富山鹿島町教会

礼拝説教

「収穫のための働き手」
エゼキエル書 第34章1〜31節
マタイによる福音書 第9章35〜10章4節

 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」と、マタイによる福音書9章35節にあります。私たちは先々週の礼拝において、この35節までを読んでみ言葉に聞きました。その時に申しましたが、この35節は、この福音書の5〜9章全体のまとめとなっているのです。この35節とほとんど同じ文章が、4章23節にありました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。この4章23節と9章35節が枠となっていて、その中に、5〜9章が置かれているのです。5〜7章は、いわゆる「山上の説教」です。つまり主イエスが「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」られた、その教えがそこにまとめて語られているのです。8、9章は、主イエスのなさった様々な奇跡、癒しを中心とするみ業を語っています。「ありとあらゆる病気や患いをいやされた」主イエスのみ業がそこに集中的に語られているのです。このように、35節は、5〜9章のしめくくりとして、語られてきたことのまとめ、要約をしているところであると言うことができるのです。そういう意味では、ここで一つの部分が終る、区切りがつけられている、と言うことができます。

 ところが、35節は直ちに切れ目なく36節に続いていくのです。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。これは、35節の、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたという主イエスのお働きが、どのようなみ心によってなされていたのかを語っている言葉です。主イエスは、人々が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になったのです。そして深い憐れみを覚えられたのです。この「深く憐れまれた」という言葉は、「内臓」という言葉から来ています。内臓が揺り動かされるような、もっと日本語的に表現すれば、「はらわたがよじれるような」憐れみを主イエスは感じられたのです。「憐れむ」という言葉ではそのニュアンスを充分に表すことができないと言わなければならないでしょう。自分は無関係な高い所にいて、苦しんでいる人々を「かわいそうに」と見下ろしているような「憐れみ」ではないのです。自分自身のおなかが痛むような、そういう本当の同情をもって主イエスは人々の様子をご覧になったのです。そしてその深い憐れみの思いにつき動かされるように、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。

 「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」それが、主イエスのご覧になった人々の様子でした。イスラエルの民を羊の群れに譬えることは、旧約聖書以来、しばしばなされていることです。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」と始まる詩編23編に代表されるように、イスラエルの人々は、自分たちを、主なる神様という羊飼いに守られ、導かれている羊の群れとして意識してきたのです。羊というのは、一匹では生きていけません。群れとして、そして羊飼いに導かれなければ、自分で餌を得ることも、また狼などの猛獣から身を守ることもできないのです。そういう羊の姿が、主なる神様に守られ導かれる神の民であるイスラエルを譬えるのに最もふさわしいのです。つまり、自分たちは羊の群れであると意識する、そこには、羊飼いの存在、この群れを守り導いてくれる方の存在が前提となっているのです。そうであるからこそ、「飼い主のいない羊」というのは、異常な、そして悲惨な状態です。飼い主なしには羊たちは生きていくことができず、弱り果て、打ちひしがれてしまうのです。

