富山鹿島町教会


礼拝説教

「必要なもの」
イザヤ書 第55章1〜5節
マタイによる福音書 第6章11節

 今私たちは礼拝において、主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を丁寧に読みつつみ言葉に聞いています。本日はその第四の祈り、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、です。この祈りから、主の祈りは後半に入ります。主の祈りは六つの祈り求めから成っています。最初の三つは「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」という、神様の御名、御国、御心を見つめた祈りであったのに対して、この第四の祈りから始まる後半の三つにおいては、「わたしたち」のことに目が向けられているのです。「わたしたち」のための祈りです。主の祈りはそのように前半と後半に分けられるのですが、しかしそのように分けて考えていく時に陥りやすい落とし穴があることを警戒しなければなりません。それは、前半は「神様のための祈り」で「後半が私たちのための祈り」であると考えてしまうことです。そして、前半はあまり自分たちのことと関わりがない祈りであるかのように思ってしまい、後半から初めて自分たちの生活に関わることが始まる、と思ってしまうことです。そうではない、ということを、私たちはこれまで前半の祈りを学ぶことによって教えられてきました。本日のところからの後半を「私たちのための祈り」ということは正しいですが、前半を「神様のための祈り」と言ってしまうのは間違いです。前半の、神様を見つめた祈りにおいて、御名が崇められること、御国が来ること、御心が行われることを求めつつ生きる幸い、祝福が私たちに与えられたのです。そういう意味では前半も「私たちのための祈り」だと言うことができます。また、後半の「私たちのための祈り」も、私たちのことだけを見つめているのではなくて、神様を見つめつつ、そこで私たちのことを祈っているのです。つまり主の祈りは、神様との交わりに生きる私たちの祈りなのです。前半は、その交わりにおいて相手である神様に焦点を合わせた祈り、後半はその交わりに生きる私たちに焦点を合わせた祈りである、というべきなのです。

 神様との交わりに生きる私たちを見つめた祈りの冒頭に、本日の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りが置かれています。私たちが生きていくのに必要な糧を、神様が与えて下さるようにと祈ることによって、「私たちのための祈り」を始めるようにと主イエスは教えられたのです。「糧」という言葉は文字通りには「パン」です。主イエスの生きておられた地域においては、パンが主食でした。だからパンという言葉が使われたのです。私たちの生活で言えばそれは「ご飯」に当ると言えるでしょうか。このごろでは、何が主食なのかよくわからないような状態になってきていますが、いずれにせよ、ここで言う「糧」は、食事の中心、それによってこそ生きていくことができ、元気が与えられ、生活を維持していくことができるものです。それを「与えてください」と神様に祈るのです。

