富山鹿島町教会


礼拝説教

「敵を愛せ」
レビ記 第19章18節
マタイによる福音書 第5章43〜48節

礼拝において、マタイによる福音書を読み進めてまいりまして、第5章の終わりのところになりました。5章21節以下には、主イエスが、旧約聖書の律法の教えを引き、「あなたがたも聞いているとおり、これこれと命じられている。しかし、わたしは言っておく」と、という仕方でご自分の教えを語られたお言葉が記されています。そのような形での教えが六つ語られているのです。本日の43節以下は、その六つの最後のもの、しめくくりです。ここで取り上げられている律法の教えは「隣人を愛し、敵を憎め」というものです。これまでのところでも度々そうでしたが、このままの教えが旧約聖書にあるわけではありません。これに当ると思われるのは、本日共に読まれたレビ記第19章18節の、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という教えです。これは主イエスも別の所で、律法の中で最も大事な教えの一つとしてあげておられるものですが、これが「隣人を愛し、敵を憎め」という教えのもとになっているのです。しかし直ちに気づくのは、この聖書の言葉には、「敵を憎め」という教えはない、ということです。「隣人を自分自身のように愛しなさい」とは言われているけれども、「敵を憎め」とは言われていないのです。「敵を憎め」という教えは、この聖書の言葉をもとにして、ユダヤ人たちの間で生まれ、口伝えで伝えられてきたものです。「隣人を愛せよ」という教えに、どうして「敵を憎め」という言葉が付け加えられたのか、それは興味深いことです。「愛せよ」と「憎め」では正反対の教えです。しかしこの二つは、私たちの生活の中で、しばしば表裏一体の関係にあります。誰かを愛することにおいて別の誰かを憎むということを私たちはするのです。要するに、「隣人を愛しなさい」という教えにおける「隣人」を、「自分の仲間、同胞、思いを同じくする者」と限定するならば、それ以外の、仲間でない人、他国人、違った思いを持つ人は「敵」となるのであって、そこでは、隣人を愛せよとは、隣人のみを愛せよということになり、必然的に敵を憎めということになるのです。ですから「隣人を愛せよ」に「敵を憎め」を付け加えてしまうのは、ユダヤ人のみがしていることではありません。私たち皆が、自分の「隣人」の範囲を限定してしまうことによって、「隣人は愛するが敵は憎む」という生き方をしているのです。主イエスはそのような私たちに対して、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのです。それは、主イエスの新しい教えと言うよりも、旧約聖書が語っている「隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法の本当の意味、神様がその掟をお与えになったみ心をお示しになったのだと言うことができるでしょう。「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われた神様は、隣人の範囲を限定して、その中でだけ愛し、その外の人は敵として憎むように、などと考えてはおられなかったのです。ところが人間は神様のみ心をねじ曲げて、余計な付け加えをしてしまうのです。

