富山鹿島町教会

礼拝説教

「皇帝と神」
創世記 第1章26〜27節
マタイによる福音書 第22章15〜22節

皇帝=カイサル
 本日与えられている聖書の箇所、マタイ福音書第22章15節以下には、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの有名なみ言葉が記されています。前の口語訳聖書では、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」となっていました。「皇帝」と訳されているもとの言葉は「カイサル」です。「カイザル」と濁って表記されたことには、ドイツ語の影響があると思います。明治時代の日本はドイツの影響をかなり受けています。そのドイツの皇帝のことを「カイゼル」言っていました。「カイゼルひげ」などという言葉があったわけです。そのカイゼルはカイサルがドイツ語化したものです。そのように「カイサル」という言葉は「皇帝」を意味する言葉であるわけですが、これはもともとはそういう意味の言葉だったのではなく、一人の人の名前に過ぎませんでした。それはユリウス・カエサルという人です。英語の言い方にすると、ジュリアス・シーザーとなります。紀元前100年に生まれ、紀元前44年に暗殺されたこのカエサルは、ローマの政治家であり軍人でしたが、当時すでに地中海世界全体を支配下に置くようになってきていたローマを、それまでの都市国家時代の共和政から、皇帝のもとに統治される帝政へと移行させる働きをした人でした。そのカエサルは志半ばにして暗殺されます。自分が目をかけ、保護していたブルータスという人までもが暗殺者たちの中にいるのを見た彼は、「ブルータスよ、お前もか」という最後の言葉を残して死んだと言われます。そのブルータスや、その他の人々を倒してカエサルの後継者となったのが、オクタヴィアヌスという人でした。彼はカエサルの養子であり、カエサルの名を受け継いだ人でもありましたが、このオクタヴィアヌスが「アウグストゥス」という尊称を得て、ローマの初代皇帝となったのです。主イエスがお生まれになったのはこのアウグストゥスの治世の間であり、彼が出した人口調査の勅令によってヨセフとマリアはベツレヘムへ旅をしなければならなかったとルカ福音書は語っています。このアウグストゥス以来、代々のローマ皇帝はカエサルを名乗るようになり、それによって「カエサル」という名前は、「皇帝」をも意味する言葉となったのです。

皇帝への税金
 さて主イエスの当時、ユダヤの地は、このカイサル=皇帝に統治されたローマ帝国の支配下にありました。ローマの支配は、全ての地を同じように直接支配するのではなく、その地の事情に応じて、直接「属州」として支配することもあれば、現地の王国を存続させてその王の上に皇帝が支配権を持つという形をとることもありました。主イエスのお生まれになった時のヘロデ大王や、その息子で、主イエスが活動された時にガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの国というのはそのように、ローマ皇帝の承認の下に存在を許されたものだったのです。直接の王や領主はヘロデでも、本当の支配者はローマ皇帝であるということです。そしてその皇帝の支配を人々が最もはっきりと感じさせられるのは、ローマへの税金を納めなければならないという事実でした。本日のところで問題になっている皇帝への税金というのは、人頭税といって、一人あたりいくらと決められていた税金のようです。自分たちは神様に選ばれた神の民であり、神様こそが支配者であられると思っていたユダヤの人々にとって、そういうものを納めなければならないことは、まことに腹立たしい、面白くないことでした。一人の人間に過ぎない、しかも神様の民に属さない外国人であるローマ皇帝が、まるで神ででもあるかのように目に見えない所で自分たちを支配している、それはユダヤ人たちにとって受け入れ難い屈辱だったのです。本日の箇所に語られていることの背景にはそういうユダヤ人たちの思いがあります。

三つのたとえと三つの問い
 さて今度は目を、マタイによる福音書の流れに向けてみましょう。今読んでいるところは、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに来られた、そこで起ったことを語っている所です。21章の始めのところで、人々の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入られた主イエスは、神殿の境内で、商売をしていた人々を力づくで追い出すようなことをされました。神殿の責任者である祭司長たちや民の長老たち、またファリサイ派の人々、つまり当時のユダヤ人の指導者たちは、主イエスのそういう行動を自分たちへの挑戦と感じましたし、主イエスが人々に人気があることを快く思っていません。なんとかして主イエスの影響力を失墜させ、抹殺してしまいたいと思いました。主イエスと彼らとの間の、そういう対立関係が際立っていったのです。そういう流れの中で、主イエスは三つのたとえ話を語られました。二人の息子のたとえ、ぶどう園と農夫のたとえ、そして先週読んだ婚宴のたとえです。この三つのたとえ話には、共通したテーマがあります。それは、神様のみ心に従わず、その遣わした僕ないし子を受け入れないで殺してしまう人々の姿が描き出されているということです。それは21章45節で彼らが感じ取ったように、彼らのことなのです。主イエスはこれらのたとえ話によって、主イエスを受け入れずに抹殺しようとしている彼らを批判しておられるのです。そういうたとえ話を私たちは読んできたわけですが、本日の箇所からは今度は、ファリサイ派の人々やその他の、ユダヤ人の宗教的指導者層にあった人々が、主イエスに、質問をしてくる、という話がやはり三つ続けて語られています。そしてその質問は、単なる質問ではなくて、15節にあるように、「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」とする質問、つまり悪意ある、陥れようとする質問です。ちょうどあの三つのたとえ話に対抗するように、三つの問いをもって、彼らが主イエスに攻撃をしかけてきている、そういうところをこれから読んでいくのです。