 私たちは、この祈りを切実に祈ることをしにくい時代を生きていると言えるでしょう。別に神様にお願いしなくても、食べ物に困ることはない、ちょっとスーパーやコンビニに行けば、選ぶのに困るほどの食物が並んでいるのです。レストランに行けば何でも好きなものを食べられるのです。そういう中で、食事を神様に願い求め、この食事は神様から与えられたものだと感謝して食べるということはなかなか実感となりにくいことです。主イエスの時代はそうではありませんでした。まさに、その日の食べ物のために必死で働かなければならない人が沢山いたのです。その中で、今日の糧を神様に祈り求める、そしてようやく食事にありつくことができたなら、神様の恵みを感謝するというのが実感だったのでしょう。この祈りは、そのような状況の中で教えられたのです。けれどもそれではこの祈りは私たちのような状況においてはもう意味を失っているかというと、決してそんなことはありません。私たちは、飽食の時代と言われる状況の中で、しかし本当の糧を得ることができずにいる、それによってこそ生きていくことができ、元気が与えられ、生活を維持していくことができる本当の糧、パン、主食に飢えているのではないでしょうか。私たちの魂を本当に養い、育て、力を与える主食は、食べ物が満たされれば得られるというものではありません。それはいつの時代にも、どんな状況の中においても、神様に祈り求めていかなければならないものであると思うのです。神様から与えられる糧なくしては、私たちは飢え死にしてしまいます。有り余るほどの食物の中で、魂が飢え死にしてしまうのです。あるいはこういうことも考えなければなりません。食物が豊かにあっても、それを食べることができるのは健康だからです。健康が衰えていけば、年老いていけば、だんだんに食事もとれなくなっていく、その意味での糧を得ることができなくなっていくのです。その時に、私たちを本当に生かし、養っている糧が何であるのかがはっきりしてきます。食物という糧によってしか養われていない人は、それがとれなくなる時に全てを失うのです。自分を養い、力を与えてくれるものが何もなくなってしまうのです。しかし魂を養う糧を得ている人は、なおそこで、豊かに養われ、力づけられていくことができるのです。あるいは、「食事も喉を通らない」という言葉があります。そういう悩み、苦しみ、悲しみ、心配事に捕えられてしまうことがあるのです。そこでは、食べ物がいくらあっても何の養いにもなりません。食べ物は勿論とても大切であり、なくてならぬものですが、しかし私たちが本当に元気に、力強く生きていくことができるための糧は、それとは別のものなのです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、そういう魂の糧、私たちを本当に生かす糧を求める祈りであると言うことができます。その糧を、天の父なる神様に祈り求めるようにと主イエスは教えて下さったのです。そのことが、私たちの、自分のための祈りの冒頭に置かれる必要があるのです。それは別の言い方をするならば、私たちの生活は、人生は、神様が与えて下さる糧によってこそ支えられ、養われるのだ、ということです。神様との交わりに生きることが主の祈りの全体を貫いている姿勢であると先程申しましたが、それは言い換えれば、神様によって養われて生きる、神様から糧をいただき、それによって生きるということなのです。自分を養う糧は自分で考え、見出し、あるは得ていく、そのための手助けを神様に求める、というのは、神様との交わりに生きていることではありません。それは交わりと言うよりも、自分の思いのために神様を利用しているだけのことです。神様との交わりに生きるために、私たちはまず、神様が私たちを養って下さることを見つめ、神様が与えて下さる糧を求めていかなければならないのです。

 ところで、この第四の祈りは、私たちが日ごろ祈っている言葉においては「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」となっています。それとこの新共同訳聖書の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」とでは大分違うことにお気づきのことと思います。一番大きな違いは、「日用の」というのが「必要な」となっていることです。ここは前の口語訳聖書では「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」となっていました。「日ごとの」というのは「日用の」と同じ意味になります。「日用の」は「日曜日の」ということではなくて、「日用品、日用雑貨」の日用です。日々の、という意味です。毎日毎日の、その日その日の糧を求める祈りです。しかし「必要な」となるとそれとは意味が違ってきます。なぜこのような違いが起こるのかというと、「日々の」とか「必要な」と訳されている元の言葉が、聖書にも、また当時の文献にもほとんど出てこない非常に特殊な言葉で、学者たちもその意味を特定できないでいるからなのです。この言葉は原語で「エピウーシオス」と言うのですが、それは「上」という意味の「エピ」という言葉と、「本質、存在」という意味の「ウシア」という言葉から成っているというのが一つの説です。そう考えると、この言葉は「存在の上の、存在のための」という意味になり、そこから「必要な」という訳が出てくるのです。で、それをさらに「今日の存在のための」というふうにとっていくと、「今日生きるための、日ごとの」という意味にもなっていきます。「日ごとの、日用の」というのはそこから生まれてきた訳です。ですから「必要な」と「日ごとの」は見かけほど違った意味ではないと言えます。「今日生きていくのに必要な」というふうに考えればよいでしょう。しかしこの「エピウーシオス」という言葉自体には「今日」という意味はないのです。「今日」という言葉はその後の「今日与えてください」という所にあります。むしろこの言葉にひきずられて、「必要な糧を今日与えてください」と毎日毎日祈っていく、それは「日ごとの糧」を祈り求めていくことだ、ということから「日ごとの、日用の」という理解が生まれたものと思われます。そういう意味では、この新共同訳の「必要な」という言葉をかみしめていくのがよいと思うのです。「日用の、日ごとの」という意味はその後の「今日与えて下さい」という言葉に十分に表わされています。この部分では、私たちが生きていくのに本当に必要な糧、本当に私たちを養い、力を与えてくれる糧を神様が与えて下さることを祈り求めていく、ということが大切だと思うのです。

