富山鹿島町教会


礼拝説教

「心の貧しい人は幸いである」
詩編 第34編1〜23節
マタイによる福音書 第5章3節

先々週、2月20日の礼拝後に、信仰懇談会が行われました。「教会と私」という題で、お二人の方の発題を聞き、分団に分かれて、教会について思っていること、与えられている恵み、そして教会に望むこと、こんなふうであったらいいと思っていることなどを自由に語り合いました。そこで出されたいろいろなことを、これから長老会において検討し、活かしていきたいと思っております。その第一回を本日の長老会において行うのですが、あそこで語られたことの中には、牧師である私にとって耳の痛い話もいろいろとありました。その中で、私にとって一番心にズシンと響いたのは、「語られるみ言葉を生活の中でどう活かしたらよいのか、生活の中の、あるいはこの社会の様々な問題に対して、どう対処すべきか、そういう教えが欲しい」ということでした。これはつまり、説教と生活、あるいは信仰と生活の関係という問題です。これは私たち一人一人にとって大きな問題であるわけで、信仰者として、日々の生活をみ言葉に基づいてどのように生きるか、何をするか、何をしないか、ということをいつも私たちは問われているのです。それゆえに、礼拝で語られる説教が、そういう具体的な生活の事柄ときちんと切り結ぶものとなっているか、一人一人の信仰の生活の指針、導きとなっているか、ということが、説教の大きな課題なのです。そのことがどれだけ出来ているか、ということを改めて問われた思いがしました。

そしてこの課題を改めて思わしめられると同時に、そこで私の心に浮かんできたことは、私たちは丁度これから、マタイによる福音書第5章以下の、いわゆる「山上の説教」を礼拝において読み始めようとしている、ということでした。これはとてもタイムリーなことだ、と思ったのです。説教は、聖書の説き明かしです。それゆえにそれは聖書の言葉に拘束されます。その箇所に語られていないことを勝手に語るわけにはいかないのです。そして聖書にはいろいろな言葉があります。福音書だけに絞ってみても、主イエスの誕生を語る物語もあれば、主イエスのみ業、奇跡などを語るところもあり、また主イエスが語られたみ言葉を記したところもあり、そして主イエスの逮捕と裁判と十字架の処刑、そして復活を語っている所もあります。どの箇所を読むかによって、それによって語られる説教も違って来ざるを得ません。勿論どの箇所からも私たちは神様のみ言葉を聞くのですから、そこには私たちが神様を信じて、信仰をもって生きるための指針や導きが与えられていくのですが、しかしどの箇所にも同じように「あなたがたはこのように生きなさい」ということが語られているわけではありませんから、説教の性格もおのずと違ってくるのです。その点、この「山上の説教」は、聖書全体の中で、主イエスが私たちに、「あなたがたはこのように生きなさい」ということを最もはっきりと直接的に語っておられる箇所です。まさにここには、主イエスによって、信仰をもって生きるとはどういうことか、信仰者の生活とはどのようなものなのか、が集中的に語られているのです。つまり、み言葉と生活、信仰と生活とのつながりが最も明確に示されている個所を私たちは今読み始めようとしているのです。み言葉が私たちの生活と切り結び、私たちの生活がみ言葉によって新しくされていくとはどういうことか、そこで私たちはどのように生きる者となるのか、それを最もはっきりと教えているのがこの「山上の説教」なのです。信仰懇談会において示された大切な課題を覚えながら、ご一緒にこの「山上の説教」を丁寧に読んでいきたいと思うのです。

さて、山上の説教の最初に主イエスがお語りになったのは、「幸いの教え」です。「こういう人々は幸いである」という教えが、12節まで続いていきます。この「幸い」を語る教えをもって、山上の説教が開始されているということは、私たちが決して忘れてはならない、大切なことです。このことが、山上の説教全体を読んでいくための鍵となると言うこともできると思います。主イエスは「幸い」を語られたのです。12節には「喜びなさい、大いに喜びなさい」とあります。「幸いである」はそのように言い替えることができます。「喜びなさい」と主イエスは私たちに語りかけておられるのです。主イエスを信じ、神様を信じて、信仰をもって生きるというのは、この喜びに生きること、大いに喜んで生きることなのです。信仰によって私たちの生活が変わる、新しくなるというのは、私たちがそれまではしなかったこんなことをするようになるとか、逆にそれまでしていたこんなことをしなくなる、ということであるよりも、まず第一に、私たちが喜んで生きる者になる、幸いな者になることなのです。

