富山鹿島町教会


礼拝説教

「み国をきたらせたまえ」
詩編 第22編1〜32節
マタイによる福音書 第6章10節

 主イエス・キリストが、「だから、こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を、一つ一つ礼拝において味わっているところです。本日はその第二の祈り「御国が来ますように」、わたしたちがいつも祈っている言葉で言えば「み国を来たらせたまえ」です。私たちはこの祈りを、どんな思いをもって祈っているでしょうか。「み国を来たらせたまえ」。「み国」とは神様の国です。神様の国が来れば、今の様々な苦しみや悲しみ、不幸などは全てぬぐい去られる、そして平安な、楽しい、悩みのない世界になる、そういう神様の国を来たらせて下さい、という思いでこの祈りを祈ることが多いのではないでしょうか。自分自身が悩みや苦しみ悲しみをかかえている場合にはなおさらそうなります。「み国を来たらせたまえ」という祈りは、「私の苦しみを取り除いて下さい」という祈りと変わらない思いで祈られていくのです。あるいはまた、この世界、この社会の様々な問題を見つめていく中でこの祈りを切実に祈らずにはおれない、ということもあります。世界には、争いが絶えず、災害も繰り返され、それらの中で多くの人が難民となったり、殺されたり、餓死したり、弾圧されたりしているのです。私たちの力では、そういう現実をどうすることもできない、その時私たちは、「み国を来たらせたまえ」、と真剣に祈るのです。神様のみ国が来れば、それらの問題がなくなり、苦しんでいる人々が救われる、平安が与えられる、そこにしか問題の解決はないのではないか、と思うのです。そのように私たちは、「み国を来たらせたまえ」という祈りを、今の現実を神様が変えて下さり、苦しみ悲しみを取り除いて下さり、喜びと平安の世界にして下さることを願い求める祈りとして受け止めていることが多いのではないでしょうか。今のこの世界、この国は「み国」ではないのです。そこに、神様が新しく「み国」を来たらせて下さることを願い求めているのです。

 けれどもそのように祈る時、私たちはその「み国」をどれだけ現実味を帯びたものとしてて待ち望んでいるでしょうか。自分のこの苦しみが取り除かれるみ国が来て欲しい、世界の悲惨が解決されるみ国が来て欲しい、そういう願いは切実に持つけれども、それは所詮適わぬ願いだ、あるいは、その願いが実現するのは遠い将来のことだ、という思いを私たちがどこかで抱いていることも事実ではないでしょうか。み国、神の国は、実現したらよいと思うけれども、現実には存在しない、実現するとしてもそれは今ではなくて、遠い将来のことだ、という感覚があるのです。「ユートピア」という言葉があります。「理想郷」などと訳されます。誰もが幸福に暮らせる理想的な社会を夢見て語られた言葉ですが、この言葉の成り立ちは、「ない」という否定の言葉と「場所」という言葉なのです。つまり「あり得ない場所」という意味です。理想郷、即ちあり得ない場所なのです。私たちは「み国」、神の国をこのユートピア、理想郷と同じように受け止めているのではないでしょうか。そうすると、それを「来たらせたまえ」という祈りは、「確かにそうなればよいけれども、でも無理だよなあ」というあきらめの思いの中で祈られていくことになるのです。

 けれども、み国、神の国はユートピアではありません。それは人間が追い求める理想を語った言葉ではないのです。マタイによる福音書第4章17節の、主イエス・キリストがみ言葉を宣べ伝え始められた言葉をもう一度振り返ってみたいと思います。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。主イエスは「天の国は近づいた」とお語りになったのです。天の国とは神様のみ国です。それが近づいた、その近づいたというのは、例えばハワイが一年間に何センチかずつ日本に近づいている、などというような近づき方とは違います。もうあなたのすぐそばに来ている、あなたが手を伸ばせば触ることができる所まで来ている、ということです。み国はそのように私たちのところに既に来ているのです。何によってか。それは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによってです。この福音書の第12章28節で主イエスは、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます。主イエスは、神の国、み国をこの世にもたらすために来られたのです。主イエスの救いのみ業によって、神の国は、既に私たちのすぐそばまで、私たちが手を伸ばせば触れることができるところまで来ているのです。主イエスが私たちの間にいて下さるなら、私たちは既に神の国に入れられていると言うことができるのです。つまり主イエスが教えて下さったこの祈りは、主イエスによって神の国がもたらされているということを前提としており、その神の国の現実の中に私たちが生きることができるように、という祈りなのです。

