富山鹿島町教会

2002年 キャンドル・サービス

クリスマス・メッセージ
「平和はどこに」
マタイによる福音書 第2章1〜23節

サービス=礼拝
 教会のクリスマス、キャンドル・サービスにようこそおいで下さいました。皆さんの中には、毎年このキャンドル・サービスに来て下さっている、いわゆるリピーターの方も大勢おられるように思います。しかしまた、今年初めて、教会のキャンドル・サービスを体験されるという方もおられることと思います。初めての方は、キャンドル・サービスってどんなことをするんだろうか、と思っておられるのではないでしょうか。
 キャンドル・サービスにおける「サービス」という言葉は「礼拝」という意味です。英語の辞書で「サービス」を引いてみればそういう意味がちゃんと出ています。「サービス」は「サーブ」つまり奉仕する、仕えるという動詞の名詞形ですが、それが神様に仕え、奉仕するという意味で用いられる時に、「礼拝」と訳される言葉となるのです。ですから、「キャンドル・サービス」を日本語に訳すなら、「燭火礼拝」、ろうそくの火を灯しての礼拝ということになります。このごろでは、結婚式の披露宴で「キャンドル・サービス」と称するものが行われていますが、あれはどういう意味で「サービス」なのか、私にはよくわかりません。新郎新婦が列席者のテーブルを回ってろうそくに火を灯していく、新郎新婦が列席者にそうやってサービスして回るということでしょうか。教会でのキャンドル・サービスはそういうサービスではなくて、神様への礼拝なのです。クリスマス・イブの晩に私たちはこうして、神様を礼拝するために集まったのです。

東の国の学者たち
 先ほどお読みした新約聖書の箇所には、クリスマスに神様を礼拝するためにやって来た最初の人々のことが語られていました。その人々とは、東の国から旅をして来た「占星術の学者たち」です。東の国というのは今で言うイランとかイラクとか、その地方のことだと思われます。彼らは、星の観測をしていた、今で言う天文学者でした。ところがある時、ユダヤ人の王の誕生を告げる不思議な星を見つけたのです。ただユダヤ人の王というだけではありません。世界の全ての人々の救い主でもある、まことの王様の誕生を、不思議な星が告げたのです。それで彼らは、その星に導かれてはるばる旅をしてきて、ついに幼子イエス・キリストをさがしあて、その前にひれ伏して拝んだと書かれています。これが、最初のクリスマスの礼拝です。クリスマスに神様を礼拝するというのは、この学者たちのように、お生まれになった神様の独り子イエス・キリストの前にひれ伏して拝むことなのです。

ユダヤの王ヘロデ
 学者たちはこのように、まことの王であられるイエス・キリストの誕生を喜び、そのみ前にひれ伏して礼拝しています。しかしここには、イエス・キリストの誕生をそのように喜こんでいない人も出てきています。それはヘロデという当時のユダヤの王です。学者たちが訪ねてきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言った時、ヘロデは不安になったのです。自分の王座を奪い、取って代わろうとする新しい王が生まれたのではないか、このままでは自分が王であることができなくなる、と思ったのです。そこでヘロデは学者たちに、その新しく生まれた王のことを調べさせ、見つけ出して自分に知らせるように言います。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と彼は言っています。自分も、その新しい王の前にひれ伏して礼拝をする、というのです。でもそれは真っ赤な嘘です。彼はイエス・キリストを礼拝する気など全くありません。その前にひれ伏すことなど真っ平御免なのです。むしろ彼は、この新しい王を見つけ出して、今の内に殺してしまおうと思っています。このヘロデは、自分がいつまでも王様でありたいために、新しく生まれたまことの王である神の子を礼拝することができないのです。礼拝するようなふりをしながら、実はイエス・キリストを殺してしまおうとしているのです。あの学者たちの、喜びと平和にあふれた礼拝の姿と、このヘロデの不安、恐怖、そこから来る敵意、殺意とは全く対照的です。そしてヘロデは、学者たちが神様からのお告げによって、ヘロデに報告せずに帰ってしまったことを知ると、怒り狂って、ベツレヘムとその近郊に住む二歳以下の男の子を一人残らず殺すという、恐ろしい幼児虐殺を行いました。自分が王であり続けようとする心は、このような恐ろしい罪と殺戮を生むのです。

