富山鹿島町教会

礼拝説教

「弟子と師」
出エジプト記 第4章10〜12節
マタイによる福音書 第10章16〜25節

 マタイによる福音書の第十章には、主イエス・キリストが十二人の弟子たちを選び、彼らを派遣するに当って語られた教えが記されています。主イエスは弟子たちに、ご自分がなさっていた、「天の国は近づいた」と教え、様々な病気や悪霊によって苦しんでいる人たちを癒すという働きをする力を与え、ご自分の分身のようにして遣わされたのです。その主イエスの思いは、9章36節に語られていました。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。人々へのこの深い憐れみのみ心から、主イエスは弟子たちを遣わされたのです。

 主イエスはこのように、世の人々が「飼い主のいない羊」のように苦しんでいることを見つめておられます。そしてご自分こそ、その羊たちを養い導く飼い主、牧者であることを意識しておられるのです。そしてその羊を養い導く働きのために、弟子たちを選び、遣わされるのです。けれども主イエスは知っておられます。遣わされていく弟子たちは、世の人々から、決して「羊飼い」として歓迎されることはない、ということを。そのことを語っているのが、本日の最初の16節です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。弟子たちが遣わされる、それは、羊の群れの中に羊飼いを送るようなことではないのです。むしろ狼の群れの中に羊を送るようなものだ。弟子たちは羊飼いというよりもむしろ弱い羊です。そして人々は、飼い主がいなくて途方に暮れている羊というよりもむしろ、飢えた狼なのです。ここには、主イエスがこの世とそこに住む人々をどのように見つめておられたかが現れています。主イエスご自身にとって、世の人々は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のです。それがこの世の真実の姿です。しかし前にも申しましたが、この世は、人間たちは、そのことを自覚してはいません。自分たちが飼い主のいない羊であり、弱り果てているとは思っていないのです。むしろ多くの人々は、自分は自分の力でそこそこにやっていると思っている。別に途方に暮れてなどいない、つまり自分たちに飼い主など必要ない、と思っているのです。それゆえに人々は、主イエスが飼い主として遣わす弟子たちを受け入れません。そんなことは余計なお世話だと拒絶し、かえって彼らを食い殺そうとするのです。そのようにして、人々は獰猛な狼になっていく。弟子たちはその狼の前でなすすべのない羊なのです。しかしそれでは人間たちは、本当に狼なのか。飼い主なしに、自分の力で生きていくことができる者なのか。それは違うのです。人間の本質は、主イエスが見ておられるように、羊です。一人では生きていけないし、群れを守り導いてくれる飼い主、羊飼いなしには本当は生きていくことができない存在、それが人間です。自分の力で、飼い主なしに生きていける、と思っている人間は、実は、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている者なのです。「羊の皮を被った狼」という言葉がありますが、ここでは反対です。主イエスは、人間は「狼の皮を被った羊」だと見ておられるのです。

 本質は羊であっても、狼のようになっている人々のもとに、弟子たちは無防備な羊のように遣わされていきます。その羊のような姿は、先週読んだ9、10節に語られていました。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」。一銭のお金も、また身を守るためのものも何も持たずに、弟子たちは遣わされていくのです。まさに、狼の群れの中の羊です。その弟子たちに主イエスが与えた指示、あるいは教訓が、16節の後半、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」です。この言葉は、どういうことを教えているのでしょうか。

 「蛇」は、旧約聖書以来、「賢い」ものの代表として登場します。その賢さは、知恵がある、というよりも「ずる賢い」ということです。創世記3章で、最初の人間アダムとエバを欺いて、神様に背かせ、禁断の木の実を食べてしまうように仕向けたあの蛇の賢さです。そういう賢さを持て、と主イエスが弟子たちに教えたとすれば、それはどういうことなのでしょうか。狼の群れの中の羊である弟子たちは、狼たちに食われてしまわないように、よほど賢く、上手に、ある意味ではずる賢く立ち回らなければならない、ということでしょうか。しかしそれに続いて、「鳩のように素直になりなさい」と教えられているのはどういうことでしょうか。蛇のようにずる賢く、上手に立ち回ることと、鳩のように素直に生きることとは相容れない、矛盾することなのではないでしょうか。

