富山鹿島町教会

礼拝説教

「アブサロムの死」
サムエル記下 第18章1〜19章9節
ローマの信徒への手紙 第8章31〜39節

アブサロムの最期
 月の第四の主の日には、旧約聖書、サムエル記下からみ言葉に聞いています。その15章以下には、ダビデ王の息子アブサロムが、父の王位を奪い取ろうとして反乱を起したことが語られています。この反乱によってダビデは一時エルサレムから脱出し、ヨルダン川の東のマハナイムという所に逃れなければなりませんでした。しかし結局は、ダビデの軍勢がアブサロムの軍勢を打ち破り、アブサロムも殺されて、反乱は失敗に終わるのです。前回、6月の第四主日には、アブサロムの企てが結局失敗に終わっていく、その原因となったことについて、17章を中心としてお話ししました。そこには、人間の様々な計略や思いがうず巻きつつ事が流れていくけれども、それらの全てを通して、結局神様のみ心が実現していく、ということが示されていたのです。本日は、第18章と19章の始めの長いところを読んでいただきました。いよいよダビデ軍とアブサロム軍が戦い、アブサロムが死ぬ、その場面です。
 18章の始めのところには、ダビデが自分のもとにある軍勢を三つの部隊に分け、それぞれをヨアブ、アビシャイ、イタイの指揮下に置いたことが語られています。この三人の将軍たちのもとで、戦いがなされていくわけですが、ダビデ自身も最高司令官として出陣しようとしたが、兵士たちに止められてマハナイムに留まることになりました。兵士たちが言ったのは、ダビデ王の身に何かあったら大変だ、ということです。アブサロム側の狙いはダビデ一人の命なのです。それは先月読んだ17章でアヒトフェルという人がアブサロムに提案したことにも語られていました。ダビデさえいなくなれば、その下にいる軍勢は自然にアブサロムのもとに帰順するようになるのです。逆にダビデの軍勢をどれだけ打ち破っても、ダビデが健在である限り、アブサロム側は安心できない、完全に勝利したとは言えないのです。3節に、「我々が逃げ出したとしても彼らは気にも留めないでしょうし、我々の半数が戦死しても気にも留めないでしょう。しかしあなたは我々の一万人にも等しい方です」とあるのはそういうことです。これは、ダビデの命と兵士たちの命とを比べて、兵士たちの命を軽く見ているということではなくて、敵に与える脅威の違いを言っているのです。

ダビデの迷い
 しかし、このようにダビデが出陣せず、後方に留まることになったことには、別の、隠された理由もあったのではないかとも思われます。そのことは、5節でダビデが三人の将軍たちに与えている命令と関係します。ダビデは、戦いのために軍を派遣するに際して、全軍の前で、「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」と命令したのです。このような命令を受けて戦いに臨まなければならない指揮官や兵士たちは、まことにやりにくかっただろうと思います。当時の戦いというのは、基本的には白兵戦であり、敵の総大将の首を取ることが目的です。そのことを目指して、全軍が戦っていこうとしているのに、その敵の総大将であるアブサロムを手荒に扱うなと言われてしまったら、兵士たちはどうしたらよいかわかりません。戦う気も失せるというものです。つまりダビデの軍勢はこの時、まことにやりにくい戦いをしなければならなかったのです。その責任はダビデにあります。ダビデの命令が、戦いに臨む最高指揮官として全く相応しくない、不適切な命令だったのです。敵は自分の息子だという特殊事情がありますから、無理からぬところもあるわけですが、しかし戦いに臨む指揮官は、自分の下にいる兵士たちの命を、文字通り預かっているのです。その指揮官の戦いに向う思いが中途半端であったり、迷いがあったりしたら、兵士たちは力を発揮できないし、逆に命が危険にさらされてしまうのです。戦いの勝敗を決するのは、兵士一人一人の強さよりも、指揮官の断固たる固い決意と、めりはりのきいた指示、命令なのです。ダビデの将軍たち、中でもその筆頭であったヨアブは、そのことをよく知っていました。従って彼は、今回のこの戦が、決して楽観できない、かなり危機的な状況であると考えていたのです。兵が弱いからではなく、指揮官の決意に揺れがあるからです。そのような指揮官に、戦場で、どっちつかずのはっきりしない命令を出されたら、全軍は混乱し、負けてしまいます。だから、これは聖書に書かれているわけではない、推測ですけれども、ヨアブあたりが手を回して、先ほどのような理由をつけて、ダビデが後方に留まっているように仕向けたのではないでしょうか。息子アブサロムと雌雄を決するこの戦いには、父ダビデを陣頭に立たせるべきではないという判断がそこに働いているように思えるのです。

