富山鹿島町教会

礼拝説教

「人を裁くな」
イザヤ書 第53章1〜12節
マタイによる福音書 第7章1〜6節

 「人を裁くな」。これが、本日の礼拝において、即ち2001年、21世紀最初の主の日の礼拝において私たちに与えられているみ言葉です。年頭に当って、過ぎ去った一年の歩みをふりかえり、新しい一年の抱負、目標を立てるに際して、このみ言葉を私たちは深く心にとめていきたいのです。ふりかえって思い見れば、私たちの歩みは、人を裁くことのなんと多いものだったでしょうか。「裁く」と訳されている言葉は、「見分ける、判断する」という意味です。「裁く」と言うと、マイナスの判断をし、「あの人はだめだ」と言うことのみを指しているように思いますが、必ずしもそうではない、人のことをあれこれと評価し、批判し、判断する、そのことの全体をこの言葉は含んでいると言うことができるでしょう。私たちは日々、良きにつけ悪しきにつけ、そのように人を裁いて生きている者だと思います。そして私たちがどちらかと言うと好むのは、人の悪い点をあげつらうことです。人を批判し、悪い点、足りない点をあげていくことは簡単です。またそれは気持ちのよいことです。それによって自分が慰められるのです。あの人も自分と同じだ、いや、自分の方が少しはましかもしれない、と思って安心できるからです。そういう慰めは歪んだ、不健康なものだと思いますが、しかし私たちがそういうことに慰めを感じるというのも事実ではないでしょうか。旧約聖書の箴言第18章8節に「陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く」とあります。ここは前の口語訳聖書では「人のよしあしをいう者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」となっていました。こちらの方が味わいのある訳だと思います。私たちは、「人のよしあしを言う言葉」が大好きなのです。それは私たちにとってごちそうなのです。しかし新共同訳の方もはっとさせられる点があります。「人のよしあしを言う言葉」それは「陰口」だと訳されています。相手に対して面と向かって言う言葉は陰口とは言いません。私たちは、人を裁く言葉を、相手に対して直接、面と向かって言うのではなくて、陰で、その人のいない所で、他の人と語り合うということが多いのではないでしょうか。私たちはそういうふうに陰で、常に人を裁いているのです。人についてのうわさ話で盛り上がる、などという時にはそういうことが起っていると思うべきでしょう。「裁く」というと大袈裟なようですが、私たちは確かに常に人を裁いている者なのです。

 「人を裁くな」と主イエスは言われます。人を裁くとは、人のことをあれこれと判断することだとすれば、そういうことを一切やめることが求められているのでしょうか。しかしそんなことはあり得ません。無人島で一人で生きているのならともかく、社会の中で、人と共に生活をしている私たちは、何らかの意味で人を判断したり評価したりすることなしに生きることはできないのです。家族の中でだってそうでしょう。よいことを褒め、悪いことをしかるというのだって一つの判断です。陰口を言うのはいただけないですが、しかし人との交わりの中で、「あなたのしているこのことはいけない」とはっきり言わなければならないことだってあります。あるいは、そういう個人的なことだけでなく、社会の制度として裁判があり、裁きが行われています。人を評価し、判断するということで言えば、入学試験や入社試験、資格試験などもそれに当ると言えるでしょう。そういうことによって社会は成り立っているのです。主イエスの教えは、それらのことを全てやめてしまえということなのでしょうか。個人的なことで言えば、人について一切の判断を停止せよということなのでしょうか。ただ「悪口や陰口を言うな」というだけなら簡単ですが、「人を裁くな」という教えは、私たちにとって決して常識的ではない、奥の深いものを持っているのです。