テロリズム
 ヘロデが行ったこの幼児虐殺、それは、今日の言葉で言えばテロリズムです。ある敵を倒すために、関係のない、何の罪もない人々を巻き込み、殺すのです。私たちのこの世界は、昨年のあの同時多発テロから始まったそのテロリズムの大きな流れの中にあります。21世紀はこのテロから始まったのです。テロは、憎しみが憎しみを生み、戦いが新たな戦いを生む、憎しみの悪循環をもたらしています。アメリカはテロに対する戦争を宣言し、アフガニスタンを攻撃し、タリバン政権を崩壊させました。その攻撃によって、テロとは無関係の多くの人々が殺され、傷つき、苦しんでいます。そしてその憎しみの矛先は今度はイラクに向けられています。来年早々にも、イラクへの軍事攻撃がなされることがほぼ確実だと言われています。イラクが隠し持っているとされる大量破壊兵器とそれを製造する施設の破壊というのがその攻撃の目的です。しかしその攻撃がなされれば、また、無関係な多くの一般市民が巻き添えになり、殺され、傷ついていくことは目に見えています。先日テレビを見ていたら、十年前の湾岸戦争でアメリカが使った劣化ウラン弾という兵器によって、今なおイラクの多くの人々に、放射線の影響による障害が起っており、それを治療する薬も、経済制裁のために入って来ないで、多くの子供たちがただ死を待つだけの状態に置かれていることが報じられていました。アメリカのしていることは、その点においては、イエス・キリストを抹殺するために、何の関係もないベツレヘムの男の子を皆殺しにしたヘロデとどこが違うのでしょうか。同時多発テロの首謀者も、その被害者であるアメリカも、どちらも同じことをしているのです。
 私たちの国に関することで言えば、あの北朝鮮による拉致の問題というのも、同じようなことです。国家の目的のために、他国の、全く関わりのない若者たちが拉致され、命そのものを奪われた人もあり、また生きて帰ってこれた人も、その人生もずたずたにされたのです。二十五年ぶりに帰国した方々のことを見るにつけ、生きて帰れて本当によかったと思うと同時に、しかしこれからの歩みにおいても本当に痛ましいものがあることを思わずにおれません。今度はあの方々の子供たちがどうなるのか。たとえ日本に来ることが出来たとしても、北朝鮮で生まれ育った彼らが、ある日突然お前たちは日本人なのだと言われて日本で生活するようになることは、彼らの親が拉致によって受けたのとある意味で同じ苦しみを与えることにもなるでしょう。いずれにしても大きな苦しみがこれからも続いていくのがあの拉致問題です。そして私たち日本人は、ただ被害者であるだけではありません。形は違っても、似たようなことを、私たちの国も過去、朝鮮半島や中国の人々に対してしてきたのだし、アジアの多くの人々を苦しめた歴史があるのです。そして今は、アメリカの子分としてそのテロとの戦いに協力しようとしています。私たちもまた、あのヘロデの罪にまみれている者だと言わなければならないのではないでしょうか。

自分が王であろうとする
 ヘロデのあの罪と、そこから来る悲惨なテロ行為は、あくまでも自分が王であろうとすることから生じています。そしてそれは、まことの王としてこの世に来られたイエス・キリストのみ前にひれ伏す礼拝を拒むことと結びついています。神様の前にひれ伏して礼拝することを拒む時に、人間は自分を神のように絶対化し、自分の思いに逆らう者を抹殺すべき悪人と考え、そのために無関係な人々を巻き添えにすることも何とも思わなくなるのです。そのことは、表面的に神様を礼拝しながらも起ります。同時多発テロの首謀者や実行者たちはイスラム教の熱心な信者です。彼らは一日に何度もメッカに向ってそれこそひれ伏して礼拝をしていたのでしょう。アメリカも、政教分離とはいえ、基本的にキリスト教の国です。ブッシュ大統領も、「God bless America.」とキリスト教の神に祈っているのです。いずれも神を礼拝しつつ、戦い合い、傷つけ合っています。それはまさにヘロデが「わたしも行って拝もう」と言っているのと同じことです。本当に神様を拝み、礼拝をする思いなどないのです。むしろ神様をも、自分の思いや考えを正当化するための手段にし、自分の考えに反する者を神に逆らう悪魔のように思っているのです。その結果、神の子をすら殺してしまおうとしているのです。

平和の王
 今のこの世界に、そして私たちに本当に必要なことは、このヘロデのような思いを捨て去って、あの学者たちのような、真実な礼拝、まことのサービスに生きることなのではないでしょうか。彼らは、星に導かれて幼子イエス・キリストを見出し、「喜びにあふれた」とあります。本当にみ前にひれ伏すべき方を見出すことにこそ、私たちの人生の最大の喜びがあるのです。彼らがひれ伏し、礼拝した幼子イエス・キリストは、まことの王であられます。そしてこの王は、ヘロデやその他のこの世の王、支配者とは違う、平和の王であられます。そのイエス・キリストのことを預言した旧約聖書の言葉を先ほどお読みしました。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」、これがイエス・キリストのことです。このキリストには、「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」が宿っています。彼はその霊によって、「目に見えるところによらず、耳にするところによらず、正しい、公平な裁きを行い、正義によって支配するのです。人間の支配者や国家もしばしば正義を声高に叫び、それによって戦争を起こし、人を苦しめます。しかしこのまことの王、救い主イエス・キリストは、平和を実現するのです。その平和がこのように言い表されています。「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」。狼と子羊、乳飲み子と毒蛇、それらは決して共にいることのできない者たちです。一方が他方を食い殺さずにはいないのです。強い者が弱い者を食い物にし、踏み潰すのです。この世の、人間の常識においてはそのように共存不可能な者たちが、共に宿り、共に草をはみ、戯れ遊ぶ、そういう平和が、まことの王であり救い主であるイエス・キリストのもとに実現するのです。イエス・キリストはそのために、一人の幼子として、この世にお生まれになりました。この幼子を自分の王として迎え、自分が王であることをやめてそのみ前にひれ伏して礼拝をささげることによって、神様から与えられるこの平和と真実の喜びが私たちの心に、そして私たちの社会に、またこの世界に、実現していくのです。
 私たちは今宵、クリスマスの星に導かれてこのキャンドル・サービスへと集ってきました。そしてそれぞれの前に、世の光として来られた主イエス・キリストを象徴する小さなともし火が灯されています。どうぞこの小さなともし火を、皆さんお一人お一人の心の中に移して、大切に持ち帰って下さい。そして皆さんの生活の中で、折あるごとにこのともし火を思い起こし、教会の礼拝にいらっしゃってください。キャンドル・サービスは一年に一度ですが、教会は毎週日曜日に、サンデー・サービス、日曜日の礼拝を行っています。皆さんと共に神様を礼拝し、平和の主イエス・キリストのみ前にひれ伏しつつ、まことの平和を求めて歩んで参りたいと願っています。

牧師 藤 掛 順 一
[2002年12月24日]

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