富山鹿島町教会

礼拝説教

「十字架にかけられた神の御子」
イザヤ書 52章13節〜53章12節
ルカによる福音書 23章32〜43節

小堀 康彦牧師

 今日から受難週に入ります。主イエス・キリストの十字架の出来事を心に刻む時であります。週報に記されておりますように、火曜日から金曜日まで、連日、受難週祈祷会が開かれます。信徒の方々の奨励を聞き、共に祈りを合わせながら受難週をの日々を過ごせることを、とても楽しみにしています。そして、来週はイースター、復活祭を迎えるわけです。この受難週からイースターにかけての一週間は、一年の中でも、ある種、特別な時と言っても良いかもしれません。キリストの教会は、誕生して間もない頃から、この一週間を特別に重んじてきましたし、その為の特別なプログラムが持たれてもきたのです。
 どうして、この一週間が重んじられてきたのか? それは改めて問うまでもありません。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一15章2〜4節でこう告げております。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。……最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。つまり、パウロが伝え、教会がこれによって生き続けてきた福音の中心、この福音によって救われると言われた福音の内容は、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって示されているのです。この福音の中心と言うべき、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、まさにこの受難週の金曜日から日曜日にかけての出来事でありました。だから、イースターとその前の一週間の受難週を特別な時として重んじたのであります。

 私は、今日、初めてこの富山鹿島町教会の講壇に立ち、御言葉のご用に仕えております。その最初の説教が十字架であり、次の週が復活であります。主イエス・キリストの十字架と復活を語ることから、この教会での歩みを始めることが出来る幸いを、心から感謝しています。実は、先週の日曜日、私は17年間仕えてきました東舞鶴教会での最後の礼拝をささげてきました。その時の説教も主イエス・キリストの十字架と復活でした。十字架と復活。言葉にすれば、それだけのことです。しかし、ここに全てがあります。皆さん、よいですか、ここに全てがあるのです。私共の救い、私共の喜び、私共の平安、私共の慰め、生きる力、勇気、人生の目標、根拠、愛、希望……この一切が、この出来事によって、私共に与えられているのです。ですから私共は、日曜日にここに集うたびごとに、主イエス・キリストの十字架と復活という、ただ一つの調べを聞くのです。ただ一つの調べです。十字架と復活という、言葉が直接には出ないこともあるでしょう。しかし、その言葉の背後には、いつも、十字架と復活があります。この言葉は、これによってもたらされた新しい命に生きる者によって告げられることであり、この恵の中に生きる者によって聞き取られていく言葉です。それは、説教だけのことではありません。私共が日常的に交わす何気ない会話の中にも、キリストの十字架と復活の出来事による恵みが、現れてきてしまいます。これは隠しようがないのです。キリストの十字架と復活を、まるで知らない者であるかのように生きる。そのようなことは、私共には出来ないでしょう。それは例えてみれば、結婚をして子供もいるのに、まるで独身であるかのように生きるようなものです。そんなことは出来ないでしょう。つい子供のことを話してしまう。妻のこと夫のことを話してしまう。それは、今の自分という存在が、その自分の家族というものと離れては一時もあり得ないからでしょう。主イエスの十字架と復活の出来事も又、同じです。使徒パウロが「神の恵みによって、今日のわたしがあるのです」(コリントの信徒への手紙一15章10節)と言っているとおりです。

 私は「十字架と復活」という言い方をしてきました。それは、この二つは決して切り離すことは出来ないからです。確かに、主イエスの十字架は目をそむけたくなるような悲惨な出来事であります。罪人の処刑なのですから、見て気持ちのいいものであるはずがありません。しかし、その十字架の出来事が復活へとつながっている。死への勝利、命の祝福へとつながっている。私は、いつもこう思っているのです。主イエスの十字架の出来事は、復活の光の中で見なければならないし、主イエスの十字架の出来事は、十字架の場所から見なければならない。復活なしの十字架に喜びはなく、十字架なしの復活にありがたさはありません。
 この富山鹿島町教会の会堂に入って、最初に目に入るのは、講壇の後ろにある十字架でしょう。私は今朝、まだ夜が明け切れていない薄暗い時に、この会堂に入ってみました。この十字架から入ってくる光の他は何もない。この十字架から朝日の光が差し込んでいました。そこで気が付きました。この十字架は、日曜日の朝、すなわち復活のの日の朝、東から昇る朝日の光を取り入れる様になっているのだということが。復活の光が輝き出る十字架になっているのです。そして、この復活の光があふれてくる十字架、それがこの会堂の唯一の装飾なのです。他には、何もない。絵画もなければ、彫刻もない。天使もなければ、聖人もいない。ただ十字架だけ。しかも、復活の光が溢れ出す十字架だけ。実に私共の信仰を表した良い会堂だと思いまた。