そうすると私たちはすぐに考えます。それでは、どうすれば喜んで生きる者になれるのか、どうすればこの幸いを得ることができるのか、その方法を教えてほしい。しかし、主イエスがここで語っておられるのは、幸いを得るための方法ではありません。「こういうふうにすれば、こういう者になれば、あなたがたは幸いになれる」とは言っておられないのです。「心の貧しい人々は、幸いである」。それは、「心の貧しい者になれば、幸いになれる」ということではありません。この言葉を原文で読みますと、「幸いである」という宣言が文頭に来ています。昔の文語訳聖書はその語順を生かして「幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者」と訳していました。主イエスはまず、「あなたがたは幸いだ」と宣言されたのです。「こういう条件を満たせば幸いになれますよ」と言われたのではないのです。この後語られていくいろいろなことは皆そうです。ここに並べられている幸いの教えは、幸いになるための条件を教えているのではなくて、主イエスが、これこれの人々に対して、「あなたがたは幸いなのだ」と宣言して下さった、そういうみ言葉なのです。

それでも私たちは思うかもしれません。確かにここは、「これこれの条件を満たしたら幸いになれる」というような語り方にはなっていない。けれども、「心の貧しい人々は幸いである」というのは、「心の貧しい者」こそが幸いなのであって、そうでない者は幸いではない、だから、幸いを求めるなら心の貧しい者になれ、ということにやはりなるのではないか。「心の貧しさ」がやはり幸いを得るための条件になっているのではないか…。その問いに答えるために、「心の貧しい人々」という言葉の意味を考えていかなければなりません。原文の語順は、「貧しい人々、心において」となっています。まず「貧しい」という言葉ですが、婦人会の方々は、例会において以前、ウィリアム・バークレーという人の「山上の説教に学ぶ」という本をお読みになりました。そこに解説されていたことですが、この「貧しい」という言葉は、ただ貧しいというのではなく、完全に無一物であることを表わす言葉です。生活に余裕がなくて苦しい、という貧しさを表わす言葉は別にあるのです。ここで用いられている言葉は、全く何も持っていない、乞食をして、物乞いをして生きるしかない、という意味です。私たちはよく、自分は貧しい、貧乏だ、ということを思ったり言ったりしますが、しかしそういうのは全て、ここで言うところの「貧しい」には当らないのです。主イエスが「幸いだ」と言われたのは、そのように徹底的に貧しい人です。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかないような人です。そんな貧しさが、果して幸いを得るために獲得すべき条件となり得るでしょうか。

しかもこの貧しさには「心の」という言葉がついています。「心において」貧しい人々が幸いであると言われているのです。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない、そのことが、心にあてはめられているのです。それはつまり、自分の心の中には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるものは何一つない、ということです。私たちは、自分自身の中に、自分を支える拠り所を持とうとしています。それなしには、私たちは生きていくことができません。その拠り所は言い替えれば心の豊かさです。たとえ生活は貧しくても、心は豊かでありたい、と私たちは思います。心が豊かでさえあれば、物質的には貧しくても、あるいは肉体的に弱くても、その苦しみに耐えて、元気に生きることができるのです。ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のことです。自分の中に、自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者です。それは、幸いを得るための条件ではあり得ません。「心の貧しい人々」は、どう考えても幸いではないのです。

「心の貧しい人々は幸いである」という主イエスのお言葉はこのように、私たちがとうてい同意できないものです。「そんなことはない」と反発せずにはおれない言葉です。ところが私たちはこの言葉を勝手にねじ曲げて、納得できるものに変形してしまっているのではないでしょうか。例えば、これは教会の歴史においてしばしばなされてきた解釈ですが、「心の貧しい」というのは「謙遜な、へりくだった」という意味だ、という読み方です。そうすると主イエスはここで「謙遜な人々は幸いである」と言ったということになります。それならわかりやすいのです。本当に幸いになろうとするなら、謙遜という美徳を身に着けなさい、というわけです。しかし、その読み方は間違いです。謙遜というのは、本当は力のある人が、立派な人が、その力や地位を誇ったりせずにつつましくふるまうことです。それは、先ほど申しました「貧しい」という言葉の意味、自分自身のものを何一つ持たず、物乞いをするしかない、ということとは違います。本当は持っているのだけれども、持っていないふりをする、というのは「貧しい」ことにはならないのです。さらに謙遜というのはそれ自体が一つの美徳になり、自分を支える拠り所、誇り、心の豊かさとなります。自分の謙遜さを誇る、という、文字にしてみると笑い話みたいなことを、私たちはいつもしているのです。ですから心の貧しさを謙遜と理解してはならないのです。