 この言葉はそのように、昔から人々の頭を悩ましてきたのですが、そういう場合にはやはり前後の文脈から意味を読み取っていくことが大事でしょう。主イエスは先程読んだように、弟子たちに、何の備えも、防備もなしに行けとお命じになったのです。ということは、自分の身を守るための策略や手立てを用いるなということです。その流れから言えば、「蛇のように賢く」というのは、ずる賢く上手に立ち回って危険を避けよ、ということではないと言うべきでしょう。それではそれはどういう意味なのか。ある人の説明によれば、この言葉は、「蛇のように賢く」と「鳩のように素直に」という二つの教えではなく、両者で一つの教えなのだと言われます。つまり、あなたがたの蛇のような賢さは、鳩のような素直さでなければならない、ということだというのです。それは、もっと説明を加えるとこういうことです。私たちは、主イエスの弟子、信仰者として、この世に遣わされていきます。弟子たちの派遣は彼ら十二人のみの話ではなく、教会の、つまり私たちのことなのだ、ということを先週もお話ししました。その私たちが遣わされていくこの世は、緑の牧場ではありません。むしろ、「生き馬の目を抜く」ような世界です。私たちはまさに「狼の群れの中に送られる羊」のような存在なのです。そのような状況の中で私たちは、何とか少しでも上手に生きようとします。自分の身を賢く守ろうとします。そこにはおのずと、「蛇のような賢さ」が生じるのです。しかし主イエスは私たちに、そういう賢さではなく、むしろ「鳩のような素直さ」に生きよと教えておられるのです。「鳩のような素直さ」それは、自分の力や策略、知恵によって歩むのではなく、神様に身を委ねて、神様の守りと導きを信頼して歩むことです。つまり先程の9、10節にあったように、全く無防備に、何の備えもなしに出かけていくことこそ、鳩の素直さなのです。10節の終りには、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」というみ言葉がありました。それは、神様が、ご自分の働き手を必ず守り導き養って下さるということだ、と先週申しました。その神様の守りを信頼して、自分の計画や策略によってではなく、み心に委ねて歩む、それが「鳩のような素直さ」なのです。主イエスは弟子たちに、つまり私たちに、そのような「素直さ」にこそ生きることを求めておられます。あなたがたの「賢さ」はこの「素直さ」でなければならない、と言っておられるのです。

 賢く立ち回って身を守っていくのではなく、鳩のような素直さに生きていく時に、弟子たちはどうなるのでしょうか。それは、苦しみを受けていくのです。そもそも、狼の群れに羊が送られるならば、その羊はどうなるのか。食い殺されるのです。羊が狼の群れの中で、どんなに賢く立ち回っても、それで身を守れるわけではありません。狼の群れに羊を送り込むということは、その羊が食い殺されることを前提としているのです。弟子たちも、信仰者たちも、この世へと遣わされていって、そこで、苦しみを受け、ついには殺されてしまうのです。そのことが17節以下に語られていきます。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」。「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」という苦しみを弟子たちは受けるのです。そしてそういう苦しみの中で、総督や王の前で、あるいは異邦人に対して、証しをするのです。主イエス・キリストを宣べ伝え、主イエスによって実現している神様のご支配、救いを語っていくのです。そしてそれを語っていくことによってさらに苦しみ、迫害を受けていくのです。さらには、このことのために、家族、兄弟の間にも不和が起っていくのです。21、22節にこうあります。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。「わたしの名のために」、つまり、主イエス・キリストを信じるそのことのために、家族の間でも対立が生じ、殺されるという事態さえ起る。さらには「全ての人に憎まれる」ということだって起る。弟子たちが世に遣わされていって、主イエス・キリストのみ言葉を語り、み業を行っていくと、そういうことが起るのです。つまり、この世に遣わされていく弟子たち、信仰者たちは、人々に受け入れられず、かえって憎まれ、苦しみを受けるのです。そのことを、主イエスはここではっきりと予告し、弟子たちに、私たちに、その覚悟をさせておられるのです。無理解や迫害の苦しみを受けることを、何かとんでもない、あってはならないことのように思うな、むしろそれは主イエスによって遣わされた者が必ず受けなければならない定めなのだ、ということです。

