富山鹿島町教会


礼拝説教

「死の陰の地に光が」
イザヤ書 第8章23b〜9章6節
マタイによる福音書 第4章12〜17節

本日この礼拝のために与えられている聖書の箇所は、マタイによる福音書第4章12〜17節です。ここには、主イエス・キリストが、人々にみ言葉を語り始められた、伝道を開始されたことが語られています。それまでは、主イエスは全く無名の人でした。しかしこの伝道開始によって、人々の前にご自分を現わされたのです。それは主イエスが30才ぐらいの時のことであったと言われます。ここからの主イエスの歩みを、公生涯、公の生涯と言うことがあります。人々の前にご自分を現わされた歩みです。その公生涯は長くて3年ほどであったと言われます。3年後には、主イエスは十字架につけられて殺されてしまうのです。福音書はどれも、この主イエスの3年間の公生涯のことを集中的に語っているのです。

主イエスの公生涯はどのようにして始められたか、つまり伝道はどのように開始されたか、それは17節に語られています。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。「そのときから」の「そのとき」とはいつでしょうか。14節から16節には、旧約聖書イザヤ書からの引用がなされています。先程共に読まれた箇所です。この引用は、その前の12、13節において語られたことを受けて、このことは旧約聖書のこの預言が実現するためだった、ということを語っているところです。ですから、「そのとき」という言葉によって考えられているのは、12、13節であると言えるでしょう。そこには、主イエスのある動きが語られているのです。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ。」。ここには二つのことが語られています。一つは、「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」ということ。もう一つは「ナザレを離れ、カファルナウムにきて住まわれた」ということです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の6.「新約時代のパレスチナ」という地図を見ていただくとよいのですが、主イエスは、ユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。ベツレヘムは死海の北の端から西に行った所にあるエルサレムの少し南です。しかし主イエスがお育ちになったのはずっと北の方、ガリラヤ地方のナザレです。主イエスの両親がそこに住むことになったことはマタイ福音書の2章の終りに語られていました。ナザレはガリラヤ湖の南の端の西にあります。そこでお育ちになった主イエスは3章で、洗礼者ヨハネのもとへ行き、洗礼をお受けになりました。ヨハネは、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授けていたのです。ですから主イエスは洗礼を受けるためにヨルダン川の下流のユダヤに来ておられたのです。そしてそのヨハネが捕らえられたと聞き、再び北のガリラヤへ退かれた、しかし、育った町ナザレに住むのではなく、そこを出て、湖畔の町カファルナウム、これはガリラヤ湖の北岸にある町です、そこに住んだ、これがこの12、13節に語られている主イエスの動きです。そして「そのときから」伝道が開始されたのです。マタイはこの一連の主イエスの動きに大事な意味を見ていると言えるでしょう。それは何でしょうか。

主イエスの伝道の根拠地はカファルナウムでした。主イエスがナザレで育たれたことを語ったマタイは、伝道開始の前に、ナザレからカファルナウムへの移動を語っておかなければならないと考えた、ということは一つあるでしょう。けれどもマタイが考えているのはそういう地理的なつじつま合わせではありません。マタイはこのことを、「ヨハネの逮捕を聞き、ガリラヤに退かれた」ことと一つにして語っているのです。そこに大事な意味が見つめられています。洗礼者ヨハネの逮捕の事情は、14章に語られています。当時ガリラヤ地方の領主であったヘロデ・アンテパスがヨハネを捕らえたのです。それはヘロデが兄弟の妻を奪って結婚したことをヨハネが「この結婚は律法で許されていない」と批判したからです。そしてこの14章に語られているいきさつの中で、ヨハネは獄中で首を切られて殺されてしまうのです。このヨハネの逮捕のことを聞いて、主イエスはガリラヤに退かれたのです。「退く」という言葉は何を意味しているのでしょうか。普通に考えればこれは、ヨハネが捕らえられたから、自分にもその累が及ばないように、安全な所に身を隠した、ということになるでしょう。ところがそのように退いた「そのときから」、伝道が始まるのです。人々の前に主イエスは姿を現わされるのです。しかも、ガリラヤは、ヨハネを捕らえた領主ヘロデのお膝元です。わざわざそこで伝道を開始する、それは身を隠すどころか、言ってみれば火中の栗を拾いに行くようなものです。実はこの「退く」という言葉が、今申しました14章にも出てきます。13節です。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。「これを聞くと」の「これ」とは、ヨハネが首を切られたということです。ヨハネの死を聞いた主イエスは、「退かれた」のです。ここは本日の12節と非常に似た書き方になっています。ヨハネの逮捕を聞いた主イエスは「退いた」、同じようにその死を聞いてまた「退いた」のです。この14章ではどこに退いたのか、それは「ひとり人里離れた所に」です。それは自分も殺されてしまうことを恐れて身を隠したのでしょうか。しかし群衆はその主イエスの行先を知り、押し寄せて来たのです。ですから全然身を隠すことにはなっていません。このことはむしろ、「ひとりになる」ためだったと思われるのです。その後の23節にこうあります。「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」。主イエスが「退いた」のはこのためだったのではないでしょうか。身の安全のために隠れたのではなくて、一人になって祈るためです。神様と向かい合うためです。そのために主イエスは「退かれた」のだと思われるのです。本日のところで、ヨハネの逮捕を聞いて退かれたのもそれと同じことなのではないでしょうか。そのように考える時に、ナザレからカファルナウムへの移動の意味も見えてくるように思います。主イエスは一人になって神様と向かい合うためにナザレを出たのです。ナザレには、家族がいます。父ヨセフは早くに亡くなっていたらしいと言われますが、母マリアと、兄弟たちがいます。そういう親しい人々から離れて、一人になって神様と向かい合う、そのためにナザレを離れたのだと思うのです。