密林の餌食
 このようにダビデを後方に残し、ヨアブらの指揮下に戦われたこのアブサロム軍との戦いは、ダビデ側の大勝利でした。戦いはエフライムの森で起ったとあります。アブサロム側は二万人が戦死したのです。8節に、「その日密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった」とあります。「密林の餌食になる」とはどういうことかと思うのですが、森の中での戦いというのは、平原での戦いとは全く様相が違うことは想像に難くありません。平原では、敵の姿も味方の姿も全て見渡せるわけですが、森の中ではそうはいかない。敵がすぐそばに隠れていてもわからないし、すぐ側の木や草が揺れて誰かがいることはわかっても、それが敵なのか味方なのかわからない、それを確かめているうちに、もしも敵だったら先にやられてしまうということが起るのです。つまり姿の見えない敵にいつも怯えていなければならないのが森の中の戦いです。そのような状況の中で、アブサロムの軍勢は、互いに同士討ちをしたり、パニックになったところを狙い打たれたりした、それが「密林の餌食になった」ということではないかと思います。そして、誰よりも総大将のアブサロム自身が、まことに不思議な仕方で、森の餌食になってしまったのです。9節「アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はらばに乗っていたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、彼は天と地の間に宙づりになった。乗っていたらばはそのまま走り過ぎてしまった」。らばに乗っていたアブサロムの頭が、樫の木の枝にひっかかって、宙づりになってしまったのです。これはどういう状態だったのかと不思議に思いますが、アブサロムの髪の毛が枝にからまったということのようです。アブサロムは、まことに豊かな髪の毛を持った人物であったことが、14章26節に語られていました。一年で髪が重くなりすぎるので毎年の終わりに散発をすると、刈った髪の重さが二百シェケルになったというのです。二百シェケルとは2キロ余りです。そういうまことにふさふさとした豊かな彼の髪の毛が、この時には藪の中で枝にからまり、取れなくなってしまったのです。人もうらやむ豊かな髪の毛が彼の命取りになってしまった。これは別に頭の薄い者のひがみではありません。注解書にちゃんとそういうふうに書いてあるのです。そしてこれは象徴的なことでもあります。彼の美しさ、長所、すぐれた点だったことが、結果的には命取りに、致命的な点になってしまったのです。髪の毛のことばかりではありません。アブサロムという人は、実行力もあり、計画性もあり、人をひきつけるものがある、とても優れた、魅力的な人物でした。そういう彼の長所が、結果としては、父ダビデへの反乱とその結果としての滅亡を生んでいってしまったのです。彼は自分の長所を生かすことができず、結局その長所のゆえに滅んでいったのです。それは彼が自分の長所、賜物を、神様のみ心の下で生かし、用いることができなかったからだと言わなければならないでしょう。どんなに優れた賜物や力を持っていても、それを神様のみ心に適う仕方で、祝福の内に用いていかなければ、自分の野心や利己的な思いの実現のためにのみそれを用いていくなら、決してよい実りは得られないし、かえってその長所、賜物があだとなってしまうようなことになるのです。
 さて、アブサロムが宙吊りになっている、という知らせがヨアブのもとに届きます。ヨアブはそれを知らせた兵士に、「そんな絶好の機会を得たのになぜすぐに撃ち殺さなかったのか」と言います。すると兵士は、出陣の時にダビデが語ったあの命令を持ち出して、「王子を手にかけて殺すことはできません」と言ったのです。ヨアブが恐れていたのはまさにこのことでした。敵を打ち滅ぼす決定的な好機に、その一撃をためらわせてしまう、そういう結果をダビデのあの命令は生んでしまうのです。ヨアブは、「もうお前には頼まん」と言ってその場にかけつけ、ためらうことなくアブサロムを打ち殺しました。ヨアブは、アブサロムを生かしておくことは、今後の王国の歩みに禍根を残すと冷徹に判断しているのです。ダビデの父としての感情と、国の政治は別だ、ということです。そのために彼は、先ほども申しましたようにこれは推測ですが、ダビデをこの戦場に出さないように工作したのです。