 必ず起るその苦しみ、迫害の中で、どう歩むか。それがここに教えられています。22節の言葉で言えば、「最後まで耐え忍ぶ」ことが求められています。苦しみ、迫害の中で、忍耐していくのです。自分を苦しめる者に対して、自分も狼になって対抗していくのではなく、あくまでも羊として、鳩のように素直な者として、苦しみを耐え忍んでいくのです。23節には「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と教えられています。忍耐する、というのは、あくまでもそこに踏み留まる、ということとは違うのです。逃げ出して別の所へ行ってもいい。しかし大事なことは、その別の所でも、証しをし続け、主イエスによって遣わされた者として歩むことです。つまりこの逃げることは、信仰者であることをやめることではありません。ある場所、ある領域での証し、伝道の業がうまくいかない時に、その場所、領域を変えて別のこと、別の仕方に切り替えることです。そのようにして、かえって幅広く、伝道がなされていくのです。しかし、これらのことは下手をすると結局、私たち人間の伝道における戦略の問題になってしまいます。つまり、苦しみや迫害の中で、「蛇のように賢く」やっていこうとすることにもなりかねないのです。私たちの賢さは、そのような私たちの計画や戦略の賢さではなく、「鳩のような素直さ」でなければなりません。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そのことを教えているのが、19、20節のみ言葉です。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。弟子たちがこの世へと遣わされていくのは、証しをするためです。主イエス・キリストを宣べ伝える言葉を語っていくためです。どのような言葉を語ることができるか、が彼らの、そして私たちの勝負なのです。しかしここで主イエスが教えておられることは、まさにその言葉そのものを、あなたがたは自分で用意しなくてよい、ということです。語るべきことは、その時その時に、父なる神様の霊、聖霊によって与えられるのです。このことは、主イエスが弟子たちに、お金も、旅のための装備も何も持っていくなとお命じになったこととつながります。遣わされていくに当って、何の備えもいらない、必要なものはすべて父なる神様が与えて下さる、その恵みに信頼して歩めと教えられたのです。そのことが、語るべき言葉においても貫かれているのです。証しの言葉においても、何の備えもいらない、自分の中に、証し、伝道の言葉を蓄えていかなくてもよい、そういう、自分が持っている言葉、自分の力によって語る言葉によってキリストのことを証しし、伝道をすると思うな、ということです。そこにおいても、父なる神様の霊が必要な言葉を与えて下さるのです。

 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、モーセが神様によって、エジプトで奴隷とされ苦しんでいるイスラエルの人々のもとに遣わされていく場面です。神様が彼を選び、遣わそうとされた時、モーセは、「わたしはもともと弁の立つ方ではありません。口が重く、舌の重い者です」と言って辞退しようとするのです。しかし神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と言われました。これと同じ約束を弟子たちは与えられて遣わされたのです。「このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」。それが、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と同じことです。主イエスに遣わされていく弟子たち、信仰者には、父なる神様が聖霊において共にいて下さり、語るべきことを示し与えて下さるのです。その父なる神様の、聖霊による恵みと導きに信頼して歩むこと、それが、主イエスの求めておられる「鳩のような素直さ」なのです。この素直さをもって、神様のみ手に全てを委ねて、無理解や迫害の苦しみを忍耐して歩むこと、それが、この世に遣わされた弟子たち、信仰者の姿なのです。

 信仰者はこのように、この世において、苦しみの中で、忍耐しつつ生きるのです。それが当然であり、自然なのだということが、24、25節にさらに語られていきます。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。弟子と師、僕と主人という譬えが用いられています。弟子や僕が勿論弟子たち、信仰者です。師、主人が主イエス・キリストです。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。それは、弟子や僕は師や主人を超える必要はない、それ以上になる必要はない、ということではなくて、弟子や僕は、自分の師あるいは主人が受けたのと同じ扱いを受けるものであり、それが当然だ、ということです。ですからそれを受けて、「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と続いていくのです。「家の主人」が主イエスのことです。その主イエスが「ベルゼブル」と言われる、それは、既に9章34節に語られており、この後12章22節以下に詳しく語られていくように、ファリサイ派の人々が、主イエスの悪霊追放のみ業は、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと言ったということです。主イエスのすばらしい癒しの奇跡、恵みのみ業に、彼らは神様の恵みの力を見るのではなく、悪霊の親玉の力を見ているのです。人々を悪霊の支配から解放し、救った主イエスが、そんなひどいののしりを受けているのです。師であり、主人である主イエスがそんな扱いを受けるなら、その弟子であり、僕であり、家族の者である弟子たち、信仰者たちが、苦しめられ、拒絶され、迫害されるのはむしろ当たり前です。だから私たちは、このような苦しみを受けることを、とんでもないこと、あってはならないことと思ってはならないのです。むしろその苦しみこそが、私たちが主イエスの弟子であり、僕であることの印なのです。私たちが受ける苦しみは、全て主イエスが先に、師として、主人として受けておられる苦しみなのです。

