富山鹿島町教会


礼拝説教

「信仰のゆえに苦しむ幸い」
ダニエル書 第3章1〜30節
マタイによる福音書 第5章10〜12節

礼拝において、主イエス・キリストが語られた八つの幸いの教えを、一つずつ読んで参りました。本日がその最後、第八の幸いの教えです。これまで読んできた幸いの教えにおいて、私たちが常に確認してきたことがあります。それは、ここに語られている一つ一つの幸いが、どれ一つとして、私たち一人一人に当てはまらない特別な人の話ではない、ということでした。主イエスはこの教えにおいて、幸いに生きるための八つの道を示し、あなたがたはこの中のどれでも好きな道を、あるいは自分に一番あてはまる道を選びなさいと言われたのではないのです。私たちはこの八つの中で、これは自分に当てはまるが、これは自分とは関係がないと取捨選択をするべきではありません。この幸いは求めたいが、こちらの幸いはちょっとご免被りたい、というものではないのです。これらの八つの幸いは、主イエス・キリストを信じ、主イエスに従っていく信仰者一人一人に、すべて与えられているものです。あるいは、主イエスは私たち一人一人に、これらの幸いをすべて与えようとしておられるのです。これらの八つの幸いを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活なのです。そうであるならば、本日のこの最後の、第八の幸いは、大変厳しい幸いであると言わなければならないでしょう。この幸いだけはちょっとご免被りたいと誰でも思うようなことがここには語られているのです。

「義のために迫害される人々は幸いである」と主イエスは言われました。迫害される幸い、それを主イエスが私たちに与えようとしておられるのなら、私たちは、いや、それだけは結構です、それはご免被りますというのが正直な気持ちです。迫害されることを幸いに思う人などいないのです。けれども、この幸いの教えが、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきたということは事実です。教会はその誕生と同時に様々な迫害の中に置かれてきました。十字架につけられたイエスをキリスト、つまり救い主として信じる信仰は、ユダヤ人たちから異端視され、クリスチャンたちは会堂から、即ちユダヤ人の共同体から追い出されました。ルカ福音書6章22節には、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」とありますが、この「追い出され」という言葉はそのようなユダヤ人社会からの追放を意味していると思われます。つまりクリスチャンたちは主イエスを信じる信仰のゆえに、村八分にされたのです。さらに少し時代が下れば、ローマ帝国による迫害が始まります。暴君ネロと呼ばれる皇帝ネロの時代にそれは始まったとされます。その時は、ネロはローマの町の火事の責任をクリスチャンたちになすりつけ、彼らを処刑することで人々の自分への不満をそらそうとしたとされます。クリチャンたちは猛獣の餌食にされたり、松明替わりに焼かれたりしたのです。使徒ペトロやパウロが殉教したのもこの時であったと言われます。ネロによる迫害はその時限りの一過性のものだったようですが、それから百年ほどすると、今度は組織的、持続的な迫害がなされるようになってきます。クリスチャンであるということが分かっただけで処罰の対象になるという時代が始まるのです。その迫害の炎は燃え上がったり下火になったりしながら、4世紀の始めまで続きます。そして紀元313年、コンスタンティヌスという皇帝がキリスト教を公認する、つまりその信仰を許す勅令を出したことによってようやく、ローマによる迫害は終わったのです。本日は第一主日で、聖餐にあずかりますので、この礼拝においては「ニカイア信条」をご一緒に告白しますが、この信条のもとになった源ニカイア信条は紀元325年の会議において成立しました。その会議に集まった教会の司教たちは皆、迫害による何らかの傷を体に負っていたと言われます。キリスト教はそのような長い迫害の期間を経て、ローマ帝国の中に確固たる位置をしめるようになったのです。その迫害の間、多くの人々が苦しみを受け、殺されていきましたが、彼らを支え励まし慰めたのはこの第八の幸いの教えでした。信仰者たちは、義のために迫害される幸いを覚えつつ殉教していったのです。そのために、迫害されても迫害されても、キリスト教、教会はその力が衰えず、むしろ広がっていき、ついにはローマ帝国も、これを押しつぶすのではなく、むしろ帝国の統治のために利用することへと政策を転換をせざるを得なくなったのです。

