富山鹿島町教会

礼拝説教

「主は生きておられる」
詩編 16編
ルカによる福音書 24章1〜12節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共は主イエス・キリストの復活の出来事を喜び祝う、イースターの礼拝を守っております。主イエス・キリストは金曜日に十字架におかかりになって死に、三日目の日曜日にご復活されました。この出来事を覚えて、キリストの教会は、日曜日に礼拝をささげる群として誕生しました。旧約聖書の十戒において命ぜられている安息日は土曜日です。しかし、キリストの教会は、日曜日に礼拝をささげる群となりました。この土曜日から日曜日への変換こそ、キリスト教がユダヤ教から分かれることとなった、具体的な出来事であったと言って良いと思います。キリストの教会という新しい神の民の誕生、それは、このキリストのご復活によってもたらされたものなのです。キリストの教会は、日曜日に礼拝を守ることによって、この二千年の間、毎週、毎週、キリストのご復活の出来事を心に刻んで生きてきたのです。
 二千年という時の流れは、決して短いものではありません。二千年前から続いている国家など、一つもありません。この二千年の間に多くの巨大な世界帝国が生まれ、そして滅んでいきました。多くの思想が生まれ、忘れ去られていきました。しかし、キリストの教会はその間、休むことなく、主イエスが甦られた日の礼拝、日曜日の礼拝を守り続けてきたのです。これは驚くべきことではないでしょうか。このことの中に、主イエス・キリストのご復活という出来事が何であったのか。その意味が、そしてこの出来事のもたらす力というべきものが、示されているのだと思います。

 それは第一に、キリストのご復活の出来事が単なる過去の出来事ではないということです。死んだ者が甦るということは、このこと自体、大変な驚くべきことであります。しかし、もしそれだけのことであるならば、二千年もの間、人々がそれを覚え続け、喜び祝い続けるということはなかったと思います。事実、死人の甦りということは、聖書の中にも主イエス以外の人のことが記されています。ルカによる福音書の8章には、会堂長ヤイロの12才ぐらいの娘が、そして、ヨハネによる福音書11章には、ラザロが、主イエスによって甦らされたということが記されております。しかし、この二人、ヤイロの娘とラザロの復活の出来事と、主イエスの復活の出来事は全く同じではないのです。それは、この二人は復活しましたけれど、やはり時が来て、死んだのです。この二人がずっと生き続けたということはないのです。しかし、主イエス・キリストは、二千年前に復活して、今も生きて働いておられるのです。キリスト者は、皆、この今も生きて働いておられる主イエス・キリストと出会い、生かされてきた。だから、私共は日曜日の礼拝を守り続けることが出来たのであります。
 イースターの朝、主イエスに従っていた婦人達、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア達が主イエスの遺体が納めてある墓に行くと、墓にフタをしてあったはずの石がわきに転がっていました。主イエスの遺体はありませんでした。彼女達は途方にくれた。するとそこに、輝く衣を着た二人、これは天使のことでしょう。彼らは途方にくれている婦人達に向かって、こう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。復活の主は、今も生きておられます。全能の父なる神様の右におられ、そして、私共に聖霊を送り、聖霊なる神として、私共の中に、私共の上に、私共の下に、私共と共に、いて下さるのであります。
 この生けるキリストとの交わりこそ、キリストの教会に集う私共を生かしている信仰の事実なのです。死んだ人を知ろうと思えば、その人の書いたものや、その人がしたことを調べるしかない。どんな偉大な人も、皆、死にました。だから、墓の中で捜すしかない。本の中において捜すしかないのです。しかし、主イエス・キリストは違うのです。確かに聖書が私共にはある。しかし、聖書をいくら分析しても、それだけでは何も判らないのです。生けるキリストは、聖書の中にいるのではなく、聖書を神の言葉として読めるように、私共に働いて下さっているのです。もっと言えば、聖書は教会において読まれて、その真価を示すのです。生けるキリストが、今も私共に生きて働き、キリストの体なる教会を形造り続けておられる。この交わりの中に、キリストはおられるのです。ここにおいて、私共は生けるキリストと出会い続け、生かされ続けるのであります。キリストの教会の二千年の歴史は、この生けるキリストとの交わりの歴史、この生けるキリストによって生かされた者達の証言の歴史なのであります。生けるキリストを知らぬ者は、主イエスを聖人にしたて上げ、単なる手本、模範にしてしまう。それは生けるキリストを、死者の中に捜すことです。しかし、キリストは生きておられます。私と共に。あなた方一人一人と共に。