 さて、今日、私共が心に刻むべき主イエスの十字架の光景は、三本立てられた十字架の姿です。主イエスの十字架は、ただ一人、主イエスだけが十字架につけられたのではない。十字架は一本ではなかったのです。主イエスの十字架の右と左には、犯罪人が共に十字架につけられたのです。彼らがどんな犯罪を犯したのかは判りません。判りませんけれど、十字架につけられた程ですから、それは大変な犯罪であったに違いありません。十字架につけられる程の犯罪者と共に、主イエスは十字架におかかりになった。このことを、よく心にとめていただきたいと思います。これは偶然ではないのです。ここには、天から下り、馬小屋に生まれて以来の、神の子の姿があるのです。それは、「低きに下る神の子」の姿であり、どこまでも「罪人と共に歩もうとされた神の子」の姿なのです。これは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたこととも重なります。あるいは、罪人と共に食事をした主イエスの姿とも重なります。罪なき神の御子は、洗礼を受ける必要はないのです。しかし、受けた。それは洗礼を必要とする、私共罪人と共に歩まんが為でありました。主イエスは、十字架の死に至るまで、罪人と共に歩み通されたのであります。ここに、どんな時でも、どんな者をも、決してお見捨てにならず、我らと共にいて下さるということの確かな「しるし」があるのであります。
 主イエスは、十字架の上でこう祈られました。34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。自分が何をしているのか判らない。何とあわれみに満ち、深い洞察に富んだ言葉でしょうか。主イエスは、自分を十字架につけた者の為に、このように祈って下さったのです。先程、イザヤ書53章をお読みいたしました。ここには主イエス・キリストの十字架の証言が示されておりますが、6節には「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」とあります。口語訳では「我らは皆そのように迷って、各々自分の道にむかって行った」。これが、罪人の姿なのです。主イエスを知る前、私共は皆そうでした。自分の富をふやすこと、安楽な生活、そういうものを追い求めて生きることしか知らなかったのではないでしょうか。自分が、この世に命を受けた意味を知らなかったのです。いや、考えもしなかった。自分で何をしているのか判らずに生きていた。そのような私共の為に、私共に代わって、主イエスは十字架におかかりになられたのです。
 しかし、主イエスが十字架におかかりになった時、それを知る者はいませんでした。イザヤ書53章2〜4節で「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と預言されている様に、十字架におかかりになった神の御子を、人々は口々にののしり、あざ笑い言いました。35節「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。37節「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。そして、共に十字架にかかっていた犯罪人までもが、39節「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。それが主イエスの十字架に向かっての言葉でした。人々は知りませんでした。自分の命を捨てて、他人を救おうとする愛があるということを知らなかった。そのように自分を愛している方がおられるということを知らなかった。もしこの時、主イエスが自分自身を救い、十字架から降りたのならば、自分たちが救われないことを知らなかった。もし、ここで主イエスが十字架から降りてしまったらどうなるか。神の裁きが、即刻この世界に下り、人類の歴史は、ここで終わってしまったことでしょう。しかし、それはこの世界を創られた神様の御心ではありませんでした。だから、主イエスは、十字架から降りることはなさらなかったのです。私共を救う為に、私共に代わって、神様の裁きを身に受けられたのです。しかし、人々はそれを知らなかった。そして今もそれを知らない。悟らない。だから、私共は告げていかなければならないのです。神様は、あなたを愛しています。その独り子を十字架におかけになる程に、神様は私共の全ての罪を赦し、神の子としての栄光と、私達の命を与えると約束してくださっています。
 このことを告げ知らせる為に、この救いの恵みに人々を招く為に、神様によってこの富山鹿島町教会は建てられています。この尊い使命と、責任を、主イエス・キリストの十字架の前に立って、真実に受けとめたいと思います。

 さて、主イエスが十字架におかかりになりました時、一人だけ、主イエス・キリストを頼った者がありました。主イエスと共に十字架にかけられた、もう一人の者です。彼はこう言いました。42節「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。これに対しての主イエスの答えはこうでした。43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。『楽園』という言葉について、今は語るいとまがありません。神の国、天の国と考えて良いでしょう。つまり、主イエスは、この十字架にかかるほどの犯罪を犯した者に向かって、あなたは今日天国に入ると約束をされたということなのです。良いですか皆さん。この犯罪人は、もう十字架の上なのですから、あと数時間で死んでしまうのです。ということは、この人は、悔い改めてから、心を入れかえて清い生活、神様の御心にかなう良い生活をするなどということは出来ないのです。つまり、主イエスは何か良いことをして、天国に入ることの出来る程の資格が出来たら救うなどということは言っていないということです。ただ信仰です。ただ、主イエスに寄り頼みさえすれば、神の国に入れる。入れてあげる。そうイエス様ご自身が約束して下さったのです。これが福音です。教会という所は、その人の一切の前歴を問わないのです。この福音によって、新しく生きるものとされた者の群れだからです。ただ、イエス様を信じ、この方だけをよりたのんで生きようとしているかそれだけを問うのです。生まれも、育ちも、それまで犯してきた一切の罪を問わない。ただ、共にいて下さる主イエス・キリストだけをよりたのみ、主イエスが備えて下さった神の国を目指して、一つになって旅を続ける群れ。それが教会です。そして、この旅は、死を超えていく旅なのです。  この教会には、高齢になり、あるいは病を得、死と向き合わねばならない所に生きている人もいるでしょう。そういう人々に向かって、私共は告げていかねばなりません。「キリストの十字架の故に、あなたの罪は赦された。あなたは、キリストのおられる神の国へ行く。恐れるな。死を打ち破られた主イエス・キリストが、今、あなたと共におられるのだから。」
 死は、いつでも圧倒的な力をもって、私共におおいかぶさってきます。全ての希望と喜びとを、飲み込んでいきます。しかし、主イエス・キリストの復活の光に照らされた十字架を見上げる者は、死のむこうにある希望の力に生きるのです。
 この受難週の一週間、真実に主イエス・キリストの十字架のもとに立ち、新しくされた者としての歩みを、主の御前に一日一日、ささげる者として歩んでまいりたいと願うものです。

[2004年4月4日]

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