富山鹿島町教会

礼拝説教

「後の者は先に、先の者は後に」
イザヤ書 第55章1〜5節
マタイによる福音書 第20章1〜16節

ぶどう園の労働者のたとえ
 本日は、主イエスが語られたひとつのたとえ話をご一緒に読みます。「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれるものです。ぶどう園の主人が、そこで働く労働者を雇い入れる話です。日雇いの仕事で、一日一デナリオンという契約で雇うのです。これが、当時の賃金の相場でした。一日働いて一デナリオンもらう、それで普通の生活が営めるのです。さてこの主人は、夜明けに出かけて行って人々を雇い入れました。人を雇いたい人も、仕事を求めている人も、町の広場に集まるのです。そこで交渉が成立すると、ぶどう園へ行くことになります。夜明けに雇われて日没まで働くことによって一デナリオンもらえるのですから、夜明けの町の広場は職を求める人々で溢れていたでしょう。普通は、その夜明け頃に雇い入れることでその日の分はおしまいです。ところがこの主人は、九時ごろにも広場に出かけるのです。すると、何もしないで広場に立っている人々がいた。それで彼らにも「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って雇い入れました。同じことを、昼の十二時にも、午後の三時にもしたのです。そして夕方の五時にも、彼は広場に行きました。するとまだそこには、何もしないでたむろしている人々がいたのです。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言いました。彼らは朝から一日ここで、雇ってくれる人を求めていたのですが、出会うことができないでいるうちにもう夕方になってしまったのです。主人は彼らにも、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言いました。夕方の五時、もう日没まで一時間ほどしかない時になって、さらに新たに人を雇い入れたのです。いよいよ日没になって、労働者たちに賃金を支払う時になりました。その時主人は、最後に雇われた者たちに最初に、夜明けに最初に雇われた人には最後に、賃金を渡してやるように監督に命じました。それで、五時に雇われた人が先ず来て、一デナリオンをもらいました。その様子を見ていた、最初に雇われた人は、これなら、自分たちにはもっと沢山もらえるだろうと期待しましたが、彼らの番になった時、もらったのはやはり一デナリオンでした。すると彼らは不平を言い始めました。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。主人はそれに対してこう答えたのです。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。

後の者が先に、先の者が後に
 これが、このたとえ話の筋です。今それを語り直しましたが、そんなことをしなくても、聖書の本文を読んだだけで話の内容はすぐに理解できる、わかりやすい話だと思います。しかし問題は、このたとえ話によって主イエスが何を語ろうとしておられるのか、ここにどのような教えが込められているのかです。そのことを考えていくための大切なヒントが、最後の16節にあります。主イエスはこう言ってこのたとえ話をしめくくられたのです。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。この話は、後の者が先になり、先の者が後になるという話だと主イエスご自身が言われたのです。しかしこのことはどうでしょうか。私たちはこのたとえ話を読んで、なるほどこれは後の者が先に、先の者が後になる話だとすぐに納得できるでしょうか。この話の中で、「後の者が先に、先の者が後に」という順序の交換が起っているのは、日没になって賃金をもらう時に、後に雇われた人が先に、先に雇われた人が後にもらった、という所だけです。賃金をもらう順序において、そういう逆転が起っています。しかしそのことにはどれだけの意味があるのだろうか。この話の肝心な点は、賃金をもらう順序ではなくて、最初に雇われた人も最後に雇われた人も同じ一デナリオンをもらったということにあるのではないか。この順序の逆転は、最初に雇われた人を後にすることによって、彼らに、「あの最後に雇われた人が一デナリオンなら、自分たちにはもっと沢山もらえるはずだ」という期待を抱かせるという意味しかないのではないか。それはこの話において、本質的な問題ではなく、話を生き生きと面白くするための文学的手法のようなものではないか。少なくとも私はそんなふうに感じてきました。ですから、以前に、確か伝道礼拝だったかと思いますが、この箇所から説教した時には、16節には全くふれないで説教をしたのです。16節は何か添え物のような思いがその時私の中にはありました。しかし今は違います。この16節が、やはりとても大切なのだということに私自身が気づかされました。本日は、そこから、このたとえ話を読んでいきたいと思うのです。そのために題も、「後の者は先に、先の者は後に」とつけました。
 この言葉がやはりとても大切なのだということに気づかされたきっかけは、19章30節の存在です。本日の箇所の直前、19章の終わりのところに、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という主イエスのお言葉があったのです。このたとえ話を読む時に、この直前の一節は見落しがちです。聖書の章とか節は後からつけられたもので、もともとそういうものがあったわけではありません。これがあるために、開いたり、引用するのに便利なわけですが、逆にこれがあるために大事なことが見落されてしまうことがあります。つまり章が変わると、新しい別の話が始まったように思ってしまって、その前のところとのつながりが意識されなくなってしまうのです。ここなどはそういう例であって、本当はここに区切りを置くべきではないのです。話は続いているのです。「後の者は先になり、先の者は後になる」という主イエスの二回にわたるお言葉に挟まれて、この「ぶどう園の労働者のたとえ」は語られているのです。ですからこの言葉は決して添え物などではなくて、やはりこのたとえ話の本質と関わる大事な言葉なのです。