 その奥深さにわけ入っていくために、まずこのことを考えていきたいと思います。それは、何故人を裁いてはならないのか、ということです。その理由として、私たちなら何をあげるでしょうか。3〜5節にこうあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。ここでは、人を裁くことが、「兄弟の目にあるおが屑を見ること」に喩えられています。「おが屑」は前の訳では「ちり」となっていました。人の目の中に小さなゴミがある、それを見つけ、指摘し、取ってあげようとすること、それが人を裁くことだというのです。ところがここには、「自分の目には丸太があるではないか」と言われています。「丸太」は前の訳では「梁」でした。家の屋根を支えるあの梁です。太い、立派な材木が使われます。そういうものが自分の目の中にはあることに気づかないのか、と言われているのです。これが、人を裁いてはならないという教えの理由です。人の目の中のおが屑、小さなゴミを見ているその自分の目の中には、はるかに大きな丸太、梁がある、そのような者が、人の目のゴミを指摘したり、それを取ってやることなどできるはずはないのです。

 そうするとつまりこれは、あなたには人を裁く資格があるか、ということだ、裁いているあなたの中にも、同じような、いやそれ以上の問題があるではないか、自分のことを棚に上げて人を裁くことができるか、と主イエスは言っておられるのだと私たちは思うのです。主イエスのそのような教えは、例えばヨハネ福音書の第8章で、姦淫の場で捕えられた女を石で打とうとする人々に対して主イエスが「あなたがたの中で罪のない人が先ずこの女に石を投げなさい」と言われたお言葉にも現れています。人の罪を裁いて石を投げる資格があなたにはあるのか、あなたも同じ罪人ではないのか、と主は問われたのです。私たちも、冷静に自分を振り返って見るならば、決して人を裁くことができるような者ではないことに思い当ります。自分のことを棚に上げて人を裁くのは傲慢なことなのです。日本の諺にも「人のふり見て我がふり直せ」というのがあります。人の問題や欠点を見たなら、その人を裁くよりも、自分にも同じことがないか顧みて自分を正せ、ということです。「人を裁くな」とはそれと同じ教えなのでしょうか。

 「あなたに人を裁く資格があるか」と問われれば、私たちは「ない」と言わざるを得ません。しかしそれで事が解決するでしょうか。先ほどの、私たちは人と共に生きていく中でどうしてもある意味で人を裁き、判断せざるを得ない、ということへの答えにはこれはなっていません。勿論自分にもいろいろと問題や欠けはある、しかしこのことに関してはあなたよりは正しい判断ができるし、評価もできる、その私の判断では、あなたは間違っている、と言わなければならない場面が多々あるのではないでしょうか。そこで「自分は完璧な人間でないから人を裁く資格はない」と言って判断停止してしまうのはかえって無責任なことになるでしょう。人と人とが共に生きていく中では、人のふり見て我がふりだけを直していけばそれでよいというものではないのです。このように考えていくと、どうすればよいのかますますわからなくなってしまうように思うのです。

 さて、今までの話で私が意図的にふれないできたみ言葉があります。1節で主イエスは「人を裁くな」とおっしゃり、それに続いて「あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われました。人を裁いてはならないという教えには、その目的というか、見つめているものがあるのです。それは、「自分自身が裁かれる」ということです。そしてその「自分が裁かれる」ことが2節に、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言い表わされています。自分が裁かれる、それは誰によってでしょうか。人に裁かれるのでしょうか。自分が人を裁き、判断するように、人も自分のことを裁き、判断する、だから、人のことを厳しく裁いていると人も自分のことを厳しく裁く、人に対して寛大な心を持てば、人も自分を寛大に扱ってくれる、ということでしょうか。そうではありません。ここで見つめられているのは、そういう人との間での裁いたり裁かれたりということではなくて、神様によって自分が裁かれる、ということです。神様の裁きを見つめているのです。先ほどまで、意図的にふれないできたのはこの神様の裁きということです。主イエスの教えはこのことを見つめ、そこから語られています。そのことをしっかり見つめることによってこそ、この教えの本当の意味もわかってくるのです。神様の裁きということを抜きにして、人と人との間での裁き、あるいは裁く資格、というようなことだけを考えていくと、先ほどのように結局どうすればよいのかわからないことになってしまうのです。

