富山鹿島町教会


礼拝説教

「み心が行われますように」
詩編 第40編1〜18節
マタイによる福音書 第6章10節

 本日は、主の祈りの第三の祈り、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」を味わいたいと思います。私たちがいつも祈っている言葉で言えば、「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。この祈りは、「神様のみ心がなるように、行われるように」と祈るものです。その場合の「心」とはどういう意味でしょうか。心という言葉は、一般的には人間の精神的な営みの全体を指す言葉として用いられています。ある国語辞典によれば、「知覚、感情、理性、意思活動、喜怒哀楽、愛憎、嫉妬などとして現われる人間の精神作用」です。心という言葉で私たちは普通そういうことを思い浮かべるのです。しかしこの祈りにおいて「み心」と言う時の心はそれとは違う意味です。「み心が行なわれますように」と祈る時に、神様の、例えば喜怒哀楽のことを思い浮かべる人はいないのであって、正確に言うならばそれは「ご意志」ということです。神様のご意志が、その通りになりますように、というのがこの祈りの意味なのです。実際原文で用いられている言葉も、「心」というよりは「意志」という意味の言葉です。英語で言うならば、heartとかではなくてwillです。神様がそうしようとなさる思い、ご意志、それがその通りに実現しますように、と祈っているのです。

 このことを改めて確認してみる時に、私たちが思わしめられること、それは、私たちは日々の生活において、いったい誰の意志の実現を願って生きているのだろうか、ということです。それは圧倒的に、自分の意志です。自分の意志、自分の思い、自分の心がその通りになることを願い求めて生きている、そのために日々あくせくとし、それが実現すれば喜び、実現しなかったり、自分の願いや思いとは違う事態になるならば悲しみ嘆く、私たちはそういう毎日を送っているのではないでしょうか。つまり、毎週の礼拝において、あるいは毎日の生活において、主の祈りを祈り、その中で「み心が行われますように」と祈ってはいても、実際に私たちが行われることを願い求めているのは、神様のみ心ではなくて、自分の心、自分の意志や思いであるという現実があるのです。そのことを見つめていく時、この祈りを祈ることは決してたやすいことではないということがわかってきます。本当に心から「み心が行われますように」と祈ることは、決して簡単なことではないのです。そこにおいて私たちは、自分の心、自分の意志が成ることを求めることをやめて、神様のご意志、み心が成ることを求めるように方向転換をすることを求められるのです。『ハイデルベルク信仰問答』の問124は、この第三の祈りを、「わたしやすべての人々が自分自身の思いを捨て去り、ただあなたの善きみこころにのみ、何一つ言い逆らうことなく聞き従えるようにしてください」ということだと解説しています。自分自身の思いを捨て去る、ということなしに、この祈りを祈ることはできないのです。

 そのことは、これまでに味わってきた、第一と第二の祈りにおいても、実は同じだったのです。スウェーデンの人で、第二代の国連事務総長となり、アフリカでの内戦の調停のために出向いた先で飛行機事故で殉職したハマーショルドという人がいました。熱心なクリスチャンでしたが、この人が自分の祈りとして、主の祈りをもとにしてこのように祈っていたという言葉が伝えられています。
御名を聖となさしめたまえ。わが名にあらずして。
御国をきたらしめたまえ、わが治世にあらずして。
御意(こころ)を行わしめたまえ、わが意志にあらずして。
この第三の祈り、「御意を行わしめたまえ、わが意志にあらずして」は今申してきたことです。み心が行われることを祈るということは、自分の意志ではなくて神様のみ心が、ということなのです。同じことが第一と第二の祈りにおいても語られています。「み名をあがめさせたまえ」、正確に言えば「み名があがめられますように、聖とされますように」と祈るということは、自分の名ではなくて神様のみ名があがめられ、聖とされますように、ということなのです。「み国をきたらせたまえ」、の国とは支配という意味でした。ですからこれは神様のご支配が実現しますように、という祈りです。そう祈ることは、自分の支配、治世を求めるのではなくて神様のご支配を求める、ということなのです。このように、主の祈りの前半の三つはどれも共通して、自分の栄光、自分の支配、自分の意志ではなく、神様の栄光、神様の支配、神様のご意志を求めていくという内容を持っているのです。ですから、自分の栄光、自分の支配、自分の意志を捨て去ることなしには、これらの祈りを祈ることはできないのです。

