富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしにしてくれた」
イザヤ書 第58章1〜14節
マタイによる福音書 第25章31〜46節

最後の審判
 礼拝において、マタイによる福音書を連続して読んできまして、第25章の終わりにさしかかっています。この第25章には、主イエスが語られた三つのお話が記されています。二つはたとえ話で、これまでに読んできた、「十人のおとめのたとえ」と「タラントンのたとえ」です。本日のところは、たとえ話とは少し性格が違いますが、やはり一つのお話です。25章はこの三つの話から成っているのですが、それらはつながりのないバラバラな話ではありません。本日のところのお話は、31節にあるように、人の子、すなわち主イエスが、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る、そして栄光の座に着く、その時にどのようなことが行われるかを語っています。その時、全ての国の民が主イエスの前に集められて、主イエスは羊飼いが羊と山羊を分けるように、全ての人々を右と左に分けるのです。そして、最後の46節にあるように、片方の人々は永遠の罰を受け、もう片方の人々は永遠の命にあずかるのです。これは、この世の終わりにおける審き、いわゆる最後の審判のことです。この世にもう一度来られる主イエス・キリストによって、このような審きが行われ、人間は救われる者と滅びる者とに分けられ、そしてこの世は終わるのです。そういう、この世の終わりの審きのことがここに語られているのですが、この話と、これまで読んできた二つのたとえ話はつながっています。あの二つのたとえ話は、復活して今は天におられる主イエスが、世の終わりに栄光に輝いて再び来られ、その審きが行われる、その主イエスの再臨をしっかり覚えて待っているべきこと、それに備えているべきことを教えていたのです。「十人のおとめのたとえ」は、花婿の到着を待っているおとめたちの話です。ともし火の油をきちんと準備して花婿の到着に備えている賢いおとめたちと、予備の油を持っておらず、いざという時にあわてて買いにいかなければならない愚かなおとめたちのことが語られていました。それは主イエスがいつ再び来られてもよいように備えている信仰を教えています。「タラントンのたとえ」は、主人の留守中に、僕たちが預けられたお金をどう用いるかという話でした。僕たちは、主人が帰って来た時に、自分に預けられたお金を生かして用いたかどうか、報告をしなければならないのです。それは、本日の話における世の終わりの審きとつながります。永遠の命にあずかるか、永遠の罰を受けるか、それはこの世の人生において、自分に預けられたものをどう用いたかにかかっているのです。そのように、25章にある三つの話は、密接に結び合っています。主イエス・キリストが全世界の支配者、審判者として再び来られ、その審きによってこの世が終わる、その主イエスの再臨にどう備えるか、ということが25章全体のテーマです。そのしめくくりが本日の31節以下の話なのです。

救われるか滅びるか
 最後の審判において、主イエス・キリストによって、私たちが右と左に、永遠の命と永遠の罰とに分けられる。そういう審きが行われる。このことは、私たちに恐れを抱かせます。いったい自分はその最後の審判において、永遠の命にあずかれるのだろうか、永遠の罰を受ける者になってしまうのではないか、と考えるのです。どうすれば、この審きにおいて救いにあずかれる者になれるのだろうか、そういう思いをもって本日のこの話を読んでいく時に、私たちはあるとまどいを覚えるのではないでしょうか。永遠の命にあずかる人々は、主イエスから、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われています。けれどもそう言われた彼らは、自分たちがそのようなことをしたという自覚がないのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と言っています。永遠の罰を受ける人々はそれとは全く逆です。主イエスは彼らに、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」と言われるのです。しかしそう言われた彼らは、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と言っています。彼らは逆に、そういうことをしなかったという自覚がないのです。つまりここには、最後の審判における救いと滅びは、私たちの自覚や常識的感覚とは違う仕方で決まるということが語られているのです。自分では、これなら私は救いにあずかることができるだろう、と思っていてもそうではない場合があるし、逆に自分など救いにあずかるようなことは何一つしていない、永遠の罰を受けるしかない、と思っていても神様が救いを与えて下さるということもあるのです。つまり救われるか滅びるかということにおいては、私たちの思いや感覚はあてにならないのです。

最も小さい者の一人
 それでは、最後の審判においては何が問われ、救いと滅びを分けるのでしょうか。その審きはどういう基準で行われるのでしょうか。40節と45節に、その基準とは何かが語られています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」がそこで鍵となります。その最も小さい者の一人に対して、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」かどうか、最も小さい者の一人にそのようにした者に対して主イエスは、「それはわたしにしてくれたことだ」と言って彼らを永遠の命に入れて下さる、最も小さい者の一人にそれをしなかった者は、「わたしにしてくれなかった」と言われて永遠の罰を受けるのです。ここに、最後の審判における基準があるのです。先ほどの、永遠の命に入れられる人々も、主イエス・キリストに対して、食べさせたり飲ませたり宿を貸したり着せたり見舞ったり訪ねたりした覚えはないのです。しかし彼らは、「最も小さい者の一人」に対してそれをした、そのことを主イエスは「わたしにしてくれた」と言われる。逆に永遠の罰を受ける人々も、主イエス・キリストに対して、それらのことをしなかった覚えはないのです。しかし彼らは、「最も小さい者の一人」に対してそれをしなかった、そのことを主イエスは、「わたしにしてくれなかった」と言われるのです。

