富山鹿島町教会


礼拝説教

「主を試みる」
申命記 第6章1〜19節
マタイによる福音書 第4章1〜11節

主イエス・キリストが、ガリラヤで伝道を開始される直前に、荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになり、それに打ち勝たれたということを語っているマタイによる福音書第4章1〜11節を、先週に続いてこの礼拝においても読みたいと思います。先週はふれませんでしたが、1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。荒れ野で悪魔から誘惑を受ける、その場へと主イエスを導いたのは「霊」であった、と語られているのです。この「霊」は、3章16節に出てきた「霊」です。主イエスは、ヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。すると、天がイエスに向かって開き、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になったのです。神の霊が主イエスに降った、そして次の17節には、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたとあります。主イエスはここで神様の霊を受け、神様が主イエスこそわたしの子である、と宣言して下さったのです。その神の霊が、荒れ野の誘惑へと主イエスを導いたのです。つまりこれは神様のご意志でした。主イエスが伝道を開始し、神の子である救い主として活動を始められる前に、悪魔の誘惑を受けることを、父なる神様ご自身が望まれたのです。それは何のためだったのでしょうか。 それは一つには、これから救い主としての活動を始める主イエスに、それにふさわしい決意を与え、また救い主として歩むべき道をはっきりと確認させるためであったと言うことができるでしょう。つまり主イエスご自身のために、救い主として歩むための準備として、この荒れ野の誘惑が必要だったということです。けれども事はそれだけではないと思います。この悪魔による誘惑の出来事は、主イエスのためのみのことではありません。それはむしろ私たちに、神様が独り子主イエスによって与えて下さる救いとはどのようなものかを示す、という意味があるのです。つまり荒れ野の誘惑は私たちのためだったということです。そのことは別の角度からも言うことができます。主イエスが洗礼をお受けになった場面の3章15節に、こういう主イエスのお言葉が記されています。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。主イエスは、「正しいことをすべて行おう」として洗礼をお受けになったのです。その「正しいこと」というのは、神様の前で生きる人間の行うべき正しいこと、という意味です。つまり主イエスが洗礼をお受けになったのは、ご自分の必要のためと言うよりも、神様の前で、神様との交わりの中で生きる、つまり信仰を持って生きる、その私たちのなすべき正しいことを先頭に立って行って下さるためだったのです。神様に罪を告白して悔い改め、その赦しを求めて生きることこそ、神様の前での人間の正しいあり方です。ヨハネの洗礼はそのことの印でした。主イエスは私たちにその正しい道を示すために洗礼を受けて下さったのです。荒れ野の誘惑にもそれと同じ意味があります。主イエスは私たちの先頭に立って、悪魔の誘惑を受け、それを退けて、父なる神様に従う道を示して下さったのです。つまりここに語られている悪魔の誘惑は、主イエスに対する誘惑であると同時に、主イエスを信じ、主イエスに従って、信仰者として生きようとする私たちにも襲いかかってくる誘惑であるということです。ですから、主イエスがどのようにこの誘惑に打ち勝たれたかは、私たちが信仰者としてどのように歩むべきであるかを教えているのです。