主イエスは、律法の教えている本当の意味をお示しになりました。ということは、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という律法の本当の意味は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」ということなのです。敵、即ち自分を迫害する者、苦しめる者、いじめる者、その相手を愛するというのでなければ、隣人を本当に愛することはできないのです。先程読みましたレビ記19章18節の冒頭には、「復讐してはならない」とありました。そのことがここで生きてきます。復讐をしない、それは自分に罪を犯す者、自分を苦しめ、損害を与える者に対して怒りを抱き、仕返しをしない、ということです。そのことと、隣人を自分自身のように愛することとは一つなのです。どうしてでしょうか。そのことを主イエスは、ルカによる福音書第10章25節以下の、いわゆる「善いサマリア人」のたとえにおいて示されました。あのたとえ話は、レビ記19章18節の「隣人を自分自身のように愛しなさい」という教えについて、ある人が「わたしの隣人とは誰ですか」と問うたことに対して語られました。強盗に襲われて倒れている人を、祭司やレビ人、つまりユダヤ人の宗教的指導者であった人々は見て見ぬふりをして通り過ぎていった。しかしユダヤ人と敵対関係にあり、迫害されていたサマリア人が、介抱し、宿の世話までして助けてくれた、そういうたとえを語られた上で主イエスは、「この人々の中で、誰が倒れている人の隣人になったと思うか」と問われたのです。隣人になったのは、勿論、迫害されていたサマリア人です。サマリア人は自分を迫害しているユダヤ人の隣人となり、愛したのです。ここで教えられているのは、隣人を愛するということは、「わたしの隣人とは誰だろう」と思っている間は出来ないということです。「誰だろう」というのは、隣人の範囲を定め、その中でだけ人を愛そうとすることです。そこには、「敵を憎む」という生き方が生まれるだけなのです。隣人とは「誰だろう」と探すものではなくて、目の前にいる人の隣人に「なる」かどうかだ、と主イエスは言われるのです。目の前の、自分を迫害している者の隣人になる、それが、隣人を自分自身のように愛することです。そうでなければ私たちは結局、「敵を憎め」という世界を抜け出すことができないのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という主イエスのお言葉はそのことを教えているのです。

善いサマリア人のたとえは、今申しましたように隣人に「なる」べきことを教えています。しかし本日の個所は、私たちが何故敵を愛する者とならなければならないのか、その根拠、理由を教えています。それは、「あなたがたの天の父の子となるため」です。あなたがたには天の父がおられる、あなたがたはその子である、だから、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ、と主イエスは言われるのです。天の父とは言うまでもなく神様です。神様があなたがたの天の父であられる、そのことが、敵を愛せという教えの根拠なのです。それは、この天の父がどのような方であられるかということと関わっています。天の父は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」方なのです。ここに、天の父なる神様とはどのような方であられるか、が主イエスの口から語られています。一言で言えば、神様は人を分け隔てをなさらない、ということです。それが、太陽は誰の上にも昇り、雨は誰の上にも降る、ということによって語られているのです。私たちはこの言葉を何気なく「ああ、そうだな」と思ってしまうかもしれません。太陽や雨の話としてなら確かにその通りなのです。しかし、ここに語られていることは実は驚くべきことです。ここには、神様は、善人、正しい者は味方として愛し、悪人、正しくない者は敵として憎むということをなさらない、と言われているのです。「神様は正義の味方だ」というのは、何となく私たちの共通の認識になっています。それを裏返して言えば、罪を犯す者、悪を行う者は神様の敵であるということです。ところが主イエスはここで、「そんなことはないよ」と言っておられるのです。神様は、悪人、悪い者をも敵として憎むのではなくて、愛し、恵みを与えて下さる方なのです。だから、その天の父なる神様の子であるあなたがたも、自分の敵を愛しなさいと言われるのです。46,47節には、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」とあります。自分の仲間、友、気心の知れた人だけを愛することは、罪人でも、神の民でない異邦人でもしている、あなたがたは、敵をも、悪人、罪人をも愛して下さる神様の子とされているのだから、父である神様と同じように、そのような愛に生きなさい、ということです。私たちはこのことをどう受け止めたらよいのでしょうか。そもそも、「神様は悪人をも愛して下さる」ということを、私たちはすんなり納得できるでしょうか。そう言われると、私たちはこう思うのではないでしょうか。「それなら、何もわざわざ努力して善人、善い者にならなくてもよいということになるではないか。善い者も悪い者も同じように神に愛されるのだとしたら、むしろ悪い者である方が楽だし、得ではないか」。そしてそう思う私たちは決して、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という教えにも納得しないのです。いや、ある意味ではそれを受け入れるかもしれません。それは、「敵をすらも愛し、迫害する者のためにすらも祈るほどの善い人間になろう」という思いにおいてです。それほどに善い人間になることによって、神様に愛される者になることができる、という思いです。しかしそれは主イエスがここで言っておられることとは全く違います。自分が善い人間になるために敵を愛そうとする時に私たちは、そういう努力によって自分を神様の味方、仲間として位置づけようとしているのです。その時に私たちは、「神様は悪人をも愛して下さる」ということを受け入れることができません。心のどこかで、「そんなことなら悪い者であった方が得ではないか」と思ってしまうのです。そのように私たちは、自分自身を「善人、正しい者」の位置に置こうとしている間は、主イエスがここで語られたことを本当に受け止めることができないのです。しかしどうなのでしょうか。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」、というみ言葉は、「神様は私たちに太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるばかりではなく、悪人、正しくない者にもそうして下さっている、だから私たちも、自分を迫害する敵にも親切にしてやるべきなのだ」ということなのでしょうか。そうではないのです。私たちはむしろ、「悪人、正しくない者」です。天の父なる神様は、悪人、正しくない者である私たちを、敵として憎むのではなく、愛して下さったのです。私たちの隣人となって下さったのです。主イエス・キリストはそのためにこの世に来て下さいました。主イエスの十字架の苦しみと死は、神様が罪人であり敵である私たちを愛して下さり、その独り子が私たちの罪を全て背負って身代わりになって死んで下さったという恵みの出来事だったのです。神様の独り子であられる主イエスが、罪人である私たちと一つになって下さったことによって、私たちも神様を天の父とお呼びすることができるようにしていただいたのです。神様は悪人をも愛して下さる、というのは、どこかの悪いやつらの話ではなくて、実は私たち一人一人のことなのです。そのことが分かれば、「そんなことなら悪い者であった方が得ではないか」という思いにはなりません。私たちがその「悪い者」なのです。そしてそこには、「敵をも愛するほどの善い人間になろう」などという思いも生まれません。私たちにできることは、敵であった私たちをも愛して下さった神様に感謝することでしかないのです。

