富山鹿島町教会


礼拝説教

「地の塩、世の光」
イザヤ書 第60章1〜7節
マタイによる福音書 第5章13〜16節

「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と主イエス・キリストはお語りになりました。「あなたがた」というのは、この「山上の説教」を聞いている弟子たちです。そしてその弟子たちのまわりには、主イエスに従ってきた多くの群衆たちがいます。主イエスは、ご自分に従ってきた人々に向かってこのみ言葉を語られたのです。それは、今この礼拝に集っている私たちに対してもこのみ言葉が語りかけられている、ということです。私たちの中には、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて教会員、クリスチャンになった者がいます。その者たちは、主イエスの弟子になったのです。クリスチャンとは、主イエスに従い、そのみ言葉を聞きつつ歩む者、即ち主イエスの弟子たちです。そしてここには、まだ洗礼を受けておられない方々、その方々のことを教会の言葉では「求道者」とお呼びしていますが、そういう方々もおられます。その方々は、明確に主イエスの弟子になったわけではない、けれども主イエスの教え、み言葉を聞こうとしてここに集まって来られたのです。その方々は弟子たちの周りにいて共に主イエスのみ言葉を聞いていた人々と重ね合わせることができるでしょう。そういう意味で、このみ言葉は、今ここに集っている私たち全員に対して語りかけられているのです。

「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」。しかしこの語りかけを自分に対するものとして聞く時、私たちは、たじろがずにはいられない。自分は、地の塩、世の光などと言えるような者だろうか、そのような働きをしているだろうか、そんなことはおこがましくてとても言えない、と思うのです。求道者の方々だけではなくて、洗礼を受けた信仰者もまた、そのように感じるのです。

「地の塩」とはどういうものでしょうか。「地の」というのは、この世界の、この世の中の、ということです。そこにおいて、「塩」である。塩がいろいろな意味でなくてはならないものであることを私たちは知っています。料理に塩がなかったら、食べられたものではありません。病院の減塩食というのを、私はまだ食べたことがありませんが、さぞ味気ない、食欲の出ないものだろうことは想像できます。塩分の摂り過ぎは体に悪いですが、人間は塩分なしには生きていけないのです。また、塩は防腐剤としての働きをします。食物を保存しておくのに、塩が最も有効なのです。西洋では塩づけ肉、日本では干物や漬物が生まれました。そのような、ものが腐るのを防ぐ塩の働きから、塩は清めに用いられるようになりました。塩を撒いて清める、あるいは、連敗中のプロ野球チームのベンチに塩が盛られているのを見たりします。あの場合には厄払いのような意味が込められているのでしょう。そのように、塩は人間の生活において様々な、大切な、必要不可欠な働きをしています。「あなたがたは地の塩である」とは、私たちが、この世において、この社会において、そのような働きをするということです。この世にしっかりとした味をつけ、また、この世の腐敗堕落を防ぐ、そんな働きを私たちがするのです。

「世の光」の意味はもっと直接的で、この世を明るく照らすもの、です。私たちが、光として輝き、この世を、この社会を明るく照らすのです。あなたがたはそのような者だ、と主イエスは言われる。私たちは、「いや、ちょっと待って下さい、私たちはとてもそんな者ではありません」と言わずにはおれないのです。

しかし私たちはもしかしたら、この「地の塩、世の光」という言葉を案外平気で使っているかもしれません。それは、主イエスを信じる信仰者として、地の塩、世の光になるように努力しよう、という文脈の中でです。地の塩、世の光を、私たちの努力目標とすれば、それはすんなりと受入れられる。今自分がそうなれているわけではないが、それに少しずつでも近づいていけるように頑張ろうということなら、結構簡単に言えてしまうのです。けれども、そこで私たちは主イエスのお言葉を正確に読まなければなりません。主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのために努力しなさい」と言われたのではないのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われたのです。これは主イエスの、おごそかな宣言です。主イエスは、私たちの努力目標を設定されたのではなくて、主イエスに従っていく私たちがどのような者であるのか、どのような者とされているのかを宣言なさったのです。