 主イエスは、人々がその「飼い主のいない羊」のようになっていることをご覧になりました。しかしどうしてそうなってしまったのでしょうか。彼らを導くべき羊飼いはどこへ行ってしまったのでしょうか。本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるエゼキエル書第34章には、イスラエルの牧者たちに対する主なる神様の厳しい叱責の言葉が語られています。その1〜6節をもう一度読んでみます。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない』」。ここで「イスラエルの牧者たち」と呼ばれているのは、イスラエルの民を指導し、導くべく立てられている指導者たちのことです。指導者たちは、民の牧者、羊飼いとして、ちゃんと群れを養い、弱っている者を介抱し、傷ついた者を癒し、また野獣から守るべきなのです。ところが彼らはその働きをせず、自分自身を養っている、自分のために群れを食い物にしている、だから人々は飼い主のいない羊のように散らされ、弱り、獣の餌食になってしまっているのです。ここに、人々が「飼い主のいない羊」のようになってしまっている一つの原因があります。飼い主として彼らを養い導くべき指導者たちがその勤めをきちんと果していないのです。群れを養うのではなくて、自分のために群れを利用するようになってしまっているのです。その指導者とはこの当時のイスラエルの人々においては、律法学者やファリサイ派と呼ばれている人々のことでしょう。彼らは当時の聖書であった旧約聖書の、神様の律法を人々に教え、それに基づく生活を指導していました。しかしそれは本当に神様のみ言葉によって人々を養うことになっていなかった。イスラエルの民は彼らの下で、命の糧を得ることができず、弱り果て、うちひしがれていたのです。このことを私たちにあてはめて考えてみるならば、まずは教会において、その群れの牧者として立てられている牧師が、また牧師と共に牧会の業に当る長老たちが、羊飼いとしての働きをきちんとしているか、ということになります。また私たちが連なっている様々な共同体、一番大きくは国ですが、その指導者たちが、人々のために本当によい養いと導きを行っているか、ということでもあります。教会であれ、国家であれ、その指導者たちがどうであるかによって、そこに連なる者たちは「飼い主のいない羊」のようになり、弱り果て、打ちひしがれてしまうことが起こるのです。

 しかし、人々が飼い主のいない羊のようになってしまうことには、もう一つの原因があります。指導者が悪いとそうなる、というだけではないのです。先ほど、讃美歌200番を歌いました。「こどもさんびか」として教会学校で歌われてきた曲ですが、「讃美歌21」に納められたことによって、大人も子供も一緒にこの歌を歌うことができるようになったのはとてもよかったと思っています。主イエスが語られた、失われた一匹の羊を捜し求める羊飼いの姿を歌ったものです。その1節に、この羊が失われていく様子が歌われています。「小さいひつじがいえをはなれ、ある日とおくへあそびにいき、花さく野はらのおもしろさに、かえるみちさえわすれました」。つまりこの羊は、飼い主がぼんやりしていたから迷子になったのではないのです。自分で、群れを離れ、おるべき家を出て、遊びに行ってしまうのです。そして気がついてみると、帰る道がわからなくなり、迷子になってしまうのです。失われた羊になってしまうのです。私たちはしばしば、そのようにして、飼い主のいない羊になってしまうのではないでしょうか。私たちは、自分から、飼い主のもとを離れていってしまうのです。神様の下で、主イエス・キリストの下で、その群れに留まって生きることを窮屈に思い、もっと自由に、自分の思い通りに生きたい、束縛されずに、自分が主人になって歩みたいと思って家を飛び出していくのです。私たちはそうやって、飼い主のいない羊になっていく、そしてその結果、弱り果て、打ちひしがれていってしまうのです。いや、私たちは、自分が飼い主のいない羊となって弱り果て、打ちひしがれてしまっているということになかなか気づかないのではないでしょうか。私には羊飼いなどいらない、私は私一人で、自分の思いによって自由に生きていくことができる、弱ってなどいない、打ちひしがれてなどいない、そう思っている。主イエスの当時の人々もそうだったのではないでしょうか。彼らが、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、それは主イエスがそのようにご覧になったのであって、彼ら自身はそうは思っていない、「いや私はそこそこにやってますよ。まあまあの人生を送っているつもりです」、それが多くの人々の思いだったのではないでしょうか。しかし主イエスの目からご覧になると、その人々は皆、「飼い主のいない羊」であり、「弱り果て、打ちひしがれている」のです。

