富山鹿島町教会

礼拝説教

「主イエスの癒し」
イザヤ書 第53章1〜12節
マタイによる福音書 第8章14〜17節

 本日の聖書の個所、マタイによる福音書第8章14節は、「イエスはペトロの家に行き」と始まります。そのペトロの家はどこにあったかというと、5節にある、カファルナウムという町です。この町は、ガリラヤ湖の北の岸辺の町です。ガリラヤ湖の猟師であったのを、主イエスに招かれて弟子になったペトロの家がここにあり、主イエスはこの家を根拠地にして、ガリラヤ地方での伝道をしていかれたのです。その家に主イエスが来られたとは、つまり帰ってこられたということです。すると、ペトロのしゅうとめ、つまり妻の母親が熱を出して寝込んでいた。それは、朝出かけた時は元気だったのに、帰って来てみると熱を出して寝込んでいた、ということなのかもしれません。主イエスはそのしゅうとめの様子をご覧になって、その手に触れられた。すると熱はさっと引いていき、しゅうとめは元気になった。そして起き上がり、主イエスをもてなした。そういう癒しの奇跡が行われたのです。

 ところで今、「朝出かけた時には」と申しました。この家のやっかいになり、寝泊りしていた主イエスは、朝出かけて、何をしてこられたのでしょうか。マタイ福音書の記述に従えば、この8章の1節以下はずっとひとつながりの出来事です。1節には、「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」とあります。この山は、カファルナウムの近くの、小高い丘のような所だったと思われます。そこで主イエスは、5〜7章の「山上の説教」を語られたのです。その教えを聞いた多くの人々と共に主イエスが山を下りて、カファルナウムに帰ろうとしておられると、そこに一人のらい病を患っている人が来て、ひれ伏して癒しを求めました。主イエスは彼を癒されました。さらに帰りの道を進んでカファルナウムの町に入って来られると、今度はローマの軍隊の百人隊長が近づいて来て、自分の僕の癒しを願いました。主イエスは彼に、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉を与えて、僕の病気を癒されました。そしてようやく14節でペトロの家に帰って来られたのです。このように、これまで見てきた二つの癒しの出来事は、主イエスが「山上の説教」を語られた山を下りてカファルナウムのペトロの家に帰る途中で起ったことなのです。つまり主イエスはこの日の朝、ペトロの家を出かけ、従ってくる人々を連れて山に上り、山上の説教を語り、そして下りてきた帰り道で二つの癒しをなさったのです。そして家に帰り着いてみると、今度はペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいた。そこで主イエスはこの日三度目の癒しの業をなさったのです。マタイ福音書はそのように、5章から本日のところまでのことを全て1日の出来事として描いています。実際にそういう1日があったと考えることには無理があると言えるでしょう。「山上の説教」も、ある時に一気に語られた教えではなくて、折々に主イエスが語られた教えを編集したものであると思われるのです。しかしマタイがこれを一日の出来事として描いていることにはやはり意味があります。それは、8章に入って私たちが見てきている様々な癒しのみ業は、「山上の説教」が語られたその日に行われている、つまり、山上の説教のみ言葉の余韻の中でこれらの癒しの業は行われている、ということです。これらの癒しの業は、山上の説教と切り離して読まれてはならない、ということをマタイはこのような書き方によって示そうとしているのです。

 このように、8章に入って語られていく三つの癒しの出来事は、山上の説教の余韻の中に置かれています。その余韻はどのように見てとれるのでしょうか。らい病の人の癒しにおいて、彼は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。それは、主イエスのご意志ならば、ということです。主イエスの意志にこそ救いがあることを信じ、それをこそ求めていく信仰によって、彼は癒されたのです。百人隊長の話も、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」という彼の言葉に、主イエスの権威を信じる信仰が語られていました。主イエスはそれを受けて、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って下さり、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言って癒しの恵みを与えて下さったのです。このように、これまでの二つの癒しの出来事においては、主イエスの意志と権威が見つめられていました。本日の癒しの記事も、それを強調する書き方になっています。このしゅうとめの癒しは、マルコ、ルカの福音書にも語られていますが、それらにおいては、しゅうとめの熱病のことを、人々が主イエスに伝え、それで主イエスが彼女を癒された、となっているのです。しかしマタイだけは、主イエスが「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」と言っています。主イエスご自身が御覧になり、その意志によって、その権威によって癒しの業をなさったことが強調されているのです。そしてその主イエスの権威は、先週申しましたように、山上の説教を聞いた群衆たちの驚きの原因でした。主イエスが、律法学者のように、律法の権威を借りて、それを解釈することで自分の言葉を権威づけようとするのではなく、ご自身が律法をも越える権威を持つ方としてお教えになった、そのことに人々は驚いたのです。主イエスのみ言葉が、そして言葉は意志から出るものですから、そのご意志が、大いなる権威を持ち、苦しみを癒し、私たちを新しくする力があるということが、これらの癒しの出来事によって示されているのです。そこに、山上の説教における主イエスの権威あるみ言葉の余韻が響き渡っていると言うことができるのです。

