富山鹿島町教会

礼拝説教

花の日合同礼拝
「あなたの母」
ヨハネによる福音書 第19章25〜27節

 今日は、年に一度、教会学校の子供たちと大人の人たちとが一緒に礼拝を守る、「花の日(子供の日)」です。この行事は普通6月の第二の日曜日にするのですけれども、今年は6月のその日がペンテコステという教会のお祝いの日と重なったので、5月の第二の日曜日である今日することになりました。5月の第二の日曜日というのは、もう一つ意味のある日です。何の日でしょう。そう「母の日」です。お母さんに感謝する日で、カーネーションを送ったりしますね。この母の日というのは、日本でもよく祝われていますけれども、これも実は教会から始まった行事なのです。アメリカの教会で、百年ぐらい前に始まった行事が、日本にも伝わってきて、教会以外でも、お母さんありがとう、という気持ちを表す日になったのです。そういうわけで、今日は花の日と母の日を一緒にすることになりました。

 今日の聖書の箇所は、母の日ということで選ばれたところです。今年、教会学校では、ヨハネによる福音書を読んでいくのですが、ヨハネによる福音書の中から、母の日にちなんで選ばれたのがこの19章25節以下なのです。ここは、イエス様が十字架につけられて殺されようとしている、という所です。そのイエス様の十字架の下に、イエス様のお母さんがいました。ここには名前は出てきませんが、イエス様のお母さんはマリアという人だったということを私たちは知っています。そのマリアさんが、イエス様が十字架につけられて殺されようとしているのを、すぐそばで見ていたのです。お母さんはこの時いったいどんな気持ちだったのでしょうか。自分の子供が、自分の目の前で、十字架に手と足を釘づけられて殺されようとしているのです。殺されるイエス様もものすごく痛かっただろうし、苦しかったでしょうが、それを見ているお母さんも、イエス様と同じくらいにつらかった、悲しかったのではないでしょうか。お母さんにとって、自分の生んだ子供が自分より先に死んでしまうことは、それも殺されてしまうことは、自分が死ぬよりもつらいことだと思います。できることなら自分が身代わりになって、子供を助けたいと思うのです。イエス様のお母さんもそういう気持ちでイエス様の十字架を見つめていたのでしょう。すると、イエス様が、十字架の上からお母さんに声をかけたのです。何と言われたかというと、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。そこには、イエス様のお母さんや何人かの女の人たちのほかに、イエス様のお弟子さんの一人がいました。そのお弟子さんはいつもイエス様の一番おそばにいて、イエス様がとても愛しておられた、かわいがっておられたお弟子さんでした。イエス様はお母さんに、そのお弟子さんのことを「御覧なさい」と言われたのです。そして、「この人があなたの子ですよ」と言われたのです。もともとこのお弟子さんとイエス様のお母さんとの間には血のつながりはありません。親戚でも何でもないのです。でもイエス様は、十字架にかけられて殺されようとしているこの時に、これからはこの人があなたの子供になるのですよ、とお母さんに言われたのです。それは、私の代わりに、ということでしょう。私はこうして十字架につけられて殺されてしまうけれども、これからはこの人が、私に代ってお母さんの子供になって、守ってくれますよ、面倒を見てくれますよ、と言われたのだと思います。それからイエス様はそのお弟子さんにも言われました。「見なさい。あなたの母です」。それは今度はそのお弟子さんに、私のこのお母さんは、今日からあなたのお母さんですよ、私に代ってあなたがこのお母さんを守ってあげてください、面倒を見てあげてください、と頼まれたのだと思います。そのお弟子さんはイエス様のこの頼みをしっかり受け止めました。今日のところの最後に、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。この人は、イエス様の十字架の上での最後の頼みを聞いて、イエス様のお母さんを自分の家に引き取って、自分のお母さんとして敬い、面倒を見るようになったのです。

 このように今日のところには、イエス様が、ご自分が十字架につけられて殺されようとしている苦しさの中で、ご自分のことよりもむしろお母さんのことを心配して、愛する弟子にお母さんのことを頼まれた、ということが書いてあるように感じられます。けれども、よく読んでみると、それは少し違うのかな、とも思うのです。イエス様はここで、愛するお弟子さんに、「わたしのお母さんをよろしく頼みます」と言っておられるのでしょうか。このお言葉はそうではないですね。イエス様はお母さんに、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言っておられ、お弟子さんに、「見なさい、あなたの母です」と言っておられます。これは、「私の代わりにこれからはこの人を子供だと思ってください」とか、「この人をよろしく頼みます」というのとは違う言葉です。簡単に言ってしまえば、イエス様はここで、お母さんには自分の愛する弟子を子供として与えておられ、その弟子にはご自分のお母さんを母として与えておられるのです。そういうことを十字架の上でなさっている。イエス様の十字架のもとで、お母さんはイエス様から子供を与えられているし、弟子はイエス様からお母さんを与えられているのです。