 さて、第二の、キリストの教会が、日曜日のたびごとに、主イエス・キリストのご復活を覚え続けてきた理由。それは、キリストの甦りの出来事が、私の出来事となるからです。主イエスの十字架が私共の一切の罪をその身に負われた出来事であるなら、主イエスのご復活も又、私共の為の出来事であるのです。人は言います。「人間、死んだらおしまいだ。」そのようにつぶやく人に向かって、主イエスは言われるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書11章25節)。「死んでも生きる」とは、まことに判らない日本語です。死んだら生きていない。生きているなら死んでいない。それが普通の日本語です。そう考えるのが自然です。しかし、主イエスはその自然な私共の考えを逆なでするように、これに対抗してこれを葬り去るかのようにして言われるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」。私共は死んで終わりではないのです。死んでも生きるのです。それは、私共の命が、復活された主イエス・キリストの命と一つに結合されているからなのであります。
 これは、まことに不思議なことでます。しかし、このことこそ、信仰によって私共に与えられた救いの実体なのです。私共に与えられている救いというものは、単なる心の問題ではないのです。信仰が与えられて、心に平安が与えられた。それも、ありがたいことです。しかし、それだけではない。それは、確かに救いによってもたらされた果実ではありますが、救いそのものではありません。信仰によって与えられる救いとは、そのような心の問題にとどまるものではないのです。主イエスによって与えられている救いとは、命そのものなのです。信仰が与えられていても、しんどい状況に追い込まれてしまえば、平安などと言っていられない。心は、チリヂリに乱れ、何をしようにも手がつかない。そういうことだって起きるのです。だったら、そういう時、私共は救われていないのか。いいえ、私共が不安になり、恐れを覚え、心がチリヂリになっても、私共の救いは、いささかも揺らぎはしません。私共の救いは、私共の命が、すでにキリストの復活の命と結びつけられ、一つにされているということだからです。私共にやがておとずれる、この肉体の死という出来事さえも、私共をキリストの復活の命から引き離すことは出来ないのです。
 私共は今朝、聖餐に与ります。この聖餐において、キリストは私共に、「これはわたしの体」「これはわたしの血」と言って、私共にご自身の体と血とを差し出し、これを食し、これを飲めと言われる。そして、私共は、キリストの体と血とに与るのです。キリストの命に与るのです。このことこそ、生けるキリストとの交わりに他なりません。この聖餐は、まさに私共がキリストの命と一つにされていることを確認させられる出来事なのであります。この聖餐に与るたび、私共は主イエス・キリストの復活の命に結び合わされた者であることを思い起こすのであります。教会がキリストの体であり、聖徒の交わりと言われる場合、私共は教会員同士が仲良くすることようなことを考えるかもしれません。それも大切なことだとは思いますけれど、本当に大切なのは、この同じキリストの命に結び合わされているという恵の事実なのです。
 先週、私は四人の方を問安しました。共に讃美歌を歌い、祈りました。90才を超えた方も、共に諳んじておられた讃美歌を歌い、主の祈りをささげました。本当にこの方も神の子、神の僕、神の民の一人だと思いました。年老いて教会に来られなくなった方々です。その方々を訪ねながら、私は牧師として、この方と共に聖餐に与りたいと思いました。教会に来られないのなら、私共が出かけていけば良い。そして、あなたもキリストの命に一つに合わされた者。あなたに近づいてきている死も、あなたからこの救いの恵みをうばうことは出来ない。このことを思い起こしてもらいたいと思いました。

 思い起こすこと。それは、私共の信仰の歩みにおいて、とても大切なことなのです。イースターの朝、天使達は主イエスの墓に向かった婦人達にこう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。8節「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」。彼女達は、思い出したのです。主イエスの約束の言葉を思い出したのです。私共もそうです。思い出すのです。何度も思い出すのです。主イエスが私共に与えて下さった約束、主イエスがなして下さった御業を。そして、私共が生ける主イエスと出会った、あの日を、あの出来事を。神様に背を向けて生きていた私共が、神様を愛し、神様と共に生きる者とされた、あの日を、私共は何度でも思い起こすのです。
 11節を見ますと、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とあります。キリストの教会を建て上げる為に生涯をかけた使徒達も又、イースターの朝、主イエスの復活の知らせを聞いて信じなかったのです。この信じない者、信じられなかった者が信じる者とされた。ここに神様の救いの御業があります。信じない者を、信じる者に変えること。それは、誰にも出来ません。親も子も、夫婦でさえ、それは出来ません。しかし、神様には出来ます。いや、神さまだけが出来るのです。
 ところで、どうして使徒達が信じなかったということが聖書にわざわざ記されているのでしょうか。これは別に考えるまでもないことで、事実そうだったからということなのかもしれません。しかし、この福音書が書かれたとき、使徒達は既に出来たばかりのキリストの教会の中で中心となっていた人たちなのです。普通、そういう人達の恥となるような過去は隠すのではないでしょうか。しかし福音書記者は記した。それは、使徒達自身が自分たちが信じない者であったことを隠していなかったからだろうと思うのです。確かに信じない者、信じられなかった者であった者が、今は信じる者とされている。その神さまの救いのみ業の証人として、彼らは自分のことを何度も何度も語ったに違いないのです。このことを告げることにおいて、彼らは神様の救いの御業の証人とされたからです。彼らは、何度も思い起こし、何度も語ったに違いないのです。自分が信じられない者であったということ。それにもかかわらず、復活の主ご自身が自分に現れ、信じる者とされてしまったということを。
 私共も告げていきましょう。神様が、私にして下さった救いの御業を。私共は立派な人でもなければ、信仰深い者でもなかったのです。そのような私共を、神様はあわれんで下さり、神の子、神の僕として下さり、永遠の命に生きる者として下さったのであります。まことにありがたい。この救いに与る者とされていることを、喜び祝いつつ、この一週も又、主の御前に歩んでまいりたいと思います。

[2004年4月11日]

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