 ペトロの家に帰って来られて、しゅうとめの熱病を癒された主イエスのこの日の働きは、それで終りにはなりませんでした。「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とあります。様々な病気を癒して下さる主イエスのうわさはもう広まっていたのです。ここには「悪霊に取りつかれた者」とありますが、これと病人とを区別する必要はないでしょう。悪霊に取りつかれることによって、様々な病気が起る、と考えられていたのです。主イエスがペトロの家に帰られたことを聞いて、そういう苦しみを負った人々が大勢押しかけてきたのです。「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあります。「言葉で」と言われているところに、先ほどのみ言葉の権威がやはり見つめられています。主イエスはそのみ言葉によって癒しをなさるのです。あの百人隊長は、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。主イエスのひと言は、そういう力を、権威を持っているのです。群衆を驚かせた、権威ある者としての言葉が、ここでも語られ、それが人々を苦しみから救ったのです。やって来た人は「皆いやされた」とあることにも注目しなければなりません。主イエスの救いを求めて押しかけてきた人々が、皆、一人残らず癒されたのです。そこに、主イエスの救いの権威、力が、全ての人に徹底的に及ぶことが示されています。主イエスは、苦しみを負って救いを求めてやってくる人々一人一人と、徹底的に関わって下さるのです。そして癒しを、救いを与えて下さるのです。

 夕方になってから大勢の人々が押しかけて来たのです。その人々を皆癒された時、いったい何時ごろになっていたのでしょうか。おそらくもう夜も更けていただろうと思います。マタイが語る主イエスのこの一日はまことにハードです。山上の説教を語り、その帰り道にも、帰ってからも休む間もなく次々と救いを願ってやってくる人々を癒されて夜更けにまで至る、そういう主イエスのお姿がここに描かれているのです。「イエス様本当にご苦労様です。さぞお疲れになったでしょう」と言うべきところでしょう。そのように言う代わりに、マタイは17節を語っているのです。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った』」。このような主イエスのお姿、全ての人々の病を癒されるお姿は、預言者イザヤの言葉の実現であった。そのイザヤの言葉というのが、本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書53章です。その4節の前半「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」という言葉がここに引用されているのです。このイザヤ書53章は、「苦難の僕の歌」と呼ばれているところです。そこには、神様から遣わされた「主の僕」が、人々の苦しみや病を、また人々の背きの罪を身に負って、苦しめられ、裁かれ、殺される。そのことを通して、人々の罪が代わって償われ、赦しが与えられ、神様の救いが実現していく、ということが歌われています。つまりこの主の僕は、人の病を担い、人の罪を背負って、人の身代わりとなって苦しみと死を受けるのです。その主の僕の姿が、この引用によって主イエス・キリストのお姿と重ね合わされています。苦しんでいる人々一人一人と徹底的に関わり、癒しを与えられる主イエス、そのために夜更けまで奮闘される主イエス、そのお姿は、人々の病や罪を自分の身に負ってそのために苦しみを受け、ついには殺されてしまう主の僕としてのお姿なのです。つまりマタイ福音書がここで見つめている主イエスのお姿は、「どんな病気でも苦しみでもみんな私のところへ持って来い、私がすべて癒してやる、救いを与えてやる」と大言壮語し、またそのことによって人々を自分のもとに集めようとしているような姿ではないのです。主イエスは、病んでいる人、苦しんでいる人一人一人と出会われるのです。そして、その一人一人の苦しみを、ご自分が背負って下さるのです。私たちは、苦しみという重荷を自分で下ろすことができません。その重さに耐えながら、あるいはそれを何かでごまかしながら、何とか一歩一歩歩んでいるのが私たちの人生です。しかし主イエスは、その重荷を、私たちに代わって背負って下さるのです。それによって私たちは重荷を下ろすことができるのです。楽になることができるのです。しかしそれはその重荷そのものがなくなってしまうことではありません。それは主イエスの肩に負わされていくのです。主イエスが、私たちに代わって、その重荷に苦しんで下さるのです。主イエスによる癒しは、主イエスがその病の苦しみをご自分に引き受けて下さることによって、私たちを癒して下さるということなのです。そのような主イエスの歩みの行きつく先が十字架の死です。主イエスによる癒しはすべてこの十字架の死とつながっているのです。このイザヤ書の引用はそのことを語っています。主イエスの癒し、救いは、主イエスご自身の苦しみと死とによることなのです。