 しかしそのように言うと私たちの中には、大きな疑問が起こってきます。主イエスによって神の国がもたらされており、私たちが既にその中に入れられているとするならば、何故こんな苦しみが、あんな悲惨なことが起こるのか、神の国に入れられているはずの自分が、どうしてこんな悲しみ苦しみを味わわなければならないのか、主イエスによって神の国が近づいたとか、もたらされたなどというのは嘘ではないか、そんなもの、私たちの近くのいったいどこにあると言うのか、そういう思いが私たちの内に湧き上がってくるのです。つまり私たちは、私たちが今生きているこの現実、この生活の中に、神の国を見ることができない、そこに神の国があるとは感じられないのです。だから私たちは、「み国を来たらせたまえ」という祈りを、現実にはないユートピアを願い求めるような思いでしか祈ることができないのです。しかし主イエスは、「神の国は近づいた」と言われました。そのことを前提として、「御国が来ますように」と祈ることを教えられたのです。  主イエスは、「神の国は近づいた」と言われた、しかし私たちは、自分の現実の中に神の国を見ることができない、このギャップはどこから来るのでしょうか。それは私たちが「神の国」というものをどのように考えているかによることだと言えるでしょう。私たちが神の国という時に思い浮かべるイメージは、悩みも苦しみも争いもない世界、そういう平和な状態のことである場合が多いと思います。神の国が来れば、悩みも苦しみも悲しみも解消されて平和が与えられると思うのです。しかし神の国という言葉の本来の意味は、神のご支配ということです。神様が支配しておられる、それが神の国です。いやしかし神様が支配しておられるなら、悩みも苦しみも悲しみもない平和な状態になるはずだろう、と私たちは思います。しかしそれは私たちの勝手な思い込みなのです。そういうふうに思ってしまうのは、私たちの中に、神様は人間を幸福にし、平安を与えるために存在している、という思いがあるからです。そしてそういう思いを私たちが抱くのは、人間が自分のために考え、造り出した神様しか知らないからです。人間が考えた神様は、みな人間のための神様、人間に奉仕する神様です。そういう神様を求める思いは私たちの中に非常に強くありますから、聖書が教える主なる神様、そして主イエス・キリストにも、そのような神であることを期待し、そのような神として見てしまうというきらいがあります。そうなると、神の国は私たちが悩みや苦しみから解放されて平安でおれる状態、ということになってしまうのです。けれどもそれは私たちの側の思いを神様におしつけているに過ぎません。神の国を見つめていく時に大事なことは、神様ご自身が、どのようにして私たちを、この世界を支配なさろうとしておられるか、です。そこに、神の支配即ち神の国があるのです。

 神様はどのようにして私たちを支配なさるのか。それは一言で言えば、独り子イエス・キリストによってです。主イエス・キリストが来られたことによって「神の国は近づいた」「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われているのは、このことによって神様が私たちに対するご支配を確立しようとしておられるということなのです。神様は主イエスによって、どのようなご支配を確立なさるのでしょうか。それは、十字架の苦しみと死とによるご支配です。主イエスが、私たちのために、私たちの罪を全て引き受けて十字架にかかって死んで下さった、そこに、神様の私たちへのご支配があるのです。つまり、神様が主イエスによって確立しておられるご支配は、力をもって私たちを押さえつけ、有無を言わせずに従わせるというようなご支配ではありません。かといって勿論、私たちの願いや思いを全て適える、私たちの求めるご利益を与えるということでもありません。それでは、支配しているのは私たちで、神様はその僕になってしまいます。人間が考え出した神は皆そのように人間の僕ですが、まことの神様はあくまでも私たちを支配なさるのです。しかしそのご支配は、独り子の命を私たちのために与えて下さるというご支配、神様ご自身が、私たちの罪による苦しみと死とを引き受けて下さるというご支配、一言で言えば、愛によるご支配なのです。私たちは、この主イエスの十字架の苦しみと死とにおける神様のご支配の下に今や置かれている。それが、「神の国は近づいた」ということであり、「神の国はあなたたちのところに来ている」ということなのです。神様のこのような恵みのご支配が、主イエス・キリストによって私たちに差し出されています。私たちは、手を伸ばしてそれをいただけばよいのです。それをいただくのに何の資格もいりません。立派な人間である必要はないのです。ルカによる福音書第19章の、ザアカイの話を思い出します。ザアカイは、徴税人の頭、罪人であり、誰も彼を愛そうとしないし、友だちになろうとはしなかったのです。しかし主イエスは彼が通りかかる主イエスを見ようと上った木の下で立ち止まり、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。主イエスの方が彼に語りかけ、彼の家の客となったのです。ザアカイはこの主イエスによって変えられました。「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。だまし取っていたものは四倍にして返します」と言いました。すると主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。それは、ザアカイのもとに、神の国が来たということです。神様の恵みのご支配の中に彼も入れられたということです。神の国はこのようにして私たちのもとに来るのです。