ファリサイ派とヘロデ派
 本日のところにある第一の問いは、ファリサイ派の人々が相談してしかけてきた罠であるわけですが、16節には、彼らが自分たちの弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に主イエスのところに遣わしたとあります。ここにヘロデ派というのが出てくるわけですが、これは、ファリサイ派と並ぶような宗教的な一派ではありません。ヘロデ王家を支持し、その恩恵にあずかっている人々のことで、宗教的と言うよりも政治的な党派です。そしてファリサイ派とヘロデ派というのは、本来は相容れない、対立関係にあったのです。何故なら、ヘロデ派はヘロデ王家の支配に依存しているわけですが、その支配は先ほど申しましたように、ローマ帝国の権力によって支えられているのです。従って、ヘロデ派は必然的に、ローマの支配を認め、受け入れ、その下でのヘロデ王家の安泰を願っているのです。ですから皇帝への税金の問題に関して言えば、それをちゃんと納めるべきだ、というのが彼らヘロデ派の立場です。それに対してファリサイ派というのは、主なる神様の律法を大切に守り、それによって神の民としてのイスラエルの建設を目指している人々です。イスラエルを支配するのは主なる神のみであって、人間の、しかも外国の支配などは受け入れられないというのが彼らの基本的な思いです。ですから皇帝への税金など、本来納めるべきではない、納めたくない、とファリサイ派は思っているのです。そのように全く正反対の主張によって本来対立するはずの両者が、ここでは手を結んでいます。主イエスを受け入れず、抹殺しようという思いで両者は一致したのです。

共通の敵は神
 ここには人間の社会において起る一つの典型的な事例があります。内輪でいろいろと対立し合っていた者たちが、共通の敵の出現によって急に仲良くなり、手を結ぶということは、歴史において繰り返されてきたことです。そういうことがここでも起っています。そしてこのことの持つさらに大きな意味は、神様に敵対するという点において、人間の間の様々な違い、対立が乗り越えられているということです。人間の間にはいろいろな対立があり、敵対があり、そのために戦争が起ったりもします。けれどもそういう人間どうしの対立や戦いというのは、実は根本的なことではないのです。憎みあい、殺しあっていた者たちが、昨日の敵は今日の友というふうに仲良くなることがあるのです。鬼畜米英などと言っていたのが、ソ連、共産主義という共通の敵を意識することによって、掌を返したように、アメリカの忠実な子分になるということが起るのです。そういう私たち人間が、根本的に、共通の敵としているのが、神様であり、その遣わされた独り子イエス・キリストです。神様こそ、この世界の、また私たちの主人、支配者であること、つまりこの世界や自分の人生というぶどう園は自分のものではなく主人から貸し与えられたものであるということを認めずに、その主人の支配を告げるために遣わされた独り子イエス・キリストを殺して、ぶどう園を自分のものにしてしまおうとする、あるいは、王である神様からの祝宴への招きを受けても、それに応じようとせず、俺は俺の好きなように生きるんだ、そんなところへ行っている暇はない、と断る、つまり神様が王であることを認めずに自分が王になって生きようとする、それが私たち人間の罪であることを見てきました。それらのことは全て、神様を、自分の歩みの邪魔をする敵と見なすことです。罪というのは、神様を敵とすることなのです。人間はこの罪を共通して持っています。従って人間にとって、共通の、根本的な敵は神様なのです。この敵の前では、人間どうしの争いや敵対はささいなことなのです。