迫害の歴史はそこで終わったわけではありません。キリスト教がローマの国教となり、社会全体がキリスト教化していく中で、今度は、正しい信仰に生きようとする者が、国家と一体になった教会によって迫害を受けることが起こっていきました。宗教改革の時代、カトリックとプロテスタントの対立の中で、双方に多くの殉教者が出ました。例えばイギリスなどの場合、国王が替わる度に国がプロテスタントになったりカトリックになったりしたために、前の国王の時代には迫害する側だった人が、次の国王になると迫害される側になる、ということが起ったのです。そのように、信仰の信念を貫こうとするなら、迫害を覚悟しなければならないという時代は長く続いたのです。そのような迫害によって多くの血が流された体験の中から、近代になって、いわゆる宗教的寛容、つまり、自分とは違う信仰の存在をお互いに認め合うという精神が生まれてきたのです。しかし、宣教師たちによる全くの異教の世界への伝道によってクリスチャンになった少数の人々はやはり迫害の下に置かれ続けました。日本においては江戸時代のキリシタン弾圧があり、その中で培われた、キリスト教を邪教視する意識は明治になっても、あるいは今日までも生き続けているところがあります。またその日本の支配の下で、朝鮮のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。神社参拝を強制され、抵抗した多くの人々が殉教しました。今日韓国のキリスト教が大変盛んなのは、そのような殉教者たちの流した血を土台にしているからだと言うことができます。ローマ帝国の下でもそうだったように、迫害によって信仰が強められ、殉教によって教会は盛んになっていくということが確かにあるのです。殉教者という言葉は英語でマーターと言いますが、それは「証人、証し人」という言葉から来ています。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、一人の殉教者は十人の信者を生むと言われるのです。