 神様が私たちをお裁きになる、そのことこそ、「人を裁くな」という教えの本当の理由です。しかしそれはどういうことでしょうか。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。自分が人を裁く、それと同じように神様が自分をお裁きになる、だから、人のことを厳しく裁いていると神様も自分のことを厳しく裁くし、人に対して寛大な心を持てば、神様も自分を寛大に扱ってくれる、ということでしょうか。人にやさしくすれば、神様も自分にやさしくしてくれる、人の罪を赦せば、神様も自分の罪を赦してくれる、そうなると、これはもう神様との交換条件、取り引きのようなものです。私たちがどれだけ寛大な、やさしさをもって人に対することができるかで、神様の私たちに対する態度も決まるというわけです。そのために人を裁くな、と主イエスは言っておられるのでしょうか。そうではないと思います。主イエスは、そのような神様との取り引きを教えるような方ではありません。主イエスがこのことによって私たちに見つめさせようとしておられるのは、神様が私たちをお裁きになる、ということです。私たちが人を裁こうとする、その時に、あなたがその人に対して抱いているのと同じ思いをもって神様があなたをお裁きになるとしたらあなたはどうなるか、そのことを考えよ、と言っておられるのです。私たちが人を裁こうとする時の目、それはまことに厳しいものです。人の小さな過ちや欠点すらも見落とさず、それこそおが屑、ちりのようなものまで一つ一つ拾い集めるようなことをするのです。しかしもしも神様がそれと同じ目で私たちのことをご覧になったらどうなるでしょうか。主イエスは、その神様の目、神様の裁きを私たちに意識させようとしておられるのです。そしてそのことを見つめていく時に、私たちは、「自分の目の中の丸太」に気づかされていくのです。

 人を裁いている自分の目の中に丸太がある。そのことは、神様の裁きを見つめることなく、人と人との関係の中でのみ考えている間はわかりません。そこで私たちが感じるのは、せいぜい、先ほど申しましたように、自分の中にも同じような問題や欠けがあり、だからあんまり人のことは言えない、ということです。しかし主イエスが言っておられるのはそんなことではないのです。主は、兄弟の目にはおが屑があり、あなたの目には丸太がある、と言っておられます。それは、あなたにも同じような問題がある、ということではありません。おが屑と丸太とでは、全くスケールが違うのです。私たちが、人と自分とを見比べていって理解することができるのは、せいぜい、自分の目にもおが屑がある、ということです。おが屑の量が少し多かったり少なかったりするのが、人と自分との関係です。しかし主イエスは、あなたの目には丸太があると言われる。それはもはや人と比べてのことではありません。人の罪や過ちと比べて、あなたの罪や過ちは何十倍何百倍も大きい、ということではないのです。そういう人との比較ではなく、神様があなたをお裁きになる、その時、あなたの目には丸太があることが明らかになるのだと主イエスは言っておられるのです。つまり、おが屑と丸太は、罪や過ちの大きさや量を比較しての言葉ではないのです。比べられているのは、人間の裁きと神様の裁きなのです。人間が人間を裁く時には、お互いに相手の目にあるおが屑を見ているのです。しかし神様の前に立ち、神様がお裁きになる時、私たちは、目に丸太がある者であることを明らかにされるのです。おが屑やちりならば、少し見えにくいけれども全く見えないことはないでしょう。しかし丸太が目にあったら、それはもう全く見ることはできません。私たちは神様との関係においては、神様の裁きの前では、見るべきものを何一つ見ることができない、全く目を塞がれた者なのです。