伝令
 戦いの勝利と、アブサロムの死をマハナイムにいるダビデにどう伝えるか、ということが19節以下です。ツァドクの子アヒマアツという人が19節に出てきます。ツァドクはダビデに仕える祭司です。彼はダビデがエルサレムから逃れていった後も、ダビデの頼みでエルサレムに残り、アブサロムの動静をさぐってダビデに伝える働きをしました。その子アヒマアツが伝令としてダビデとの連絡をとっていたのです。そのようにダビデに近く仕えていたアヒマアツは、戦いの勝利を一刻も早くダビデに伝えるために自分が走って行くと言いました。しかしヨアブは「今日、お前が知らせるのはよくない。日を改めて報告するがよい。今日は知らせないでおこう。王の息子が死んだのだ」と言い、別の僕を送ったのです。それでもどうしても自分が行きたいと言うアヒマアツにヨアブはこうも言いました。「子よ、お前はどうしてそんなに走りたいのだ。お前が行って知らせるほどの良い知らせではない」。つまりヨアブは、今日の戦いの勝利と、敵の総大将の死の知らせがダビデにとって決して喜ばしいこととして受けとられないことをよく知っているのです。戦いの勝利という喜ばしい知らせは、王のもとに逸早く伝えられるべきです。若いアヒマアツは単純にそう考えているのです。しかしヨアブは、「これはダビデ王にとってそんなに良い知らせではない」と言っているのです。
 ヨアブを押し切って出発したアヒマアツは、先に送られた僕を追い越して先にダビデのもとに到着しました。そして、「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました」と言って、戦いの勝利を知らせたのです。しかしそれに対するダビデの応答は、彼が期待していたのとは全く違っていました。彼はダビデが喜んでくれると思っていたのです。「よかった、ご苦労だった」と言って、勝利の喜びを分かち合えると思っていたのです。だからこそ、自分が走って行って伝えると言い張ったのです。しかしダビデの反応は、「若者アブサロムは無事か」という一言でした。戦いの勝敗や、味方の軍勢の損害、そういったことはダビデの頭にないのです。ただ、息子アブサロムの安否のみをダビデは気にしています。敵の総大将が無事かどうかしか彼の頭にはないのです。これを聞いて、アヒマアツは、ヨアブが「お前が行くことはない、やめておけ」と言ったことの意味を悟りました。そしてとっさに、アブサロムの安否についてはわかりません、何か騒ぎが起っていたようですが何が起ったのか確かめていません、と言ったのです。そこへもう一人の僕が到着しました。ダビデは彼にも、「若者アブサロムは無事か」と尋ねます。こちらの僕は屈託なく、「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように」と言って、アブサロムの死を告げたのです。

ダビデの嘆き
 この知らせを聞いたダビデ王の姿が、19章に語られていきます。彼は身を震わせながら城門の上の部屋に上り、そこに閉じこもって泣き続けたのです。ダビデの嘆きの声がここに記されています。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」。ここについては以前に石川長老がヘブライ語原文の読みを紹介して下さったことがありますが、日本語で読むと「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ」と長ったらしくなるのですが、原語では、「わたしの息子」は「ベニー」という一言です。「ベニー アブシャローム ベニー」で、「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ」という意味になるのです。ダビデはこの叫びを繰り返して、泣き、嘆き続けたのです。そしてその声が、勝利を得て帰って来た兵士たちにも聞かれたのです。そのために、せっかく勝利を得て、意気揚揚と凱旋してきた兵士たちはすっかり気持ちを挫かれてしまいました。3、4節にこうあります。「その日兵士たちは、王が息子を思って悲しんでいることを知った。すべての兵士にとって、その日の勝利は喪に変わった。その日兵士たちは、戦場を脱走して来たことを恥じる兵士が忍び込むようにして、こっそりと町に入った」。王のために勇敢に戦い、勝利を得た、そのことが、誇らしい喜びどころか、何か悪いことでもしたかのようなことになってしまったのです。

