富山鹿島町教会

礼拝説教

「あなたの目は澄んでいるか」
詩編 第123編1〜4節
マタイによる福音書 第6章22〜24節

 クリスマスに備えるアドベント、待降節の時を歩んでいます。教会の玄関のところに、四本のろうそくが立てられたアドベントクランツが飾られています。今日はその三本までに火が灯されています。アドベント第一主日から、毎週一本ずつ火をともしていって、四本すべてに火がともるとクリスマスが来る、そのように、クリスマスを指折り数えて待つ思いを、あのろうそくの火は表しているのです。そして24日のクリスマス・イヴの晩には、キャンドル・サービスが行われます。ろうそくに火をともしての礼拝です。クリスマスはそのように、ともし火の祭りです。ローマ・カトリック教会やギリシャ正教会では、日常的にろうそくのともし火が用いられていますが、私たちの教会では、ともし火を用いるのはクリスマス・シーズンだけなのです。

 そのクリスマスのともし火を思い描きつつ、本日与えられているマタイによる福音書第6章22節以下の主イエスのみ言葉に耳を傾けていきたいと思います。「体のともし火は目である」と主イエスは言われました。目こそが、あなたがたの体全体にとってのともし火である、それが、本日私たちに語りかけられているみ言葉なのです。目が体のともし火であるとはどういうことでしょうか。ともし火は、暗闇の中にそれが置かれることによって、周囲が照らされ、ものが見えてくる、その光の源です。このごろでは私たちは、本当の暗闇というものを体験することがあまりなくなっていますが、例えば停電になって、鼻をつままれてもわからない漆黒の闇の中に置かれた時、一本のろうそくのともし火があるとないとでは大違いです。電灯の下では役に立たないように見える一本の小さなろうそくが、暗闇の中では偉大な働きをするのです。他方、人は目でものを見るのです。光を感じるのです。目が開かれていてこそ、ものを見ることができ、光を受けることができます。ですから、目が開かれていなければ、太陽の光も、電灯の光も、ろうそくの光も、私たちの歩みを照らすことはない、目を通して、光は私たちに受け止められ、私たちの歩みを明るく照らすのです。それゆえに、目こそ体全体にとってともし火のようなものだと言われているのでしょう。そうすると、問題は私たちの目がどうなっているかです。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」というのはそのことです。私たちの目が、澄んだ、クリアーな目であれば、光をしっかりと受け取ることができ、それによって全身が明るく照らされていく、しかし目が濁っていれば、どんな光が自分を照らしていても、その光が自分の中にちゃんと入ってこない、その光に照らされて生きることができない、それゆえに、目が澄んでいるか、濁っているかが、私たちが明るい光に照らされて生きることができるか、それとも暗闇の中で生きなければならないかを決めるのだ、ということを主イエスは指摘しておられるのです。

 このことは、私たちの肉体の目とその視力のことではありません。もしそうなら、目の悪い人、視覚障害を持っている人は明るく生きることはできない、ということになってしまいます。そんなことはありません。視力はなくても、明るい光に照らされて生きている人はいくらでもいます。逆に、肉体の目はよくても、暗い、光のない生き方をしている人もいます。ですからこれは、肉体の目の視力のことではなくて、もっと内面的な、心の目のことを言っているのです。肉体の目は、ある場合には、手術をすれば澄んだものとすることができます。あるいは眼鏡などで視力を矯正することもできます。最近では、若い内なら近視も手術で直るようになっているそうです。しかし心の目はそういうわけにはいきません。これを本当に澄んだ、濁りのないものとするにはどうしたらよいのか、これはなかなか難しい問題です。

 本日の説教の題を「あなたの目は澄んでいるか」としました。澄んだ目をもってこの世界を、人々のことを見つめる者でありたい、と私たちは思います。澄んだ目でものを見るためにはどうしたらよいのだろうかと思います。その時に、私たちが先ず考えること、あるいは世間の常識から教えられることは、こういうことではないでしょうか。それは、澄んだ目でものを見るためには、私たちの心が澄んだものとなっていなければならない、ということです。「あの人の目は澄んでいる」という時に、それは、あの人は心が純粋で、汚れたところがない、というような意味です。あるいは、「目は口ほどにものを言い」という諺があります。そこに語られているのは、目にはその人の内面が表れるということです。だから、目が澄んだものとなるためには、まず、私たちの心が澄んだものとならなければならない、汚れやよこしまなところがない、偽りがない、純粋な、そういう心の人にして初めて、澄んだ目をもって見ることができるのだ、問題はその私たちの心のありようだ、ということを私たちは聞かされるし、自分でもそう思っているのではないでしょうか。そしてそのことは、23節後半の主イエスのお言葉、「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」という言葉によっても裏付けられる。私たちの中に、心の中に光が灯っていれば、明るい澄んだ目でものごとを見ることができる、しかしその内面的な光、心のともし火が消えてしまっていると、目も濁ったものとなり、全身が暗くなってしまう、主イエスもそう言っておられると私たちは思うのではないでしょうか。