そのような観点から、改めてこの荒れ野の誘惑を見つめていきたいのですが、本日は特に第二、第三の誘惑をとりあげたいと思います。第二の誘惑とは、悪魔が主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子ならここから飛び降りてみろ。天使たちがちゃんと支えてくれると聖書に書いてあるではないか」と言ったということです。これが私たちにとっても誘惑となるのはどういう意味においてでしょうか。悪魔がここで飛び降りてみろと言っているのが、「神殿の屋根」であることがミソです。荒れ野には、高い崖も沢山あったでしょうが、悪魔はわざわざ主イエスを「聖なる都」つまりエルサレムの神殿の屋上に連れて行ったのです。それは、神殿には多くの人々が集まっているからです。その多くの人々の前で、屋上から飛び降りて、天使たちによって無事に地上に降り立つことができるところを見せてやれ、と悪魔は言っているのです。だからこれは、荒れ野の、誰も見ていない崖から飛び降りるのではだめなのです。つまりこの誘惑の持つ意味は、主イエスが、ご自分こそ神の子、救い主であられ、神様の力と権威を持っておられる方なのだということを、人々に、見える仕方でわからせてやればよい、納得させてやればよい、ということです。神殿の屋上から飛び降りることができるような、誰にも出来ないことをする力を示せば、誰もが、この方こそ救い主だ、この方についていけばよいのだと思うだろうということです。そしてこのことは、救い主としての活動を開始しようとしている主イエスにとって誘惑であると同時に、私たちにとっての誘惑でもあるのです。私たちは、主イエスが、そのような仕方で、ご自分こそまことの神の子、救い主であられることを示してくれることを求めているのではないでしょうか。主イエスを信じ、従っていけばよいのだということをはっきりと自分に納得させてほしいと思っているのではないでしょうか。悪魔がここで主イエスに言っているのは、そういう人々の求めに応えてやれ、ということなのです。この求め、願いは、私たちにも、二千年前の主イエスの当時の人々にも、同じようにありました。人々が主イエスに、「天からのしるし」を求めたということが別の箇所に語られています。それは、主イエスこそ神様から遣わされた救い主であるというはっきりとした証拠を示して欲しいということです。神殿の屋上から飛び降りることは、まさにそのしるしとなるでしょう。そういうことによって納得することができれば、主イエスを信じ、従っていくことができる、という思いは、昔も今も少しも変わらずに私たちの中にあるのです。