あるいは私たちは、心の貧しさということについて、これは世間で言われる悪口としての「あの人は心の貧しい人だ」ということとは違う、と説明しようとします。私自身もそのような説明をどこかでしたことがあるような気がします。けれどもよく考えてみたら、それはそんなに違わないのではないかと思うようになりました。「あの人は心が貧しい」と言われる時、その意味は、心が狭いとか、親切でないとか、愛がない、人を受け入れる度量がない、気持ちに余裕がない、そういったことだと思いますが、「心の貧しい人々は幸いである」というみ言葉の「心の貧しい」はこれとは違うと私たちが主張する時、私たちは「心の貧しい」ということを、今並べたような欠点としてではなく、例えば先ほどの「謙遜」のような一つのよい資質として考えているのです。そして、人に悪口を言われるような欠点を持つ者ではなく、よい資質としての心の貧しさを持っている人は幸いだ、というふうにこれを読んでいるのです。しかし「心の貧しさ」とは、よい資質を持っていることではありません。むしろそういう良さがないこと、誇り得るような、拠り所とすることができるような、まさに心の豊かさが何もないことが「心の貧しさ」です。だから「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い人なのです。愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人なのです。

ルカによる福音書6章20節には「貧しい人々は、幸いである」とあります。「心の」という言葉はこちらにはないのです。註解書を読みますとたいてい、ルカの方がもともと主イエスがお語りになった形だと説明されています。主イエスはもともとは、単純に、貧しい人々、経済的に困っている人々、それこそ物乞いをしなければ生きていけない人こそ「幸いだ」と言われたのであって、マタイがそこに「心の」という言葉をつけ加えて、この教えを精神的なものへと変質させた、それによって、この教えのもともと持っていた強烈さをやわらげ、そこそこに富んでいる、豊かな人々のつまずきを取り除こうとしたのだ、というのです。けれども、このような読み方は浅薄であると思います。何故ならそこでは、「貧しい人々は」と言うよりも、「心の貧しい人々は」と言った方が話がキツくなくなる、つまずきがなくなるという前提でものが考えられているからです。しかし、今申してきたことからすれば、そんなことはありません。ただ「貧しい人々は幸いだ」というのなら、例えば私たちだって、世の大金持ち、贅沢な暮らしをしている人々に比べれば貧しいのだから、その分幸いだとも言えるのです。自分は貧しくても心豊かに生きていると誇りをもって言うこともできるのです。しかし「心の貧しい人々は幸いである」と言われてしまったら、もうそんなことは言えません。自分はそこそこに貧しい、と安心することもできないし、財布の中はともかく、心だけは豊かだという自負もそこでは打ち砕かれてしまうのです。

このように、「心の貧しい人々」という言葉の持つ意味を掘り下げていくならば、主イエスが語っておられるのは、私たちが幸いを得るためにどんな条件を満たさなければならないか、という話ではないということがわかります。「心が貧しい」ことは、幸いへの条件ではないのです。むしろ、幸いであり得ない私たち人間の現実なのです。私たちは、自分は貧しくても心は豊かだ、と思いたい、そう胸を張って言いたいのです。しかしそんなことは言えるだろうか。私たちの心は、そんなに豊かでも広くもない、愛に富んでいることもない、人を、特に自分と意見や考え、感覚が違う人を受け入れる度量もない、自分の思いに反することを、まずは冷静に受け止め、相手の考えや状況をよく理解して、思い遣りをもって対話していくような心の余裕もない、すぐにイライラとし、かっとなり、八つ当たりし、人を責めることに熱心になっていく、要するに、私たちはまことに心の貧しい者なのではないでしょうか。そしてそれは、決して幸いなことではありません。私たちのそのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が起って来るのです。

このような、私たちの心の貧しさの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」という主イエスのお言葉が響きます。主イエスは心の貧しい私たちに、「あなたがたは幸いである、大いに喜びなさい」と言われるのです。それは、「あなたがたは、自分では気づいていないかもしれないが、実はこういう意味で幸いなのだ、このように見方を変えれば幸いだと言えるのだ」ということではありません。心の貧しさはどう見方を変えたところで貧しさでしかありません。それ自体が幸いであることはないのです。主イエスが「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者である私たちに、それゆえに決して幸いではない私たちに、主イエスを通して、神様が与えて下さるものがあるからです。そのことこそが、幸いの理由です。「天の国はその人たちのものである」というお言葉がそれを語っています。天の国が与えられる、そこに、心の貧しい人々の幸いがあるのです。