 飼い主のいない羊に何が起こるか。そのことを先ほどのエゼキエル書34章の17節以下がこのように語っています。「お前たち、わたしの群れよ。主なる神はこう言われる。わたしは羊と羊、雄羊と雄山羊との間を裁く。お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる」。これは、羊と羊の間でのことです。「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回す」、それは、羊が、自分のことしか考えず、他の羊のための思いやりを持つことができないという姿です。そのために、弱い羊は押しのけられ、踏み荒らされた草を食べ、濁った水を飲まなければならないということが起っているのです。これが、飼い主のいない羊の姿です。飼い主のいない羊は、自分が弱り打ちひしがれていくだけではありません。羊どうしの関係が、愛を失ったものとなり、自分勝手な思いが支配するようになり、互いに押しのけ、傷つけ合うようになっていくのです。それはまさに私たちの間で起っていることではないでしょうか。そのようなことこそ、私たちが、まことの羊飼いを失った、飼い主のいない羊として弱り衰えてしまっている徴なのです。

 エゼキエル書34章は、飼い主のいない羊のようになってしまっている人々のもとに、神様が僕ダビデを牧者として遣わして下さるという約束を語っています。11節以下によれば、それは神様ご自身が牧者となって群れを導き養って下さるという約束でもあります。これらの約束が、主イエス・キリストにおいて実現したのです。主イエス・キリストこそ、神様ご自身が私たちを養い導いて下さるまことの牧者です。この牧者は、群れを飛び出し、失われてしまった羊である私たちのあとをたずね、遠くの山々、谷底まで、どこまでも捜し求め、見つけ出して連れ帰って下さる、なさけの深い羊飼いです。私たちはこのまことの羊飼いである主イエスによって、探し出され、群れへと、私たちが本当に生きることのできる場である神様のみもとへと連れ帰られたのです。私たちが今こうして礼拝を守っているというのはそういうことです。ここで、私たちは、主イエス・キリストというまことの羊飼いの下に養われているのです。それが、主イエスの弟子たちの姿です。弟子たちも、以前は群衆たちと同じように、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていたのです。しかし今は、主イエスというまことの羊飼いに見出され、その下に養われる羊として生きているのです。

 その弟子たちに、つまり信仰者たちに、主イエスはこう言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。収穫、それは神様がご自分のもとに救われる人々を集めて下さる、その神様の羊の群れのことを言っています。その収穫は「多い」と主イエスは言われるのです。今よりももっともっと沢山の、飼い主のいない羊のような人々を、神様はご自分のもとに連れ帰り、ご自分の牧場の羊として養い、導き、守ろうとしておられるのです。しかしその人々が収穫として神様のもとに呼び集められ、救いにあずかるためには、「働き手」が必要なのです。もっと多くの働き手が立てられることによって、多くの人々がまことの羊飼い主イエスの憐れみにあずかることができるのです。その働き手を送ってくださるように、収穫の主である神様に祈れと主イエスは言われます。私たちに求められているのもこの祈りです。「収穫は多い」と約束して下さった神様が、もっともっと多くの人々を、主イエス・キリストの救いにあずからせ、私たちと共に主に養われる羊として下さるように、そのための働き手が起されるようにと、私たちも祈っていくのです。

 そのように祈っていく弟子たちに主イエスがして下さることが、次の10章の始めに語られていきます。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。弟子たちの中から十二人が選び出され、汚れた霊を従わせるような権威と力が与えられたのです。つまりこの十二人が、「収穫のための働き手」として立てられたのです。「収穫のために働き手を送ってくださるように」との祈りは、このようにかなえられていくのです。つまり神様は、そのように祈っている者自身を、収穫のための働き手としてお立てになり、お遣わしになるのです。それは私たちが、「この私を、収穫のための働き手として立てて下さい」と祈るべきだ、ということではありません。私たちはそんな大それた祈りができるような者ではありません。私たちが祈ることができるのは、「神様どうか収穫のための働き手をあなたが起し、遣わして下さい」ということです。しかしその祈りを本当に真剣に祈っていく中で、神様が、「わたしはお前を選んで遣わす」と言われることがあるのです。私たちはその神様の選びを受け入れ、それに応えなければなりません。「収穫のために働き手を送ってください」という祈りは、私たちの中に、神様がそのために私を用いようとされるなら、無力な者だけれどもそのみ心に従っていこうとする心を整えていくのです。今年、私たちの群れの一人の兄弟が、伝道者となる志を与えられ、今神学校で学んでいます。この兄弟も、決して、「神様どうぞ自分を伝道のために遣わして下さい」と祈っていたのではありません。「収穫は多い」と約束して下さった主に、一人でも多くの人々が主イエスのもとで養われる羊となることができるように、その導きを祈っていたのです。その祈りの中で兄弟は、「私はお前をそのために遣わす」という神様のご指名を受けたのです。そしてそのみ心に従ったのです。伝道への献身はそのようにして起っていくのです。そしてそういう神様の選び、ご指名は、皆さんの中の誰に、いつ与えられるかわからないのです。

