富山鹿島町教会

礼拝説教

「嵐を鎮める主」
詩編 第124編1〜8節
マタイによる福音書 第8章23〜27節

 本日ご一緒に読む聖書の個所、マタイによる福音書第8章23節以下には、主イエス・キリストが、ガリラヤ湖の嵐を、一言で鎮められたという奇跡が記されています。主イエスは風と湖とをお叱りになった、すると嵐はやみ、すっかり凪になったのです。風や湖をお叱りになるというのは、面白い表現です。暴れ騒いでいる子供を「こら」と叱って静かにさせるように、主イエスは荒れ狂う風と逆巻く波をお叱りになったのです。すると風も波も、叱られてしゅんとなった子供のように、静かになったのです。それを見た人々は、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と驚いたとあります。私たちも同じ驚きを持ちます。風や湖さえも叱りつけて従わせることができる主イエスとはいったいどんな方なのだろうか、と思うのです。これまで読んできた所には、主イエスが病気を癒し、悪霊を追い出したということが語られていました。主イエスの一言で、病気はなくなり、悪霊は出て行ったのです。その病気や悪霊と同じように、嵐をも従わせることのできる主イエスとは、いったいどんな方なのだろうかと思うのです。

 このような奇跡を行う人というのが、時々現れます。現在ではそういう人のことを超能力者と言って、テレビに登場するのです。私たちはともすれば、主イエスのことを、そういう人々と一緒に考えてしまうことがあるかもしれません。特に主イエスの様々な奇跡の記事を読む時に、イエス様もある種の超能力を持っていたと考えることによって、それらの出来事を納得し、理解したつもりになる、ということがあるのではないでしょうか。しかし、聖書が語る主イエスの奇跡は、いわゆる超能力とは全く別のものです。どこが違うかというと、超能力というのは、普通の人が出来ないようなことをやってみせる、例えばスプーンを曲げてみせるとか、見えないはずのカードに書いてあることを当ててみせるとか、それは一つのショーです。そういうことを見せて人を驚かせ、感心させるのです。だからテレビがよく取り上げるのです。しかし主イエスの奇跡は、人々に見せるためのものではありません。主イエスは、「自分はこんな力を持っている」ということを見せるために奇跡を行ったことは一度もないのです。それでは主イエスはどういう時に奇跡を行われたのか。それは、人々の苦しみを見た時、苦しんでいる人が救いを求めて来た時です。その人々の苦しみの中からの必死の願い、叫びに答えて、主イエスはその力を発揮し、奇跡を行って彼らを苦しみから救ったのです。本日のこの、嵐を鎮められた奇跡も同じです。嵐になって、舟が沈みそうになった。しかし主イエスは眠っておられたのです。弟子たちが恐怖に捕えられて主イエスを起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったのです。その弟子たちの恐れと願いを受けて主イエスは、風と湖をお叱りになり、鎮められたのです。つまりこの奇跡も、病気を癒す奇跡と同じように、苦しむ者への救いの奇跡なのです。そこに、主イエスの奇跡と、超能力者のショーの違いがあるのです。

 「主よ、助けてください。おぼれそうです」という弟子たちの叫びは、嵐の中で舟が沈みそうになっている、という状況に合わせてこのように訳されていますが、そういう状況を考えずに、言葉だけから訳すとこうなります。「主よ、お救いください。私たちは滅びようとしています」。「助けてください」とは「救ってください」という言葉です。主イエスの救いを求めて弟子たちは叫んだのです。「おぼれそうです」は口語訳聖書では「わたしたちは死にそうです」となっていました。おぼれて死んでしまうという恐怖の中からの叫びです。その恐怖の根本にあるのは「自分が滅びてしまう」ということです。それはこの場合には、文字通り死んでしまうということです。しかしその滅びは肉体の死のみではない、様々なことを意味することができます。自分の地位が、名誉が、生活の土台が失われてしまう、家族が、愛する者たちが奪われてしまう、それらの様々なことにおいて、私たちは滅びへの恐れ、恐怖を抱くのです。「主よ、お救いください。私たちは滅びようとしています」という弟子たちの叫びは、私たちが様々な状況の中で発する叫びであると言うことができるでしょう。嵐の中で沈みかけている弟子たちの舟は、人生の荒波に翻弄される私たちの姿を描き出していると言うことができるのです。