ヨアブの意見
 この様子を見たヨアブがダビデに意見をしに行きます。彼の言葉をもう一度読んでみます。「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。わたしは今日、将軍も兵士もあなたにとっては無に等しいと知らされました。この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう」。「アブサロムの死をそんなに嘆き悲しむということは、今日の戦いで我々全員が戦死し、アブサロムが勝利して生きていた方がよかったということですか。あなたのその嘆きは、今日あなたのために戦った兵士たちの顔に泥を塗るようなものです。だから、兵士たちの前に姿を現し、その労をねぎらい、今日の勝利を共に喜び祝ってください。そうしなければ、家臣たちの心はあなたを離れ去り、二度と戻って来なくなってしまいます」、ヨアブはそのようにダビデを説得したのです。それでようやくダビデは、兵士たちの前に姿を現し、王として、凱旋してきた軍を閲兵しその労をねぎらったのです。

王の責任
 このアブサロムの死とそれを嘆くダビデの話は、ダビデがこの時、王としての立場を忘れて私情に走り、王国も、また自分のもとにいる兵士たちの命も、危険に陥れたことを語っています。息子アブサロムに背かれたことは、あのダビデですらこのようになってしまうような大きな苦しみだったのです。そしてこのことは、一国の王であること、ある群れの指導者であることの持つ重大な責任を教えていると言うこともできます。ダビデは、王であるために、反乱を起した息子アブサロムと戦わなければならなくなったのです。そしてその戦いの指揮官であるからには、勝利のために全力を尽さなければならないのです。そこにおいて、相手が息子だからといって手加減をしたり、優柔不断になってしまうことは、彼に与えられている責任からして許されないことであり、彼に従っている者たちを危険にさらすことなのです。従って、王である彼は、親子の情を断ち切らなければなりません。王としての、政治的軍事的指導において私情をさしはさむことはあってはならないのです。王というのはそのように大変厳しい立場なのです。王としての責任を果たすためには、自分の息子に対する愛をも乗り越えなければならないことがあるのです。それがヨアブの一貫した主張です。そしてそれは正しいのです。ダビデのここでの行動は王として相応しくなかったのです。ヨアブという冷徹な側近がいたために、ダビデの王としてのこのたびの間違いは致命的な事態を生まずに事無きを得たのです。そういう意味で、ダビデにとっても、イスラエルの民にとっても、ヨアブという人の存在はとても大事であり、有難いことだったのです。

子を思う愛
 けれどもそのことをわきまえつつも、私たちはこの話を読む時に、息子への愛のゆえに冷静な判断を失い、王としての立場には相応しくない無責任なことを語ってしまい、敵の大将である息子の安否ばかりを気にかけ、息子が死んだと聞くと何も目に入らなくなってひたすら嘆き、「ベニー、ベニー」(わが子よ、わが子よ)と泣き続けたダビデに、親近感を感じるのではないでしょうか。あの冷徹な、王としての責任のためには息子への情も断ち切るべきだと主張し、周りの人がしりごみしている中で、自らそれを実行していくヨアブよりも、ダビデの方が好きだと思う人の方が多いだろうと思うのです。私たちは、ダビデのあの嘆きの言葉に胸を打たれます。自分に背き、反旗を翻して、自分を殺そうとしたアブサロムです。しかしそのアブサロムとの戦いにおいて、なんとか彼の命を守ろうとし、そして彼が戦いに敗れて殺されたことを聞くと、「わたしがお前に代わって死ねばよかった」と言って嘆き悲しみ続ける、そこに、ダビデの、息子アブサロムへの、理屈を超えた深い愛が現われ出ています。この愛に私たちは心打たれ、共感するのです。親の子を思う愛とはこういうものだ、子供がたとえどんな者であっても、その子供を失うことは、親にとって、自分が代りに死ねばよかったのにと思うようなつらいことなのだ、そのことを本日のこのダビデの姿は印象深く描き出しているのです。

