富山鹿島町教会


礼拝説教

ペンテコステ記念礼拝
「主が招いてくださる」

ヨエル書 第3章1〜5節
使徒言行録 第2章14〜42節

 本日は、ペンテコステ、聖霊降臨日です。ペンテコステは、弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり、この世に教会が生まれた、そのことを記念する日です。先程朗読された使徒言行録第2章14節以下は、このペンテコステの日に、聖霊を受けた弟子たちが立ち上がり、彼らを代表してペトロが語った、教会の最初の説教です。ペトロは、聖霊を受けた時にこのような説教を語り出すことができたのです。聖霊を受ける以前の弟子たちはどうだったのでしょうか。彼らはすでに、復活された主イエス・キリストと出会っていました。主イエスは復活された後、たびたび彼らに現われて、ご自分が確かに生きておられること、復活が単なるまぼろしや思い込みではなくて確かな事実であることを示して下さったのです。しかしその主イエスの復活を知っただけでは、彼らはこのような伝道を開始することはできませんでした。聖霊が降って初めて、伝道が始められたのです。主イエスの一番弟子であり、復活された主イエスを見たペトロでさえ、聖霊の力なしにはこのような説教を語ることはできなかったのです。聖霊こそ、信仰者に力を与え、教会をこの世に興し、伝道をなさしめるものです。本日は、信仰告白として「ニカイア信条」を共に唱えますが、そこには「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます」とあります。聖霊は私たちに命を与えて下さるのです。それは肉体の命だけではありません。霊的な命、主イエス・キリストによる救いにあずかり、神様の民として、神様が父であり、主イエスを兄とする神様の家族の一員として生きる、その信仰における命を与えて下さるのが聖霊なのです。聖霊が与えて下さるこの命によって、私たちは、教会は力を与えられ、この世を、神様の守りと支えと導きによって歩み、神様に仕え、み言葉を宣べ伝えていくのです。そして聖霊の与えて下さるこの命は、私たちの肉体の死をも越えて、私たちを父なる神様のみ腕の中にしっかりと生かし続けるのです。ペンテコステは、この命を与える聖霊が弟子たちに降り、教会が生まれたことを覚え、感謝し、今私たちにも同じ聖霊が働いて、私たちに新たな命と力とを与えて下さることを願い求める時なのです。

 このペンテコステの日に、聖霊の力を与えられたペトロが語った説教をご一緒に読みたいと思います。聖霊を与えられた弟子たちは、いろいろな国の言葉で、主イエス・キリストにおける神様の偉大な救いのみ業を語り始めました。しかしそれを聞いた人々の中には、彼らがわけのわからない外国語を話しているので、「あの連中は酒に酔っているんだ」と言った人たちもいたのです。このことは記憶しておいたらよいことです。聖霊の力を受けて神様の救いのみ業について語っていっても、誰にでも必ずそれが伝わるということはないのです。むしろそれを酔っ払いのたわ言としか受け止めない人々が必ずいるのです。聖霊の力によって語られる言葉は、それを受け止め、理解するのにも、聖霊の力が働かなければならない、ということでしょう。ペトロは、そういう無理解な人々の誤解に対して反論する形で、この説教を語り始めたのです。

「あいつらは酒に酔っている」という人々に対して、「そうではない」と反論していく時、私たちが普通に言うことは、「いや、私たちは酔ってはいない、しらふである、正常な判断力を失ってはいない」ということでしょう。しかしペトロはそういうふうには言いませんでした。彼が語っていったのは、自分たちは正気だ、ということではなくて、これは聖霊の働きなのだ、ということです。つまりペンテコステの日に弟子たちに起り、教会が誕生した、その出来事は、決して酒に酔ってのことではないけれども、しかし人間が理性的によく考えて決断した、というようなことでもないのです。ある意味ではそれは、人間の普通の理解や判断を越えたことだったのです。私たちが、主イエス・キリストを信じる信仰を得る、そして教会の一員となって生きていく、それは、私たちが自分の頭で理解し、判断し、決断する、ということによってできることではありません。そこにおいてはある意味で、人間の理解や判断を越え出ることがなされているのです。そのことを私たちにもたらすのが、聖霊の働きです。私たちは、酒に酔うのではなく、聖霊に酔うのです。「酔う」という言い方は適切ではありませんが、しかし聖霊によって、普通自分の頭で考えたり理解したりしていることを越え出て、それまで見えなかったものを見、考えなかったことを語るようになるのです。霊が注がれる時、若者は幻を見、老人は夢を見る、息子や娘、僕やはしためが預言するようになる、という預言者ヨエルの言葉はそういうことを語っています。幻を見、夢を見る、それは、普通には見えない、見ることのできないものを見ることです。預言する、それは、神様のみ言葉を語ることです。通常語っている人間の言葉、自分の言葉ではなく、神様が示し与えて下さる言葉を語る、そういうことが、聖霊の働きによって起っているのです。

