富山鹿島町教会


礼拝説教

「主イエスの洗礼」
イザヤ書 第42章1〜4節
マタイによる福音書 第3章13〜17節

本日の礼拝において、この説教の後に、讃美歌21の277番、「罪なき神の子」という讃美歌を歌います。この讃美歌は、本日の聖書の箇所に語られていること、主イエス・キリストが、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた、そのことを歌っている讃美歌です。この讃美歌のタイトルの上に、「教会暦 公現」とあります。「公に現れる」と書いて「公現」です。教会の暦において、1月6日、つまり先週の木曜日が「公現日」と呼ばれる日でした。先週申しましたように、この日までがクリスマスの祝いの時とされているのです。この公現日は、東の国の博士たち、新共同訳の言葉で言えば占星術の学者たちが、贈り物を携えて生まれたばかりの主イエスのところに来た、そのことを記念する日とされてきました。この東の国の学者たちの来訪は、神の民ユダヤ人でない異邦人たちに、主イエスが救い主、まことの王であられることが示されたということを意味しています。そのことから、この日が、主イエスのことが全世界に公に現わされたことを記念する日、公現日として祝われていったのです。しかしこの公現日は、もともとは、主イエスが洗礼を受けられたことを記念する日でもありました。それゆえに、この讃美歌が「公現」の讃美歌とされているのです。1月6日の公現日が主イエスの受洗する日であるならば、それに一番近い本日の礼拝において、この箇所を読むことは相応しいことです。

さて、本日の箇所の最初の所、13節に、「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」とあります。この「来られた」は、単にどこそこへ来た、という言葉ではありません。これは原文においては、3章1節に、「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」とあった、「現れて」と同じ言葉です。口語訳聖書はそれを生かして、「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ」と訳していました。主イエスの道備えをする洗礼者ヨハネが先ず現れ、次いでいよいよ救い主イエス・キリストが現れた、ということをマタイは語っているのです。ヨハネが前座を務め、いよいよ真打の登場というところでしょうか。その真打としての主イエスの登場はどのようであったか、現れた主イエスは真っ先に何をなさったのか、それが本日の箇所の主題です。主イエスが先ずなさったのは、ヨハネから洗礼を受けることでした。

ヨハネは、ユダヤの荒れ野のヨルダン川のほとりで、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語り、人々に、悔い改めの印である洗礼を授けていました。洗礼を受けるために、人々はヨハネのもとで、自分の罪を告白し、神様の赦しを祈り求めたのです。つまり洗礼は、罪人が、悔い改めて神様の赦しを受けることを現わす象徴的な儀式です。しかもそれは、その儀式さえ受ければ罪が洗い清められて赦される、というような安易なものではありません。ヨハネは、洗礼を受けにやって来たファリサイ派やサドカイ派の人々、当時の宗教的指導者たちに、「悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、差し迫った神の怒りを免れることはできない」と激しく語ったのです。その「悔い改めにふさわしい実」とは、先週申しましたように、何か具体的に良い事をする、というようなことではありません。それは悔い改めが本物となること、つまり、神様の赦しなしには救われることのできない者であることを心から認め、自分の中にある何物にも頼ることなく、ひたすら神様の恵みを求めることです。そういう真実な悔い改めの印としての洗礼をヨハネは人々に授けていたのです。その洗礼を主イエスもお受けになる。それが、主イエスが現れ、舞台に登場されて真っ先になさったことだったのです。

ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとした、ということが14節に語られています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と彼は言っています。つまり、これでは立場が逆です、ということです。ヨハネは、先週読んだ11節で、自分の後に、自分より優れている方が来られる、と語っていました。自分はその方のために道を整える者に過ぎない、前座に過ぎないという自覚をヨハネははっきりと持っていたのです。そして、自分が授けている水による洗礼は、その方がお授けになる聖霊と火による洗礼、それは12節によれば、この世と全ての人々をお裁きになるということですが、その洗礼に比べれば影のようなものに過ぎない、と言っていたのです。自分の後から来るこの方こそが、本当の意味で洗礼をお授けになる方だということです。その方がいよいよ現れた、ヨハネは主イエスを見たとたんに、この方こそその人だということが分かったのです。それは別に主イエスに後光がさせいていたからでも、特別な様子をしておられたからでもありません。他の人々は主イエスを見ても誰もそんなことはわからなかったのです。しかしヨハネだけは、救い主の道備えをするという使命を神様から与えられた者として、この方こそ救い主であるということが分かったのです。ところがその真打である主イエスが、前座に過ぎない彼から洗礼を受けようとなさる。それでは立場が反対です、とヨハネは言ったのです。

ヨハネがこのように、主イエスの受洗を思いとどまらせようとしたことは、マタイ福音書のみが語っています。マタイのみが記しているこのヨハネの言葉の意味を、私たちは正しく受けとめなければなりません。というのは、ともすれば私たちはこれを間違って読んでしまうことが多いように思うからです。ヨハネは、主イエスが自分から洗礼を受けるなんて相応しくない、と言ったわけですが、それは、あなたは何の罪もない方なのだから、悔い改めの印である洗礼を受ける必要などはない、ということではなかったのです。ヨハネが言っているのは、「あなたこそ洗礼を授けるべき方であって、私はむしろ受けるべき者であるのに、これでは立場が逆だ」ということです。主イエスに罪があるとかないとか、悔い改めの必要があるとかないとか、そんなことは一言も語られていません。ところが私たちはこのヨハネの言葉を、そのように読んでしまうことが多いのではないでしょうか。イエス様は何の罪もない方なのだから、悔い改めの洗礼を受ける必要はない、ヨハネもそう思ったに違いない、と。けれどもヨハネはここで、そんなことを言ってはいないのです。そんなことを言っていないというのは、彼がイエス様も罪人だと思っていたということではありません。そうではなくて、ヨハネは、自分は主イエスのことを、罪があるとかないとか判定して、だからあなたは洗礼を受ける必要があるとかないとか言うような立場にはないと思っているのです。彼が言っているのは、私こそあなたに救っていただかなければならない者です、ということです。もしも彼が、「あなたは罪のない方ですから、私から洗礼を受ける必要はありませんよ」と言ったとしたら、その時ヨハネは、主イエスよりも上に立ち、主イエスのことを評価、判定するような立場に身を置いていることになります。それこそ、前座が真打に対してするべきことではないと言わなければならないでしょう。しかし私たちは知らず知らずのうちに、そういうことをしてしまっているのではないでしょうか。イエス様に罪があったとかなかったとか、悔い改める必要があったとかなかったとか、洗礼を受けるのが相応しいか相応しくないかとか、私たちがそんなことをあれこれ考えるのは、それこそ身の程知らずの傲慢です。私たちがしなければならないことは、このヨハネと共に、自分が主イエスから洗礼を受け、救っていただかなければならない者であることをはっきりとわきまえることなのです。