 そのようにこの三つの祈りの内容的なつながりを見ていくならば、特に第二と第三の祈りはほとんど同じことを言っているということがわかります。「み国」とは今も申しましたように「神様のご支配」です。それが実現するということは、神様のみ心が行われるということですから、この二つは同じことになるのです。主の祈りが教えられているもう一つの個所であるルカによる福音書の第11章を見ると、そちらの方にはこの第三の祈りは出てきません。「御名が崇められますように」と「御国が来ますように」だけなのです。主イエスが教えられたもともとの主の祈りはこうだったのかもしれません。第三の祈りは後からつけ加えられたのかもしれないのです。しかし第三があってもなくても、内容的には変わることはありません。第三の祈りが何か新しいことをつけ加えているわけではないのです。

 それでは、第三の祈りはいらないのか、これは祈らなくてもよいのか、というと、そうではないと思います。この第三の祈りがつけ加えられたことの意味があるのです。内容的には新しいことが語られているわけではありません。しかしこの祈りがあることによって、先程考えたこと、つまり、私たちは誰の意志を実現しようとしているか、神様のご意志か、それとも自分の意志か、という問いが鮮明になるのです。み名があがめられ、み国が来ることを祈ることにおいて、私たちはともすればそれらが、自分とは関係のないどこか他所で起こることのように思ってしまうことがあります。これらの祈りを祈りつつ、自分は何も影響を受けずに平然としていることも出来てしまうのです。しかし、み心即ち神様のご意志の実現を願うこの祈りにおいては、神様のご意志と自分の意志とがぶつかり合わずにはいません。自分が求めているのは神様のご意志の実現か、それとも自分の意志の実現か、という問いがつきつけられるのです。そこに、この第三の祈りの意味があるのです。別の言い方をすれば、第一と第二の祈りを本当に祈ることは、結局この第三の祈りを祈ることに集約されるのです。神様のみ心、ご意志の実現をこそ求めるということが、み名があがめられること、み国が来ることを求めることの根本にあるのです。

 「み心が行われますように」と祈ることは、「自分自身の思いを捨て去る」ことなくしてはできない、そういう意味でこれは簡単なことではない、ということを見つめてきました。しかしそのことだけを見つめていてはいけないと思います。先程の『ハイデルベルク信仰問答』の言葉に「ただあなたの善きみこころに」とありました。神様のみ心は「善きみこころ」なのだということを見落してはならないのです。ここでもう一度、この主の祈りが置かれている文脈を思い起こしてみたいと思います。6章5節以下に、祈りについての教えが語られています。その中で、異邦人のくどくどと言葉数の多い祈りと対照的な、短い簡潔な祈りとして、主の祈りが教えられたのです。異邦人がくどくどと言葉数多く祈るのは、そうしなければ神様が聞いてくれないと思っているからです。神様の恵みを受けるためには、なかなか聞いてくれない神様にせっついて何とか腰をあげてもらえるように何度も何度も祈っていかなければならないのです。主イエスは、あなたがたと神様との関係はそんなものではない、とおっしゃいました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。これが、主イエスが示して下さった、私たちと神様との関係です。神様は、あなたがたの天の父となって下さった。そして父として、子であるあなたがたを愛し、あなたがたが願ったらではなくて、願う前から、必要なものを与えようとしていて下さる、あなたがたはそういう神様のもとに子として生かされているのだ、だから、こう祈りなさい、と言って主の祈りを教えて下さったのです。つまりここで「み心」と言われているのは、この父なる神様のみ心です。神様が天の父として私たちを愛し、必要なものを必要な時に与えて養い、導こうとしておられるそのみ心です。それは神様の「善きみこころ」なのです。その「善きみこころ」が行われることをこの祈りは願い求めているのです。ですから、「み心が行われますように」と祈ることは、何か得体の知れない、その力に身を委ねたらどうなってしまうのかわからないような不安なことではないのです。この点において、神様のみ心と運命とは違います。運命というのは、どうなってしまうかわからない、得体の知れない力です。私たちは、私たちの人生を、またこの世を支配しているのは、そのような運命の力ではなくて、神様のみ心であることを信じているのです。ですから、「み心が行われますように」と祈ることは、「運を天に任せる」こととは違います。神様の恵みを信じて、その善きみ心の実現を祈り求めるのです。つまりそれは希望を持って生きることでもあるのです。人は、希望なしに生きることはできません。誰でも皆、そのうちきっとうまくいく、きっと願いが適う、きっと事態が改善されるに違いないと信じて様々なことを努力していくのです。そのような希望はしかし根拠のあるものではありません。そうなって欲しい、という願望に過ぎない場合が多いのです。しかし「み心が行われますように」と祈る時、私たちは、神様の、天の父としての恵みのみ心という確かな希望を抱いて生きることができるのです。運命の力に翻弄されずに生きる道は、この神様のみ心の実現を祈り求めつつ生きるところにこそあるのです。