 しかし、収穫のための働き手として立てられることは、いわゆる伝道献身者となって牧師になる、ということだけではありません。十二人の弟子たちが選ばれたのは、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と言われています。それを読むと、とてつもなく大きな使命が彼らに与えられたように思います。しかし実はこれらのことは、主イエスご自身がこれまでになさってきた働きなのです。主イエスは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々の様子を見て、深く憐れみ、汚れた霊を追い出し、病気や患いを癒されたのです。その主イエスの憐れみのみ心が、さらに多くの人々に及んでいくために、私たちは立てられ、遣わされていくのです。そのことは、神学校へ行って牧師になることによってのみなされるものではありません。いやむしろそういうことは、ある意味では一番まわりくどい、遠回りな道かもしれません。主イエスの深い憐れみのみ心を表していく道は、もっと身近な所にいくらでもあるのです。苦しんでいる人、悲しんでいる人のことを覚えて、何らかの支えや慰めの言葉をかけ、行動を起すこともそうでしょう。先ほどのエゼキエル書から教えられることで言えば、群れの中の弱い羊のことを配慮して、その人たちがきちんと牧草にあずかり、きれいな水を飲むことができるようにすることもそうです。そのためには、自分の快適さを求める思いを抑えて、がまんをしなければなりません。自分が水浴びして気持ちよくなることしか頭にないと、水は濁ってしまうのです。それは要するに人のために自分の願いや欲望、こうしたい、という思いをがまんすることです。そしてそれはさらに言えば、人の自分に対する罪や過ち、それによって自分が傷つけられたことを赦すことです。そういう行動によってこそ、私たちは主イエス・キリストの深い憐れみのみ心の担い手となり、収穫のための働き手となるのです。そういう歩みへと、私たち一人一人が、それぞれの生きている場で招かれているのです。

 主イエスによって選ばれて十二使徒となった人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではありませんでした。最初の四人、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはガリラヤ湖の漁師です。当時の人々から罪人の代表として忌み嫌われていた徴税人であったマタイの名もここにあります。さらには、主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダの名もあげられているのです。彼らは、収穫のための働き手としての優れた資質を見込まれて使徒となったのではありません。彼らは皆、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた人々の一人だったのです。その彼らを、まことの羊飼いであられる主イエス・キリストが、深い憐れみのみ心によって探し出し、彼らの牧者となって下さったのです。自分のために羊を食い物にするのではなく、むしろ羊のために命を捨て、十字架にかかって死んで下さる主イエスの、はらわたのよじれるような憐れみのみ心によって生かされる者になったのです。そして主がその憐れみのみ心を人々に分け与えようとされる、その収穫のための働き手が送られることを祈り求める者となったのです。その祈りの中で彼らは、まことに弱い、罪深い、欠けの多い者だけれども、主イエス・キリストがその働き手として自分を遣わして下さる、そのみ心を喜びをもって受け入れる者へと変えられていったのです。同じことが私たちにも起こります。大事なのは、自分に何が出来るかではありません。なさけの深い、憐れみに満ちたまことの羊飼いの下に、その羊として養われ生かされているという、その喜びこそが、私たちを、収穫のための働き手とするのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年7月1日]

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