 弟子たちが、聖霊の働きによって見ることができたこと、そして語ることができたこと、それは、ナザレの人イエスにおいて、神様が大いなる救いのみ業をなして下さったということです。そのことが、22節以下に語られていきます。このイエスこそ、神様から、特別な使命のために遣わされた方でした。23節にはこうあります。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。つまり主イエスに与えられた使命は、十字架の死へと「引き渡される」ことによって成し遂げられたのです。それが神様の当初からの計画、み心であった、神様はそのために主イエスをこの世にお遣わしになったのだ、ということを、ペトロら弟子たちは聖霊によってはっきりと確信したのです。神様は何のために独り子イエスを十字架の死へと引き渡されたのか、それは、私たちの罪の赦しのためです。私たちは神様に対して、そして隣人に対して、自分の力でとうてい償い得ない大きな罪を犯しつつ生きている者です。その罪を成算し、解決しようとするなら、私たちは死ぬ他ないのです。主イエスはその死を、私たちに代わって受けて下さいました。罪のない、神の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪が成算され、赦されて新しく生きることができるようになったのです。それが神様のご計画でした。ナザレのイエスが十字架にかけられて死んだということは、当時の多くの人々が見たし、知っていました。しかしその死に、このような神様の救いのみ心が込められていることは、聖霊の働きを受けた者にしかわからなかったのです。

 そしてさらにペトロは24節で、神様がこの主イエスを復活させられたことを語ります。「復活させられました」という言い方に注目しなければなりません。主イエスが「復活した」とは言っていないのです。同じ言い方は32節にもあります。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。「復活した」と「復活させられた」の違いはどうでもよいことではありません。復活は、主イエスの超自然的力を証明するためのことではなくて、これも私たちの救いのための神様のご計画の一環なのです。主イエスの十字架の死は、私たちが本来、自分の罪によって死ななければならない者であること、そして死が、私たちの最後の支配者であるという現実を明らかにしています。しかし神様は、主イエスを復活させることによって、私たちの罪が赦され、新しく生きることができること、私たちを最終的に支配するのは、死ではなく、神様が与えて下さる新しい命であるということを明らかにして下さったのです。そしてこのことも、聖霊の働きによってこそわかることであり、確信することができることなのです。

 そして33節には、復活させられた主イエスが神の右に上げられ、そこから約束された聖霊を注いで下さったことが語られています。主イエスは天に昇り、今神の右に座しておられる。ニカイア信条も使徒信条もそのことを語っています。神の右という言葉で意味されているのは、神様のこの世界や私たちへのご支配が、その右におられる主イエスを通してなされている、ということです。私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが、今や天において私たちを支配し、導き、守っていて下さる。主イエスが天に上げられたこと、これも「上げられた」と、神様のみ業として語られていますが、それはやはり私たちに対する神様の恵みのみ業なのです。また、使徒パウロはローマの信徒への手紙の第8章34節で、神の右に座っておられる主イエスが、私たちのために執り成しをしていて下さるとも語っています。私たちには今や神の右に、私たちのための執り成し手として主イエスがいて下さるのです。主イエスが天に昇られたことは、その意味でも私たちにとって喜ばしい恵みなのです。これらの恵みもまた、聖霊の働きによって信じることができることなのです。

 そして今や、神の右に上げられた主イエスから、約束された聖霊が注がれた、とペトロは語ります。私たちのために十字架にかかり、復活し、天に昇られた主イエスのもとから、聖霊が弟子たちに与えられたのです。それは、神様が主イエスによってなして下さった救いのみ業の継続です。神様のご計画によって主イエスがこの世に遣わされ、その使命を果たされて天に上げられました。その後、今度は聖霊が降り、主イエスによる神様の救いの恵みを信じ、神様に従っていく信仰者の群れである教会を興して下さるのです。今や、天に昇られた主イエスに代わって、聖霊なる神が私たちと、教会と共にあり、私たちに命を与え、信仰を与え、神様の民として生かして下さるのです。「ニカイア信条」には「主であり、命を与える聖霊」とありました。またその後には「聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ」る方であるとも語っています。つまり聖霊も、私たちの主であられる神なのです。この主であられる聖霊が今や私たちと共にあり、信仰を与え、導いて下さるのです。しかしその聖霊は父なる神様やその独り子イエス・キリストと別の神ではありません。ただ一人の神の唯一の救いが、父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊という三者によって私たちに与えられている、それがいわゆる「三位一体」という教えなのです。ですから私たちが聖霊なる神によって信じ、与えられる救いは、父なる神が、主イエス・キリストによって成し遂げて下さったその救いなのです。

 ペトロは聖霊の働きによってこれらのことを語りました。するとそれを聞いた人々は大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。「どうしたらよいのか」という問いが起ってくる、これが、聖霊の働きによってみ言葉が語られるところに起ることです。神様のみ言葉が語られる時、それは、「ああ、いい話だなあ」と聞かれるだけではすまないのです。「慰められた」で終わるべきものでもないのです。み言葉によって、「私たちはどうしたらよいのですか」という問いが引き起こされることこそ、信仰の始まりです。それはつまり、「このままでいるわけにはいかない」ということです。み言葉を本当に聞いた時、私たちは、今あるままであり続けることはできなくなるのです。神様が自分のために、独り子を十字架の苦しみと死とに引き渡すほどの大きなみ業をして下さったことを知るからです。そのことを知った時、私たちもこのままでいるのではなくて、何かをしなければならない、と思うことは人間として当然のことだと言えるでしょう。