 弟子たちの舟を「激しい嵐」が襲ったとあります。この「嵐」と訳されている言葉は、「地震」という意味の言葉です。「激しい嵐」は「大地震」とも訳せるのです。湖の上で起っていることだから「嵐」と訳されているわけです。地震は、昔も今も、最も恐ろしい天災です。その恐ろしさは何といっても、自分たちが立っている地面そのものが揺れ、崩れていくということにあると言えるでしょう。難しい言い方をすれば、存在の基盤そのものが揺り動かされてしまう、人生が土台から揺るがされてしまうという恐ろしさがそこにはあるのです。それゆえに地震は聖書においても、戦争や飢饉と並んで、この世の終わりに起る苦しみの出来事として語られています。最近は日本でも世界でも、大きな地震が頻繁に起っており、いよいよ世の終わりが近いか、とも思わされるような状況です。私たちの富山県は地震が少なくて、その意味でも住みやすい所ですが、それでも安心はしていられません。江戸時代にはいわゆる飛越大地震というのがあり、その時に立山の大崩壊が起り、それ以来常願寺川はあばれ川となって人々を苦しめるようになった、ということを先日テレビでやっていました。昔あったことはまた起り得るのです。そのように私たちを滅びの恐怖に陥れる地震と同じような、人生を土台から揺さぶり、崩壊させていく力を、弟子たちは湖に浮かぶ舟の上で体験したのです。その力の前で人間は全く無力です。ただうろたえて叫ぶしかないのです。私たちの人生もしばしばこのような滅びの力にさらされます。ある日突然、思いがけない出来事によって、それまで平和に無事に過ごしてきたはずの日々ががらがらとくずれていくようなことを体験するのです。あるいはその滅びの力が、徐々に徐々に私たちの生活を蝕んでいくということもあります。そのような滅びを、崩壊を食い止めようと私たちは必死になります。弟子たちもきっと必死に舟をあやつり、入ってくる水をかき出したことでしょう。しかしそんな人間の力は圧倒的な滅びの力の前に無力です。私たちは、「主よ、救ってください。私たちは滅びようとしています」と叫ばずにはおれないのです。

 弟子たちは滅びの恐怖の中で、救いを求めて主イエスに叫びました。眠っておられた主イエスは起き上がって、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われたのです。なぜ怖がるのか、怖がる必要などないのだ、と主イエスは言われるのです。何故怖がる必要がないのでしょうか。それは、この舟には、神の独り子主イエス・キリストが乗り込んでおられるからです。弟子たちの舟は、主イエス・キリストが共におられる舟なのです。主イエスが共におられる限り、その舟は沈んでしまうことはないのです。大船に乗ったつもりでいればよいのです。弟子たちはそのことを見失っています。この舟には主イエスがおられる、だからどんな嵐が襲ってきても大丈夫なのだ、ということを忘れてしまっているのです。それが「信仰の薄い者たちよ」ということでしょう。信仰が薄い、それは文字通りには、信仰が小さいという言葉ですが、それは、主イエスが共におられることを見失ってしまうこと、それによって安心、平安を失ってしまうことなのです。主イエスがこの嵐の中で眠っておられたということには、主イエスご自身が本当の信仰に生きておられたことが示されています。主イエスは安心しておられたのです。だから眠っておられたのです。それは、父なる神様の守りと導きに身を委ね、父なる神様が必ず共にいて支えて下さることを信じている姿です。主イエスはまことの信仰によってこの平安の内におられる、ところが弟子たちは、その主イエスが共におりながら、恐怖に捕えられ、あわてふためいてしまっているのです。そこに彼らの信仰の小ささがある、私たちがこの話を読んで普通に考えるのはそういうことなのではないでしょうか。