ただ神の恵みと憐れみによって
 このことはさらに、このたとえ話が、先週読んだ19章の23節以下、あるいはさらには16節以下とのつながりの中で読まれなければならない、ということを教えています。先週のところに語られていたのは、主イエスのもとを悲しみながら去っていった金持ちの青年の話であり、それを受けて主イエスが語られた、「金持ちが天の国に入るのは難しい」というお言葉でした。弟子たちはそれを聞いて驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。決して金持ちではなかった弟子たちがこのように言ったのは、主イエスのこのお言葉が単に財産のある者のことを言っているのではなくて、あの青年がそうであったように、自分の善い行い、正しさという富、そういう自分の豊かさに頼り、それによって永遠の命を獲得し、救われようとするならば、それはらくだが針の穴を通るよりも難しいことだということを語っていることに気づいたからです。自分たちも含めて、みんなが、自分の正しさ、善い行いによって救いを得ようとしている、それがそんなに難しいことなら、誰も救われることなどできないではないか、と彼らは思ったのです。それに対して主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。私たちの救いは、人間にできることではない、人間の力、正しさ、善い行いによって獲得できるものではない、それは神様が、何でもできる全能の力によって与えて下さるものだ、神様の恵みに満ちた全能の力こそが私たちを救うのだ、ということです。つまり言い換えれば、私たちの救いは、私たちの働きに対する報酬、見返りとして得られるものではなくて、私たちはそれに全くふさわしくないのに、ただ神の恵みと憐れみのみ心によって与えられるのだ、ということです。

信仰の報い
 ところがこの主イエスのお言葉に続いて弟子のペトロは、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と言いました。つまり自分たちが主イエスに従ってきた、その信仰の見返り、報酬を求めたのです。主イエスが今言われたことを何も理解していない、なさけない言葉だと言わなければなりません。しかし主イエスはこの求めを退けるのではなく、わたしに従ってきたあなたがたには大きな報いがあると言われました。弟子たちだけでなく、主イエスのみ名のために大切なものを捨てて従った人は、その百倍の報いを受けるのだと約束して下さったのです。そしてそれに続いて、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われたのです。そして本日のたとえ話に入っていく、そういう流れがここにはあるのです。