 しかし、そこには当然疑問が起こってくるでしょう。神様のみ心は天の父としての恵みのみ心である、ということはいったいどうして言えるのか、神様のみ心が恵みのみ心であるなら、どうしてそのみ心が実現するのでなくて、このような苦しみや不幸が自分を襲うのか、「み心が行われますように」と祈っていても、こんな苦しみがふりかかってきた、このような苦しみの現実のどこに、神様の善きみ心を見ることができるのか、という疑問です。この疑問に答えることは簡単にはできません。いや、どれだけ言葉を費やしても、疑問を解消してしまうような答えは得られないと言わなければならないでしょう。ただ一つ言えることは、主イエス・キリストご自身が、この問いを真剣に問いつつ歩まれたということです。そのことを語っているのが、この福音書の26章36節以下の、いわゆる「ゲッセマネの祈り」の場面です。捕えられ、十字架につけられていく直前に、主イエスはゲッセマネという所でこのように祈られたのです。38、39節を読んでみます。「そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」。主イエスは「父よ」と呼びかけておられます。主イエスこそ、本来神様を父と呼ぶことのできるただ一人の方なのです。神様のみ心が父としての恵みのみ心であることを誰よりもよく知っているのは主イエスなのです。しかしその主イエスが今、死ぬばかりに悲しんでおられます。そして、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈っておられます。捕えられ、十字架につけられて殺されることは、主イエスにとっても、耐え難い苦しみなのです。神様の父としての恵みのみ心を見失ってしまうようなことなのです。目の前にあるこの現実のどこに、恵みのみ心、善きみ心などあるか、と思われるようなことなのです。しかしその苦しみの中で主イエスは、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。恵みのみ心がわからない、見えない、その中で、「み心が行われますように」と祈られたのです。そのように祈りつつ主イエスは十字架の死への道を歩み通されたのです。そのことによって、私たちの罪を赦して下さる神様の恵みのみ心が実現したのです。私たちは、自分に対する神様の恵みのみ心を見失ってしまう時、善きみ心などどこにあるかと思わずにはおれない時に、この主イエスの祈りに思いを集めたいのです。神様の独り子であられる主イエスご自身が、苦しみの中で、「み心が行われますように」と祈られたのです。そしてそのみ心は、つまり主イエスに対して神様が意志しておられたことは、この苦しみの杯を過ぎ去らせることではなくて、主イエスがこの杯を飲み干すこと、即ち捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることだったのです。しかしそのことによって、神様の恵みのみ心が実現していったのです。神様のみ心は、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは違っていることがしばしばです。私たちが、これが神様の恵みだと思うこととは全く違う仕方でみ心は行われることが多いのです。それは私たちにとっては、苦しみや悲しみと感じられることである場合もしばしばです。しかしそこに最終的に実現していくのは、神様の恵みのみ心、善きみ心なのです。

 そしてこの主イエスのゲッセマネの祈りにおいて、主の祈りの言葉における「天におけるように地の上にも」ということが実現しているのです。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と私たちは祈っています。み心が天においては実現している、そのように地の上にも、というわけです。しかし、み心が天において行われているとはどういうことでしょうか。天という、この地上とは全く違う別の世界、神様の世界があって、そこではみ心、ご意志が完全に実現している、しかしこの地上ではなかなかそうはいかない、ということでしょうか。そんなふうに天と地とを別の世界にしてしまうことは聖書の意図するところではありません。天における神様のみ心は、地上の私たちと無関係な何かではないのです。神様の天におけるご意志、み心、それは、独り子イエス・キリストを人間としてこの世に生まれさせ、その十字架の苦しみと死と、そして復活によって、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として下さる、その救いのみ心です。その天における神のご決意、み心によって、主イエスはこの世にお生まれになったのです。クリスマスの晩に、天使の大軍勢が「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのは、天の全体がこの神様のみ心、ご決意をほめたたえたということです。天においてみ心が行われているとはそういうことなのです。そのみ心は、地上でも行われなければなりません。それによってそのみ心は実現するのです。そのために主イエスは、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなりませんでした。主イエスが、天における神様のみ心、ご決意を受け入れ、わたしの願いどうりではなく、そのみ心が行われますようにと祈られた、そのことによって、天におけるみ心は地上においても行われていったのです。つまり、天におけるように地の上にもみ心が行われる、その道を切り開いたのは主イエス・キリストであり、それは「私の意志ではなく、み心、神様のご意志が行われますように」という祈りによってだったのです。