 先ほどは、主イエスのご意志と、そこから出るみ言葉にこそ、苦しみを癒す権威と力があるということが、一連の癒しのみ業によって示されていると申しました。その権威も、ただどんな病や苦しみにも打ち勝って健康を与え、苦しみを取り除く力、というものではないのです。主イエスの権威は、私たちの苦しみを、また私たちの罪を、代わって背負って下さる権威です。主イエスのご意志はそこにこそあり、主イエスの力は、私たちの身代わりになって死んで下さる力なのです。この主イエスの権威と力によって、様々な病が癒されました。そこには、山上の説教における主イエスの権威あるみ言葉の余韻が響き渡っていると申しました。ということは、山上の説教を語られた主イエスの権威も、私たちの苦しみや罪を代わって背負って下さる権威だったということです。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」というのは、律法学者よりもずっと偉そうに、自分は律法をも越える権威を持っているのだという態度で語ったということではなくて、人々の罪や苦しみ悲しみ、貧しさ、弱さを、ご自分のものとして下さる、それを代わって背負って下さる、そういう方としてお語りになったということです。だからこそ、あの「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」という教えは、また「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」という教えは、私たちに本当の幸いと慰めを与えるのです。また、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という教えも、主イエスご自身が本当にそのように生きておられ、敵である私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さる方であるがゆえに、私たちに本当に幸いな歩みを与える、権威ある教えなのです。山上の説教が語られたこの日のしめくくりに置かれたこのイザヤ書の引用は、山上の説教をも、「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」方の言葉として今一度受け止め直していくことを私たちに求めていると言うことができるでしょう。

 先週行われた五福集会において、山上の説教の教えのクライマックスと言ってもよい、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」という教えについての説教を読み、学びました。マタイではなく、ルカ福音書における同じ教えのところについての説教だったのですが、話し合いの中である方がこう言われました。「すべてのことを神様のみ心にお委ねして生きていれば、思い悩んだりすることはないはずなのに、自分はそのことができていないからいつも思い悩んでばかりいて情けない」。またある方はこう言われました。「主イエスが『思い悩むな』といくら言われても、この世の現実の中で具体的に生活している私たちに、思い悩みがなくなってしまうことはない」。私はそれに対してこう申しました。「思い悩むな」という主イエスの教えは、「思い悩んではならない、思い悩む者はまだ神様への信頼が足りないのだ」ということだろうか。そうではないと思う。主イエスが言っておられるのは、様々な思い悩みに囲まれている私たちが、しかし天の神様の、父としての養いと導きの下に置かれているということだ。だからあなたがたは、どんなに思い悩んだとしても、それに押しつぶされてしまうことはないと主イエスは言っていて下さるのだ。そのことを本日の言葉に即して言うならば、私たちの思い悩みの一つ一つを、主イエスが背負い、担って下さるということです。山上の説教は、そういう恵みの宣言として読むべきなのであって、「思い悩んではいけない、思い悩むことは罪だ」と言っているのではないのです。そういう意味では、私たちは、どんなに思い悩んでもよいのです。主イエスがそれを担って下さるから、おかしな言い方ですが、安心して思い悩むことができるのです。だから、もう一つの、「主イエスが何と言ったって、この世を生きる人間には思い悩みはなくならないのだ」というのも、的外れな思いです。主イエスは、私たちが何の思い悩みもなしに、暢気に生きるようになるために「思い悩むな」とおっしゃったのではありません。思い悩みはなくならないのです。主イエスはそのことをよくご存じです。「その日の苦労は、その日だけで十分である」というみ言葉にも、そのことが示されています。私たちは、その日その日の苦労を、思い悩みを、日々背負って生きていくのです。しかしその中で、主イエスが、私たちの重荷を背負って下さる、苦しみ悲しみを担って下さる、神様が天の父となって私たちを養い、守り、導いて下さる。それが主イエスの教えなのです。だから私たちは、思い悩んでも、それに押しつぶされてしまうことはない、思い悩みつつも、神様の恵みによって支えられていくことができるのです。私たちの思い悩みよりも、神様の父としての恵みの方が、主イエスが私たちの苦しみを担って下さるその恵みの方が大きい、そのことを主イエスは山上の説教において教えて下さったのであり、そのことが、続く一連の癒しのみ業において示されているのです。