「これでは立場が反対です」と言ったヨハネに対して主イエスはこのようにお答えになりました。15節、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。主イエスのお答えにも注目しなければなりません。主イエスもまた、ヨハネに対して、「いや、私もあなたがたと同じ罪人の一人なのだ」と言われたのではなかったのです。主イエスはここで、そんな変な謙遜をしておられるのではありません。私だって悔い改めなければならない罪人の一人だ、と言っておられるのではないのです。そうではなくて主イエスはここで、「正しいことをすべて行おう」と言っておられるのです。この「正しいこと」という言葉は、他の所では「義」と訳されている言葉です。5章の10節に「義のために迫害される人々は幸いである」とあるその「義」です。5章20節には「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とあります。この「義」も同じ言葉です。これらの箇所を通してわかることは、この「義」という言葉が、人間が行うべき正しいこと、という意味で使われているということです。主イエスはここで、その義を行おう、人間としてなすべきことをしよう、と言っておられるのです。それが、主イエスがヨハネから悔い改めの印である洗礼を受けることの意味なのです。主イエスもここで、自分が洗礼を受ける必要があるかどうか、悔い改める必要があるかどうか、などということを言ってはおられません。主イエスが洗礼をお受けになったのは、それが主イエスにとって必要だったからではなくて、それが人間として正しい、なすべきことだからなのです。主イエスは、一人の人間として、正しい、なすべきことを全て行われる、それが主イエスの受洗の意味です。神様のみ前に罪を告白して、悔い改め、赦しを願うことは、人間が、人間として生きる上で最も基本的な、なすべきことなのです。主イエス・キリストは、そのことを、私たちの先頭に立ってして下さったのです。ヨハネはそのことに驚きました。救い主、むしろ洗礼を授けるべき方である主イエスが、悔い改めの印である洗礼を受ける方としてこの世に登場されたのです。それは、彼が思っていた真打の登場の仕方とは全く違っていました。しかしそこにこそ、主イエスを遣わされた父なる神様のみ心があったのです。 ヨハネは言われた通り、主イエスに洗礼を授けました。ヨルダン川の水に全身をどっぷりと浸し、そして出て来るという洗礼です。主イエスが水から上がられると、「天がイエスに向かって開いた」と16節にあります。そして主イエスは、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」のです。ここは、マルコによる福音書と同じ書き方になっています。洗礼を受けた主イエスに、神の霊、聖霊が降ったのです。その時天から聞こえた声が次の17節に語られていますが、ここは、マルコやルカとマタイでは書き方が違っています。マルコとルカにおいては、天からの声は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」でした。マタイではそれが「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」となっています。両者の違いは、これが誰に対して語られた言葉であるか、という点です。マルコとルカの方では、「あなたは」と主イエスご自身に対する言葉となっています。つまり、聖霊が降り、父なる神様から主イエスに、「あなたはわたしの愛する子である」という宣言が与えられたのです。この天からの言葉は、詩編第2編7節の引用であると考えられます。そこには「お前はわたしの子、今日、私はお前を生んだ」とありますから、その意味では「あなたは」というマルコやルカの方がもともとの形なのかもしれないと思われます。それではマタイにおいて「これはわたしの愛する子」と言われていることの意味は何なのでしょうか。こちらの場合には、語られている相手は主イエスではなくて、ヨハネを始めとして、そこに共にいる人々、主イエスの受洗を目撃した人々ということになります。この福音書を読んでいる私たちもそこに含まれていると言ってもよいでしょう。私たちに対して、父なる神様が、主イエスこそご自分の独り子であると宣言なさったのです。主イエスの受洗に続いてこの宣言が語られたことによって、神様は私たちに、「私は自分の独り子を、人間として正しい、なすべきことを、人々の先頭に立って行う者としてあなたがたのもとに遣わした。その最初の業として、イエスは悔い改めの洗礼を受けた。このようにしてこの世に登場したこのイエスこそ、私の子である」と宣言なさった、マタイはそこに強調点を置いて語っているのです。

