富山鹿島町教会

礼拝説教

「誰が一番偉いか」
詩編 第8編1〜10節
マタイによる福音書 第18章1〜9節

教会についての教え
 礼拝においてマタイによる福音書を読み進めてまいりまして、本日より第18章に入ります。この18章は、いろいろな意味でとても大事な章です。ほかのところが大事でない、というわけではありませんが、私たちが特に心をこめて学ばなければならないみ言葉がここには語られていると言うことができるのです。それは一つには、本年度私たちが教会の主題聖句としているみ言葉がこの18章に出て来るということです。20節の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」、これが私たちの教会の本年度の主題聖句です。この、よく知られているみ言葉がどのような文脈で語られ、どのような意味を持っているのか、それをこれから読んでいくわけです。「二人または三人がわたしの名によって集まる」、それは教会を指しています。その中に主イエスが共にいて下さるというのは、教会に共にいて下さるということです。そのように、このみ言葉は教会を見つめて語られています。そしてそれは実はこの18章全体がそうなのです。マタイ福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは実は二箇所だけです。そのうちの一つがこの18章の17節です。今はまだ、そこで語られていることの内容には踏み込みませんが、そのこと一つからも、ここでは教会が見つめられていることがわかります。ちなみに、もう一箇所はどこかというと、既に読んだ16章18節です。フィリポ・カイサリアにおける、ペトロの、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白を受けて、主イエスが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたのです。ペトロが、弟子たちを代表して語った主イエスへの信仰の告白、その岩を土台として、主イエス・キリストを信じる者の群れである教会が建て上げられていく、その教会とはどのような群れであるのか、そこでの兄弟姉妹の交わりはどのようなものであるべきなのか、それが、この18章において語られているのです。

誰が一番偉いか
 さて、その18章は、弟子たちが主イエスのところに来てした一つの質問から始まります。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という質問です。「天の国」というのは、この地上とは別のどこかにある国ではありません。この言葉の意味は、「神様のご支配」ということです。主イエスは、その天の国が近づいた、神様のご支配がいよいよ実現しようとしている、と宣べ伝えられたのです。それは主イエスのメシア、救い主としてのお働きにおいてです。主イエス・キリストのもとで、神様のご支配、天の国がもう始まっているのです。ですから、この弟子たちの問いは、遠い将来天の国が実現したら、ということではないし、ましてや、人間が死んだ後行く天国では、ということではありません。今もう主イエスのもとで実現しつつある天の国では、誰が一番偉いのか、ということです。つまりそれは、自分たちの現在の問題なのです。マルコ福音書とルカ福音書におけるこの箇所は、弟子たちの間で、自分たちの中で誰が一番偉いかという議論、というよりも言い争いが起った、それに対して主イエスが教えていかれた、という話になっています。起っているのは要するにそういうことです。「我々の中で誰が一番偉いのか」「俺だ」「いや俺だ」「それじゃあイエス様に聞いてみよう」ということなのです。 教会について語られていく、その部分がこのように始められていることには、複雑な思いがします。もう少しよい始め方はないものか、とも思うのです。しかしまさにこれが、教会の、私たちの、現実なのではないか、とも思わされるのです。私たちの中にも、「誰が偉いか」「どちらが上か、下か」という思いはいつもつきまとっています。そういうことを口に出すことはなくても、心の中ではいつもそのように、人と自分とを「どちらが偉いか、どちらが上か」と量っている私たちです。教会の兄弟姉妹の間でも、それは例外ではありません。いやむしろ弟子たちがわざわざ、「天の国で」一番偉いのは誰かと問うたように、教会においてこそ、その問いが深刻になる、ということがあります。世間ではどうであれ、教会では自分が一番偉い、立派だ、上だ、と思いたい、という気持ちが私たちの中には働くのです。そういう思いは教会どうしの間でも起こってきます。本日は、お隣の二番町教会の献堂式が行われます。先日私は新しい会堂を見せてもらいに行きました。その時そこにおられた二番町教会のある方が、「先生私たちは今まで鹿島町教会の会堂がうらやましいといつも思ってきましたが、これでそういう思いがなくなりました」と言われました。実際今日行ってみられたらわかりますが、とても雰囲気のよい、すばらしい会堂、礼拝堂になっています。今度は私たちが「うらやましい」と思う番かもしれません。そういう思いというのは、「どちらが偉いか」というのとは少し違いますが、お互いを見比べてどちらが上か下か、という点では同じです。教会においても、私たちはそういう思いからなかなか自由になれない、それが私たちの現実なのです。