 けれども、果してそうでしょうか。主イエスがここで語っておられることは、自分の心の中にしっかりとした光を持ちなさい、その光を消さずに灯し続けなさい、そうすればあなたの目は澄んだものとなり、あなたの全身、全生活が明るく照らされることになるのだ、ということでしょうか。私はそれは違うと思います。何故なら、そういうふうに考えてしまったら、「体のともし火は目である」という言葉が生きなくなってしまうからです。「体のともし火は目である」というのは、先程申しましたように、目を通して、外から、体に光が入ってくる、それによって全身が明るく照らされていく、ということであるはずです。だからこそ、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言われているのです。つまり、主イエスのお言葉においては、私たちの全身を明るく照らす光は外から来るのです。その光を受け止める器官が目なのです。心の中に光を持ちなさい、そうすればあなたの全身は明るくなり、目は澄んだものになる、というのではそれが反対です。その教えにおいては、私たちが、自分で、自分の心の中に光を生み出さなければなりません。そして自分で自分の心を澄んだ、清い、汚れのない、偽りのないものとしなければなりません。そうなって初めて、その心の中の光が、澄んだ心のあり様が目に表れるのです。しかしそんなことはいったい私たちにできるのでしょうか。自分の心の中に自分で明るい光を灯すことが人間には可能でしょうか。私たちは、何もない所に、暗闇がおおっている所に、光を創り出すことができる者ではありません。それができるのは天地の創造者であられる神様だけです。神様は、混沌として、闇がおおっている世界に、「光あれ」と言って光を創造されました。光はそのようにして、神様のみ言葉によってこの世に現れたのです。私たちがその神様と同じことを自分の心の中でせよと言われてもそれは無理というものです。私たちが、暗闇に閉ざされてしまっている自分の心に向かって、「光あれ」とどんなに力んで叫んでみても、そこに光は生まれないのです。光は、私たちが自分の内に創り出すものではありません。それは、外から与えられるものです。神様が創って下さった光をいただくことによってこそ、私たちの中に、心に、光が灯るのです。その外からの光を受ける器官、あるいは光が私たちの中に入ってくる窓が目なのです。「体のともし火は目である」という言葉はそのことを語っているのです。その私たちの目が、光をちゃんと受け止めているか、光をさえぎったり、曇らせたりしていないか、ということが問われているのです。

 ということは、ここであなたの目は澄んでいるか濁っているかということで問題にされているのは、私たちの内面の清さとか純粋さではありません。むしろ私たちが、どこを見つめているか、何に目を向けているか、が問われているのです。本当に光の方を向いて、光を受けようとしているのか、それとも光から目を背け、別のものを見つめてしまっているのか、それが、目が澄んでいるか濁っているかの違いであり、それによって私たちの全身が明るくなったり暗くなったりするのです。そしてこのことにおいて、この教えはその前の21節とつながってきます。21節には、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と語られていました。富とは、先週の説教において申しましたように、私たちが拠り所としているもの、これを失うまいと必死になっているものです。それをどこに置いているか、つまり、何を本当の拠り所として生きているか、それが、「あなたの富のあるところ」です。そこにあなたの心もある。それはあなたの心はいつもそこへと向いている、それを最も大切にしている、あなたの目は常にそこに向けられている、ということです。つまり主イエスはすでに21節で、「あなたの目はどこを向いているか」と問われたのです。そして22節で、目は体のともし火として、光を受けるべきものだ、だからその目はまっすぐに光を見つめていなければならない、目を通して与えられる光であなたの全身が照らされるようにしなさい、と教えられたのです。