 そこで、本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書第55章1〜5節が意味を持ってくるのです。その2節に、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」とあります。私たちは、「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労」していることが多いのではないでしょうか。つまり本当の糧、本当に「必要な糧」を求めているか、ということです。私たちが必死になって追い求めているもの、ここにこそ人生を支え、充実させるものがある、と思って努力して得ようとしているもの、それは本当に必要な糧だろうか。本当に人生を支え、養い、力を与えるものなのだろうか。そういう問いかけを自分自身に投げかけてみる必要があるのです。そしてここには「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」とあります。「わたしに聞き従う」、つまり神様のみ言葉を聞き、それに従っていくことにこそ、本当の糧がある、本当に良いもので養われ、豊かさに生きる道があるのだ、というのです。神様のみ言葉こそ、本当に必要な糧だというのです。その次の3節には、その「わたしに聞き従う」ことの内容がさらに語られていきます。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」。神様のみ言葉を聞く、そのみ言葉が語るのは、「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ」ということなのです。神様が私たちと契約を結んで下さる。それは神様が私たちと特別の交わりを持って下さるということであり、私たちを神様の民として、神様のもとで、その恵みと慈しみによって養い生かして下さるということです。神様が、神様の方から、私たちとそういう関係を結ぼうとして手を差し伸べていて下さる、そのことをみ言葉は語るのです。ですからそれに聞き従うというのは、神様が差し伸べていて下さるこの手を取って、私たちもその交わりに生きる者となることです。神様の恵みと慈しみによって養われて生きる者にしていただくことです。そこにこそ、まことの糧に養われ、良いものを食べ、魂が豊かに養われる幸いがあるのです。しかも神様はそのまことの糧を、恵みによって、ただで、何の代価もなしに私たちに与えようとしていて下さるのです。そのことが1節に語られています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」。神様は、銀を払うことなく、値を払うことなく、まことの糧を私たちに与えて下さるのです。この糧をいただくために、私たちが何かをしなければならないということはありません。それだけの恵みを受けるのに相応しい立派な、正しい、清い者にならなければならない、ということは全くないのです。神様は、私たちに必要な糧を、ただで与えて下さるのです。

 このことが実現したのが、主イエス・キリストの十字架の死です。主イエス・キリストは、神様の独り子、ご自身が神であられる方でした。その方が、私たちと同じ人間になり、しかも、私たちの罪を全て背負って、十字架の死刑を受けて下さったのです。本当は私たちがかけられなければならないはずの十字架に、神様の独り子が代わってついて下さったのです。それによって、罪人である私たちが、罪人であるままで、赦しを与えられ、神様の恵みの下に置かれました。それは神様が私たちにただで、何の代価も求めることなく与えて下さっている恵みです。私たちの魂を生かし養う本当の糧が、この主イエス・キリストの十字架によって与えられているのです。この糧をいただき、それによって生かされていくために、私たちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りつつ生きるのです。

 先程の「エピウーシオス」という言葉にはもう一つの解釈があります。それは、「来ようとしている」という意味の「エピウーサ」という言葉からの読み方です。そうするとこれは「必要な」でも「日々の」でもなくて、「この後の、これからの」という意味になります。「この後のパン、これからのパン」、それは、一番近くには次の食事の、ということになり、あるいは明日のということになり、さらには将来の、ということになります。「今日与えてください」という言葉との関わりで言えば、「明日のパンを今日与えて下さい」ということかもしれません。そのように、自分がこれから生きてゆき、歩んでいく、その一歩先のことを、そこにおける糧を祈り求めているとも考えられるのです。これもまた意味深いことです。私たちは、一時間先のことはわかりません。一瞬先のことすら、どうなるのかわからないのです。自分の命ですら、一時間後にあるかどうかわかりません。ついさっきまでは平穏無事な日々が当分続くと思っていたのに、ある出来事によってそれが全くひっくり返されて思っても見なかった苦しみや悲しみにつき落とされるということがあるのです。そのような人生において、一歩先のことを、そこにおける糧を、養いを、神様に祈り求める、それは自分の人生の一歩先を、神様のみ手に委ねて生きるということです。この祈りを祈ることにはそういう意味もあると言うことができるでしょう。それは、この後の6章25節以下で主イエスが、「思い悩むな」と教えて下さったことと通じます。6章の最後に、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」とあります。そのように、明日のことを思い悩むことなく生きることができるのは、明日の糧を与えて下さいと神様に祈りつつ生きることによってなのです。