 神様との関係において、私たちの目を塞いでいる丸太、それは私たちの罪です。神様こそが私たちの主人であり、従うべき方であるのに、その神様を忘れ、自分が主人となって、自分の思いによって生きている、その罪が私たちの目を塞いでいるのです。人を裁くことも、そこから生じてきます。裁くことは本来、主人である神様のみがなさることなのです。私たちが人を裁こうとするのは、その神様に成り代わって、自分が主人になっているということです。人を裁こうとするところに、神様に代わって自分が主人となろうとする私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、自分も似たようなものだからではありません。完璧な人間でないから裁くことができないのでもありません。そもそも、人を裁くことができるのは神様お一人だからです。そのことを見失って、自分が裁き手になろうとすることが人間の罪なのです。

 主イエスは「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。私たちは、人の目のおが屑を取ろうとするより前に、自分の目の丸太を取り除かなければならないのです。しかしこの丸太はどうしたら取り除くことができるのでしょうか。私たちは、自分でこの丸太を取り除くことはできないのです。いやむしろこの丸太に気づくことすらなかなかできないのです。この丸太は神様の裁きにおいて明らかになると申しました。神様が私たちをお裁きになる時に、私たちの目の丸太が明らかになるのです。そうであるならば、その丸太を処理することができるのも神様お一人です。そして神様はそれをして下さいました。独り子主イエス・キリストの十字架の死においてです。主イエスの十字架の死、それは主イエスが、私たちに対する神様の裁きを身代わりになって受けて下さったということです。私たちの罪、私たちの目を塞いでいる丸太がそこで明らかにされ、それが罰せられ、償いがなされて取り除かれたのです。本日は、旧約聖書イザヤ書第53章が共に読まれました。そこには、民の罪を背負って裁かれ、苦しみを受け、死に、それによって民に罪の赦しをもたらす主の僕のことが歌われています。それは主イエス・キリストの十字架のお姿を預言したものです。その5節に「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。8節には「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」とあります。11節にも「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあります。このように、神様の裁きが、この僕の上に、独り子イエス・キリストの上に下ったのです。それに免じて、私たちの罪は赦され、丸太が取り除かれて、神様をまっすぐに見つめる目が開かれたのです。本日の個所は、私たちに神様の裁きを見つめさせようとしていると申しました。しかしその裁きは、私たちの上に下されるのではなくて、それを主イエス・キリストが代わって引き受けて下さったのです。それによって、私たちの目を塞いでいるあの丸太が取り除かれたのです。罪の赦しが与えられたのです。主イエスが私たちに見つめさせようとしているのはそのことです。あなたの目の丸太は、私があなたに代わって裁きを受けることで取り除かれる、そのことを見つめなさいというのが、「まず自分の目から丸太を取り除け」というみ言葉の意味なのです。そしてその時に、「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」のです。それは、丸太を取り除かれていよいよはっきり見えるようになり、人の目の中のどんな小さなおが屑をも見落とさずに人を裁くことができるようになる、ということではありません。はっきり見えるようになった私たちの目に何が見えてくるか。それはまず第一に、自分の目にあった丸太の大きさです。神様の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さらなければ取り除くことができない程の大きな丸太が、自分の目を塞いでいたことがはっきり見えてくるのです。そして同時に、その丸太を取り除き、罪を赦して下さった神様の尊い恵みが見えてきます。その恵みによって自分が生かされていることが見えてくるのです。そしてこれらのことをはっきりと見つめていく時に、私たちの、兄弟を見つめる目も変っていくのです。人を裁く目から、兄弟の目からおが屑を取り除く目へとです。それは相手の欠点をあげつらって裁く目ではなくて、相手と共に神様の赦しの恵みにあずかろうとする目です。私たちの目の丸太を取り除いて下さった神様の恵みがその人にも注がれていることを信じて、その人と共にその恵みに生かされることを願い求める目です。それは要するに人を赦す目です。神様が私たちを裁くのではなく、赦して下さったのだから、私たちも、裁きではなく赦しに生きるのです。「人を裁くな」という教えは、このことによって実現していくのです。私たちが裁かなければ神様も裁かないで下さる、というような取り引きではなくて、神様が赦して下さったから、私たちも赦しに生きるのです。そしてまたこのことをわきまえる時に、この社会で人のことをある意味で評価したり判断したりすることなしには生きられないではないか、というあの疑問も解決するのです。主イエスが言っておられるのは、人に対する判断を停止せよということではありません。私たちはそれぞれの置かれた立場や場面に応じて、ある意味で人を裁いたり、判断したり、時には厳しいことを言ったりするのです。それはむしろ責任ある生き方には不可欠なことです。しかしそこにおいて私たちが、神様が主イエスによって与えて下さった赦しの恵みを覚え、その恵みに相手と共にあずかることを願い求めていくならば、私たちの言葉は、相手を殺す裁きの言葉ではなくなり、「兄弟の目からおが屑を取り除く」ものとなるのです。