挑戦的な教え
 ここから私たちが読み取るべき教えは何でしょうか。永遠の罰を受ける人々は、主イエスに、「いつ私たちはあなたに対してこれらのことをしませんでしたか」と言っています。つまり彼らは、主イエス・キリストに仕え、従って生きたという自覚を持っているのです。彼らは信仰者だということです。ところが彼らは、神様に、主イエスに仕え、従うという思いは持っていたが、目の前にいる一人の小さい者、弱く貧しく助けを必要としている人に手を差し伸べることをしなかったのです。イエス様には仕えようと思っているが、この人はイエス様じゃないからいいや、と思ってしまったのです。それに対して、救いにあずかる人々は主イエスに、「いつ私たちはあなたにそんなことをしましたか」と言っています。このことはいろいろに理解することができますが、最も極端に言えば、彼らは、主イエス・キリストに仕え、従うなどという思いは持たずに生きた、つまり彼らは主イエスを信じる信仰者ではなかったと考えることもできます。彼らは、信仰なんか持っていなかった。しかし自分の目の前の一人の小さい者、弱く、貧しく、助けを必要としている人に手を差し伸べたのです。ここにはそういう対比を見ることもできます。そうするとここには、信仰者に対する大きなチャレンジが語られていることになります。神様を信じ、キリストを信じ、教会の礼拝を守り、洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きる、そういうことを大切にしている私たちに対して、最後の審判において問われるのは実はそんなことではないのだ、自分の目の前の一人の小さな貧しい弱い人に手を差し伸べたかどうかが問題なのであって、そこで「私は洗礼を受けました。教会の礼拝に毎週通いました。毎日聖書を読んで祈りました。いっしょうけんめい伝道もしました」などということは何の役にも立たない。そういう私たちに対して主イエスは、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と宣言されるのだ。そして私たちではなく、信仰など持たなかった、教会の礼拝に来たこともない、勿論洗礼も受けていない、しかし一人の小さい者、弱い者、貧しい者のために尽くした人が神様の救いにあずかる。そういうことがここには語られていると言うこともできるのです。つまりこの話は読みようによっては、礼拝を守ったり、聖書を読んだり祈ったりすることよりも、人助けをすること、社会において苦しんでいる人々のための奉仕活動などをすることの方が大事だ、ということにもなる。そういう意味でこれは私たちにとって大変挑戦的な、とまどわせられる、心を揺さぶられる話なのです。

キリストとの関係
 主イエスはこの話によって私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。そのことは、この25章全体の文脈から見えてくると思います。最初に申しましたように、25章には一つのテーマが流れています。それは、主イエス・キリストが世の終わりにもう一度来られ、その主イエスによって審きが行われるということ、その主イエスの再臨にどう備えるかということです。つまり私たちは皆、世の終わりに、主イエス・キリストのみ前に立たなければならない、主イエスこそ私たちを最終的に右と左に、つまり救いと滅びに分ける方なのです。ですから、今私たちが生きているこの人生において最も大事な問題は、この主イエス・キリストとどういう関係を持つかです。最終的な支配者、審き主である主イエスとよい関係を持つことこそが、終わりの日の審きに備えることであり、永遠の命か永遠の罰かの分かれ道なのです。本日のところの話も、このことを前提として読まなければなりません。すべての国の民がイエス・キリストのみ前に集められ、審きを受けるのです。そしてそこで問われることは、「わたし」つまり主イエスに対してどういうことをしたかです。「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」、そういう者たちが永遠の救いにあずかり、「わたし」つまり主イエスに対してそれをしなかった者が永遠の罰を受けるのです。つまり、救いと滅びを分けるのは、主イエス・キリストとの関係、主イエスに対してどのようなことをしたか、あるいはしなかったか、なのです。ですから勘違いをしてはなりません。ここに語られているのは、主イエスのこと、神様のことはどうでもよい、そんなことよりも、一人の弱い貧しい人に手を差し伸べることの方が大事だ、ということではありません。世の終わりに、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る主イエス・キリストとの関係こそが大事なのであって、それが救いと滅びを分けるのです。