それゆえに主イエスは、この宣言に続いて、塩が塩気を失ってしまうことがあってはならない、光が升の下に置かれて隠されてしまってはならない、ということを語られたのです。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。これは、塩になるために努力している人に対する教えではなくて、塩である者が、その味を、塩としての本質を失ってしまうことへの警告です。あなたがたは既に塩とされている、ということが前提となっているのです。15節の「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」というみ言葉も同じです。ともし火は既にともっているのです。問題はそれをどこに置くかです。升の下などに置くのはまったく無意味です。そんなことをすれば火そのものが消えてしまいます。ともし火の置かれるべきところは燭台の上です。そうすることによって初めてともし火の働きが生きるのです。つまり主イエスはここで私たちに、ともし火になるように努力せよ、ではなくて、ともし火としての光をどうやって世に輝かせるかを考えよと言っておられるのです。その前の14節後半の「山の上にある町は、隠れることができない」という言葉がさらにそのことをはっきりとさせています。この言葉と「あなたがたは世の光である」という言葉との結びつきは、これを「世の光になりなさい」という努力目標として読んでいるとわかりません。「あなたがたは既に世の光なのだ」という宣言として読む時にそれはつながるのです。あなたがたは世の光なのだ、それはあなたがたが、山の上にある町であるようなものだ、山の上の町はどこからでも見える。隠れていることはできない。そのようにあなたがたも、光である自分を隠しておくことはできない。その光を世に示し、世を照らさなければならないのだ、ということです。それが、ともし火を升の下ではなく燭台の上に置く、ということにつながっているのです。このように主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光なのだから、塩としての、光としての働きをしっかりと果たせ、と言っておられるのです。

しかしそうであるならば、私たちは最初に申しましたように、たじろがずにはおれません。この私が、地の塩、世の光であるなどと、とても言えないと思うのです。けれどもそこでさらに考えなければなりません。この私が、地の塩、世の光であるなどとはとても言えない、と思う時に、私たちは何を見つめているのでしょうか。どんなことを考えているのでしょうか。自分が、この世に、この社会に、よい味をつけたり、腐敗を防いだり、また世の中を明るく照らしたり、そんなことは出来ていない、と私たちは思います。そのために多少の努力はしているが、あるいは人によっては大いに努力していると言う人もいるかもしれませんが、しかしその努力がしっかり実を結んでいるとは言い難いのです。だから、自分が地の塩、世の光であるなどとは言えない、それが私たちの思いです。けれどもそれでは、その努力が実を結ぶことによって、私たちは地の塩、世の光となることができるのでしょうか。例えば私たちの伝道がもっと実を結び、多くの人々が教会に集まるようになる。そして福音を信じ、主イエスの教えに従う人々が沢山になる。それによってこの社会に、クリスチャンの影響力が強まっていき、多くの人たちが、主イエスの救いを信じてそれに感謝し、その喜びの内に生きていくようになる。そういうふうになれば、私たちが地の塩、世の光となったということでしょうか。あるいは私たちが、この社会の腐敗、不正を正すために、それを指摘し、人々にそれを訴えていく、その運動が人々に理解され、それが次第に盛り上がり、大きな力となって、ついに不正が裁かれ、取り除かれる、そうなれば、地の塩としての働きが実を結んだということなのでしょうか。勿論私たちはそういうことを目指して努力するのです。多くの人々が教会に集い、信仰を得て、喜びと感謝の人生を送ることができるように、伝道するのです。社会の腐敗、不正を指摘し、それが正されることを求めて声を上げていくのも大事なことです。けれども、そういうことが出来ていれば、自分は地の塩、世の光であると言える、今のところそうではないから、そんなことを言われるととまどってしまう、たじろいでしまう、という私たちの感覚は正しいのでしょうか。主イエスがここで「あなたがたは地の塩、世の光である」と語りかけた相手である弟子たち、そして群衆たちは、そのような人々だったのでしょうか。決してそうではありません。彼らは、力強く伝道して主イエスを宣べ伝えることができていたのでも、社会の不正を正していくことができていたのでもないのです。主イエスは、彼らのそのような働きを見て「あなたがたは地の塩、世の光だ」とおっしゃったのではないのです。さらにこういうことも考えおく必要があります。私たちは、「自分は地の塩、世の光だ」と言うことができるとすれば、それは、私たちの言葉や行いが周囲の人々によい影響を与え、人々をそれこそ明るく照らしていかなければならない、人々が私たちの言葉に耳を傾け、私たちの行いを見て感化を受けるようでなければならない、と思っています。そうではないから、「地の塩、世の光」などとおこがましいことは言えないと思うのです。けれども弟子たちは、群衆たちは果してそういう人々だったのでしょうか。彼らの言葉と行いは人々に喜ばれ、受け入れられ、よい感化を周囲に及ぼしていたのでしょうか。そんなことはなかったのです。私たちは先週の礼拝において、10節から12節の、主イエスが語られた八つの幸いの教えの最後のところを読みました。それは「義のために迫害される人々の幸い」でした。この「迫害される」ということが、弟子たちの、信仰者の現実だったのです。迫害されるということは、彼らの言葉や行いが、周囲の人々に受け入れられないということです。よい感化を与えるどころか、批判、非難を受けるということです。主イエスの弟子は、信仰者は、その語るべき言葉を語り、なすべきことをする時に、人々によい影響を与えたり、明るくしたりするよりも、むしろ批判、非難、迫害を受けるのです。主イエスはこの「迫害される人々の幸い」をお語りになるのに、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と言われました。この「あなたがた」を受けて、13節の「あなたがたは地の塩である」が語られているのです。つまり、地の塩、世の光であると言われているあなたがたは、ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられているあなたがたなのです。ということは、地の塩、世の光であることは、周囲の人々が、あなたがたのおかげでこの世に、この社会によい味がついている、あなたがたのおかげでこの世は明るくなっているなどと認めてくれ、感謝してくれるなどということではないのです。むしろ、おまえたちなんてこの社会にいらない、何の役にも立たない、おまえたちがいたからってこの世が明るくなるわけではない、むしろ目ざわりだ、そういうふうに言われ、相手にされない、いやむしろ排斥される、信仰者はそういう目にあうのです。そういう信仰者に対して主イエスは、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言われたのです。