 本日の個所にはさらに6節があります。いわゆる「豚に真珠」という諺の出所です。この教えがその前の所とどう結びつくのかはわかりにくいかもしれません。しかしこの教えの前提となっていることは、私たちは神聖なもの、あるいは真珠を持っているということです。それは何のことでしょうか。それは私たちの目から丸太を取り除いて下さった神様の恵みであると言うことができるのではないでしょうか。その神聖なもの、高価な真珠を私たちはいただいているのです。そしてそれを兄弟たちにも、人にも与えたいと願うのです。いや、私たちが与えるというようなおこがましいことではなくて、兄弟たちと共にその恵みにあずかりたいと願うのです。ところが私たちがそう願っても、相手はそれを好まず、それを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくるということが起こる、それがこの教えの見つめているところでしょう。それはまさに、神様の大きな恵みを見る目が塞がれてしまっている人の姿です。丸太がその人の目を塞いでいるのです。そういうことがあっても驚きあわてるな、と主イエスは言っておられるのでしょう。主イエスご自身がそのように人々に踏みにじられ、かみつかれて、十字架にかけられていったのです。そういうことは繰り返し、必ず起こります。大事なことはそこで私たちが、与えられている神聖なもの、真珠を本当に大切にすることです。なかなか人々に受け入れてもらえないからといって、その中身を薄めて安売りをするようなことがあってはなりません。この後聖餐に共にあずかります。聖餐は、信仰を告白し、洗礼を受けた方のみがあずかることができるものです。そしてこの6節は昔から、聖餐が祝われる時に、洗礼を受けていない人や、その生活が聖餐にあずかるにふさわしくないと判断された人々にはパンと杯が与えられないことを意味する言葉として読まれてきました。洗礼を受けていない人を犬や豚に喩えるのはいくらなんでも問題だということで、今はこの言葉が聖餐において読まれることはなくなっています。しかし、犬や豚うんぬんはともかく、聖餐において神様から私たちに与えられている尊い恵みを、私たちが本当に大切にしていかなければならないということは確かです。この恵みにあずかることを許されている、つまり既に洗礼を受けている私たちが、与えられている恵みの本当の価値を、尊さをわきまえずに、それを軽んじるようなことがあれば、私たちこそが、犬や豚同然になってしまうのです。犬や豚という言葉は、誰か他の人に向けられているのではなくて、自分自身への戒めの言葉として読むべきでしょう。そしてもう一つ大事なことは、この神聖な恵み、真珠の価値を理解していない、丸太に目を塞がれている人々に対して、私たちが、裁きの目を向けるのではなく、主イエス・キリストによって丸太を取り除いていただいた者として、その兄弟たちと共にこの恵みにあずかることを切に祈り求めていくことです。その人々を裁くようなことをしてはならないのです。私たちがなすべきことは、私たちの目から丸太を取り除き、罪を赦して、恵みの内に生かして下さった神様に感謝して、与えられている神聖なもの、すばらしい真珠を大切にしつつ、それをできる限り多くの人々と分かち合っていこうと努力することなのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年1月7日]

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