このように、教会の歴史において、この幸いによって支えられ、励まされ、慰められてきた多くの人々がいたのです。しかしそのことと、私たちがこの幸いを自分の幸いとして得ることとの間には、かなりの開きがあると言わなければならないでしょう。過去にこのような人々がいたのだから、あなたがたもこれを幸いと思いなさいと言われても、それで迫害されることを幸いと思うようになれるものではないのです。そのことの難しさは主イエスもよく理解しておられたのだと思います。この最後の幸いの教えには、これまでの七つの幸いとは違って、つけ加えられている言葉があります。11、12節です。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。ここに「わたしのために」とあることに注目したいと思います。10節では「義のために迫害される」でした。「義」のためということは、正しいことのため、正義のためです。正しいこと、なすべきことを貫くことによって、迫害を受けるのです。確かにそういうことがあると思います。また、そういう覚悟がなければ、正しいこと、正義を貫くことはできないとも言えるでしょう。正しいことは、それを知っているだけでは何の意味もないのです。それを行い、実現していかなければ、正しいことを知らないのと同じなのです。迫害に負けずに、正義を実行していく、そういう者たちは幸いだ、と10節は読めるのです。しかし主イエスはそれを、「わたしのためにののしられ、迫害され、悪口を浴びせられる」と言い替えられました。「わたし」つまり主イエスのためです。「義」は「主イエス」と置き換えられています。それは、「義」とは主イエスのことだということでもあります。主イエスに従い、主イエスの教えられたことを行うことこそが義を行うことです。けれどもそれと同時にこの言い替えは、ここで見つめられている迫害が、私たちが積極的に正しいことを行っていくところに起ってくるものであるだけではなく、むしろ私たちが主イエスに属する者、主イエスを信じる者であるということによって起ってくるものでもあることを示していると言えるでしょう。特別に何か大それた義を行っていく、世の人々が何と言おうと正しいことを貫いていく、というのではなくて、むしろ控えめに、ただ主イエスを信じる者としてつつましく生きていこうとする、そこに起って来る迫害がこの言い替えによって見つめられているのです。「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」という言葉もそれと同じです。これも、「わたしのために」、つまり、主イエスを信じて生きている者であるがゆえに、全く身に覚えのない悪口を言われるのです。こういうことは、迫害とか殉教といったような大げさなものではなくて、むしろ私たちが日々体験していることなのではないでしょうか。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられたり、悪口を言われたりするのです。「おまえそれでもクリスチャンなのかよ」などと家族に言われたりします。その場合人々は「クリスチャン」ということに、自分に都合のよいいろいろなイメージをこしらえて言っています。例えば夫に従順なつつましい妻、というイメージです。見回したところそんな人はこの中に一人もいないだろうと思いますが…。まあそんなのは笑い話ですむのですが、少しでも悪意や敵意を持っている人が、クリスチャンである私たちのことを悪く言うことは簡単です。私たちはいろいろと欠点や至らない所があるのですから、そこを取り出してきて「あいつはクリスチャンなのに」とか、「クリスチャンなんてあんなものさ」と言うことはいとも簡単です。私たちは、イエス・キリストを信じている、信仰を持っているというだけで、ごく普通の人間であってもいろいろと悪口を言われたり、批判されたりするのです。ましてや私たちがクリスチャンとして、信仰者として何か少しでもしようものなら、その悪口、批判はさらに強まるのです。それがたとえ良いことであってもです。なぜならば、イエス・キリストを信じる信仰者とそうでない人とでは、考え方、感じ方がどうしても違っているからです。信仰者には当たり前のことであっても、そうでない人には驚くべき非常識として受けとめられてしまうことがあります。例えば、死についての話などがそうです。私たちは、信仰者どうしの間で、死のこともある意味で平気で話題にするし、先日も壮年会の例会でしましたが、自分のお葬式にどう備えていくか、などという話をあっけらかんとするのです。そういうことができるのは、私たちが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストを信じているからです。しかし、そういう土台を持たない人、死などということは話題にするだけで縁起が悪いとタブーにしている人にとっては、これはとんでもない非常識な話に聞こえてしまう、ということがあります。そういうことが私たちに対する悪口、批判となって出てくるということがあるのです。そういう意味では私たちは、信仰者でない人の前で、例えば死についての話をする時にはよく気をつけなければならないということが言えるでしょう。けれどもこれは基本的には気をつけていれば避けられるようなことではなくて、主イエス・キリストを信じる者がその信仰のゆえにどうしたって受けるののしりであり、身に覚えのない悪口なのです。これは一つの例ですが、それに類すること、信仰によるものの考え方や価値観を周囲の人に理解してもらえない、ということは私たちの周りに沢山あります。そう考えていきますと、この「義のために迫害される」ということは、特別な時代の、特別な人々の話なのではなくて、実は私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいるのだということがわかってくるのです。私たちは毎日、主イエスのために誤解や無理解の中に置かれ、悪口や中傷を浴びているのです。信仰をもって生きるというのは、そういう日々を送ることなのです。

主イエスは、そのような私たちに、「あなたがたは幸いである」「喜びなさい、大いに喜びなさい」とおっしゃるのです。それはまず第一に、主イエスのゆえに誤解を受けたり、悪口を言われたりすることを、何かとんでもないこと、あってはならないことのように思うな、それが当たり前なのだ、ということでしょう。私たちはこのことをきちんと理解していないのではないでしょうか。主イエスを信じて信仰者になったら、あるいは信仰者としての奉仕や働きをいっしょうけんめいにやったら、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、そうでなければうそだ、と心のどこかで思っているのではないでしょうか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられないのです。「こんなはずではないのに、こんなことなら信仰なんて持たなければよかった、奉仕なんてしなければよかった」と思ってしまうのです。しかし主イエスはまさにそこで、「あなたがたは幸いだ、喜べ」とおっしゃるのです。そのことで何もくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃるのです。