そしてこの天からの声には、もう一つ、とても大事なことが示されています。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、今申しましたように詩編第2編7節の「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という言葉と関係があります。この詩は、主なる神様が、この世に救い主を遣わし、王として即位させ、そしてその救い主に「お前はわたしの子である」と宣言して下さる、つまり神様に遣わされた救い主、王に、神の子としての自覚が与えられることを語っているものです。この詩編の言葉からするならば、マルコやルカ福音書のように「あなたは…」と主イエスに対する語りかけとなっていた方が相応しいわけです。しかしこのマタイのように「これは…」という言い方になる時、そこには、旧約聖書のもう一つの箇所とのつながりが深くなっていくのです。それが、本日共に読まれた、イザヤ書42章の1節です。そこをもう一度読んでみます。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」。ここには「わたしの子」という言葉はありません。「わたしの僕」です。しかし、「わたしの心に適う者」という言葉の持つ響きは、「わたしが支える者」「わたしが選び、喜び迎える者」というところと共通しています。これらを一言でまとめれば「わたしの心に適う者」となるのです。また「彼の上にわたしの霊は置かれ」というのも、聖霊が主イエスの上に降ったことと対応します。ですからこの天からの言葉は、詩編第2編7節とイザヤ書42章1節が結合されて出来ていると言うことができるのです。そして、「あなたは」という場合には詩編の方の響きが強いのに対して、マタイの「これは」は、イザヤ書の方により傾いている、そちらが中心になっていると言えます。イザヤ書においては、神様が、み心に適う僕を人々に差し示し、この人を見よ、ここにこそ私の与える救いがある、と宣言しておられるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉にはそれと同じ意味があると言えるでしょう。そして、この主のみ心に適う僕が、どのような救いを与えてくれるのか。イザヤ書はこの42章以降に、「主の僕の歌」と呼ばれる部分を4箇所にわたって語っていきます。その最後、クライマックスに当たるのが、53章です。そこには、主の僕が、人々の罪を背負って、苦しみを受け、罪人の一人に数えられて、殺される、そのことが、多くの人の罪の赦しのためのとりなし、贖いの業となり、その僕の受けた傷、苦しみによって、救いが与えられる、ということが語られていくのです。神様のみ心に適う者、主の僕はそのように、自らの苦しみと死とによって人々の罪を赦し、救いを与えて下さるのです。それゆえにその方は、42章3節にあるように「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」救いを実現させる方なのです。その主の僕こそ、イエス・キリストであり、しかもその主イエスは同時に、神様の愛する独り子であられる、神様がご自分の独り子を、私たちの罪を背負って死んで下さる僕としてこの世に遣わして下さったのだ、ということが、ここに示されているのです。

イザヤ書が語るこの主の僕とのつながりを見つめる時に、主イエスがここでヨハネから悔い改めの洗礼を受けられたことの意味がさらに明らかになります。主イエスは、人間として正しい、なすべきことである悔い改めを私たちの先頭に立ってして下さった、それがこの受洗の意味だと申しました。それはさらに、主イエスが、私たちの罪を、ご自分の身に引き受け、それを代わって担って下さるということでもあるのです。神様のみ前に罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるという、私たちがしなければならない一番大切なことを真っ先に行う方としてこの世に現れて下さった主イエスが、その生涯の最後には、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そこに、神様の赦しの恵みが与えられました。罪を告白して悔い改めの洗礼を受けるのは、神様の赦しを願い求めるためです。人間の悔い改めが人を救うのではありません。そこに神様の赦しが与えられることが救いになるのです。その赦しを、神様の愛する子、み心に適う者であられる主イエスが、十字架の死と復活とによって、私たちのために確立して下さったのです。そしてその赦しを私たちに与えて下さるために、主イエスは洗礼の印を定めて下さったのです。ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、私たちの悔い改めの先頭に立って下さった主イエスは、十字架の死と復活とを通して、いよいよ、私たちに洗礼を授ける方としての権威を与えられたのです。そのことは、この福音書の最後の所、28章18節以下に語られています。「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」。今や私たちには、この主イエス・キリストのもとでの、父と子と聖霊の名による洗礼が与えられています。その洗礼は、ヨハネが授けていた悔い改めの印である洗礼を受け継ぎつつ、悔い改めの印であるのみでなく、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しと、復活による新しい命の印でもある洗礼です。教会は、その洗礼を受けた者たちの共同体です。そして洗礼を受けた者は、この後行われる聖餐に共にあずかります。私たちは聖餐において、主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架の上で死んで下さった、その体と血とにあずかり、その恵みを味わいつつ歩むのです。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ歩むことは、特別に立派なことでもなければ、特別に変わったことでもありません。むしろそれは、神様の恵みの中で、人間として、正しい、なすべきことをして生きる、自然なことです。その歩みの先頭には主イエス・キリストが立っておられます。私たちのために洗礼を受けて下さった主イエスが、私たちを洗礼へと招き、聖餐にあずかって生きる者として下さるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年1月9日]

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