富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「命を献げた主」
詩編 第116編1〜19節
マタイによる福音書 第20章20〜28節

召天者名簿
 本日のこの礼拝を、私たちは召天者記念礼拝として守っています。私たちの教会で教会員として歩み、あるいは礼拝の生活を送られ、そして天に召された方々のことを覚えて、ご遺族をもお招きしての礼拝です。お手もとに44名の召天者の名簿をお配りしました。一番新しく、44番目の召天者としてここに加えられたのは、この九月一日に天に召された青山啓七さんです。本日はそのご遺骨と共に礼拝を守り、この後の墓前祈祷会において、教会納骨堂に納骨をします。この礼拝はそのことを覚えての礼拝でもあるのです。
 名簿にお名前を掲げて覚えているのはこの44名の方々ですが、この他にも、記録が失われてしまった戦前の教会員、また、当教会から他の教会に移ってそこで天に召された方々などを加えれば、私たちの教会とかかわりのある召天者はもっとずっと沢山おられることになります。そしてその数は年々増えていきます。私たちもいつかはこの名簿に名前を連ねる一人となっていくのです。そう思って改めてこの名簿を見ると、これはあまりにも簡単な名簿だと感じます。いつ生まれて、いつ洗礼を受けて、いつ亡くなったということしか書かれていません。一人の人の人生がたった三行か四行でまとめられてしまっているのです。一人一人の歩みにはそれぞれ様々なドラマがあります。それぞれに与えられた神様の恵みがあるし、それぞれが果したこの世での働きがあるし、与えられた家族、友人との関係があるし、悩み、苦しみもあるのです。この名簿を見ただけではそういうことが全くわかりません。ご遺族の中には、亡くなった家族の歩みをこれだけのことにまとめられてしまうのは不本意だと思われる方もおられるかもしれないし、教会員である者にしても、将来自分の生涯がこのような数行でまとめられてしまうとしたら、それは寂しいことだと感じるかもしれないと思います。
 この名簿がこのような形になっているのは、ここにお一人お一人の細かいことまで書き始めると膨大なものになってしまう、ということもあります。また、教会はこれとは別の形で天に召された方々のことを覚えているということも言えます。その一つとして、何年か前に、教会の月報に載せられた文章を集めて教会員の文集を作りましたが、そこには既に天に召された方々の文章も載せました。それは、後の人もその方のことを覚え、どのような方だったのかを知ることができるようにということです。そのようにして、教会は天に召された方々のことを覚え続けようとしているのですが、しかしここで大事なことを言わなければなりません。

復活を信じる
 私たちは、天に召された方々のことが記録され、生きている人によって覚えられ続けていくことをそのように大事にしていますが、しかしそれが最終的なことではないのです。私たちは、召天者の方々が復活することを信じています。それはただ魂がいつまでも生き続けるということではありません。復活は体の復活です。新しい体を与えられて、魂と体をもった者としてもう一度新たな、そして永遠の命に生きる者として復活させられる、そのことを信じているのです。その信仰は、古来教会が受け継いできた基本的な信仰告白の文書に語られています。本日この礼拝においてご一緒に告白するのは「ニカイア信条」です。これは全世界の教会で最も広く告白されているものですが、その最後のところに、「わたしたちは、死人のよみがえりと来るべき世の命を待ち望みます」とあります。またもう一つの基本的信仰告白である「使徒信条」には、「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」とあります。人間は、死んでしまってそれで終わりではない。魂が天国に行ってそこで平安を得てそれで終わりでもない。いつの日か必ず体をもって復活して新しく生きる者となるのだ、ということを信じるのがキリスト教信仰なのです。日本の諺に、「棺を蓋って事定まる」というのがあります。死によって、その人の人生、歩み、働きの全てが終わり、その評価はそこではっきりする、ということですが、聖書の教えにおいてはそうではありません。棺を蓋ってもなお事は定まらない、まだ先があるのです。死が、人間の最終的な状態ではないのです。その信仰に立つならば、召天者の名簿は簡単でよいのです。ここに何が書いてあるかがその人の歩みの最終的な事柄ではないからです。記録や名簿が残るかどうかが問題ではなくて、その人自身が生きた者となることを私たちは信じるのです。復活の日には、その人についてどんなに詳しく書かれた記録、伝記も意味をなさなくなるのです。ご本人が生きてそこにおり、出会い、語り合うことができるからです。