主イエスは48節で「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。「完全な者になれ」などと言われると、私たちは最初から、「そんなことできるわけがない」と思ってしまいます。しかしそれは完全ということの意味を私たちが自分の思いによって勝手に決めてしまうからです。先ず見つめなければならないのは、天の父なる神様の完全さです。罪人である私たちをも愛し、その独り子の命を与えて下さり、敵であった私たちをご自分の子として下さる神様の愛、それこそが神様の完全性なのです。神様が完全であられるというのは、完全無欠な、非の打ちどころのない、というような堅苦しい話ではなくて、罪人であり、神様に敵対する者である私たちを徹底的に愛して下さる、その愛の完全さなのです。そして神様は私たちを子として下さり、私たちにもその完全さを受け継がせて下さるのです。敵をも愛する愛を私たちにも与えて下さるのです。5章20節で主イエスは、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。その「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」の内容が、21節以下で、律法の教えと対照的な主イエスの教えとして語られてきました。その中心が本日のところの、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」ということなのです。これは私たちにとって、とても重い求めであることは確かです。けれどもこれまで見てきたように、この求めは、主イエス・キリストにおいて、神様が私たちに与えて下さった完全な愛に基づくものです。ローマの信徒への手紙の第5章6節以下にこのように語られています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。この神の愛がこの求めの前提であり、土台であり、支えなのです。罪人である私たちのために、キリストが死んで下さった、それは、神様が、私たち一人一人を、今あるままで、悪い者であり、神様に敵対し、隣人を愛するどころか傷つけている、そのままで、受け入れ、赦し、肯定して下さった、隣人となって下さったということです。私たちはそういう天の父のもとで、子として愛されている。それゆえに私たちも、自分の周囲の人々を、そのあるがままで受け入れ、赦し、肯定していくのです。隣人となっていくのです。そうしなければならない、という掟があるからではありません。そういう善い人間になれば神様に愛され、味方と認めてもらえるからでもありません。自分がそうやって救いにあずかった、神様がそうして下さらなかったら、この自分の救いはなかった。それゆえに、私たちも同じようにするのです。