わたしにしてくれた
 しかしそのことが、単純に、主イエスを信じ、洗礼を受けて教会に連なり、いわゆる信仰生活を送った人が救われ、そうでない人は滅びる、というふうには語られていない、というところに、この話のポイントがあります。救いにあずかる人々は、主イエス・キリストに対して何らかの奉仕をした、という自覚を持っていないのです。彼らがしたのは、目の前の一人の小さい、弱い、貧しい、助けを必要としている人に手を差し伸べた、親切にした、ということです。そこに語られていることの一つ一つは、そんなに大げさなことではありません。生涯をそのために捧げたというようなことではないし、何百万のお金を注ぎ込んだということでもありません。愛の行為としては最も小さな、身近な、誰にでもできるようなことです。そういう小さな行為の一つ一つを、主イエスは、「それはわたしにしてくれたことだ」と言って下さるのです。あなたはわたしによいことをしてくれた、奉仕してくれた、このことによってあなたとわたしの間にはよい関係が生まれている、と言って下さるのです。そして、だからあなたは永遠の命にあずかるのだと言って下さるのです。この人たちは、主イエス・キリストに仕えたという自覚がない、それは彼らが信仰者ではなかったと読むこともできると申しました。そのように読むならばここには、全ての者の審き主であられる主イエスが、主イエスを信じる信仰をもって生きたのではない人、洗礼を受けたのでもなければ礼拝に集ったこともない、そういう人が、信仰によってではなく行なった一人の小さい、弱い、貧しい人への愛の行為、それを、ご自分に対することとして、「わたしにしてくれた」こととして受け止めて下さり、それによって、その人が意識していなくても、その人と主イエスとの間によい交わりを打ち立てて下さる、そして永遠の命へと受け入れて下さる、そういう恵みを語っていると読むことができるのです。洗礼を受け、信仰者になった者だけが救われるというわけではない、主イエスによる救いはもっと広く、多くの者たちに及んで行くということが語られていると言ってもよいでしょう。それはずいぶん思いきったことのように感じるかもしれませんが、しかし私たち信仰者が救われるということにおいても、実は起っていることはそう変わりません。私たちは、主イエスを信じ、主イエスに仕えようと志しています。信仰を持っていない人との違いは、私たちがそういう自覚を持っているということです。しかしそういう自覚があるからといって、私たちができることは、そうでない人に比べて決して多くはないのです。信仰者になったからといって、洗礼を受けて主イエスを信じる者になったからといって、そうでない人よりもより立派なことができるようになり、世のため人のためにより多くの奉仕をすることができるようになり、より親切な人になれる、などということはない、ということを私たちは自分自身の体験からよく知っています。信仰を持っていなくても、私たちよりずっと立派な、すばらしい愛の行為に生きている人は沢山いるのです。ですから私たちが、最後の審判において主イエス・キリストの前に集められ、主イエスに仕えて何をしたか、と問われるならば、「私はこんなことをしました」と胸を張って言うことはできないのであって、むしろ「何もできませんでした」とうなだれるしかないのです。けれども主イエスは、そのような私たちが日々の生活の中で、共に生きる人々に対してしたごく小さなこと、飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねた、そういうことを、「わたしにしてくれた」と受け止めて下さるのです。そして、「あなたはわたしによいことをしてくれた、だからあなたは永遠の命にあずかるのだ」と言って下さるのです。私たちが最後の審判において、滅びではなく救いにあずかるとしたら、そのような主イエスの恵みによってでしかないでしょう。だとすれば、信仰者でない人にも同じ恵みが与えられても不思議ではありません。この話において救われて永遠の命にあずかる人々は、小さい者の一人を助けるという愛の行為をすることによって救いを獲得したのではなくて、主イエスが、彼らのごく小さな愛の業を、「わたしにしてくれた」ものとして受け止めて下さる、その主イエスの恵みによって救いを与えられているのです。私たちが救われるときにも同じことが起ります。つまり私たちは、信仰者だから救われるのではなくて、主イエスの恵みによって救われることを知っているから信仰者なのです。主イエスがその恵みを、信仰者でない人にも及ぼして下さるとしても、少しも不思議なことはないのです。