復活の矛盾?
 このように、死者の復活、よみがえりを信じると言うと、それは荒唐無稽なことのように感じる人も多いでしょう。クリスチャンであっても、このことを自分の信仰としてはっきりと意識していない人も多いかもしれません。毎週の礼拝で、「身体のよみがえり」とか「死人のよみがえり」を信じると告白していても、それが何のことか考えずにただ唱えているということも多いように思います。そのように死者の復活、つまり私たち自身も復活するということを荒唐無稽な世迷言と感じるのは、私たちが現代の科学文明の中に生きているからではありません。聖書が書かれた約二千年前の時代にも、それを馬鹿げた話と思う人々はいたのです。私たちの教会では今年の四月から、「聖書通読運動」というのを始めました。教会で定めたスケジュールに従って、それぞれが自分の家で聖書を読み進め、二年間かけて全巻を読破しようという運動です。そのスケジュールにおいて、昨日の土曜日に読まれることになっている新約聖書の箇所は、ルカ福音書20章27節以下でした。そこにまさに、復活を信じることは荒唐無稽な世迷言であると思っていた人のことが語られていました。サドカイ派の人々というのですが、彼らが死者の復活という馬鹿げた教えをやりこめるために主イエスに質問をしてきたのです。ユダヤ人の間には、兄が結婚しても子どもを残さずに死んだ場合、弟が兄嫁と結婚して兄のために子を残さなければならないという掟がありました。その掟によって七人の兄弟たちが次々に一人の女性と結婚して、いずれも子どもを残さずに死んだ場合、復活したらこの女性は誰の妻になるのか、という問いです。一人の女性が七人の夫を持つということになるではないか、死者が復活するなどということを信じているとこんなおかしなことになるのだ、と彼らは言いたいのです。私たちもこれと同じ疑問を持ちます。七人というのは大袈裟にしても、いろいろな事情で再婚をする人は沢山あります。そういう人は二人の妻あるいは夫を持つことになるのか。さらには、体をもって復活するというなら、その体はどのようなものか。何歳ぐらいの姿なのか。体に弱さや障害を持っていた人はやはりそういう者として復活するのか。そもそも、死んだ人がみんな復活したらこの地上は人で溢れて立錐の余地もなくなるではないか…。そういうことを考え始めるときりがないのです。そしてたどりつく結論は、復活を信じるなど馬鹿げている、非現実的な、矛盾だらけの教えだ、ということです。

復活とは
 主イエスはこういう彼らの思いに対して、「復活した時、人はめとることも嫁ぐこともない、彼らは天使のような者となる」と言われました。それは、この世で結婚していても復活したらもう赤の他人だ、ということではなくて、復活ということを、この地上の人間のあり方、生活の延長として、それが再び始まることとして理解してはならないということです。復活について私たちが抱く様々な疑問やそこに感じられる矛盾は全て、今の地上での体や生活の再開としてそれを捉えることから生じています。しかし復活において、私たちは今とは全く違う新しい者とされるのです。神様がこの世の始めに全てを無から創造して下さったように、復活において、今のこの世界とは全く違う新しい世界を与えて下さるのです。私たちに与えられる復活は、この世界の歴史の延長上のどこかでもう一度生き返るということではありません。世界全体が神様によって新しくなる、その時に、私たちも、復活の命と体を与えられて新しく生きる者となるのです。それがどんな命でありどんな体なのか、それは今この地上を生きている私たちには想像することができません。ただ言えることは、それがもはや死ぬことのない、そして生きることにまつわる全ての苦しみや悲しみから解放された、地上の命と体よりもはるかにすばらしい命と体であるということです。神様がそのような新しい命と体を与えて下さることを信じて、そこに最終的な希望を置いて生きることが私たちの信仰なのです。