子供を呼び寄せて
 この弟子たちの問いに答えるために、主イエスは、一人の子供を呼び寄せられました。その子を中に立たせてこう言われたのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。「心を入れ替えて子供のようになれ。この子供のようになる人こそ、天の国で一番偉いのだ」と主イエスは言われたのです。ところが、マルコ福音書、ルカ福音書、どちらも9章にある並行箇所を読んでみますと、この主イエスのお言葉は記されていません。例えばマルコでは、主イエスが子供を真ん中に立たせて言われたのは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」ということです。それは、マタイでは次の5節に語られていることです。つまり、3、4節の言葉は、マタイのみに出て来るのであって、マルコとルカにはないのです。「子供」についての教えは、こことは別にマタイでは19章13節以下にあります。人々が子供を主イエスのもとに連れて来たのを弟子たちが叱った、それに対して主イエスが、「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。この箇所のマルコにおける並行箇所には、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉があります。ルカにおいても同じです。つまり本日の3、4節の、「子供のようにならなければ」という教えは、もともとはこちらの、子供たちを主イエスのもとに連れて来るのを妨げてはならない、という話の中にあったのだと思われるのです。マタイはそれを、本日の、「誰が一番偉いのか」という問いへの答えの方に移動させたのです。そのために、マタイにおけるここでの主イエスの教えは、他の福音書とはかなり違ったものとなっています。要するにマタイにおいてはここで二つの教えが並べられているのです。一つは「子供のようになりなさい」ということ、もう一つは「一人の子供を受け入れなさい」ということです。この二つの教えを結び合わせて弟子たちの問いへの答えとしているところに、マタイの著しい特徴があるのです。というわけで、本日私たちは、主イエスのこの二つの教え、「子供のようになりなさい」と「子供を受け入れなさい」を合わせて考えていくことになります。この二つは、共に「子供」について語られてはいますが、教えの内容は全く違うと言わなければならないでしょう。子供のように「なる」のと、子供を「受け入れる」のとは、一見全く別のことなのです。にもかかわらず、この二つが一つに結び合わされている、そこに、この18章における主イエスの教えを理解する鍵があるのです。

子供のようになるとは
 まずは第一の、「心を入れ替えて子供のようになる」ということです。それはどういうことでしょうか。「子供のようにならなければ天の国に入ることはできない」という言葉を読む時に、私たちがすぐに思うのは、子供のような純真な、無邪気な、まっすぐな、清い心を回復しなければならない、ということです。自分も子供の頃はそういう純粋さがあった、次第に大人になるにつれて、それが失われて、この世の汚れに染まっていってしまった、もう一度、子供の頃の純粋さを取り戻さなければと思う、主イエスもそのことを求めておられるのだ、と思うのです。しかし主イエスが求めておられる「子供のようになる」とはそういうことでしょうか。4節には、「自分を低くして、この子供のようになる」とあります。子供のようになることは、純真な清い心になるというよりも、自分を低くすることだと言われているのです。そうするとそれは、謙遜になるということでしょうか。「誰が一番偉いか」というふうに、偉くなろう、上になろうとすることをやめて、むしろ自分を低くする、謙遜になる、それこそ主イエスの求めておられることなのかもしれません。けれどもそこには一つの疑問があります。それは、子供というのは謙遜なものだろうか、ということです。大人と比べて子供が謙遜だ、などということはないでしょう。むしろ子供は大人よりも直裁に、偉くなりたい、自分の方が偉い、ということを主張するものです。「誰が一番偉いか」という言い争いは、子供たちの間でこそよくあることです。弟子たちはそういう意味では、まことに子供じみたことをしていたのです。「あいつはまだ子供だ」という言い方があります。それは褒め言葉ではなくて、その人の未熟さ、物事を的確に判断したり、周囲に心を配ったりすることができないことを批判しているのです。子供というのはそのように、模範や目標になり得ないまさに未熟な者でもあるのです。主イエスはどういう意味で、「子供のようになれ」と言われたのでしょうか。それはそう簡単なことではないのです。ここでは、そのことを宿題としておきたいと思います。というのは、この18章の全体を読んでいくことによって、その答えが見えてくると思うからです。「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、その問いを温めながら、この18章を読んでいきたいのです。