 しかしそのように言いますと、この話は、人生の様々な苦しみ、荒波の中で、主イエスを信じ、父なる神様を信じて、どんな状況においても平安を保ち、安心していることこそがまことの、強い信仰だ、そこで恐怖に捕えられてしまうのはまだ信仰が薄く、小さいからだ、もっと大きな、本当の信仰を得て、平安の内に歩めるように努力しなければならない、ということを語っているということになるのでしょうか。そうではないと思います。主イエスが、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われたのは、「そんな薄い、ちっぽけな信仰ではだめだ、もっと大きい、強い信仰を持て」と弟子たちを叱咤激励するためなのでしょうか。それなら、もしも弟子たちが主イエスの期待している大きく強い信仰を持っていたとしたらどうなるのでしょう。嵐に翻弄される舟の中で、全員が主イエスと共にぐっすりと眠っているということになるのでしょうか。それが理想の状態なのでしょうか。あるいは、弟子たちだけは起きていて、しかし眠っている主イエスを起こすことなく、「イエス様がおられるのだから絶対大丈夫だ」と信じて、必死に舟をあやつり、水をかき出し、嵐と戦っていけばよかった、ということなのでしょうか。私は思うに、いずれの場合にも、舟は沈み、弟子たちは主イエスと共におぼれ死んでしまっただろうと思います。その証拠は、起き上がった主イエスが、風と湖とを叱って嵐を鎮められたということです。それは、そうしなければこの舟は沈んでしまい、助からないからです。嵐の中でほうっておいても大丈夫ならば、主イエスは、「大丈夫だからみんな私と一緒に眠りなさい」と言われたでしょう。あるいは、人間の力を結集して努力していけば嵐に打ち勝てるなら、「あきらめるな、頑張って舟をあやつれ、私も手伝うから」と言って水をかき出されたことでしょう。主イエスはそのどちらでもなく、嵐を鎮められたのです。それは、そうしなければこの舟は助からないからです。主イエスが嵐を鎮めてくださることしか、彼らが助かる道はなかったのです。だから弟子たちが主イエスを起こし、主イエスに救いを求めたのは正しかったのです。そこで「イエス様がおられるから大丈夫なんだ」などと痩せ我慢をすることはかえって身を滅ぼすことなのです。信仰とはそういう痩せ我慢ではありません。痩せ我慢は結局人間の力に頼ることです。そして人間の力は、人生の根底を揺るがすような地震、嵐に堪え得るものではないのです。主イエスがその嵐を鎮めてくださることのみが私たちの救いであり、主イエスにその助けを求めて叫ぶことこそ私たちの信仰なのです。

 それならなぜ主イエスは弟子たちに「信仰の薄い者たちよ」と言われたのでしょうか。弟子たちの信仰の薄さ、小ささはどこにあったのでしょうか。それは、主イエスが眠っておられたことを弟子たちがどのように受け止めていたか、にあると思います。主イエスが嵐の中でも眠っておられる、それは先ほど申しましたように、父なる神様への完全な信頼の内にあられるということを示しているわけですが、弟子たちからすればそれは、この大事な時にイエス様は眠り込んでおられ、私たちのために何もして下さらない、ということだったのではないでしょうか。彼らが主イエスを起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言ったのには、そういう気持ちが込められていると思うのです。「イエス様、なんとかしてください、私たちをお見捨てになるのですか」ということです。そして彼らがそういう思いを持つことの背景には、そもそもこの船旅がどうして始まったのか、ということがあるのです。23節には、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。つまり主イエス自らが進んで舟に乗り込み、船出しようとされたのです。そのことは、先週読んだ18節にすでに語られていました。そこには「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」とあります。湖を渡って向こう岸に行くことは主イエスの命令なのです。弟子たちはそれに従って舟に乗り込んだのです。彼らが好き好んで船出したわけではありません。全ては主イエスのご命令によることであり、それに従った結果なのです。主イエスが先に立って乗り込まれたこの舟に、弟子たちは主イエスに従って共に乗り込んだのです。そこには、漠然と主イエスに従ってきていた群衆たちとのはっきりとした違いがあります。彼らは主イエスを岸で見送る群衆たちとは違って、主イエスと一つの舟に乗り込んだのです。そこに、主イエスに従うという信仰の決断があります。漠然とついていき、何となくみ言葉を聞いているというのはまだ信仰ではありません。信仰とは、主イエスに従って自分も舟に乗り込むことです。主イエスと共に船出することです。それが、洗礼を受けて信仰者になること、教会の一員になることです。この舟は古来、教会を象徴するものとして理解されてきました。教会とは、主イエスと共にこぎ出し、向こう岸へ渡っていこうとしている舟なのです。