巧妙な罠
 主イエスに対する敵対心によって一致団結した彼らは、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているか」という問いを投げかけてきました。この問いにおいて、この基本的に対立する二つのグループの共闘が生きてきます。もし主イエスが、神の民であるユダヤ人は皇帝に税金を納めるべきではない、と答えるなら、ヘロデ派の者たちが、主イエスをローマの支配を認めない反逆のかどでローマ帝国当局に訴えることになるでしょう。またもし主イエスが、税金を納めなさいと答えるなら、その時はファリサイ派の出番です。人々が、この人こそユダヤ人の救い主ではないか、と期待しているイエスが、実はローマの支配を認めており、その力の前には手も足も出ないのだ、ということを示すことができるのです。どちらに転んでも、主イエスを破滅させ、その影響力を失墜させることができる、そういう巧妙な罠を彼らは仕掛けたのです。
 さらに彼らはその罠を完璧なものとするために、この問いに先立って、歯の浮くようなお世辞を語っています。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」。「人々を分け隔てしない」と訳されている言葉は、文字通りに訳せば、「人間の顔を見ない」となります。日本語にすれば、「人の顔色を見ない」ということになるでしょう。人の顔色を見て自分の態度や意見を変える、ということを私たちはよくします。それは良く言えば協調性があるということだけれども、度を越せば無定見、日和見です。私たちの言動はいつもその間で揺れ動いているわけですが、「先生あなたはそうではないですね」と彼らは言っているのです。「あなたは、真理に基づいて神の道を教え、誰をも憚らない方であるはずだ」。そのように言うことで彼らは、主イエスの逃げ道を断ち、この問いに答えざるを得ないようにしているのです。

デナリオン銀貨
 この絶体絶命の危機に際して、主イエスは、ローマへの税金として納めるのに用いられるデナリオン銀貨を持って来させました。そこには、皇帝の肖像と銘が刻まれていました。テレビやラジオは勿論、新聞や雑誌もなかった当時のローマ帝国において、広大な帝国全体に皇帝の交代や戦いの勝利を伝えるために用いられた最も有効なメディアが、そのことを刻んだ硬貨の発行だったそうです。ほんの数ヶ月しか在位期間のなかった皇帝の肖像を刻んだ硬貨も作られていることからもそれが伺えるのです。ですから皇帝の肖像を刻んだ硬貨は当時の人々にとって、どこにでもある、特にめずらしくもないものだったのです。しかし主イエスはわざとそれを持って来させて、そこに皇帝の肖像と銘が打たれていることをお示しになり、そしてあの、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という有名な言葉を語られたのです。

「神のもの」と「皇帝のもの」
 この言葉によって主イエスは彼らの悪意ある問いを逃れ、言葉尻をとらえられずにすんだわけですが、しかしこの言葉は何を語っているのでしょうか。「皇帝のものは皇帝に」ということによって主イエスは、皇帝に税金を納めることを認めておられます。しかし同時に「神のものは神に」ということで、神様のご支配とそれに仕えることをないがしろにしてはならない、と言っておられるのです。そうすると、この世には、「皇帝のもの」と、「神のもの」という二つの領域があるということでしょうか。皇帝のものとは、この世の権力とその支配という政治的な領域、神のものとは、信仰の領域、その二つを区別して、それぞれに応じた対処の仕方をするように、と主イエスは教えておられるのでしょうか。もしそうなら、その二つの領域をどこで分けるかということが問題になります。私たちの生活において、どこからが信仰の領域で、どこからが政治的領域か、別の言い方をすれば、信仰の事柄として考えるべきなのはどこまでか、どこから先はもう信仰とは関係のない、政治の世界の事柄ということになるか、ということです。具体的に言えば、税金を納めることが信仰とは関係のないこの世の事柄だとすれば、その税金がどう使われるかということも、信仰とは関係のない事柄になるのです。しかし主イエスはそういうことを教えておられるのでしょうか。そこで考えなければならないのは、「神のもの」とは何かということです。皇帝の肖像が刻まれている銀貨は皇帝のものだと言われています。それなら、神のものには、神の肖像、似姿が刻まれているはずです。神の似姿が刻まれた神のものとは何でしょうか。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記1章26、27節がそれに答えてくれます。神様が、天地創造のみ業の最後に、人間をお造りになった、その場面です。そこで神様は、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われたのです。私たち人間は、神様にかたどり、神様に似せて造られたものです。私たちには、神様の肖像が刻まれているのです。つまり私たち人間は全て、「神のもの」なのです。皇帝の肖像を刻まれた硬貨が帝国全体に流通することによって、皇帝の支配が告げられたように、神様の似姿を刻まれた私たち人間が世界中に住むことによって、神様はご自身の世界全体へのご支配を告げ知らせておられるのです。つまり私たちとこの世界の全体が、実は「神のもの」なのです。その「神のもの」は神に返せと主イエスは言われたのです。それは、自分自身とこの世界の一切を支配しておられる王としての神の権威を認め、それに服する者となれということです。この世界と自分の人生の全てが、神様のぶどう園であることを認めよということです。この世界や私たちの人生のある一部分だけが「神のもの」なのではないのです。この世界と私たちの全ては神様のものです。神様のものではなくて皇帝のものであるような部分がどこかにあるわけではないのです。私たちの一週間の生活になぞらえて言えば、日曜日の午前中の礼拝の時間だけが神様のものであって、後の六日間の生活は自分のもの、この世の歩みのための時間というわけではないのです。私たちの一週間の全ての日々が、神様のものなのです。私たちは、全ての日々を神様のもの、神様のご支配と導きの下にあるものとして覚え、それを神様にお返しして生きるのです。このみ言葉はそのことを求め、教えています。「神のもの」と「皇帝のもの」という二つの領域を分けることを教えているのではないのです。