ですから私たちは「地の塩、世の光」についての思いを改めなければなりません。それは、私たちが信仰者として何か立派なことをして、人々が「さすがにあの人は信仰者だ、やっぱり信仰のある人は違う」と私たちを尊敬し、私たちから影響を受ける、というようなことではないのです。しかし16節には「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と書いてある。あなたがたの光を人々の前に輝かす、それは、立派な行いをすることだ、あなたがたの立派な行いを人々が見て感化を受けることだと主イエスは言っておられるではないか、と思われるかもしれません。しかしここもまた、じっくりと考えなければなりません。もしも私たちが考えているように、私たちが立派な行い、さすがにあの人はクリスチャンだ、などと尊敬されるような行いをして、それによって人々が感化を受ける、ということである場合、そこに起ってくるのは、「あなたがたの天の父をあがめるようになる」ということでしょうか。むしろそれは、私たち自身がほめられ、尊敬される、ということでしかないのではないでしょうか。私たちが、自分の行いによって人に感化を与えることで地の塩、世の光となろうとする時、それは天の父なる神様の栄光を求めるよりも、自分の栄光、ほまれを求めることになりがちなのです。本当に地の塩、世の光である歩み、生き方はそれとは別の所にあるのです。それはどういう歩み、どういう生き方なのでしょうか。

主イエスは、人々に尊敬されるような立派な行いをしている人に、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言われたのではありませんでした。むしろそれは、主イエスを信じて従っているがゆえに、人々にののしられ、迫害される、そんな人々でした。そういう人々に、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と宣言なさったのです。その宣言は、これまで私たちが読んできた幸いの教えと通じるものがあります。幸いの教えと言いましたが、そこに語られていることは、「このようになれば、あるいはこのようにすれば、幸いになれる」という「教え」ではありません。主イエスは「このような人々は幸いである」と宣言なさったのです。そこに語られていたことは、この世の尺度からして、必ずしも幸いとは言えないようなことばかりでした。「義のために迫害される」こともその一つです。迫害を受けることを幸いだと思う者はいないのです。しかし主イエスは、主イエスを信じて、その信仰のゆえに迫害、ののしりや悪口を受ける人々に対して「あなたがたは幸いである」と宣言して下さったのです。そして今度はその人々に、「あなたがたは地の塩、世の光である」と宣言して下さったのです。ですから、地の塩、世の光として生きるとはどういうことか、を知るためには、今まで読んできた、あの幸いの教えをふりかえっていけばよいのです。そこに語られていた幸いに生きている人こそが、地の塩、世の光なのです。