そのように一人退いて神様と向かい合い、主イエスは何を思われたのでしょうか。何を神様に祈り、神様からどのような示しを受けたのでしょうか。「退いた」ことのきっかけが、ヨハネの逮捕であり、あるいは彼が殺されたことであったことがそれを示しています。主イエスはヨハネのこの苦しみと死とに、ご自分の将来を重ね合わせておられたのです。そしてそのことを、父なる神様に向かい合って祈りの中で見つめたのです。ヨハネが捕らえられたことと、主イエスご自身が捕らえられることとの重なり合いは、言葉の上からも確認できます。「ヨハネが捕らえられた」というところには「引き渡された」という言葉が使われています。この言葉はこの後、主イエスご自身が祭司長や長老たちによって捕らえられることを語る言葉として、またローマの総督ピラトに引き渡されることを語る言葉として、そしてピラトによって十字架につけるために引き渡されること語る言葉として用いられていくのです。つまりこれは、主イエスの受難、十字架の死を代表するような言葉なのです。洗礼者ヨハネは、主イエスに先立って現れ、その道備えをする者でしたが、それは逮捕と死においても言えることなのです。主イエスはヨハネの姿にご自分の将来を見つめつつ、父なる神様と向かい合って祈られたのです。主イエスが捕らえられる直前、ゲッセマネの園で、目前に迫った受難を覚えつつ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたことが語られていますが、その祈りは既にこの第4章の時点から始まっているのです。ヨハネの逮捕を聞いてガリラヤに退かれ、ナザレを離れたことの中にもその祈りがあったし、またこの4章の始めにあった荒れ野の誘惑においても、主イエスは、悪魔の誘惑を退けることによって、苦しみと死とへ向かって歩む救い主としてのご自分の道を確認なさったのです。

このような主イエスの祈り、父なる神様との向かい合いの中から、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という伝道第一声が生まれたのです。「そのときから」という言葉には、そういう深い意味合いがあります。私たちはそこに深く思いを致さなければなりません。主イエスが伝道を始められた、み言葉を語り始められた、それは、「ある程度の年になったからそろそろ始めようか」というようなことではないし、「今こそ伝道が必要な社会の情勢である」ということでもないのです。そういう人間的な条件や周囲の状況によってではなく、神様との一対一の向かい合い、祈りの中から主イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という宣言を、人々に向かって宣べ伝えることへと促されたのです。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。これは、「天の国は近づいた」という事実の宣言です。そしてその事実に則して、それに相応しく生きることへの勧め、命令です。それが「悔い改めよ」ということです。それでは「天の国は近づいた」とはどういう事実なのでしょうか。「天」というのは、神様のことを言い替えている言葉です。ですから天の国と神の国は同じです。マルコ福音書では「神の国は近づいた」となっています。「国」というのは、王国、王の支配という言葉です。ですから、天の国とは、神様の、王としてのご支配という意味になります。それが近づいた、今まさに実現しようとしている、主イエスはそのことを、神様との向かい合い、祈りの中で示されたのです。それは具体的にはどういうことなのでしょうか。何によって、天の国、神のご支配が実現しようとしているのでしょうか。そこに、先程の、「捕らえられる」即ち「引き渡される」ということが関係してくるのです。主イエスは、ヨハネが捕らえられたこと、ヘロデの手に引き渡されたことを思いつつ、神様と向かい合われました。この向かい合い、祈りの中で主イエスは、ご自身の歩む道の行きつく先もそこにあることを確認なさったのです。そして、そのこと、つまり主イエスも引き渡されていく、苦しみと死への道を歩んでいくことをこそ、父なる神様が望んでおられ、そのことを通して、神様がご自分のご支配を確立しようとしておられる、天の国を実現しようとしておられる、ということを示されたのです。つまり、天の国は近づいたというのは、「もうじきこんな時代が来る」というような、客観的な予想や予知ではありません。主イエスが語ったのは、将来についての知識や情報ではないのです。主イエスの伝道は、そういう知識や情報を伝えることではなくて、神様が、主イエスを通して、その十字架の苦しみと死とを通して行って下さる救いのみ業の宣言です。主イエスが苦しみと死とへ向かう生涯を歩まれることによって、神様の恵みの力が、人間の罪とそれによってもたらされているこの世の暗黒に勝利し、神様のご支配が確立する、その救いのみ業の宣言なのです。主イエスがヨハネの後を追うように、苦しみと死へと引き渡されていくことを通して、父なる神様が、救いのみ業を実現しようとしておられる、そのご支配を確立しようとしておられる、主イエスは神様との向かい合い、祈りの中で、そのことを示され、そのみ心を受け入れ、それに従って歩むことを決意なさったのです。そこから、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というみ言葉が生まれたのです。