この最後の者にも
 この「ぶどう園の労働者のたとえ」は、今申しました先週の箇所における主イエスの教えを一つの物語にしたものです。一日の生活を支えるに足りる一デナリオン、それが救いです。永遠の命です。それは、人間の働き、善い行いに対する報酬、見返りとして得られるものではなくて、ただ神様の恵みと憐れみのみ心によって与えられるものです。そのことが、このたとえ話に描き出されています。この主人が、つまり神様が、夜明けにだけでなく、九時にも、十二時にも、三時にも、そして五時になってもなお、人々を雇い入れているのは、仕事にあぶれ、その日の賃金を得ることができない人々に、生きていくのに必要な一デナリオンを与えてやりたいという恵みのみ心からです。働きがなくても、清さ正しさにおいて十分でなくても、そういう人にも、救いを、永遠の命を与えてやりたいという憐れみのみ心から、この主人、つまり神様は何度も何度も人々のところへ行き、招いておられるのです。そのみ心は、不平を言った人々への主人の答えの中にはっきりと語られています。14、15節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。この最後の者にも、夕方の5時に雇われた、働きの点では何もしなかったに等しい者にも、必要な一デナリオンを、救いを与えてやりたい、それが神様の思いなのです。どれだけ働いたかに従って報酬を与える、ということであれば、彼らには夜明けからずっと働いた人の十分の一ぐらいということになるでしょう。計算の上では、それが公平ということかもしれません。しかしそれでは、彼らやその家族は、生活が支えられないのです。やはりひもじいままで夜を明かさなければならなくなるのです。それは要するに、救われないということです。救いには、十分の一の救いなどというものはないのです。救われるか、救われないか、どちらかです。神様は、彼ら最後の者をも救いたいと思っておられるのです。またこの主人は、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」と言っています。彼らに与える一デナリオンは、この主人のものです。救いは神様のものなのです。神様がそれを自由なみ心によって私たちに与えて下さるのです。夜明けから働いた人たちだって、この一デナリオンを自分の権利として主張できるわけではないのです。神様が、彼らに救いを与えようという恵みのみ心によって雇い入れてくれたから、この一デナリオンにありつけたのです。だから彼らも一デナリオンなのです。計算の上では、一時間しか働かなかった人が一デナリオンなら、彼らは十デナリオンぐらいもらってもよいのかもしれません。しかし、十分の一の救いなどというものがないのと同じように、十倍の救いもないのです。救いは一つです。神様の救いは、この世での働きに応じて松竹梅のランクがあるようなものではないのです。人間の業、よい行い、どれだけ神様のために信仰のために働いたか、そういうことにかかわらずに、みんなが同じ救い、同じ永遠の命、同じ天の国を与えられるのです。そこに、人間の力によるのでない、恵みと憐れみに満ちた神様の全能の力による救いの真髄があるのです。

働きの報酬
 しかし同時に主イエスは、信仰には報いがあると言われました。報いなど求めてはいかんとは言われなかったのです。そのことがこのたとえ話にやはり描き出されています。ぶどう園に雇い入れられ、働いて、その賃金をもらう、という設定がそれを示しています。信仰をもって生きるとは、神様のぶどう園に雇われて働くようなものだと言っているのです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。一日につき一デナリオンという雇用契約を結んで働く、それは、一デナリオンという報酬を求めてのことです。それが約束されているから、汗水たらして働くのです。希望をもって働くのです。主イエスに従い、神様を信じて生きるとはそういうことだとこのたとえ話は語っているのです。何の見返りも求めず、無償奉仕をすることが信仰なのではありません。信仰には、報いがあるのです。その報いは勿論お金ではありません。一デナリオンは神様の救いです。永遠の命です。天の国です。一日の生活を支えるお金よりもさらにすばらしいこの報いを求めて、私たちは主イエスに従い、神様を信じて生きるのです。神様のぶどう園の労働者になるのです。