 その舟が、嵐に遭うのです。沈みそうになるのです。ですから、この嵐に遭わないようにするのは簡単です。それは、舟に乗らなければいいのです。陸に留まっている群衆たちはこの嵐に遭うことはないのです。主イエスと共に船出した者だけが、このような嵐に遭い、沈みそうになる、滅びそうになるのです。つまりこの嵐は、私たちの人生に起ってくる様々な苦しみ、困難、悲しみを単純に象徴しているのではありません。これは、信仰をもって歩んでいこうとする者に、その信仰の旅路において起ってくる苦しみであり、困難であり、悲しみです。信仰を持たなければ、主イエスに従っていこうとしなければ、こんな苦しみには遭わなくてすむのです。それは、信仰者の方がそうでない人よりもよけい苦しみに遭わなければならない、ということではありません。信仰があろうとなかろうと、人生には様々な波があり、嵐が襲ってくることがあるのです。しかし信仰者にとって、つまり神様の恵みや守り導きを信じている者にとって、それはより大きな苦しみ、嘆きとなることがあるのです。神様は恵み深い方であるはずなのに、どうしてこのようなことが起ってくるのか、神様の愛を信じてきたのに、このような事態のどこにそれが見出せるのか、という思いです。それは、信じて従ってきたはずの主イエスが、眠り込んでしまっていて、自分の苦しみをちっともわかってくれない、そのために行動してくれない、いざという時に何も役に立ってくれない、という思いです。弟子たちが、眠っている主イエスに覚えたのはそういういらだちだったのではないでしょうか。あなたに従って来たのに、あなたの命令によってこぎ出したのに、今このような危機に陥ってしまった、どうしてくれるのか、ちゃんと責任をとって欲しい、という思いです。この、信じて従ってきた主イエスが、何もしてくれない、いざという時に助けてくれない、という思い、それが、彼らの「信仰の薄さ、小ささ」なのです。そしてそれは私たちがしばしば抱く思いです。私たちはまさに信仰の薄い、小さい者なのです。いざという時に、主イエスが本当に私たちを支え、助けて下さることを信じることができない、だから、平穏無事な時には、主イエスを信じ、従い、主イエスに寄り頼んでいるようでありながら、いざ何か嵐が、人生を揺るがすような事態が起ってくると、全く別のものに頼っていってしまう、信仰など何の役にも立たないと思ってしまう、ということが起るのです。