主イエスの再臨
 この復活の命と体は、いつ、私たちに与えられるのでしょうか。今申しましたようにそれは、神様が、この世界全体を新しくして下さる時です。今のこの世が終わり、新しい世が始まる、その時に、私たちの復活も実現するのです。その新しい世界、それは、復活して天に昇り、父なる神様の右に座しておられる主イエス・キリストが、栄光をもってもう一度来られ、そのご支配が確立することによって始まります。「ニカイア信条」に、天に昇られた主イエス・キリストが、「父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られます」とあるのがそのことです。つまり私たちの復活の命は、主イエス・キリストが栄光をもって再び来られること、いわゆる主イエスの再臨と結びついているのです。主イエスは「栄光をもって」再び来られます。主イエスが最初にこの世に来られた時、つまり二千年前のご生涯においては、主イエスは誰にも顧みられることなく、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになりました。この世で最も貧しい姿で来られたのです。そしてそのご生涯も、十字架の死に至る歩みでした。主イエスは最後は弟子たちにも見捨てられ、十字架という最も残酷な仕方で死刑に処せられたのです。それは一切の栄光と無縁な、苦しみと恥辱の内の死でした。しかし、その主イエスがもう一度来られる時には、今度は、栄光をもって、全世界の救い主にして支配者として来られるのです。そして主イエスが王座に着き、主イエスのご支配が確立する、そのことによって、新しい世界、新しい世が始まるのです。ニカイア信条が「その御国は終わることがありません」と言っている主イエスの王国が実現するのです。その時私たちも復活の命を与えられて、その主イエスの王国の民として生きるのです。終わることのない主イエスの王国の民として、終わることのない命をもって生きる者とされるのです。私たちの復活の希望はこのように、主イエスがもう一度来られて、王座にお着きになる、そのことと結びついているのです。

ゼベダイの子らの母の願い
 この主イエスが王座にお着きになる時のことを希望をもって見つめていた人々のことが、本日与えられている聖書の箇所、マタイによる福音書第20章20節以下に語られています。それはゼベダイの二人の息子たち、主イエスの弟子であったヤコブとヨハネと、その母です。この母親が二人の息子たちを連れて主イエスのもとに来て、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったのです。主イエスが王座に着く、それは復活し、天に昇った主イエスが、もう一度来られ、王座に着いてこの世界が新しくなる、その時のことです。この母親がこの時それらのことを正確にわきまえていたとは言えないでしょうが、しかし彼女は、主イエスが、神様の独り子、また救い主として、最終的に勝利し、支配する時が来るということを素朴に信じていたのです。そしてその主イエスの勝利と支配が確立する時に、自分の二人の息子がそのみ側近くでその栄光にあずかる者となることを願ったのです。それは息子のためを思う母親の純粋な愛から出たことであると言えるでしょう。

仕える者となれ
 しかしこのことを聞いた他の弟子たちは腹を立てたと24節以下にあります。自分たちだけが、他の弟子たちを出し抜いて、主イエスの右と左に座ろうとする、そんな抜け駆けは許せないと思ったのです。ここには、主イエスの弟子たちの間にも、順位争いがあったということが示されています。同じ弟子たちの間で、誰が一番偉いか、一番上の者は誰か、ということをみんなが気にしていたのです。そしてあわよくば自分が人よりも上に、一番になろう、という気持ちがあったのです。だからヤコブとヨハネに「出し抜かれた」という思いになったのです。一番そう思ったのは、弟子の筆頭と目されていたペトロだったかもしれません。自分こそ主イエスの右に座るべきなのに、なんであいつらが、と思ったのでしょう。そのように腹を立てている弟子たちに、主イエスはこう言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。偉くなろう、上になろうと思うなら、むしろ人に仕える者、皆の僕になれ、と主イエスは教えられたのです。このことは私たちもある意味で納得し共感する教えです。どんな組織においても、本当に偉い人、人の上に立つに相応しい人というのは、「俺が一番偉いんだ、俺が上なんだ」と威張っている人ではありません。ちょっと偉くなったからといって威張り散らすような人は、「あの人は器が小さい」と思われ、本当には尊敬されないのです。むしろ高い地位にあっても、人に仕える思いを失わない人、親身になって部下の面倒を見てくれるような人こそ、尊敬され、あの人は本当の意味で偉い人だ、人の上に立つのに相応しい人だと思われるのです。けれども、主イエスがここで教えておられることは、そのような、人間関係における言わば常識ではありません。本当に尊敬される偉い人になるには、むしろへりくだって人に仕える者になった方がいい、ということを言っておられるのではないのです。主イエスの思いは28節にこそ現れています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。「人の子」、それは主イエスがご自身のことを言う言葉です。つまり主イエスはここで、弟子たちに、「私がしているのと同じことをせよ」と言っておられるのです。その主イエスがしておられることとは何でしょうか。それは、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」ということです。主イエスは、仕えられる者としてではなくて仕える者としてこの世に来られたのです。それは、その方が最終的には尊敬されて偉くなれるからではありません。主イエスが「仕える」、それは、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」ことです。「自分の命を献げる」ことによって主イエスは人々に、私たちに仕えて下さったのです。しかもそれは「多くの人の身代金として」です。身代金、それは捕えられている人を解放するために支払われるお金です。先週も武装勢力が多くの人を人質にとって劇場に立て篭もるという事件がモスクワで起き、多くの人が亡くなるという悲惨な結果になりましたが、そういう人質を解放する代わりに支払われるのが身代金です。そしてそれは主イエスの場合お金ではなくて、ご自分の命でした。罪と死の力に捕えられている私たち人間を解き放つために、神様の独り子である主イエスが、ご自分の命を私たちの身代わりとして差し出して下さったのです。それはもはや、そうすればより尊敬を得られる、などという打算的な思いをはるかに越えたことです。主イエスは、自分がより偉い者になるなどということの全くない、自らが得るところは何もない、十字架の死を、私たちのために引き受け、私たちを救って下さったのです。そして弟子たちに、あなたがたも同じようにせよと言っておられるのです。