天の国の「天」は神様のことを言い替えた言葉です。ですから「神の国」と意味は同じです。「国」という言葉は、王国、支配という意味です。ですから天の国とは、神様のご支配、神様が王として支配される国、という意味です。神様のご支配の確立、そこに、私たちの救いがあります。天の国イコール私たちの救いと言ってもよいのです。その天の国が近づいたというのが、主イエスの伝道第一声でした。神様のご支配が今や確立しようとしている、神様が私たちを王として支配して下さる、その救いの日が近い、と主イエスは語られたのです。その天の国が与えられることが、心の貧しい人の幸いです。どうして心の貧しい人にそれが与えられるのか、それは、心の貧しさという良い資質に対するご褒美としてではありません。強いて言うならば、心の貧しい人ほど、それを本当に必要としているからです。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかないのです。天の国を求めるしかないのです。神様は、そのように天の国を本当に必要としている者たちに、それを与えて下さる。深い憐れみと恵みによってです。従って、心の貧しい人々が幸いであるのは、心が貧しいから幸いなのではなく、その心の貧しい者に、神様が、憐れみと恵みによって、天の国を、神様の救いを与えて下さるから、そこに幸いがあるのです。

「天の国はその人たちのものである」。天の国はどのようにしてその人たちのものとなるのでしょうか。それは、神様の独り子、主イエス・キリストによってです。主イエスが、心の貧しい者である私たちのために、人となり、そして私たちの心の貧しさを、言い替えるならば罪を、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さった、このことによって、私たちの罪は赦されたのです。心の貧しい、自らの中に何らのよいものも、拠り所となる豊かさもない、その貧しさゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んでしまう、そんな私たちを、主イエス・キリストが背負って下さったのです。そして「あなたは幸いだ、喜びなさい」と言って下さったのです。それは、「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とうとしなくてよい。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよい。そういう豊かさが自分の中にないと生きていけないということはもうない。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、これだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、私はあなたを愛する。あなたを背負い、支えている。だからあなたは幸いなのだ。大いに喜んで、安心して生きていってよいのだ」ということです。そういう幸いを主イエス・キリストは私たちに与えて下さるのです。つまり、「幸いである」という宣言から始まるこの一連の教えは、「こういうふうになりなさい、そうすれば幸いになれますよ」という教えではなくて、主イエス・キリストが、そのままでは幸いでない、幸いになり得ない私たちの現実のまん中に、ご自分の十字架の死と復活とによって幸いを作り出して下さる、その恵みの宣言なのです。

私たちに求められているのは、主イエスからこの幸いをいただいて、喜んで生きることです。心の貧しい人になろうと努力することが求められているのではありません。そんな努力はしなくても、私たちはもともと心の貧しい者なのです。そのことを認めて、その心の貧しい私たちに、主イエスが、十字架の死と復活によって天の国を、神様の恵みのご支配を、救いを与えて下さる、その恵みに寄り頼み、感謝して、喜んで生きる、それが私たちの信仰による生活の基本です。そしてその幸いの中でこそ、私たちの貧しい心は次第に広げられていく、豊かにされていく、愛や思い遣りの心、人を受け入れる度量が与えられていくのです。私たちは根本的な思い違いをしていることが多い。み言葉と生活、信仰と生活というとき、み言葉を生活の中にどう活かすか、信仰を生活の中でどう実践するか、と考えてしまうことが多いのです。しかし、み言葉と生活、信仰と生活の関係というのはそうではない。み言葉をどう活かすか、信仰をどう実践するか、と考えているうちは、私たちはみ言葉によって、信仰によって、心の豊かな者になろうとしているのです。自分の心を豊かにするためにみ言葉を、信仰を求めているのです。しかし本当の幸いはそこにはありません。本当の幸いは、私たちが心豊かな者になることではなく、心の貧しい者が主イエスの恵みを受けるところにあるのです。そこでは、私たちがみ言葉を活かすのではなく、み言葉が私たちを活かします。私たちが信仰を実践するのではなく、信仰によって私たちが支えられ、喜びの内にいろいろなことをしていくのです。それが、心の貧しい人の幸いなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年3月5日]

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