 ペトロはこの問いに対して、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と答えました。「私たちはどうしたらよいのか」という問いへの答えはこれなのです。つまり、主イエスによる神様の大いなる救いの恵みを知った時に、私たちがなすべき事とは、よいことをして立派な人間になることではありません。もう二度と罪を犯さないようにしようと決意することでもないのです。「悔い改めなさい」とペトロは言います。日本語ではそれは、罪を反省して二度としないと決意するという意味になりますが、聖書においてはこの言葉は、「心の向きを変える」ということです。それは「罪から正しいことへと」と言うよりも、「自分を見つめている目を、神様の方へと向き変える」ことです。生れつきの私たちは、自分のことばかりを見ています。それは自分のためばかりを考えて人のことを思わない、ということでもありますが、同時に、自分の至らなさ、欠点、罪が気になって、そこから目を離すことができない、ということでもあります。悔い改めるというのは、そのように自分自身ばかりを見ている目を、心を、神様へと、神様が主イエスによってなして下さった救いの恵みへと向き変えることなのです。それが具体的には、「洗礼を受け、罪を赦していただく」ということです。洗礼を受けるというのは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神様が私たちの罪を赦して下さり、新しい命に生かして下さる、その恵みを自分のためのこととして信じ受け入れ、その救いにあずかることです。このことこそが、神様の大いなる救いを知った私たちがなすべき事なのです。この後、三名の方が、成人の洗礼を受けます。この方々は、主のみ言葉を聞き、心を打たれ、「どうしたらよいのか」という問いを抱き、そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けることこそ、神様が自分に求めておられることだということを知るに至ったのです。

 ペトロは、「洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」という勧めに続いて、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言いました。私たちは洗礼を受けることによって、聖霊を賜物としていただくのです。それは、洗礼という儀式そのものに何か神秘的な力があるということではありません。洗礼を受ける者は、教会に加えられるのです。それまでは言わばお客様だったのが、教会のメンバー、教会員となるのです。その教会というのは、ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちに降り、それによって誕生した群れです。聖霊の働きによって信仰を与えられ、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みに共にあずかる共同体です。教会は聖霊によって支えられ、導かれているのです。そこに加えられるということは、聖霊の働きの中に置かれるということです。洗礼を受けた者はそういう意味で、神様からの賜物である聖霊を受けるのです。またこの賜物は、洗礼を受けることによって初めて与えられるというものではありません。ペトロはそのことを次の39節でこう語っています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。「この約束」とは、賜物として聖霊を受けるという約束でしょう。それは、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」与えられている。つまりまだ洗礼を受けていない人たちにも、この約束は及んでいるのです。それではその約束は誰に与えられているのか、それは「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」です。ということは、私たちが賜物として聖霊を受ける、そのことが起るのは、私たちが神様を、主イエスを信じて洗礼を受けようと決意する、その私たちの決意や意志によることであるよりも、その前に、主なる神様が私たちを招いていて下さる、その招きによることなのです。私たちが主イエスを信じる信仰を得るのも、洗礼を受けたいという願いを持つのも、全ては神様の招きによることです。そしてその神様の招きは、聖霊の働きによって私たちに力を及ぼすのです。ですから、洗礼を受けて初めて聖霊を与えられるのではありません。洗礼を受ける方々は、既に神様の招きを受けていたのです。神様はお招きになった人に聖霊を注ぎ、信仰を与え、洗礼へと導いてきて下さったのです。神様の招きと聖霊の働きが、私たちの信仰の決断に先立ってあったのです。そのことを最も端的に示しているのが、幼児の洗礼です。本日一人の幼児も洗礼を受けます。幼児は、信仰の決断をしているわけではありません。自分が洗礼を受けるという自覚すらまだないでしょう。しかし神様が、信仰者である両親の下にその子を生まれさせて下さった、そこに、神様の招きを私たちは見るのです。この幼児もまた、両親の信仰のゆえに既に聖霊の導きの下におり、それゆえに教会に加えられるのです。

 さて最後に、聖霊を受けて誕生した初代の教会の様子を語る42節を読んでおきたいと思います。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。「使徒の教え」それは礼拝において語られる説教に当ります。「パンを裂くこと」それはこの後共にあずかる聖餐のことです。さらに、相互の交わりと祈ること、聖霊によって生きる教会はこれらのことに熱心なのです。本日洗礼を受け、新たに信仰者、クリスチャンとなる方々も、そして既に洗礼を受け、新たな方々をお迎えしようとしている私たち全ての者も、聖霊のお働きのもとで、これらのことを大切にし、熱心に励んでいきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年6月11日]

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