子供を受け入れるとは
 そこで次に第二のこと、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」という教えに移りたいと思います。「一人の子供を受け入れる」ことを主イエスは求めておられます。こちらの方が、先ほどの「子供のようになる」よりもわかりやすいのではないでしょうか。子供は、先ほど申しましたように、未熟な者です。大人のように周囲への気配りができず、わがまま勝手に振舞うことが多いのです。自分のことしか考えられない、というのも子供の特徴です。そういう子供を「受け入れる」ことを主イエスは求めておられる。そこに、主イエスがここで教えておられる教会のあり方の一つのポイントがあるのです。教会は子供を受け入れる、それは、子供は純真で素直だからではありません。そういうことなら、「受け入れる」という言葉は使わないでしょう。受け入れるとは、受け入れにくい、ともすれば排除されてしまう、そういう者を受け入れることです。子供は、無邪気でかわいいだけではありません。時としてわがままであり、傍若無人に振る舞い、大人に迷惑をかけたりするのです。しかしそういう子供を、「わたしの名のゆえに受け入れる」ことを主イエスは求めておられます。それが即ち、主イエスを受け入れることなのだと言っておられるのです。そしてこのことは、年齢的な意味での子供だけの話ではないでしょう。「あいつはまだ子供だ」というのは、子供に対して言われる言葉ではありません。年齢的にはもう大人だけれども、ちゃんと成熟していない、適切な判断ができず、周囲に気配りができない、そういう人のことを言うのです。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる」ことには、そのような人のことも含まれていると考えるべきです。それもまた、ともすれば排除してしまいがちな、受け入れにくい人を受け入れるということなのです。

つまずかせることへの警告
 このように、「一人の子供を受け入れなさい」という教えは、かなり広い意味の広がりを持っているのです。その広がりが語られているのが、次の6節以下です。6節にこうあります。「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。これは、「わたしを信じる者の一人」をつまずかせることへの警告です。「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れていってしまうこと、信仰を失い、信仰者の群れである教会から離れていってしまうことです。「つまずかせる」とは、そういうことをもたらすこと、その原因を作ってしまうこと、人の信仰の妨げとなってしまうことです。そのように、人を信仰から引き離す原因を作ってしまうことの災いが語られています。このことは、「一人の子供を受け入れる」こととは何の関係もないように思えますが、実はそうではありません。「これらの小さな者の一人」という言葉は、5節の「一人の子供」を言い換えているのです。新共同訳では5節と6節の間に小見出しがあり、そこで話が切れているように思えてしまいますが、もともとはそこに区切りはありません。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は…」と続いているのです。つまり、「一人の子供を受け入れる」ことと、「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ことは、相対立する反対のことなのです。一人の子供を受け入れることの反対が、小さな者の一人をつまずかせることです。小さな者の一人をつまずかせることの反対が、一人の子供を受け入れることなのです。このことによって主イエスは、人をつまずかせることは、その人を受け入れないことによって起るのだ、と言っておられるのです。
 私たちは、教会の一員として、仲間の信仰者をつまずかせてはならない、と思います。あるいは、信仰者である自分の言動が、家族や友人などまだ信仰を持っていない人々へのつまずきになってはいけない、とも考えます。しかしそのつまずきが何によってもたらされるのかをわかっているでしょうか。それは私たちの信仰における言動が至らなかったり、不十分だったりすることではないのです。私たちがその人を受け入れていない、そのことこそが、つまずきをもたらすのです。このことを私たちは、このみ言葉からしっかりと聞き取り、自らを省みていかなければならないでしょう。一人の子供を受け入れようとしない思い、未熟な、物事の道理をわきまえない、人に迷惑をかけていくような一人の小さな者を受け入れようとしない思い、それが、人をつまずかせ、信仰を失わせ、教会の交わりから排除していくことを生むのです。主イエスは、「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」と言われました。また「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」と言われました。人をつまずかせてしまう者の災い、不幸がこのように強調されています。それは言い換えれば、一人の子供を受け入れない者の災いであり不幸なのです。