 主イエスは、そのようないらだちを覚え、主イエスが自分たちのことを本当に守り導いては下さらないのではないかという疑いに陥っている弟子たちに、「何故怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と語りかけ、そして風と湖とを叱って、嵐を鎮められたのです。それは彼らに、共におられる主イエスは決して彼らのことを忘れて眠り込んでいるのではない、必要な時に必要な助けを必ず与えて下さるのだということをお示しになるためです。主イエスが真っ先に乗り込み、弟子たちがその後に従っていく、そういう仕方でこぎ出したこの舟、即ち信仰の舟は、主イエスが最後までめんどうを見て下さるのです。責任をもって向こう岸に着かせて下さるのです。途中で嵐が、地震が襲ってきて、信仰の根底を揺さぶられつき崩されてしまうようなことがあるとしても、共におられる主イエスが、必ずその嵐を、地震を鎮めて下さるのです。「何故怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉は、その恵みを弟子たちに教え示すために語られたと言うことができるでしょう。つまりこれは、今のような小さな信仰ではだめだ、もっと大きな信仰を持たなければいけない、という叱責の言葉ではないのです。「信仰の薄い者たちよ」は「小さな信仰の者たち」という言葉だと先ほど申しました。それは不思議な言葉です。信仰が小さいのです。しかし信仰が「ない」わけではないのです。信仰はちゃんとある。何故なら彼らは、主イエスと共に舟に乗り込み、主イエスに従ってこぎ出したからです。そこに、陸に留まっている群衆との決定的な違いがあるのです。主イエスは彼らの、また私たちのその信仰をちゃんと見ていて下さいます。あなたがたは私に従って来ている信仰者だ、と認めて下さっているのです。しかし私たちの信仰は小さなものです。嵐が起ってくると、特に信仰のゆえに様々な苦しみがかえってより深い、人生の土台を揺さぶるような苦しみとなることを体験すると、心が萎えてしまうのです。主イエスの恵みを見失い、それを疑い、そんなものは何の役にも立たないのではないかと思ってしまうのです。その小さな信仰を主イエスは救い上げて、ご自分が嵐に打ち勝ち、救いのみ業を行って下さるのです。ですから私たちに求められているのは、小さな信仰を自分で大きなものにすることではありません。私たちの信仰はどこまで行っても小さいのです。嵐に翻弄され、あわてふためくことの連続なのです。しかし大事なことは、その小さな信仰でもって、私たちが主イエスに従い、主イエスの舟に乗り込み、共にこぎ出していくことです。この舟には主イエスが先に乗り込んでおられ、私たちを招いておられるのです。招いて下さった主イエスは、その招きに答えて乗り込んだ私たちを、最後まで守り支えて下さるのです。私たちが嵐におびえてその守りを見失い、「主よ、お救いください。わたしたちは滅びようとしています」と救いを求めていく時に、主イエスはそれに答えて、「何故怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言って下さり、その力を発揮して救いのみ業を行って下さるのです。私たちに、主イエスの力を体験させて下さるのです。どんなに小さな、ちっぽけな信仰であっても、主イエスに従って信仰の舟に乗り込み、こぎ出した者のみがその主イエスの力を体験することができるのです。

 そういう意味でこの嵐は、そしてそれを鎮める主イエスの救いは、先ほども申しましたように、主イエスに従っていく信仰の歩みにおけることであって、信仰とは関係なく私たちが誰でも体験する人生の様々な荒波のことではない、ということになるでしょう。けれどもそれでは、主イエスに従うという信仰に生きていない人にはこの話は関係のないことなのでしょうか。そうではないと思います。本日は棕櫚の主日、今週は受難週です。主イエス・キリストが私たちのために十字架の苦しみと死を受けて下さり、そして復活して下さったことを特に覚える時を今歩んでいます。主イエスが、神様を無視し、従おうとしない罪人である私たちのために、私たちの罪を全て背負って、身代わりになって十字架にかかって死んで下さった、それは、もはやこの主イエスの恵みと関わりのない人は一人もいないということです。別の言い方をすれば、主イエスは、主イエスの方から、私たちの、それぞれの思いで好き勝手な方向へとこぎ出し進んでいる人生の舟に乗り込んでこられたということです。今や私たちの人生の舟には、私たちの知らないうちに、主イエスが来ておられるのです。そして主イエスは、私たちが気づかなくても、常に私たちに語りかけ、「私に従ってきなさい」と招いておられるのです。私たちがこの招きに気づいて、どんなに小さな信仰でも、それに応えていくなら、私たちの人生の舟は今すぐにでも、信仰の舟、主イエスに従って、主イエスと共にこぎ出した舟となることができるのです。そうなればもう安心だ、などということではありません。まさにその舟が嵐に遭い、沈みそうになるのです。しかしそこで私たちは、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった主イエスに、「主よ、助けてください、おぼれそうです」と救いを願うことができるのです。主イエスはその私たちの願いに応えて下さる方です。私たちの信仰がもっと大きく強くなったら助けてやる、というのではなくて、小さな信仰の私たちに、大きな主イエスの力、十字架の死と復活による救いを示し与えて下さるのです。それは、共におられる主イエスに気づかず、自分の力で自分の舟を守るしかない歩みと比べて、どんなに豊かな恵みでしょうか。主イエスの受難を覚えていく今週、主イエスが私たちの人生の船旅に乗り込んで来て下さり、共に歩もうとしておられることを思いつつ歩みたいのです。そして、主イエスの招きに応えて、主イエスに従っていく、主イエスと共にこぎ出していく、その方向へと、私たちの人生の舟の舳先を向けていきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一

[2001年4月8日]

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