主イエスがこのようにして、ガリラヤで伝道を開始された。マタイはそこに、イザヤ書の預言の実現を見ています。本日共に読まれた、イザヤ書8章の終りから9章の初めにかけての言葉がここに引用されています。「ゼブルンの地、ナフタリの地」、それは、今ナザレやカファルナウムのある地域に昔住んでいたとされるイスラエルの部族の名です。しかしイザヤ書が書かれた当時には、その地はすでに「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになっていました。異邦人だけが住んでいたのではありません。勿論ユダヤ人たちが住んでいたのですが、基本的にユダヤ人だけが住んでいるユダヤに比べて、異邦人の数がずっと多く、異邦人との接触を日常的に余儀なくされていた地域でした。そういう意味でガリラヤは、ユダヤに比べると辺境の地、ユダヤに住む人々はガリラヤを田舎と言って蔑んでいたのです。その「異邦人のガリラヤ」が栄光を受けるということを、このイザヤ書の言葉は語っています。主イエスのガリラヤにおける伝道開始によって、この預言が実現したのです。

しかしマタイがここで見つめているのは、単に「異邦人のガリラヤ」と蔑まれている地に、主イエスの伝道によって光が与えられた、ということではありません。むしろその次の、本日の箇所で言えば16節の「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」という言葉こそ、マタイが語りたかったものです。主イエスの伝道開始において、この預言が実現したということをマタイは言いたいのです。「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」とは誰でしょうか。それは、異邦人のガリラヤに住むユダヤ人のことでも、あるいはユダヤ人から神なき民、救いの外にある者たちとされていた異邦人たちのことでもありません。そんなふうに、どこかに暗闇に住む民、死の陰の地に住む者がおり、そういう人のために光が射し込んだというのではないのです。マタイが語ろうとしているのは、「暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」とは私たちのことだ、この私のことだということです。生れつきの私たちは、自らの罪のゆえの暗闇の中にいるのです。自分の罪が、そして同じように人の中にもある罪が、私たちを暗闇の中に閉じ込めている。その暗闇の中で私たちはお互いに手さぐりで歩み、しばしばぶつかり合い、お互いに相手を傷つけ、傷つけられつつ生きているのではないでしょうか。また私たちは、「死の陰の地に住む者」です。死が、私たちの生活にいつも陰を落しています。人はいつか必ず死ぬのですから、私たちの人生は常にこの死の陰の下にあります。普段はそれをなるべく見ないように、そこから目を逸らして生きています。しかし年老いていく中で、あるいは病気によって、その陰は色濃くなり、それに怯えて歩むことになります。若くて元気な人でも、ある日突然、自分の、あるいは家族の、友人の生活がその陰に覆われてしまうことは多々あるのです。私たちの生活は、罪による闇と、死の陰の下にある、それは全ての人に共通して言えることでしょう。その暗闇と死の陰の中にいる私たちに、大きな光が射し込んだ、それが、主イエスがお語りになった「天の国は近づいた」という宣言なのです。天の国は、先ほど見ましたように、主イエス・キリストが苦しみと死への道を歩んで下さったことによって決定的に近づきました。それは主イエスが、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死とを引き受け、そのことに免じて、父なる神様が私たちの罪を赦して下さったということです。この主イエスの苦しみと死とによって、私たちの罪の暗闇に光が与えられたのです。私たちはもはや、お互いの罪による暗闇の中にいるのではなく、神様による罪の赦しの光の中にいるのです。また父なる神様は、十字架にかけられて死んだ主イエスを、死から復活させてくださいました。主イエスの復活には、私たちを最終的に支配しているように見える死の力に対する神様の恵みの勝利があるのです。この主イエスの復活の恵みによって、死の陰の下にある私たちに希望の光が与えられました。もはや、私たちを最終的に支配しているのは、死の陰ではなく、神の恵みの光なのです。主イエスがお語りになった、「天の国は近づいた」という宣言は、罪の暗闇と、死の陰の下にいる私たちを、このような光へと招くものだったのです。