これが主イエスの教えです。この教えに聞き従うのが、主イエスの弟子、信仰者、クリスチャンです。しかし教会の歴史は、この主イエスの教えを間違って理解し、み言葉をねじ曲げてしまった歴史であったと言わなければなりません。ユダヤ人たちが、「隣人を愛しなさい」という教えを、隣人の範囲を限定してそこに「敵を憎め」という言葉を付け加えてしまったように、教会、クリスチャンたちもまた、「敵を愛せ」という教えに範囲、限界を設けてしまったのです。つまり、「敵を愛せ」という教えの敵は、クリスチャンの仲間内での敵、自分たちの同胞とか信仰を同じくする仲間の中での敵であって、それ以外の、異教徒、外国人などはそこには入らない、そういう者たちは「神様の敵」なのだから、この「愛しなさい」は適用されない、と考えてきたのです。それゆえに、教会によって、クリスチャンたちによって、異教徒、特にユダヤ人への迫害がなされました。信仰を同じくしない、という理由で戦争を仕掛け、他国の人々を強制的にキリスト教へと改宗させるようなことも行われました。今日でも、いろいろな政治的、民族的背景はあるにせよ、信仰を大義名分とする戦い、争いが続いています。これらのことは全て、弁解の余地のない罪です。主イエスは「敵を愛せ」と言われたのに、実際には「敵を憎む」ことが行われてきたのです。私たちは、そういう過ちに陥らないようによくよく気をつけなければなりません。そのために必要なのは、主イエスがここで言われた、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というみ言葉の持つ驚くべき意味をわきまえることです。それは先程も申しましたように、神様は、善人は味方、悪人は敵という図式をもって人をご覧にならない、悪人をも、悪人であるままに、受け入れ、赦し、愛して下さるということです。神様にとっては、滅ぼして欲しい敵であるような人などいないのです。それなのに私たちが、「あいつらは神様の敵だから神様に代わって滅ぼしてやる」などと思ってしまうところに問題の根本があります。それは私たちが、誰かを神様の敵にすることによって自分を神様の味方として位置づけようとしていることです。神様の味方になろうとするところに、私たちの大きな罪が潜んでいるのです。神様は私たちに、「味方になってくれ」などと言ってはおられません。そうではなくて、いつも神様の敵でしかあり得ない私たちを、神様が愛して下さり、赦して下さり、子として下さっているのです。私たちがなすべきことは、神様の味方になることではなくて、敵である私たちを愛し、肯定し、受け入れて下さった天の父なる神様のもとで、子として生きることなのです。

最近、街中を宣伝カーで「死後さばきにあう」とか、「キリストを信じなければ地獄に落ちる」などと流しながら走り回っている団体があります。天国と地獄の絵を並べて、「あなたの行く先はどこ」などと書いたパンフレットを配ったりもしています。盛んに聖書の言葉が引用されていますが、しかしあの人たちの言っていることは根本的に間違っています。どこが間違っているかというと、神様の味方は天国、神様の敵は地獄、という単純な分け方をしているということです。地獄がないとは言わない、聖書には確かに地獄のことも書いてあります。終わりの日の裁きのことも語られています。しかし聖書全体が語り、また主イエス・キリストがその命をささげて示して下さったことは、神様はご自分の敵である者をも愛して下さる、ということなのです。それが聖書の最も大切なメッセージです。そのことをわきまえるなら、あのような語り方にはならないはずなのです。

神様は、ご自分の敵である者をも愛して下さる、だから、あのような語り方は間違っている。そうだとするならば、私たちは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことができるはずです。敵は愛せない、迫害する者のために祈ることなんかできない、というのであれば、私たちは、あの、「天国か地獄か」という世界に生きているのです。「敵は敵だ、滅ぼしてしまえ」という世界です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えは、私たちを、このような、白か黒かがはっきりとした、しかし愛のない世界から解放して、天の父なる神様の愛の下で生きる者としてくれるのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年7月23日]

メッセージ へもどる。