後の者が先に、先の者が後に
 しかしそこで、忘れてはならないことがあります。それは、私たちの救いは、私たちの働き、よい行い、正しさ、どれだけ神様に仕えたか、そういうことへの報酬なのではなくて、根本的に、神様の恵みによって与えられるものなのだ、ということです。そのことを示すために、神様は、「後にいる者を先に、先にいる者を後に」ということをなさるのです。このたとえ話で、賃金が支払われる時に、最後に雇われた者に最初に、最初に雇われた者に最後に支払うように主人が命じたというのは、その意味でとても大事なことなのです。これは決して、話を生き生きと面白くするための文学的手法というだけのことではありません。このように順序が入れ替えられることに大事な意味があるのです。そのことによって、この一デナリオンが、労働の対価としての報酬とは違うものだということが描き出されているのです。働きに応じた報酬であれば、先の者はあくまでも先に、後の者は後に、という順序が守られるべきです。しかし私たちが信仰の報いとして与えられる救いにおいては、そういう順序は成り立たないのです。神様は、「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。私たちはそれを体験する時、不満を抱くことがあります。夜明けから働いた人の不平の言葉はそういう私たちの思いを代弁しています。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」。私たちはこんなに一生懸命やったのに、これでは不公平ではなか、という彼らの思いは、もっともです。よくわかります。私たちも、信仰に熱心であればある程、これと同じ思いを抱くことがあります。しかしその思いというのは、救いを働きへの報いとして得ようとすることであり、あの金持ちの青年が、善い行いをして永遠の命を獲得しようとしたのと同じ思いなのです。しかし神様の救いはそのようにしてではなく、ただ神様の恵みと憐れみのみ心によって、具体的には神様の独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、与えられているのです。神様は、「自分のものを自分のしたいようにするのだ。文句があるか」と言っておられます。そのように言われた神様が、その自由なご意志によってして下さったことが、独り子主イエスを遣わし、その十字架の苦しみと死によって私たちの罪を赦して下さることであり、主イエスを死者の中から復活させて私たちに新しい命、永遠の命への道を開いて下さることだったのです。私たちの救いはこの神様の自由な、恵みと憐れみに満ちたみ心によっています。後の者が先になり、先の者が後になるということに、そのことが表されているのです。

神のぶどう園で働く幸い
 神様のぶどう園で働く者となること、それが私たちの信仰です。神様はその信仰へと、いつも私たちを招いていて下さいます。一日に何度も出かけて行って人々を雇い入れたこの主人のように、神様はいつも、いちばんはっきりとしているのは毎週の礼拝ごとに、私たちを捜しに来て下さっているのです。この招きに応えて、「わたしを雇ってください、神様のぶどう園で働く者になりたいのです」と申し出るならば、神様は私たちを必ず雇い入れて下さいます。私たちがどんな者であってもです。まともな働きは少しもできそうにない者であっても、「おまえは使いものにならないからダメ」と言われる人は一人もいないのです。それは、神様がこのぶどう園をやっておられるのは、ご自分が利益をあげるためではなくて、私たちに一デナリオンの救いを与えて下さるためだからです。同じ理由で、神様のぶどう園には定員はありません。もう手が足りているからいいよ、と断られることはないのです。どんな人でも、いつからでも、働くことを許されるのがこのぶどう園です。このぶどう園で働くことは、決して楽なことではありません。「我々は一日中暑い中を辛抱して働いたんだ」と不平を言っている人がいるように、やはり苦しいこと、つらいこともあります。辛抱しなければならないこと、忍耐を求められることがあります。後の者が先になり、先の者が後になることが起って、「なんだ、割が合わない」と思うようなことだってあるのです。けれどもそれにもかかわらず、このぶどう園で働くことは大きな喜びです。なぜならば、このたとえ話に語られている、このような主人の下に生きることができるからです。私たちの働きや善い行いへの報いとしてではなく、ただ自由な恵みのみ心によって私たちに救いを与えて下さる神様、そのために独り子を十字架につけることさえして下さった神様の下で、その神様に仕えて生きることほど、有意義な、支えられた、希望のある人生はありません。この神様の下で生きる者となって振り返って見るときに、神様に見出される前の自分は、「だれも雇ってくれない」という嘆きの中で広場に虚しく立っていたようなものであったことがわかるのです。このたとえ話において、夜明けに雇われた人と、夕方の五時に雇われた人と、どちらが得をしたのでしょうか。どちらがより幸せなのでしょうか。働いて報酬を得る、という観点から見れば、少しだけ働いて同じ一デナリオンをもらった最後の人が一番得をした、ということになります。しかし本当はそうではないのです。一番先にこの主人に見出され、神様のぶどう園で働く者となった最初の人こそが、実は一番幸せな人なのです。しかし私たちはそのことがなかなかわからずに、不平を言うのです。神様はそういう私たちに、信仰者として生きること、神様のぶどう園の労働者となることの幸いを教えようとしておられます。神様の自由な恵みによって、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということを、喜びをもって受け入れるときに、その幸いが私たちのものとなるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月13日]

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