皇帝のものを皇帝に
 しかしそれでは、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」というのはどういうことでしょうか。全てのものは神のものです。私たち人間は神の似姿を刻まれた神のものです。それが聖書の根本的な教えです。しかし主イエスはそのことを確認しつつ、その私たちの生活の中に、「皇帝のもの」「皇帝に返すべきもの」の存在を認めておられるのです。それはこの世の権力、国家の支配ということであり、その支配の行使としての税金の徴収であり、それを用いての国家の運営、政治の全てです。どのような政体をとるにせよ、人間の社会は、政治的権力、支配による秩序を必要としています。勿論、特定の人間の恣意的な支配ではなく、法に基づいて、皆が同じ権利と義務を負いつつ、選挙によって選ばれた代表による政治がなされるという民主政体が望ましいことは言うまでもありません。しかしどんなに民主的であるとしてもそこにはやはり権力の行使が伴い、税金の徴収もあり、秩序の維持のための警察力も必要であり、さらには独立を脅かす力から国を守るための軍事力も必要になってくるのです。「皇帝のものは皇帝に返せ」という主イエスの教えは、それらのものの存在を認め、位置づけておられるのだと言えるでしょう。一切のものは神のものであり神に返すべきものであると教えられた上で、政治的な権力とその行使による秩序の存在を主イエスは認めておられるのです。

この世を生きる信仰者
 皇帝に税金を納めることは正しいか正しくないか、という問いは、二者択一を迫るものです。私たちは、人を詰問し、問い詰める時によくこういう言い方をします。「どっちなんだ、はっきりしろ」と迫るのです。しかし主イエスは、そういう問いが必ずしも真理を明らかにするものではないことをここで示しておられると言うことができるでしょう。このような問いは、本当に真理を求め、それに従って生きようとするものではないのです。主イエスが彼らに、「偽善者たち」と言っておられるのはそのためです。信仰的な言葉で語りながら、主イエスの示して下さる真理に聞き従うことなく、自分の主張に固執し、それを少しも変えようとしない、それが偽善です。人に二者択一を迫っていく時に私たちはそういう偽善に陥っていることが多いのです。そのような私たちに対して主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。「返しなさい」という言葉に注目したいと思います。返す、それは、自分のものではないものを持っている、それを本来の持ち主に返すということです。つまり、「これは自分のものではありません」と認めることです。私たちは、自分が、神様の似姿を刻まれた「神のもの」であることを認め、その自分を神様にお返しすることを求められているのです。つまりあのぶどう園の労働者たちが、「このぶどう園は私たちのものではなく主人のものだ」と認めて、主人に返すべきものを返すことを求められたのと同じことが私たちに求められているのです。信仰とは、神様のものを神様にお返しすることです。その時に、それでは私たちのものは何もなくなってしまうのか、私たちの手許には何も残らないのかというとそうではありません。「神のものを神に返す」ことの中に、「皇帝のものを皇帝に返す」ことが位置づけられているように、神様は、全てのものが神様のものであるこの世界の中に、私たちの人生を、生活を、そしてこの世の秩序を、意味あるものとして位置づけ、またそのために必要なものを備え、与えて下さるのです。私たちはこの神様の恵みの下で、この社会の、また国家の秩序を重んじつつ、しかしそれが神様とは関係のない別の領域の事柄ではなく、それらもまた「神のもの」であることを信じて、そこにおいてみ心が行われるために力を尽くして生きるのです。そこには様々な問題があり、簡単に答えの出ないことがあります。たとえば先ほどふれた軍事力の問題においても、軍隊や軍備は人を殺すためのものだから主イエスの教えに反するあってはならないものだ、というナイーブな主張もありますが、しかし本日の「皇帝のものは皇帝に」という教えは、軍事力をも含めた権力の存在を認めた教えであるとも言えるのです。ここには、唯一の正しい答えはないでしょう。二者択一の問いでは解決しないのです。大事なことは、私たちが常に、「神のものを神に返す」信仰に生きることです。その中で、「皇帝のものを皇帝に返す」ことをも、み心に従ってなしていけるように祈り求めていく、それが、この世を生きる信仰者のあり方なのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年1月12日]

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