主イエスはこの、しるしを求める、証拠を求める人々の思いに対して、12章39節で、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言ってそれを拒絶されました。それと同じことが、この第二の誘惑において既になされていたのです。主イエスは、ご自分が神の子、救い主であることの目に見えるしるし、証拠を示したらよいという悪魔の誘惑を退けられたのです。ということは即ち、そのようなしるしを求める私たちの求めを拒否なさったのです。これによって主イエスは私たちに、主イエスが神の子、救い主であるということのしるしや証拠を求めても、それは与えられないということをお示しになったのです。 主イエスがしるしを示すことを拒否されたのは、「あなたの神である主を試してはならない」という聖書の言葉によってでした。しるしを求めること、証拠を求めることは、神様を試すことだと言われたのです。神様を試す、あるいは試みる、それはどういうことでしょうか。この言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第6章の16節です。そこには「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」と言われていました。そのマサにいたときにしたことというのは、出エジプト記の17章に語られています。エジプトを出て荒れ野を歩んでいたイスラエルの人々は、飲み水がなくなり、モーセと神様に向かって不平を言ったのです。そのとき人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言った、それが主を試したことなのです。「主は我々の間におられるのかどうか」、つまり、神様が本当に共にいて下さるのか、私たちの神として、導き、養い、支えていて下さるのか、苦しみの中で、そのことが疑わしくなってしまう、そして、そのことを確かめたくなる、そのことを確かめるためのしるし、証拠が欲しくなる、そのようにして、主を試す、試みることが始まるのです。聖書はそれに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と語ります。主イエスもそれを受けて、主を試そうとするような求めに応えてしるしを与えるつもりはないと言われるのです。しかし私たちはそこでこう思うのではないでしょうか。「主よ、それは酷ではないですか。何のしるしも、証拠もなしに、ただ主イエスを救い主と信ぜよと言われても、そんなことができるのは、よっぽどのお人好しか、よっぽどの考えなしか、どちらかです。あなたは私たちに、そういうおめでたい者になれと言われるのですか」。実際世の中には、信仰を持って生きている人のことを、そういうふうに見ている人が沢山います。「あんなふうに神を信じることができるなんて、あの人はずいぶんお人好しだ、あんなふうに神を信じることができたらずいぶん楽だろうけれど、わたしはそんなにおめでたい人間ではない」。そういう思いが、私たち信仰者の中にだって時として起こってくるのです。そういう時に私たちは、神様のことを確かめたくなる、本当に納得できる証拠を求めたくなる、つまり神を試したくなるのです。それは否定することのできない私たちの思いです。 しかしそこで私たちはよく考えてみなければなりません。それでは、どんな証拠があれば、どんなしるしが与えられれば、私たちは納得するのでしょうか。神殿の屋上から軽々と飛び降りる主イエスのお姿を見れば、それで納得するのでしょうか。そのお姿を見たとしたら、私たちは主イエスの前にひれ伏して従っていくでしょうか。いや、その前に私たちはきっとこう言うに違いありません。「イエス様、そんなお力をお持ちなら、今度は私のこの悩み苦しみを取り除いて下さい、私の、家族のこの病気を癒して下さい、私の願うこのことを実現させて下さい、それをしていただけるなら、あなたが恵み深い方であることを納得します」。私たちが神様を試し、納得出来る証拠が欲しいと思う時に、私たちが求めていることは結局これなのです。つまり神様が自分の願いをかなえてくれるかどうか、自分の思い通りに動いてくれるかどうか、私たちが納得するというのは、そのことを納得することなのではないでしょうか。逆に言えば、神様がどんなに大きな力を示して下さったとしても、自分の願い通りにしてくれないうちは、私たちはどこまで行っても納得することはないのではないでしょうか。神様を試みようとする思い、納得できる証拠を求めようとする思いというのは、結局の所、神様を自分のために利用しようとしているのです。自分のための神様の利用価値を測っているのです。それは、種々の占いにおける思いと同じです。占いは、人間が不幸を避け、幸福を求めていくために、不幸の原因となる様々なことを指摘し、それを避けて幸福を得るための道を示します。名前の字画がどうとか、家の方角がどうとか、使っている印鑑がどうとかです。それらのことは全て、人間が不幸を避け、幸福を得るために利用していくものなのです。しかし、生けるまことの神様を信じることは、それとは全く違います。神様は、人間が利用して自分の目的を適えたり、幸福を得るための手段ではないのです。神様を信じて生きるのは、その神様が自分の願っていることを適えてくれる、自分の思い通りの幸福を与えてくれるからではありません。そういうことはなくても、神様が神様であるから、信じ従っていくのです。いやむしろ神様は時として私たちに苦しみをお与えになります。どうしてこんなことが起こるのか、神様の守りや導きはどこへ行ってしまったのか、と思うようなことが襲いかかってくることがあるのです。しかしそれでも神様を信じて生きる、それが神様の前での人間のあるべき姿です。そこで、神様のことを試し始め、神様の恵みを確かめ始めるときに、私たちは、生けるまことの神様との交わりを失い、占いの世界、人間が神を利用する世界に陥っていくのです。