 そして大事なことは、ここで主イエスがご自分と私たち信仰者のことを、「家の主人とその家族の者」と呼んで下さっていることです。これは、師と弟子、主人と僕という言い方を越える言葉です。私たちは、主イエス・キリストに従っていく弟子や、仕える僕であるだけではありません。主イエスという家の主人のもとにいる家族とされているのです。主イエスは私たちを、ご自分の家族と呼んで下さっているのです。私たちは、主イエス・キリストを中心とする新しい家族、家庭の一員とされているのです。その家族を結びつける絆は何か。それは、主イエスがお受けになった無理解や迫害の苦しみを私たちも共に受けることです。主イエスに遣わされた者として、この世において、狼の群れの中の羊のような存在として歩むことです。そしてそこで、自分の賢さ、力、自分の持っている言葉に寄り頼むのでなく、主イエスの父なる神様の守りと導きに身を委ねて歩み、聖霊が与えて下さる言葉を語っていくことです。そのような歩みこそ、私たちと主イエス・キリストを結びつけ、一つの家族とする絆なのです。

 私たちが信仰者としてこの世へと遣わされ、そこで受ける苦しみは、私たちを家族と呼んで下さる家の主人である主イエス・キリストの受けた苦しみにまさるものではありません。主イエスは、ただベルゼブルと呼ばれただけではなかったのです。主イエスが受けた苦しみは、十字架の死にまで及ぶものでした。それは自らの罪のゆえではなく、私たちの全ての罪を身に負って下さり、神様に背く罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さるという苦しみでした。その主イエスの苦しみと死とによって、私たちは罪を赦されて、主イエスのもとでその家族とされたのです。私たちは、主イエスが私たちのために受けて下さった大きな苦しみの下で、その主イエスの弟子として、僕として、そして家族として、自らに与えられる苦しみを耐え忍びつつ、救い主イエス・キリストを証ししていくのです。

 23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言われています。この言葉も、昔から教会の人々を悩ませてきました。「人の子が来る」というのは、主イエスが再び来られ、この世が終わる、いわゆる再臨と終末のことです。弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに、つまりもう間もなくその終末が来るという意味に読めるのです。しかしそれからもうニ千年が経とうとしていますが、いまだにこの世の終わりは来ていません。この主イエスの言葉は実現しなかったのでしょうか。しかしこの言葉にはもう少し別の意味が込められていると考えることができます。「あなたがたがイスラエルの町を回り終らないうちに」、それは、弟子たちが主イエスから託された使命をまだ完全に果たし終わらないうちに、ということです。まだやり残したことがある、使命を全うしていない、ということです。しかし人の子が来る。それは、神様が、ご自分の救いを完成して下さるということです。つまり、私たち遣わされた人間の働きはまだ不十分であり、まだまだやり残したことが沢山ある、それでも、神様は救いを完成させて下さる、ということをこのみ言葉は語っていると言えるのです。私たちの働きが、神様の救いを完成させるのではありません。私たちの働きが足りなければ、救いも不完全なもののままである、ということはないのです。主イエスに遣わされてこの世を歩む私たちの働きは、まことに不完全なものです。またそこで襲って来る苦しみを私たちは十分に忍耐することができず、それに負けてしまうことが多々あります。主イエスの家族として共に負うべき苦しみにおいても、私たちはまことに不完全、不十分な者です。しかし主イエスはそれでも、私たちのために救いを完成して下さるのです。その主イエスに信頼して、狼の群れの中の羊のような私たちですが、耐え忍んで証しの働きをしていきたいのです。

牧師 藤 掛 順 一
[2001年7月15日]

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