 「あなたの目は何を見つめているか」、それが、「あなたの目は澄んでいるか」という問いの意味です。そしてこのことにおいて、一見何のつながりもないように見える24節が、実は22、23節と深く結び合っていることが見えてくるのです。24節には、二人の主人に同時に仕えることはできない、ということが語られています。その二人の主人というのは、神と富です。神様に僕として仕えつつ、同時に富の僕でもあることはできない、必ず、一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじることになる、と言われているのです。神と富という二人の主人に兼ね仕えることができないのは何故でしょうか。それは、この二人の主人の命令が、正反対と言ってもよい程食い違っているからだと私たちは思います。富という主人の命令は、あらゆる手段を使って、出来る限り金儲けをせよ、というものです。この世の富と名誉を得ることを人生の至上の目的とせよとこの主人は命じるのです。しかし神様は、富や名誉を求めるなとお命じになります。そんなものは困っている人にあげてしまえ、そして、神様に従うこと、み心に適う愛の業に生きることをこそ目指せというのが神様の命令です。この二つの命令を同時に行うことはできない。だから、神様と富とに兼ね仕えることはできないと私たちは思っているのではないでしょうか。しかし、事柄はそんなに単純ではないと思います。神様の命令と富の命令とは、そんなにすっきりと対立しているものではないのです。例えば、主イエスが受けた荒れ野の誘惑があります。あれは、神様に仕えるか、サタンに仕えるか、という話です。あそこでサタンが言っていることの一つは、貧しい人たちを救うために、石をパンに変えて配ってやれ、ということです。「石をパンに変える」ということを、「金儲けをする」と言い換えれば、それは私たちに対する誘惑になります。困っている人を助けるためにはお金がいる、よい地位について、金儲けをして、その金でそういうことをしたらよいではないか、金儲けをするのは何も自分のためだけではない。富を得て、それを世のため人のために正しく有効に用いていくために、あなたは頑張ったらよい、富の命令というのはそういうものでもあるのです。実際世の中には、あの人はまさに富に仕えていると思えるような生き方をしている人が、いわゆる福祉とか弱者救済のために多額の寄付をするということが多々あります。そんなのは売名行為だ、と言ってしまうのは簡単だけれども、その人たちはその人たちなりに、よいことをしようと思っているのではないでしょうか。あるいは、ルカ福音書の19章にある「ザアカイの話」を思い起こしてみてください。主イエスがザアカイの家に客となられたことによって、彼は「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と言いました。主イエスはそれを聞いて、「今日救いがこの家を訪れた」とおっしゃいました。徴税人、守銭奴であったザアカイが主イエスとの出会いによって変えられたのです。しかし私のようにひねくれた者はあれを読むと思います。「なんだ、半分か」。ザアカイほどの金持ちなら、半分を施してもまだずいぶん残っただろう。彼はこの後も裕福な暮らしができたに違いない。ということはザアカイは、豊かな暮らしをしつつ、主イエスの救いにもあずかって生きることができたということではないか。そのように考えてみると、神様に仕えてみ心に従って生きることと、富に仕えて、富を求めて生きることとは必ずしも真っ向から対立するものではない、とも思えるのです。神様に仕えることと、富に仕えることを、どちらの命令を聞いて、どのような生き方をするか、というふうに考えようとすると、そのようになかなか難しい問題が出てきて、よくわからなくなるのです。

 しかし神様に仕えることと富に仕えることとは、本当はごく単純なことなのです。それは、どちらに目を向けて、どちらを見つめて生きるかということです。本日共に読まれた旧約聖書の個所は、詩編第123編です。その2節にこうあります。「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」。ここに、僕とはしため、つまり男女の奴隷の姿が描かれています。主人に仕えて生きるのが奴隷たちです。その奴隷たちがすることは単純なことです。主人や女主人の手に目を注ぐ、つまり、主人をいつも見つめているのです。そして主人の命じることにすぐに対応しようとしているのです。主人に仕えるとは、このように常に主人の方を向き、主人を見つめていることです。そのようにわたしたちは主なる神様に目を注いでいるとこの詩人は歌っています。それが、神様に仕えようとしている信仰者の姿なのです。神と富とに仕えることはできない、それは、私たちがどのような生き方をするかという問題ではありません。どのくらまでなら財産を持ってよいか、これ以上持ったらそれは神ではなく富に仕えることになる、などという話ではありません。私たちは神様と富との両方を見つめて生きることはできない、ということです。一心に見つめることができる相手は一人です。富を見つめるのではなく神様を見つめて生きる者となる、それが、神に仕えて生きることなのです。