 主イエスの権威と力、それは、私たちの罪と、様々な苦しみをご自分の上に引き受け、担って下さり、それを背負って十字架の苦しみと死とを受けて下さる、その権威であり力です。その権威と力が、み言葉によって示され、与えられます。主イエスのもとにやって来た多くの病人たちが、み言葉によって癒されたように、私たちも礼拝において主のみ言葉をいただき、その権威と力によって癒され、慰められ、支えられ、力を与えられて新しく生かされていくのです。私たちはどのように新しく生かされていくのか。そのことのヒントが、本日の個所には語られています。ペトロのしゅうとめは、主イエスによって熱病を癒され、「起き上がってイエスをもてなした」とあります。「起き上がって」という言葉は、「死者の中から復活する」という意味でも用いられる言葉です。それは、私たちが洗礼を受けて、罪に捕えられていた古い自分が死んで、新しい自分、主イエス・キリストと結ばれ、その十字架による罪の赦しを受けて、神様の民として生きる自分が復活する、ということとつながります。主イエスの権威と力によって私たちはそのように起き上がり、新しく生きるのです。どのように生きるのか、それは「イエスをもてなした」という言葉に教えられています。「もてなす」と訳されている言葉は、「奉仕する、仕える」という言葉です。主イエスによって苦しみを担っていただき、新しく生かされた者は、主イエスに奉仕し、仕える者となっていくということがここに見つめられているのです。ここも、マルコ、ルカ福音書と少し違う書き方がなされています。マルコやルカでは、彼女は「一同をもてなした」となっています。つまり弟子たちをも含めた主イエスの一行に奉仕したというわけです。しかしマタイは、「イエスをもてなした」と書いています。つまり彼女は主イエスに奉仕し、仕えた、ということを強調しているのです。主イエスに、苦しみを担っていただき、新しくされた者の歩みがそこにあります。主イエスに仕えて生きる、それが、主イエスの権威によって新しく生かされた私たちの歩みです。このたび私たちの群れの中から一人の兄弟が、伝道のために献身し、教会に直接仕える牧師となるための道を歩み出すことになりました。新しくされ、主イエスに仕えていく兄弟の歩みを、覚え、祈り、支えていきたいと思います。けれどもそれだけが主イエスに仕えて生きる道ではありません。癒されたペトロのしゅうとめは主イエスに仕えた。それは具体的には、「もてなした」という訳が語るように、主イエスとその弟子たちの食事の準備をし、その寝床を整えたということです。あるいは彼女は、夜遅くまで病気に苦しむ人々を癒しておられる主イエスのもとに、力づけとなる食べ物や飲み物を運んでいったかもしれません。汗をふくタオルを準備したかもしれません。主イエスに仕える働きはそのようにごく身近な、小さなことの中にもあるのです。そして彼女は、主イエスに仕えその働きを支えることで、苦しんでいる多くの人々の癒しのためにも仕える者となることができたのです。私たちはそのような、主イエスに仕えた人々の働きを通して、主イエスのみ言葉に触れ、主イエスが私たちの苦しみを担って下さることを知らされ、その救いにあずかりました。今度は私たちが、主イエスに仕える者となっていく番です。その道は人によって様々です。それぞれに、それぞれなりに、主イエスに仕え、奉仕する道が与えられています。新しい年度を迎えようとしている今、自分に与えられている、主イエスに仕えていく道を新たに祈り求め、苦しみを担って下さる主イエスの恵みに支えられて、その道を歩んでいきたいと思います。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年3月18日]

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