 それって何のことだろう、と思うかもしれません。でも実はこのことは、私たち一人一人に、今起っていることなのです。私たちは、大人も子供も、毎週日曜日にこうして教会に集まって神様を礼拝しています。その教会には必ず十字架があります。この礼拝堂も正面に十字架があって、今日のように曇りの日にもけっこう明るく輝いています。つまり私たちは、十字架のもとに集められて礼拝をしているのです。今日の聖書の箇所で、イエス様の十字架の下にお母さんとお弟子さんたちがいるのと同じです。そして、この十字架の下で、お母さんは子供を、弟子はお母さんを、イエス様から与えられたのです。それと同じことが今私たちにも起っています。十字架のもとに集まって礼拝をする私たちは、ここで、イエス様から、お父さんやお母さんを、また子供たちを、与えられるのです。

 今日は大人と子供が一緒に礼拝を守っています。教会学校の生徒の皆さんは、ちょっと周りを見回してみて下さい。沢山の大人の人たちが、皆さんと一緒に礼拝をしておられます。中には、皆さんのお兄さんやお姉さんぐらいの人もいるし、お父さんやお母さんぐらいの年の人もいるし、おじいちゃんやおばあちゃんぐらいの人もいます。あるいは、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんぐらいのお年の人もいます。教会には、子供からお年寄りまで、沢山の人たちが集まって神様を礼拝しているのです。そしてイエス様は今、私たちに、ここに集まっている人たちみんなが、あなたの家族なんだよ、と言っておられるのです。教会に集まってイエス様の十字架を見上げながら礼拝をするときに、私たちは、イエス様から、お兄さんやお姉さん、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんを与えられて、神様の家族にされるのです。皆さんにはそれぞれお家に、お父さんやお母さん、あるいはおじいちゃんやおばあちゃん、そういう家族がいて、皆さんのことをいつも大切に思って見守っていて下さるでしょう。愛していて下さるでしょう。でも中には、いろいろな事情があって、お父さんやお母さんのどちらかが、あるいは両方とも、いない、という人だっています。おじいちゃんやおばあちゃんは遠くに住んでいて、年に何回かしか会えない、という人もいます。血のつながった家族ということで言えば、皆それぞれにいろいろな事情があって、いつも家族の愛の中で暖かく守られている、というわけにはいかないことも多いのです。でも、たとえそうであっても、教会に来れば、皆さんには、こんなに大勢の、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんがいるのです。こんなに沢山の家族がいるのです。イエス様が私たちに、こういう家族を与えて下さっているのです。イエス様が十字架にかかって死んで下さったのは、私たちをこのように結び付けて、十字架のもとで一つの家族として下さるためだったのです。今日の聖書の箇所は、そういうふうに、イエス様の十字架の下で、私たちに、新しい、神様のもとでの家族が与えられる、ということを教えてくれているのです。

 今度は大人の方々に申します。主イエスの十字架のもとに集い、こうして共に礼拝をささげていくことによって、私たちは、主イエスを頭とする神様の家族とされます。共に礼拝を守っているあの人この人を、主イエスは「この人はあなたの母です。子です」と言って私たちに与えて下さるのです。教会学校に集っている子供たちは、私たち皆に主イエスから与えられている子供たちです。この子供たちを、主イエスから与えられた子供たちとして、私たち皆で愛し、心にかけ、祈り、はぐくみ育てていきたいのです。母マリアは、最愛の息子が十字架にかけられて殺されるという悲しみを味わいました。皆さんの中には、このマリアと同じ悲しみを体験しておられる方がいます。子供に、あるいは孫に、先立たれるという悲しみは、言葉に言い尽くすことのできない、また、どんな慰めや励ましも虚しく感じられるようなものだと思います。マリアは、その悲しみのさ中に、主イエスから、新たに子を与えられました。それは失った子供の代わりの、埋め合わせの子を与えられたということではなくて、主イエスが、私たちの罪と悲しみの全てを背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは、その主イエスのもとで、全く新しい、神様の家族の一員とされて新しく歩み出すことができるようになった、ということです。十字架の主イエスは、子を失った悲しみの内にある母親に、そういう恵みを与えて下さる方なのです。また、私たちの中には、子供を与えられていない人もいます。子供は神様からの授かりものですから、願っていても与えられないということもあります。そのことも、悲しみ苦しみの原因になるし、そのことで引け目を感じさせられたりもするのです。しかしそのような人も、主イエスの十字架のもとに集う教会において、多くの子供たちを与えられるのです。私たちが神様の家族とされている、兄弟姉妹とされているというのはそういうことなのです。

 教会学校の皆さんは、午後、お花を持って、93歳のおばあちゃんを病院に訪問します。皆さんにとってはひいおばあちゃんぐらいに当たる、あるいは今赤ちゃんである人から見れば、もう一世代上に当たる方かもしれません。そんなふうに年が離れていても、イエス様を信じることで、私たちは一つの家族です。イエス様が、私たちみんなを、赤ちゃんからお年寄りまで、一つの家族として下さっていることを覚えて、感謝したいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2003年5月11日]

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