 「御意を行わしめたまえ、わが意志にあらずして」と祈ることによって、主イエスは、天における神様の私たちのための恵みのみ心を、地上においても実現して下さいました。そのみ心によって私たちは神様の子として生きることができるのです。私たちは主イエスによって実現したこの恵みのみ心を信じて、神様の子どもとして、「天の父よ、み心が行われますように」と祈りつつ生きるのです。その祈りには戦いが伴います。「私たちの意志ではなく、神様のみ心が行われますように」と祈っていくことは、「自分自身の思いを捨て去り」という戦いなくしては出来ないのです。主イエスはその祈りの戦いを私たちに先立って戦って下さいました。私たちはその主イエスに倣って、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈っていくのです。私たちがそう祈ったからといって、主イエスのように、天における神様のみ心を地上において実現するようなことができるわけではありません。むしろ私たちは、この祈りの戦いの中で、独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様の恵みのみ心を身近に感じることができるようになっていくのです。以前にも紹介したことがありますが、私共の教会で学生生活を送り、北海道大学に移られてすぐに実験中の事故で亡くなった三谷与君という人がいました。その事故から丸八年が経ったのですが、その三谷君のお葬式の後で、父上である日本キリスト改革派春日井教会牧師三谷至男(よしお)先生が、会葬者への挨拶で語られた言葉を私は忘れることができません。「息子を失うということは、親として、耐えがたくつらいことです。でも私たちはこのことを通して、独り子イエス様を十字架につけるために遣わして下さった父なる神様のみ心が少しわかったような気がします」と言われました。若い息子を事故で突然失う、それは親にとって、本当に耐え難い苦しみ悲しみです。その苦しみは、信仰によっても消えるものではありません。いやむしろ、信仰者であるからこそ、なおいっそうその苦しみ悲しみが大きいとも言えるでしょう。神様を信じて、その恵みと導きを信じて生きてきたのに、毎日神様に祈っているのに、どうしてこんなことが起こるのか、いったいこの出来事のどこに、神様の恵みのみ心などあるのか、それはある意味で、信仰者だけが抱く苦しみであり悲しみだと言えるでしょう。しかしまさにそのような苦しみ悲しみの中で、私たちは、「み心が行われますように」と祈ることを求められています。それは大変な戦いです。しかしそこで、「み心が行われますように、私の意志ではなく」と祈っていく中で、私たちは、独り子イエス・キリストを遣わして下さった神様のみ心を身近なものとして感じ取ることができるようになるのです。そしてそのみ心が、私たちに対する恵みのみ心であることを知ることができ、慰めを与えられていくのです。苦しみの中で、「私の意志ではなく、み心が行われますように」と祈っていく中でこそ、神様の恵みのみ心はわかっていくのです。この祈りをやめてしまい、み心が行われることを求めなくなってしまうならば、そこに残るのは苦しみ悲しみとそれに対するうらみつらみだけです。慰めはそこにはない。ですから、私たちが、「み心が行われますように」と祈る主の祈りを教えられているのは、大きな恵みなのです。

 先程の『ハイデルベルク信仰問答』の問124の文章にはさらに続きがあります。「そうして、一人一人が自分の務めと職責とを、天の御使いのように、喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです」。神様の恵みのみ心、善きみこころを知らされた者は、そのみ心に支えられて、それぞれ自分に与えられている務め、職責を、喜んで忠実に果たしていくのです。そのような私たちの働きによって、み心がこの地上に行われていくのです。「み心が行われますように」という祈りは、私たちがみ心を行っていくことができますように、という祈りでもあるのです。私たちが行っていくみ心、それは私たちが考えるみ心ではありません。それだったら、み心ではなくて私たちの思いになってしまいます。私たちは、神様が主イエス・キリストによって示し、実現して下さった恵みのみ心を行っていくのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第40編の9、10節に「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み、あなたの教えを胸に刻み、大いなる集会で正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じません」とあります。「正しく良い知らせ」つまり神様の恵みのみ心を伝えることこそが、み旨を行うことなのです。本日は伝道献身者奨励日です。神様の恵みのみ心を直接に宣べ伝えていくことを通してみ心を行っていく伝道献身者が私たちの群れからも起こされていくことを祈り求めていきたいと思います。しかしそれだけではなく、私たちが主イエスによって示され実現された神様の恵みのみ心に支えられて、それぞれに与えられている務め、職務を、喜んで忠実に果たしていくこと、それもまた、み心を行っていくことなのです。私たちが自分の思いを捨てて神様の善きみ心に言い逆らうことなく聞き従い、そして与えられている務めや働きを、喜んで忠実に果たすことによってみ心を行っていくことができるように、第三の祈りを心から祈りたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年10月8日]

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