御子をさえ惜しまず
 そしてこのことを見つめていく時に、本日のこのダビデの嘆きは、新約聖書において、神様がその独り子イエス・キリストによって私たちに与えて下さった恵みの深さを示すものでもあることに気づかされるのです。本日は、ローマの信徒への手紙第8章31節以下が共に読まれました。その32節に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。これが、新約聖書が私たちに語り伝えている神様の恵みです。神様は、私たち全ての者のために、その御子を死に渡して下さったのです。神様の独り子イエス・キリストが、十字架にかかって死んで下さったというのはそういうことでした。父なる神様が、ご自分の子を、死へと引き渡された、死なせられたのです。なんのためにそんなことをするのか、それは、私たちのためです。私たちが、本当は死ななければならない罪人なのです。神様に背き、隣人を傷つけ、神様をも人をも本当に愛することができないで、自分中心に生きている、その私たちの罪を主イエス・キリストは引き受けて、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。罪のないみ子イエス・キリストのその死に免じて、私たちは赦されて、新しくされ、神様の子とされて生きることができるのです。罪人である私たちが、神様の子となるために、罪のない神様の独り子イエス・キリストが死んで下さった、それが「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という神様の恵みなのです。私たちは、この恵みの深さ、広さ、大きさをいつも覚えていなければなりません。神様が、その御子イエス・キリストをこの世に遣わし、十字架の死に渡して下さったことがどんなに大きなことだったかを忘れてしまってはならないのです。本日のダビデの嘆きの姿はそのことを私たちに思い起させてくれます。愛する独り子を死に渡すということが、どれほどの苦しみであり嘆きであり、自分が代って死んだ方がましであるようなことだということを、私たちはここから知らされるのです。「その御子をさえ惜しまず死に渡された」とあるけれども、それは神様にとって御子が惜しくなかったということではありません。惜しんで余りある、自分が代って死んだ方がよいと思うような、そういう御子を、神様は私たち罪人のために、与えて下さったのです。それは私たちに対する、これ以上ない大きな愛、恵みです。私たちが神様からいただくいろいろな恵みがあり、また私たちの方でも、神様にいろいろな恵みを期待したり求めたりするわけですが、その恵みの最大のものは、この御子イエス・キリストの命なのです。

嘆きを共に担って下さる神
 それゆえに、31節には、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と言われています。神様は、御子イエス・キリストの命という、これ以上ないすばらしい恵みを私たちに与えて下さった、それほどまでに私たちのことを思い、愛し、私たちのために味方となって下さっているのです。だから私たちは、何も恐れることはないのです。御子の命を与えて下さった方が、私たちに必要な、他の様々な恵みを与えて下さらないはずはないからです。また私たちが、どんなに大きな罪を犯している者であったとしても、御子がその命をもって私たちを贖い、赦して下さっているのですから、私たちは神様の前で義とされるのです。この世の誰も、私たちを神様の前で罪人として断罪することはできないのです。また私たちがこの人生において、どんな苦しみ、悲しみ、悩みに襲われるとしても、それらもまた、御子イエス・キリストの十字架の死において示されている神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。たとえば、自分の子供を失う、子供に限らず、愛する者を失う、そういう苦しみ悲しみの中で私たちは絶望してしまいます。ダビデと同じような嘆きに陥ります。けれども、その嘆き悲しみもまた、神様のみ手の内にあるのです。愛する独り子を死に渡して下さった神様は、私たちのそのような苦しみ悲しみをも、分かち合い、共に担って下さるのです。私たちは、どのような苦しみ悲しみの中にあっても、そこで、私たちのために同じ苦しみ悲しみを、そして死を引き受けて下さった神様と、主イエス・キリストと共に歩むことができるのです。その時私たちは、この世界のなにものも、主イエス・キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできない、という確信の内を生きることができる者となるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年7月28日]

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