かれている教会を、そのようなものとして守り、整えていくことです。教会は、人間の知恵や工夫や策略によって維持されたり、支えられるものではありません。聖霊なる神様がしっかりと働いて下さることによってのみ、教会は教会として歩むことができるし、守られ導かれていくのです。牧師も含めて、長老、執事として立てられている者は、この聖霊のお働きがきちんと教会に行き渡るように、あるいはそれが妨げられないように、群れを整える使命を与えられているのです。あの山の上で、主イエスの栄光のお姿を見、モーセとエリヤがそこに現れたのを見たペトロは、「ここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。小屋を建てて、主イエスとモーセとエリヤにそこに留まってもらおう、主イエスの栄光のお姿がいつまでも残るようにしよう、と彼は思ったのでしょう。けれどもこの思いは神様によって受け入れられませんでした。主イエスの栄光は、小屋を建ててそこに留めておけるようなものではないのです。ペトロは神様が示して下さった主イエスの栄光を、余りにも人間的に受け止め、人間の工夫によってそれを維持しようとしたのです。私たちも、特に教会の役員、長老や執事として立てられている者は、これと同じ間違いに陥ってしまうことがあります。聖霊の働きによってこそ支えられ、導かれていく教会を、人間の知恵や工夫のみによって維持し、守っていこうとしてしまうのです。そのような過ちに陥らないように、私たちはよく気をつけなければなりません。神様はペトロに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われました。「これに聞け」という言葉が大事です。神様が、聖霊の働きによって興し、支え、導いて下さる教会を正しく整えていくためには何を第一にしなければならないかがここに教えられているのです。み子主イエスのみ言葉を聞く、それこそが、教会に連なる私たちに、そして特にその長老、執事として立てられている者に求められていることです。このことによってこそ、聖霊のお働きが教会に行き渡るのです。あるいはそれが人間の思いや世間の常識によって妨げられてしまうことを防ぐことができるのです。主イエスに聞くことを第一の課題として努めていくことによって、私たちは聖霊のお働きを豊かに受け、主イエスの栄光とその十字架の死による救いの恵みを本当に分かり、信じる群れとなることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年5月19日]

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