けれども、それが当然ではあるにしても、そのことを何故喜べるのでしょうか。いったい何を喜べと主は言われるのでしょうか。「天には大きな報いがある」と主は言われました。「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということです。父なる神様が大きな報いを与えて下さる、そのことを喜べということです。そんなあやふやな、はっきりしないことで喜べるか、と私たちが思うとしたら、それは私たちがこの世のこと、この地上のことしか見ておらず、天を、神様を見つめてはいないということです。この世のことしか見ていないというのは、人間のことしか見ていないということです。人間にどう受け入れられ、喜ばれ、認められるか、そのことしか考えていないのです。だから、人にののしられたり、悪口を言われたりするとぺしゃんこになってしまうのです。しかし天を、神様を見つめる者は、その神様が自分のことをちゃんと見ていて下さり、主イエスを信じ従っているゆえにこのののしりや悪口を受けていることを知っていて下さるから、それでよいのです。神様を見つめている者は、神様が必ず報いて下さると信じることができるのです。その報いがどんな形で与えられるか、それはわかりません。地上の生活における幸いという形で与えられるのか、それともそれを終えた後、天の父のみもとでの祝福として与えられるのか、それを私たちが決めることはできないのです。しかしいずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さると信じる、それが神様を信じるということです。人からのののしりや誤解、悪口を言われたらもう喜べない、と思ってしまうのは、人からの報い、地上の報いをしか見つめ、求めていないということなのです。

主イエスは、義のために迫害される人の幸いとして、「天の国はその人たちのものである」と言われました。これは、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」のところで言われたのと同じことです。つまり、八つの幸いの教えの最初と最後がこの「天の国はその人たちのものである」で括られているのです。従ってこの言葉は、幸いの教え全体の中心をなすものだと言うことができるでしょう。「天の国はその人たちのものである」。「天の国」とは、神様の恵みのご支配ということです。神様の恵みのご支配がその人たちに与えられる、それは、彼らが、天における報い、神様の報いをこそ求めていくということと表裏一体です。天の報いを見つめ、求める者こそ、天の国、神のご支配の下に生きることができるのです。「心の貧しい人々」の場合もそれと同じでした。自分の心の中に何らかの豊かさを求め、見出していこうとする者は、天の国に生きることができないのです。それはできないと言うよりも、彼らはそれを求めていないのです。求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足なのです。義のために迫害されることもこれと同じです。正しいことをして、それゆえに苦しみを受ける、主イエスを信じるがゆえに、身に覚えのないののしりや悪口を受ける、それは、「心が貧しい」ことと同じです。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者がいない、報いてくれる人がいないのです。ただ天の神様のみが自分を理解し、豊かに報いて下さることを信じ、そのことのみを求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じるのです。

主イエスはもう一つ、「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」と言われました。私たちはこのお言葉を、あなたがただけが迫害を受けているのではない、信仰の先達たちも同じような迫害を受け、それに耐えて信仰を守り通したのだ、だからあなたがたも頑張りなさい、というふうに読んでしまうことが多いと思います。そうすると、先程教会の歴史、キリスト教の歴史における多くの殉教者たちのことを振り返ったのと同じことになります。けれども、主イエスがここで私たちに見つめさせようとしておられるのは、そういう殉教者たちのことのみではないと思います。預言者とは、神様によって立てられ、遣わされてみ言葉を人々に伝えた人です。その最後、最大の方、預言者の中の預言者として来られたのが主イエス・キリストだったのです。その主イエスは人々からどのような扱いを受けたのでしょうか。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た、それはまさに主イエスご自身のことです。主イエスはまさにそのような迫害を受け、十字架において殉教の死を遂げられたのです。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべきです。歴史上の多くの殉教者たちのことを思い起すことは、意味のないことではありませんが、しかしそこには、「あの人たちと自分とでは時代も状況も、そして何よりも信仰の強さが違う」、という言い訳のようなものが出てくるのです。しかし、主イエスに対してはそういうことは言えません。主イエスは私たちが自分と見比べてどうのこうの言うべき相手ではなくて、私たちのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主なのです。その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのです。ですから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということなのです。それは幸いなことであり、喜ばしいことです。私たち一人一人はまことに弱い者であり、迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではありません。しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられるのです。そしてこの幸いが私たちに力を与えます。本日共に読まれたダニエル書3章の17、18節には、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人が、ネブカドネツァル王に対して、迫害と殉教の死を恐れず堂々と語った言葉が記されています。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません」。これはすばらしい信仰の証言です。迫害に直面した時にこのように語れるならば、それはまさに大きな証しとなるでしょう。私たちはしかし、これは特別な人の特別な言葉だとすぐに考えてしまいます。しかし主イエスと共に歩む喜び、幸いを知るならば、私たちも、これと同じように語ることができるようになるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年5月7日]

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