受け入れられている
 このように、相手を受け入れないということがその人につまずきをもたらすとするならば、逆に相手を受け入れることこそが、その人を信仰に導くことだと言えます。受け入れられる、ということを通して、信仰は生まれ育つのです。それは人を信仰へと導くためのテクニックではありません。聖書の教える信仰の本質と関わることです。私たちの信仰の本質は、受け入れられることなのです。誰が受け入れてくれるのでしょうか。それは主イエス・キリストの父なる神様です。神様が自分を受け入れて下さっている、それが私たちの信仰です。人を信仰に導くとは、その人が神様に受け入れられていることを知らせることです。そのために最もよい道は、私たちがその人を受け入れることなのです。それによってその人は、「受け入れられている」という思いを持つ、そこから、神様が受け入れて下さっていることに目が開かれていくのです。逆に私たちがその人を受け入れていなければ、その人は神様に受け入れられていることがわからずに、つまずいてしまいます。つまずくというのは、自分が神様に受け入れられていることがわからなくなることなのです。
 主イエスは、人をつまずかせることへの警告と同時に、8節以下では、自分の片手片足あるいは片目が自分をつまずかせるなら、それを切って捨てなさいと言っておられます。つまずきは、人をつまずかせる、人につまずかされるというだけではなくて、自分の中にその原因があり、自分でつまずいてしまう、ということがあるのです。このことも、今申したことと関連があります。つまずくとは、神様が自分を受け入れて下さっていることがわからなくなることです。それがわからなくなる原因は自分自身の中にもあるのです。自分で、自分のような者は神様が受け入れてくれるはずはない、と思ってしまうのです。受け入れてくれる、それは言い換えれば、愛してくれるということであり、赦してくれる、ということです。自分は神様に受け入れられ、愛され、赦されている、それが私たちの信仰です。そのことから目をそらさせ、神様は自分を受け入れていない、愛していない、赦していない、と思ってしまうこと、それがつまずきです。そういうつまずきを私たちに与えるものを、切って捨てよと主イエスは言われるのです。それは、私たちの手や足や目が何か罪を犯しそうになったら、それを切り捨てよということではありません。そういうことだったら、私たちは手が何本あっても、足が何本あっても、目がいくつあっても足りないことになるでしょう。そうではなくてこれは、神様が自分を受け入れて下さっているということに疑いを抱かせ、その信仰から自分を引き離そうとするものがあるなら、たとえそれが自分にとってかけがえのない大切なものであったとしても、勇気をもってそれを捨てよということなのです。

再び、子供のようになるとは
 神様が、弱い、ちっぽけな、何のとりえもない自分を受け入れて下さっている、それゆえに私たちも、一人の小さな者を受け入れていく、それがここに教えられている信仰のあり方です。そこにおいて最も肝心な、土台となるのは、神様が私を受け入れて下さっているということです。そのことはどうしてわかるのでしょうか。実はそのことこそ、あの第一の教え、「心を入れ替えて子供のようになる」ということと関係があるのです。子供のようになるとはどういうことか、それは宿題にしておくと申しました。18章全体を読むことによってそれが分かってくるとも申しました。しかし今ここでその答えをある程度明らかにしなければなりません。子供のようになるとは、子供のように純真な者になることでも、子供のように謙遜になることでもありません。子供というのは、親に受け入れられている者です。愛されている者です。それは子供がどんな立派なことをしたからとか、どれだけ純真だからとか、謙遜だからというものではありません。子供は子供だから、親に愛され、受け入れられているのです。罪人である人間の親子関係は必ずしもそのようにならない場合もあります。しかし天の父なる神様は、その独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架と死とによって私たちの罪を赦し、私たちを子として愛し、受け入れて下さったのです。「子供のようになる」とは、この神様の父としての愛のもとに自分があることを信じて、子供が親の愛を疑わずに甘えていくように、父なる神様によりすがっていくことです。そのようにして神様の子供となること、正確に言えば、神様が子供として下さったことを信じることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、天の国、神様のご支配の下に生きる者となるのです。そしてそのように神様が受け入れて下さった者として、今度は私たちが、一人の子供を、これらの小さな者の一人を受け入れていく。「子供のようになる」ことと「子供を受け入れる」ことは、そのように結び合っており、それが私たちの信仰と、教会のあり方の根幹をなしているのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年7月14日]

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