 ですから、神の国が来るとは、自分の悩み苦しみ悲しみが解決されることや、自分が平安を与えられることとは違うのです。言い換えれば、自分の悩みや苦しみが解決されなければ、神の国はそこにない、ということはないのです。神様の独り子が、私たちのために苦しみと死を引き受けて下さった、そこに神の国はあるのです。その神の国に生きる者は、悩みや苦しみ悲しみの中で、しかし主イエス・キリストが共にいて下さり、その悲しみ苦しむ自分をみ手の内に支えていて下さることを信じることができるのです。主イエスご自身が、十字架の上でそのことをお示し下さったのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所は、詩編第22編ですが、その冒頭には「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉があります。これは、主イエスが十字架の上で最後に叫ばれた「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という言葉です。主イエスはこの詩編22編2節を叫んで息を引き取られたのです。その主イエスの思いはどうであったのか、神様に見捨てられたという絶望の中で主イエスは死なれたのか、しかしこの詩編22編は、その全体を読むならば、決して絶望の歌ではないのです。その終りの方では、むしろ神様への信頼の言葉が語られていくのです。28節以下をもう一度読んでみます。「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。「王権は主にあり、主は国々を治められます」とは、神様の王としてのご支配が確立するということです。神の国が実現するということです。主イエスは、このことを歌っている詩編の最初の一節を叫んで死なれたのです。それは、だから主イエスは絶望していたわけではない、と言うよりも、まさにこの十字架の死という絶望、神様に見捨てられた罪人としての主イエスの死を通して、神様のご支配、み国が実現する、ということでしょう。主イエスはそのことを見つめつつ、絶望の中での死へと身を委ねられたのです。神の国はこのようにして実現しました。それゆえに私たちは、苦しみ悲しみ絶望の中でなお、神様のご支配を信じて、「み国を来たらせたまえ」と祈ることができるのです。

 神様のご支配、神の国は、主イエス・キリストにおいて実現している。そこにおいて見つめるべきもう一つのことは、主イエスの復活です。私たちの罪を背負って十字架の上で死んで下さった主イエスを、父なる神様は復活させて下さいました。そこに、神様のご支配が現われているのです。つまり主イエスによって確立した神様のご支配は、死の力に打ち勝つご支配です。神の国は、死の力に勝利しているのです。私たちを脅かし、恐れを与えるこの世の力の究極のものは死です。私たちは誰もこの死の力に打ち勝つことはできないし、遅かれ早かれ必ずこの死の力に捉えられていくのです。また死の力が、じわじわと、あるいは突然に、私たちから愛する者を奪い取っていく。その力の前に私たちは全く無力です。代われるものなら自分がその人と代わりたいとすら思っても、どうすることもできないのです。そのように死の力の前に敗北するしかない私たちです。しかし神の国は、この死の力を打ち破って新しい命を与える力です。主イエスが死んで下さり、そして復活して下さったことによって神の国が確立しているなら、私たちは自らの、また愛する者の死においても、神の国に連なる者として歩み続けることができるのです。死の力を前にしてもそこで、「み国を来たらせたまえ」と祈ることができるのです。