 僕が主人の手に目を注ぐように、神様のみ手を一心に見つめ、神様に仕えていく、そこにおいて私たちは何を見るのでしょうか。主のみ手が何をするのを見るのでしょうか。奴隷であれば、それは主人が厳しい、過酷な命令を与えるその手かもしれません。あるいは、怒って自分を打ちたたこうとする手かもしれません。しかし主なる神様のみ手はそのような手ではないのです。主なる神様のみ手は、私たちに豊かな恵みを与えて下さるみ手です。この詩人が、主に目を注ぎ、憐れみを待ちますと言っている、その憐れみを豊かに与えて下さるのが神様のみ手なのです。そのみ手の業を今私たちは喜び祝おうとしています。クリスマスの出来事がそれです。神様が、その独り子を、この世に、私たちのもとに遣わして下さった、神様を一心に見つめていく時に、私たちはこのみ業を示されるのです。しかも神様の独り子主イエスは、ただ人間となってこの世に来て下さっただけではありません。ベツレヘムの馬小屋で、徹底的に貧しい姿で来て下さった主イエスは、私たちが、どのような悲しみ、苦しみ、さびしさの中にあろうとも、そこに、共にいて下さるのです。そして主イエスは私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちに代わって死刑になって下さったのです。私たちが、自分の罪や過ちのために、まさに自業自得として苦しみや絶望の淵に落ち込んでいく、その中で死んでいく、そこにも、主イエス・キリストが共にいて下さるのです。神様のみ手に目を注ぐ時に私たちはこの主イエス・キリストにおける神様の恵みを見るのです。その光を見るのです。そしてその光が、私たちを明るく照らすのです。言い換えるならば、私たちはそこで人生の本当の拠り所を見出すのです。それは、先週読んだ19〜21節で、「富は、天に積め」と教えられていたのと同じことです。天に富を積むとは、私たちが本当に拠り所とする宝が、この地上にではなく天にある、地上の富、いろいろな意味での私たちの財産ではなくて、天の父なる神様の恵みこそが本当に私たちを支える宝であることを知る、ということです。その、神様の恵みという豊かな富が天に蓄えられていることに心を向けよというのが先週の個所の教えでした。それと同じことが、本日のところでも教えられているのです。

神様に目を向け、一心に神様を見つめる、それが神様に仕えることです。その時私たちは、独り子主イエスを遣わして下さった神様の恵みを見るのです。その光を見るのです。その光が、神様を見つめる目から私たちの中に入ってきて、私たちの人生が、生活が、明るく照らされるのです。私たちは、自分で自分の中に光を創り出すことはできないと申しました。光は、神様が創って下さったものです。それを私たちは目を通して神様からいただくのです。私たちの全身が明るいか暗いか、私たちの中にある光が灯っているか消えてしまうかは、私たちの目が、神様が与えて下さる光を受けているかどうかにかかっています。私たちの目が、澄んだものとなっているか、濁ったものとなっているかにかかっているのです。そしてそれは、私たちの目がどこを向いているかです。光の源である神様の方に向けられ、独り子イエス・キリストを遣わして下さったその恵みのみ業を見ているのか、それとも自分の富、つまり私たちのいろいろな意味での財産、自分が持っているものばかりを見つめていて、神様には背を向けてしまっているのか、そこに、私たちの目が本当に体のともし火の役目を果たしているかどうかがかかっているのです。

 クリスマスの出来事とは、闇の中に一本の小さなろうそくの火が灯ったようなものです。二千年前、誰からも顧みられず、人間の居場所からも締め出されて、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった主イエス・キリストは、まことに弱い、小さな独りの幼子に過ぎませんでした。それは風のひと吹きで消えてしまうろうそくの炎のような小さなともし火だったのです。そんなものに自分の人生の拠り所を置くなどということはとてもできない、世の中には、もっと頼りになる、もっとしっかりとした拠り所があると私たちは思うかもしれません。それが、富に仕えることです。そのようなこの世の富、価値に向けられている私たちの目を、小さなともし火である主イエスに向けていく、主イエスをこそ見つめていく、それが神に仕えること、即ち信仰です。その時、私たちの目は澄んだ目となります。それは私たちが清い、純粋な、汚れない者になるということではなくて、その目から、神様の光が、私たちの中に照り輝き、私たちの全身が明るく照らされていくということです。そこには、この世の富によっては決して手に入れることのできない、人生の本当の支えがあります。どんな時にも私たちと共にいて下さる主イエス・キリストによって、本当に確かな拠り所が与えられるのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2000年12月17日]

メッセージ へもどる。