主イエスが仕えて下さる
 このみ言葉は、人よりも少しでも上になろう、偉くなろうとして仲間内で腹を立て合っている弟子たちに対して語られました。その主イエスの思いは、「私と同じように人のために命を捨てる者こそが本当に偉いのだ」ということではないでしょう。それでは、偉さの基準が別のものになるだけで、争いはなお続いていくことになるのです。主イエスの思いはそこにあるのではなくて、「あなたがたはみな、私が自分の命を献げて、罪と死の支配から解き放ち、神様の恵みの下に生きるようにした者ではないか。私が命がけで仕えようとしている者ではないか。私が自分の命を身代わりとして献げて救いにあずからせようとしている者どうしの間で、どうして誰が偉いとか偉くないなどということを考えるのか、なぜそんなことを問題にするのか。あなたがた一人一人のことを、私が、命を献げて仕えるほどに愛していることが分からないのか」ということです。神様の独り子主イエスが、その命を献げて私たち一人一人を愛し、仕えて下さっている。そのことで十分ではないか。その愛を受けていれば、人と自分を見比べて、どちらが偉いとか偉くないとか、上だとか下だとか、そんなことはどうでもよいではないか。どんな人生を送り、どんなすばらしい業績をあげたか、あるいは恵まれた幸せな人生だったか、苦しみの多い不幸な人生だったか、長寿を全うしたか、若くして死んだか、それらのことはどれも、主イエス・キリストがその命を献げて私たちを愛し、仕えて下さったことに比べれば、どうでもよいことなのです。本質的なことではないのです。召天者の方々は、この主イエス・キリストの、命を献げた愛を受け、主イエスが仕えて下さる、その恵みにあずかったのです。そこにこそ、彼らの幸いがあるのです。

主の慈しみに生きる人
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第116編の15節に、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という言葉があります。九月三日の、青山啓七さんの前夜式においても、この詩編を読み、この15節についてお話しをしました。青山さんの死は、主の目に価高いものだ。それは、青山さんがこの地上でどんな立派な業績を残したか、どれだけ世のため人のために尽したか、ということによるのではない。主の慈しみに生きる、主イエス・キリストがその命を身代金として与えるほどに愛し、仕えて下さった、その神様の慈しみを受けたところにこそ、その人生の祝福があり、その死の価高さがあるのです。そしてそれは、青山さんだけではない、他の全ての召天者の方々にも共通していることであり、また召天者予備軍である私たち一人一人にも備えられている恵みなのです。

キリストの愛の支配
 主イエス・キリストは私たちのためにご自分の命を献げ、私たちに仕えて下さいました。その主イエスが、世の終りに、もう一度来られるのです。今度は栄光のうちに、まことの支配者として、王座に着かれるのです。そのご支配は、あの十字架の愛によるご支配です。その愛のご支配が完成し、主イエスが王座に着かれる時、今のこの世とは全く違う、新しい世、新しい世界が神様によって与えられるのです。そしてその時私たちも復活して新しい命と体を与えられます。神様の大いなる慈しみのもとに、終わることのない主イエスの王国の民として生きる者とされるのです。そこにおいては、誰が上とか下とか、お互いを見比べて喜んだり悲しんだりすることはもうありません。この世における業績を誇り合うようなこともありません。私たち皆の僕になって下さった主イエス・キリストの愛が全てである新しい世界が開かれるのです。そこに希望を置いて生き、その希望の内に死ぬことが、私たちの信仰なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年10月27日]

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