 さらにもう一つ、この祈りにおいて心に留めておくべき言葉があります。それは、「今日与えてください」という言葉です。私たちが祈っている言葉においても、また口語訳聖書においても、「今日も」となっていますが、原文には「も」に当る字はありません。「今日与えてください」が正しい訳です。「今日も」という訳は、先程の「日ごとの」という理解によって生まれた訳でしょう。日ごとの糧を昨日も、今日も、明日も与えて下さいと祈っている、という理解です。しかしそういう意味は原文にはありません。祈られているのは、「昨日も今日も明日も」という継続ではなくて、「今日与えてください」ということなのです。それは、今日この時を生きていくために本当に必要な糧を、今日この日に与えて下さい、ということです。今日というこの日を大切にして生きることがここに教えられていると言うことができると思います。神様から与えられる本当の糧によって養われ、生かされるのは、「いつか」ではなくて今日なのです。今日この日に、神様からの糧をいただかなければ私たちは生きていくことができないのです。今日の食事にありつけなければ、飢えたまま夜を迎えなければならず、明日の力が出ないように、今日神様からの糧をいただき、それによって養われなければ、私たちの人生は弱り衰えていってしまうのです。だから、毎日三度三度の食事をとっていくように、私たちは毎日、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りつつ生きるのです。明日は明日でまたその祈りを祈るのです。それゆえに主の祈りは、私たちが毎日祈らなければならないものなのです。祈りは、信仰にとって食事のようなもの、あるいは呼吸のようなものです。毎日食事をとらなければ健康を損ね、弱っていくように、呼吸をしなければ窒息してしまうように、私たちの信仰にも祈りが必要なのです。その祈りを主イエスが教えて下さいました。それが主の祈りです。私たちはこの祈りを毎日祈りつつ、その日その日の歩みに必要な、神様からの糧を求めていくのです。あるいは先程もう一つの読み方としてあげたように、自分の人生の一歩先を神様に委ねて、明日のことを思い悩むことなく生きていくのです。

 宗教改革者のルターが、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」と言ったということを以前に紹介したことがあります。今日という日とそこに与えられている使命を大切にして生きることをこの言葉は教えています。私たちが本当にそのように今日という日を大切にして生きることは、「明日は明日の風が吹く」というようなあきらめやなげやりな思いからは出てきません。本当に必要な糧を神様から今日いただいて生きようという思い、つまり、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りつつ生きるところにこそ、このような生き方が与えられていくのです。

 最後にもう一つ、この第四の祈りを祈る時に私たちが忘れてはならないことを述べておきます。「糧」とは文字通りには「パン」です。食物です。それを「私たち」に与えて下さいと祈るのです。その「私たち」とは誰でしょうか。それは、私たちの身近な、いつも顔を合わせている友人たちのみのことではありません。神様のみ前で、「私たち」とは、この世界の全ての人々です。私たちはこの祈りを祈る時にいつもそのことを覚えなければなりません。この世界の「私たち」の中には、文字通りその日のパンを得ることができずに苦しんでいる人々がいるのです。飢え死にしていく人々がいるのです。その一方で私たちの国では、有り余る食物が無駄にされている。神様はこういう事態をどうご覧になるでしょうか。私たちに必要な糧を今日与えて下さいと祈る私たちには、必要な糧が必要な人にきちんと与えられていくような社会を造るために力を尽していく責任があるのです。この祈りを祈るごとに、その責任をも思い起こしていく者でありたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2000年10月22日]

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