 神の国、み国は主イエス・キリストによって既にもたらされているのであるとすれば、それはいわゆるユートピアでもなければ、遠い将来のいつかに実現するであろう希望でもありません。それは神様の恵みのみ心によって私たちの生活の中に実を結ぶものなのです。私たちは、様々な問題をかかえ、悩みや苦しみやまた死に直面しつつ歩むこの世の生活において、神の国、み国の一員として生きるのです。この世の悩みや苦しみから抜け出すことによってではなくて、そのただ中で、神様の恵みに支えられて歩むのです。「み国を来たらせたまえ」という祈りは、そういう私たちの歩みを整えるために与えられていると言えるでしょう。しかしそれだけではありません。主イエス・キリストによって神の国、み国をもたらして下さる、その神様の御業はまだ完結してはいないのです。主イエスの十字架の死と復活によって、それは私たちの罪と死とに打ち勝つ決定的なものになりました。しかしまだ先があります。それは、復活して天に昇られた主イエスがもう一度来られ、それによってこの世が終り、神の国が完成する時にまで至るのです。神の国、神様のご支配は、それまでは、目に見えない、信仰によって受け入れるしかない事柄ですが、この主イエスの再臨の時には、今は隠されている神様の恵みのご支配が顕わになるのです。そしてそこでは、この神の国の、死に対する勝利も完成するのです。その時私たちは死の力から解放されて復活し、新しい命と体を神様から与えられます。そして私たちに先立って復活された主イエス・キリストと同じように、もはや死に支配されることのない命を生きる者とされるのです。神様はそのように私たちに約束してくださっています。主イエスの復活はその約束の保証なのです。それゆえに「み国を来たらせたまえ」という祈りは、この主イエスの再臨による神の国の完成を待ち望み、それを一日も早く来たらせて下さるように願う祈りでもあります。そういう意味でこの祈りは、将来に向かう希望の祈りでもあるのです。それは単にユートピアを夢見るようなことではありません。こう祈りなさいと教えて下さった主イエスは、ご自分の命をささげて、この祈りが単なる願望に終わるのではなくて、神様が必ずそれを実現して下さることの保証となって下さったのです。

 本日は、世界聖餐日です。この後、聖餐にあずかります。聖餐は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の国、神様のご支配が確立した、そのことを記念し、その恵みに私たちがあずかるために定められたものです。聖餐のパンと杯にあずかることによって、私たちは、私たちのために肉を裂き、血を流して下さった独り子イエス・キリストの恵みを味わうのです。神様のご支配が、このことを通してこの世に、私たちの上に実現したことを覚えるのです。この聖餐にあずかりつつ歩むことによって私たちは、神様の恵みのご支配の下に、み国の民として生きるのです。そしてさらに、聖餐は、世の終りに与えられる神の国の完成の恵みの先取りでもあります。わたしたちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエスは、天に昇られました。そして父の右に座し、生きている者と死んだ者とをさばくために、栄光をもって再び来られるのです。その再臨によって「御国」が完成します。その御国は終わることがないのです。私たちが本日告白する「ニカイア信条」はそのように語っています。この終わることのない御国、神の国は、しばしば盛大な晩餐会に喩えられています。その晩餐にあずかる者が即ち救いにあずかる者なのです。私たちが今この世を歩む教会の礼拝においてあずかる聖餐は、この神の国における盛大な晩餐会の先取りです。あるいは、そこでのごちそうを前もって試食させていただいているのです。試食させていただいているのは、主イエス・キリストの御体と御血とのしるし、つまり十字架の死による恵みのしるしです。私たちはその恵みを今味わいつつ、主が再び来られる時には、その復活の恵みにもあずかり、死に勝利する命にあずかる者とされることを希望をもって待ち望むのです。聖餐にあずかった後で、讃美歌81番「主の食卓を囲み」を歌います。そこで繰り返されるのは「マラナ・タ、主のみ国が来ますように」という言葉です。聖餐の食卓を囲み、主イエスの十字架の死による恵みのしるしであるパンと杯にあずかりつつ、私たちは「み国を来たらせたまえ」と祈るのです。この聖餐にこそ、神様のご支配、み国の真実の姿が示されているのです。そしてまたこの聖餐にこそ、神様が約束して下さっているみ国の完成の恵みが先取りされているのです。「み国を来たらせたまえ」という祈りは、聖餐にあずかって生きる所でこそ、その本当の意味と恵みを味わうことができると言うことができるでしょう。そこにおいてこの祈りは、私たちの単なる願望のような、半ばあきらめの中で祈られる力ない祈りではなくて、神様のはっきりとした約束に支えられた、力強い希望の祈りとなるのです。また、聖餐にあずかることの本当の意味を私たちに示し与えてくれるのが、「み国をきたらせたまえ」という祈りであると言うこともできます。聖餐にあずかることによって、私たちは、あのザアカイが主イエスを客として迎えた食卓において変えられたように、神の国の民とされ、そしてその完成を待ち望む者となるのです。「み国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩むことと、聖餐にあずかりつつ歩むことは、このように一つなのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年10月1日]

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