八つの幸いの教えをふりかえってみましょう。特にそれぞれの教えの二行目の言葉に注目したいと思います。そこに、その人々の幸いとは何かが語られています。最初と最後の幸い、「心の貧しい人」と「義のために迫害されている人」においては「天の国はその人たちのものである」とありました。天の国、つまり神様の恵みのご支配の下に置かれることが彼らの幸いです。彼らがその幸いを与えられるのは、自分の中に、自分の心に、依り頼むべき豊かさ、誇りを一切持たず、ただ神様の恵みと憐れみにすがるからです。迫害の中にあるというのもそれと同じです。自分の信仰を理解してくれる人が一人もいない中で、ただ神様の恵みと憐れみを求めていくしかないのです。そのような人をこそ、神様は独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、ご自分の恵みのご支配の下に置いて下さるのです。「悲しむ人」は「慰められる」、それは神様が主イエスによる慰めを与えて下さることです。悲しむことが幸いであるのは、そこで、十字架の苦しみと死を受けて下さった主イエスが私たちの傍らにいて下さり、慰めを与えて下さるからです。「柔和な人」は「地を受け継ぐ」。柔和なとは、苦しみの中で、苛立つことなく、沈黙して神様を仰ぎ、そこに望みを置くことだと申しました。それは主イエスが私たちの救いのために歩んで下さったお姿です。その歩みによって主イエスは「地を受け継」がれました。この柔和な主イエスと共に歩むところに、苦しみに勝利する道があるのです。「義に飢え渇く人」は「満たされる」。神様の義は、主イエスの十字架と復活において満たされ、実現しています。それゆえに私たちは、義がなかなか貫かれないこの世において、義に飢え渇きつつ、希望を失わずに生きることができるのです。「憐れみ深い人」は「憐れみを受ける」。私たちは、神様の大きな憐れみを受けています。独り子イエス・キリストが私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さったという大きな憐れみです。その憐れみの中で、私たちも、憐れみ深い者として生きるのです。「心の清い人」は「神を見る」。心が清いとは、主イエスの十字架と復活による罪の赦しの恵みによりすがって、神様をまっすぐに見つめ、「罪人の私を憐れんでください」と祈ることです。そこには、心が清い者は神を見、神を見る者は心清められてますますまっすぐに神の恵みを見つめるようになる、という循環があるのです。「平和を実現する人」は「神の子と呼ばれる」。神の独り子主イエスは、人々の敵意をご自分の身に引受けて十字架にかかり、復活によってその敵意を滅ぼして平和を実現して下さいました。その主イエスと共に歩むことによって私たちも、平和を実現する神の子となるのです。これらのこと、これらの幸いに生きることこそ、地の塩、世の光として生きることです。それは、私たちが何か人の目を引くような立派なことをすることではありません。そうではなくて、私たちがそれぞれの日々の歩みの中で、主イエス・キリストの十字架の死と復活において与えられた神様の恵みを覚え、それに支えられて、心の貧しい者として、悲しむ者として、柔和な者として、義に飢え渇く者として、憐れみ深い者として、心の清い者として、平和を実現する者として、義のために迫害される者として生きることです。これらのことこそ、私たちが人々の前に輝かすべき光です。16節で、人々の前に示せと言われている私たちの立派な行いとは、この八つの幸いに生きる歩みなのです。そしてそれは、決して私たちの栄光や誉れを求めるようなことにはなりません。これらの幸いは、どれ一つをとっても、人に誇ったり、自慢できるようなものではないからです。しかし私たちが主イエスと共にこれらの幸いに本当に生きていくなら、そこには、私たちによってではなく天の父なる神様によって、驚くべき光が輝かされていくのです。そして、人々が、この幸いに生きる私たちを見て、私たちをではなく、私たちの天の父なる神様をあがめるようになるということがそこに起っていくのです。

言い換えるならば、主イエスこそまことの、地の塩、世の光であられるのです。このまことの地の塩によって味つけられ、まことの世の光に照らされることによって、私たちも地の塩、世の光となるのです。しかし主イエスがここで警告しておられるように、私たちはその塩としての味を失ってしまうかもしれません。そうなったら、何の役にも立たない者になってしまうのです。それは、もともとの、生まれつきの私たちに戻ってしまうということです。生れつきの私たちは、神様の前では、何の役にも立たない者なのです。その私たちが、地の塩、世の光となる、つまり神様の前で役に立つものとなることができるのは、私たちの良い行いによってではありません。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったまことの地の塩、まことの世の光であられる主イエス・キリストのもとで、その恵みによって生かされる者となることによって、私たちは地の塩、世の光となったのです。役に立つ者となったのです。だから、この与えられた塩味を、光を、失うことなく歩んでいきたいのです。そのために、まことの地の塩、世の光であられる主イエス・キリストのみもとに、常に留まって離れない者でありたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年5月14日]

メッセージ へもどる。