どこで主イエスと出会うか
 ここには、救いにあずかることができずに永遠の罰を受ける人々のことも語られています。彼らの姿は私たちに何を教えているのでしょうか。彼らは、主イエスに仕えているつもりでいます。つまり彼らは信仰者なのです。私たち信仰者が真剣に考えなければならないことがここにはあります。私たちの救いは、先ほど申しましたように、主イエス・キリストとの関係によります。主イエスとの間によい関係があるかどうかが、救いと滅びを分けるのであって、そのことが、人生の最大の問題なのです。信仰者はそのことを知っています。この主イエスとの関係を大切にするのが信仰者のあり方なのです。この話はそういう私たち信仰者に、大事なことを教えています。それは、この世の人生において、主イエス・キリストが私たちに出会い、私たちとの関係を持って下さるのはどこにおいてか、ということです。私たちが主イエスと出会い、関わりを持つのは、日常の生活からかけ離れた特別な場においてではありません。主イエスに仕えるというのも、何か特別な、人がしないような働きをすることなのではないのです。主イエスは、私たちの日々の、日常の生活において、私たちがそこで出会い、関わりを持つあの人この人において、私たちと出会って下さり、関わりを持って下さるのです。そこで私たちがするごく小さな、隣人への手助け、支えの手を差し伸べること、要するに身近な人に誠実に関わり、相手のためを思って行動すること、それらのことを主イエスは、「わたしにしてくれた」と言って下さるのです。逆に言えば、それらの身近な具体的な人々との関わりをないがしろにして、主イエスに仕え、従うということはあり得ないということです。私たちが、信仰者として、主イエスとの交わりに生きる、主イエスに従い、仕えて生きる、その信仰の生活は、日曜日に教会の礼拝を守り、あるいは自宅で聖書を読み、祈る、そういうことにおいてのみなされていくのではないのです。私たちの毎日の生活の全ての場面において、そして日々与えられる様々な人との出会いと交わりにおいて、しかもそこでともすれば見過ごしにしてしまいがちな、小さい、弱い人、助けを必要としている人、そういう人との関係においてこそ、私たちは主イエス・キリストとの出会いを与えられるのです。そういう小さな出会い、交わりを大切にしていくことこそが、主イエス・キリストの再臨に備える信仰者の歩みなのだということを、この話は教えているのです。

一タラントンを大切に
 このことは、先々週のイースターの礼拝において読んだ14節以下のタラントンのたとえにおいて、一タラントンを預けられた僕の姿を通して語られていたことと通じると言えるでしょう。他の人には五タラントンや二タラントンが預けられたことと比べるならば、一タラントンはちっぽけなものです。しかしそのちっぽけなものをどう用いるかが大切なのです。滅びに落ちた人々は、自分に与えられている小さなもの、日常の、身近な、ささいな人間関係、それを大切にすることができなかったのです。自分に与えられている一タラントンを、主イエス・キリストとの交わりの機会として生かして用いることができなかったのです。主イエスの再臨を信じて待ち、それに備えて生きるとは、このように与えられている一タラントンを大切にしていくこと、日常の、身近な人との交わりにおいて、主イエスが自分に出会い、関わっていて下さることを覚えて歩むことなのです。

主イエスの恵みの中で
 私たちはこのことを、様々な身近な人々の中に主イエスがおられて、私たちがその人々に、つまり主イエスに、どれだけ親切にするか、ちゃんと助けの手を差し伸べるかどうかをいつも見張っている、というふうにとらえてしまってはなりません。最も小さい者の一人の中におられる主イエスは、私たちの行動を監視し、ひそかに採点しておられるのではないのです。そうではなくて主イエスは、私たちがそれらの人々に対して、ほんの少しでも、どんな小さなことでも、手を差し伸べ、助ける、例えば一杯の水を飲ませるというような、愛の行為と呼ぶにはおこがましいようなことであっても、それをご自分に対する奉仕として喜んで受け止め、私たちを永遠の命にあずからせようと、てぐすねひいて待っていて下さるのです。主イエス・キリストの私たちへの思いは、私たちのあら探しをし、罪を見出して永遠の罰を与えようということではありません。主イエスは、私たちの罪をご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。罪人である私たちを赦し、永遠の命にあずからせようというのがそこに示されている主イエスのみ心です。本日はこの後聖餐にあずかりますが、この聖餐において私たちは、主イエスが私たちのために肉を裂き、血を流して贖いのみ業を成し遂げて下さった恵みを味わうのです。聖餐は洗礼を受けた者のみがあずかることのできるものです。洗礼において私たちは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかって古い自分に死に、主イエスの復活にあずかって、永遠の命の約束を与えられて新しく生きる者とされるのです。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きる、それが私たちの信仰の歩みであり、そのことを私たちは大切にします。それらは決してどうでもよいことではありません。そこにこそ、主イエスが私たちを永遠の命にあずからせようとしていて下さる恵みのみ心が示されているからです。洗礼と聖餐において、その恵みのみ心にあずかっているからこそ、私たちは、その主イエスが、日々の具体的な生活の中で、私たちが出会い、共に生きる全ての人々との交わりの中にいて下さり、そこで私たちが最も小さい者の一人に助けの手を差し伸べることを待っていて下さり、そのことを「わたしにしてくれた」と喜んで下さることを覚え、そのみ心に励まされて、隣人に対する愛の業に励みつつ歩むことができるのです。そして、そのように私たちを恵みによって永遠の命に迎え入れようとしておられる主イエスが、終わりの日にもう一度来て、私たちを審いて下さる、その主イエスの再臨と最後の審判を、希望をもって待ち望みつつ生きることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年5月4日]

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