第三の誘惑もこのこととつながっています。悪魔は主イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言ったのです。この誘惑は、主イエスに、この世の国々とその繁栄を求めさせようとする、そのために悪魔の前にひれ伏させようとする、つまりいわゆる悪魔に魂を売り渡させようとするものであると言うことができますが、しかしそれは表面的な意味に過ぎません。悪魔はここで主イエスに、一つのことを認めさせようとしているのです。それは、この世の国々とその繁栄とは、自分、つまり悪魔のものだ、ということをです。悪魔の前にひれ伏してそれを求めるというのは、それらが悪魔のものだと認めたことになるのです。けれども、この世の国々やその繁栄は、悪魔のものではありません。世俗的な国家権力や、物質的な繁栄は悪魔のものだ、などということを聖書は語っていないのです。国家も、その物質的繁栄も、全て主なる神様のものです。主なる神様のみ手の中にあるのです。悪魔はそれが自分のものであり、自分の手の中にあるかのようにふるまい、主イエスにそれを認めさせようとしています。そこにこの誘惑の根本があります。その誘惑を主イエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、やはり申命記6章13節の言葉によって退けられました。それは、拝むべき相手、仕えるべき相手は主なる神様お一人だということですが、今申しましたこととの関連で言えば、この世の全てのもの、その国々や繁栄の全ても、主なる神様のものだということです。この世の繁栄、富や名誉や、そういう人間が喜びとするものも全て、主なる神様から与えられるのです。その神様が、先程申しましたように、苦しみや不幸をもまた私たちにお与えになるのです。喜びにせよ苦しみにせよ、全ては天地を造られた主なる神様から来るのです。だから、喜びにおいても苦しみ悲しみににおいても、神様を信じ、神様のみ前で、神様との交わりの中に生きるのです。それが信仰です。私たちはそのことに耐えられなくなって、神様を試そうとします。恵みを確かめようとします。そこには、恵みの神しか神として認められない、という思いがあるのです。様々な占いが生まれてくるのも、これと同じように、ただ一人の主なる神様を拝み、仕えていくことに耐えられないということからです。占いは、人間の運命、私たちの人生の歩みにおける幸福や不幸が、神様のみ心ではない何か別のものによって左右されている、ということを前提としています。それは名前の字画であったり、家の方角であったりと、いろいろですが、そういったものが私たちの運命を左右していると考えることは、生けるまことの神様がこの世の全てをみ手の内に置いておられることを否定することです。ですからそれは悪魔がここで言っていることと同じなのです。占いに身を屈することは、ひれ伏して悪魔を拝むのと同じことなのです。

ただ一人の主なる神様が、この世界の全てを、私たちの人生をも、み手の内に置いておられる、その神様から、喜び、幸福も来るし、苦しみ悲しみも来る。そうすると私たちの人生は、この神様の気紛れによって左右されているのでしょうか。そうだとすればそれは神様と言うよりも、むしろ運命と言った方がよいものではないかとも思えます。運命の荒波に翻弄されているだけのことではないか。そして運命ならば、確かに、私たちを納得させるしるしとか証拠などを与えてはくれないのです。神様というのは結局この運命のことなのか、だからしるしは与えられないし、ただそのなすところをあきらめて受け入れるしかないものなのか、そんなふうに思ってしまう人もいるかもしれません。しかしそれは違います。神様は、運命の別名ではないのです。神様は、私たちが神様の利用価値を測っていこうとする、その思いを納得させるようなしるしはお与えになりません。しかし主イエスは、先程読んだ13章39節で、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言っておられます。しるしは全く与えられない、と言っているのではないのです。神様が私たちに与えて下さるしるしがあるのです。それは「預言者ヨナのしるし」です。それはその次の40節にあるように、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」というしるしです。それは、主イエス・キリストが、十字架にかけられて殺され、三日目に復活する、そのことを言っているのです。この、主イエス・キリストの十字架の死と復活というしるしが与えられている。神殿の屋上から飛び降りるようなしるしは与えられないけれども、このキリストの十字架と復活というしるしによって、私たちは、神様の恵みを知るのです。その恵みというのは、神様の愛する独り子が、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって神様が私たちを赦し、恵みの内に新しく生かして下さるということです。ここに、神様の私たちへの深い恵みと愛が証しされています。神様は、何のしるしも証拠もなしに、ただ黙って従えと言っておられるのではないのです。私たちが求めるしるしや証拠以上のものを、独り子の命を、ご自身の愛のしるしとして与えて下さっているのです。私たちはこのしるしによって、神様の愛を確信して、その神様のみ前で、神様と共に歩むのです。このしるしは、神様を自分のために利用しようとする私たちの思いを納得させ、満足させるようなものではありません。けれども、このしるしによって、主イエス・キリストの苦しみと死における神様の愛を知るならば、私たちは、喜びや幸福の中においても、また苦しみ、不幸の中においても、神様の自分に対する愛を見失うことなく歩むことができるようになるのです。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活による神様の愛の中にあるを私たちは、もはや神様を試す必要がありません。占いの世界に陥ることもありません。喜びにおいても悲しみにおいても、ただ主イエス・キリストの父なる神様を拝み、仕えていく者であることができるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年1月23日]

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