暗闇の中に住む者に、死の陰の地に住む者に大いなる光が輝いた、その光に私たちがあずかり、私たちの生活が、人生が、この光によって明るく照らされるためになすべきこと、それが「悔い改め」です。「天の国は近づいた」という主イエスの宣言を受け、そこに与えられている光への招きに応えていくために、私たちは悔い改めることを求められているのです。それは何をすることでしょうか。自分のいろいろな罪を認めて、反省し、もう二度とそれを繰り返さないように努める、ということでしょうか。そうやって私たちがよくよく気をつけて罪を犯さなくなれば、暗闇はなくなり、光の内に歩むことができるようになるのでしょうか。そうではないでしょう。そんなことで罪の暗闇がなくなるのなら、とっくの昔にそうなっているのです。それに、死の陰については、いくら私たちが罪を犯さないように努力しても、それがなくなってしまうことはありません。悔い改めて罪を犯さなくなれば、いつまでも生きることができるというわけではないのです。罪の暗闇に住む者への光、死の陰の地に住む者への光は、私たちが反省して罪を犯さなくなることによってもたらされるのではありません。それは、主イエスによって実現する「天の国」において、つまり、主イエスの十字架の死と復活による神様のご支配の中で、恵みとして与えられるのです。私たちの努力がそれを作り出すのではありません。それでは、私たちに求められている「悔い改め」とは何か。それは、主イエス・キリストによって、そのご生涯と、十字架の死と復活によって、天の国、恵みのご支配を打ち立て、私たちの罪を赦し、死に打ち勝つ新しい命を与えて下さる父なる神様へと心を向けることです。悔い改めとは、何かをすることであるよりも、まず、心の向きを変えることです。自分のこと、自分の罪、自分の陥っている暗闇、自分の悲しみや苦しさ、自分の抱いている死への恐れ、そういうもので心がいっぱいになってしまっている私たちが、神様の方に向き直り、神様と向かい合っていくこと、それが悔い改めることなのです。主イエスが、ガリラヤに、あるいは人里離れた所に退かれた、それは神様と向かい合うためだったと繰り返し申しました。同じことを私たちも求められているのです。それが、私たちの悔い改めなのです。悔い改めて本当に神様に向かい合っていくところにこそ、光が与えられるのです。私たちは本当に悔い改めているだろうか。しばしば私たちは、自分が罪人であることを祈りにおいて告白します。そしてわたしはこのような愚かな者です、などと言います。しかしそれは本当に悔い改めになっているのだろうか。愚か、と言ったとたんに、そこには、「愚かな者だから仕方がないんだ」というような気持ちが働いてはいないだろうか。私たちが愚かであるのは確かです。だから「愚かな者です」と言うのはいい。しかしその時に、その愚かな者が、自分の愚かさの中に安住してしまうのではなくて、主イエスの父なる神様に本当に向かい合って、その救いを求めていくことがなければ、悔い改めていることにはならないのです。あるいは、自分たちの罪を告白する、しかしそれが次の瞬間には、「そんな私たちのためにあなたは独り子を遣わして赦して下さいました、ありがとうございます」という感謝の祈りに転換する、それは本当に神様に向かい合って、罪を真剣に見つめ、悔い改めていることになるだろうか。そこでは罪の告白は主イエスによる救いを語るための導入、枕詞のようになってしまっているのではないか。こういうことを語っていくと、私自身のこの後の祈りがとってもやりにくくなるのです。しかし私たちはやはりこういうことをもっと真剣に考えなければならないと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この主イエスの宣言と命令とに真剣に応えていくところにのみ、暗闇に住む、死の陰の地に住む私たちに、光が与えられるのですから。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年2月6日]

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