富山鹿島町教会

礼拝説教

「キリストに結ばれている者」
ヨシュア記 1章1〜9節
フィリピの信徒への手紙 1章1〜2節

小堀 康彦牧師

 今日から、フィリピの信徒への手紙を少しずつ読み進みながら御言葉に与り、共に礼拝を守っていきたいと思っています。富山の地に遣わされて、66巻ある聖書の中から、どの書を選んで福音を説き始めていくのか。色々と考えましたけれども、このフィリピの信徒への手紙に決めました。それは、この手紙が「喜びの手紙」と古くから言われているように、繰り返し「喜び」ということが告げられている。もちろん、その喜びというものは、福音の喜び、救いの喜び、キリスト・イエスによって与えられた喜びです。この喜びを皆さんと一緒に味わうことから、歩みを共にしていきたいと思ったからです。主イエス・キリストによって与えられた喜び。福音の喜び。救いの喜び。この喜びを告げ、この喜びに人々を招き、この喜びに共に生きる為に、私共家族はこの地に遣わされてきたのです。
 富山に来て三週間になろうとしています。毎日、新しい方との出会いが与えられています。しかし、まだこの教会につながる方々の、四分の一、五分の一の方しか顔と名前を覚えることが出来ていません。まだ当分の間、名前を覚えるという作業が続くと思います。しかしそれでも、毎日、何人かの人と新しく出会い、お話をうかがいながら、お一人、お一人様々な課題を持ち歩んできた、又、今も歩んでおられることを知らされております。課題はある。重荷もある。しかし、それは私共が喜ぶことが出来ないということを意味しません。様々な課題、重荷がありつつ、それでもなお、私共は喜ぶ者として召されているのです。喜ぶことが出来る者として、生かされているのです。
 実は、この喜びの手紙と言われるフィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中に囚われの身となっている時に書かれた手紙なのです。普通、自分が牢獄に入れられていたら、自分が大変な状態にあるのですから、弱っている自分を助けて欲しい、そんな手紙を書くのではないでしょうか。しかし、パウロはそうではありませんでした。自分は喜んでいるし、あなた方も喜んで欲しい。そう繰り返し告げるのです。喜んでいない人が、「喜べ」とは言えないでしょう。このことは、パウロの中に、たとえ牢獄に入れられても消えることのない喜びがあったということでありす。そう申しますと、「パウロは特別な人だ。自分達とは違う。」そう考えてしまう人がいるかもしれません。確かに、パウロは偉大な伝道者です。私共一人一人、神様から与えられている賜物は違います。しかし、牢獄の中にいたパウロを生かし、この手紙を書かせた喜びは、全てのキリスト者に与えられているものです。もし、私共がこの喜びの中に、今、生きていないとするならば、それはこの喜びが与えられているということを忘れているからです。与えられていないのではなくて、与えられていることを忘れているからに過ぎません。とするならば、私共は思い出しさえすれば良いのです。既に与えれている恵を思い出せばよいのです。

 今朝与えられている御言葉は、使徒パウロがフィリピの教会に宛てた手紙の冒頭において、差出人である自分と宛先であるのフィリピの教会を記しています。ここに、この喜びを思い出す、三つのカギとなる言葉があります。それを順に見ていきましょう。
 第一のかぎとなる言葉。それが「キリスト・イエスの僕」という言葉です。パウロは、自分のことを指して、「キリスト・イエスの僕」と言います。「僕」とは、やわらかな訳ですが、本来これは奴隷という言葉です。キリスト・イエスの奴隷。そうパウロは自分のことを言うのです。奴隷とは、気持ちの良い言葉ではありません。自分に少しも自由がない。ご主人様の言われた通りのことをするだけ。人間らしい生活が少しもない。そう私共は思う。しかし、パウロはこの言葉を、大変誇りを持って使っていると思います。どうしてでしょうか? 自分は自由でいたい。それは私共の自然な欲求でありましょう。しかし問題は、この「自由」なのです。他人から何の制約も受けない。何をやっても良い。そういう中で、人は本当に自由に生きられるのでしょうか。聖書はこれに関して、大変厳しい見方をしています。生まれたままの人間、自然のままの人間は、自らの罪の奴隷となっている。つまり、一見自由に見えたとしても、実は、自らの罪を主人として、それに奴隷として仕えているだけだと言うのであります。これを原罪という言い方をする時もあります。神様の御心にかなうことを求めようともせず、それをすることもない。結局、自分の利益と申しますか、気持ちのおもむくままに、引きずられていく。しかし、キリスト・イエスの僕とは、自らの罪を主人とするのではなく、キリスト・イエスを主人とする者になったということなのであります。私共は、主イエス・キリストというお方を、自分の人生の主人として持つ者になったということなのです。
 ここで私共は、改革派教会の伝統に生きる教会にとって、とても大切な信仰の遺産の一つであるハイデルベルク信仰問答の問1を思い起こすのではないでしょうか。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。答え「私が、身も魂も、生きているときも、死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。……」私が私のものではない。私が救い主イエス・キリストのものである。それが、生きるときも、死ぬときも、私共のただ一つの慰めなのだと言うのです。それは、私共がキリストのものであればこそ、私共はキリストの十字架の血によって一切の罪を赦された者として生きるのですし、キリストのものであればこそ、一切の悪しき力は、私共に指一本触れることは出来ないのですし、キリストのものであればこそ、私共は喜んで主の為に生きることが出来るからであります。キリストの僕とは、キリストを主人として持ち、キリストのご支配の中に生きる者とされている者であるということなのであります。これこそ、私共のゆるぎない喜びの源なのであります。どうか皆さん、私共は最早、自分の人生の主人ではないということを、深く心に刻んでいただきたいと思います。私共は、キリストのものとされているのです。
 先程、ヨシュア記の冒頭の部分をお読みいたしました。出エジプトの旅が終わり、約束の地に入ろうとした時のことです。今まで神の民を導き続けてきたモーセは死んで、もういません。ヨシュアがモーセの後継者として立てられます。ヨシュアには不安がありました。ヨルダン川を渡れば、そこには先に住んでいる人がいる。争いになる。大丈夫だろうか。モーセは偉大だった。モーセの様に、神の民をきちんと導けるだろうか。人々は自分についてきてくれるだろうか。様々な不安、恐れがヨシュアを襲いました。そういうヨシュアに向かって、神様は何度も何度も繰り返して言われるのです。「強く、雄々しくあれ。」「主はあなたと共にいる。」
 キリストが私共の主人であるということは、このヨシュアに与えられた言葉を、自分に告げられた言葉、神様の約束として聞くことが出来る者であるということなのであります。
主イエスはインマヌエル、「神、我らと共にいます。」の神であられます。このインマヌエルの神である主イエス・キリストのものとされたということは、このヨシュアに与えられた神さまの約束が、主イエス・キリストによって私共の上に成就されたということなのであります。

 第二のカギになる言葉は「キリスト・イエスに結ばれている」という言葉です。パウロにとってピリピの教会の人々は、本当に親しい関係にありました。使徒言行録16章を見れば、フィリピの教会はパウロが初めて伝道した教会であることが判ります。言うなれば、フィリピの教会はパウロが開拓伝道した教会です。この教会に集う人々の多くを、パウロは知っていたに違いありません。しかしパウロは、そのような人間的な交わりの中でフィリピの人々を見ているのではないのです。パウロはフィリピの人々を、何よりも「キリスト・イエスに結ばれた者」として見ているのです。これは信仰によって与えられた、神様の救いの現実の中でフィリピの人々を見ているということであります。私共は、自分自身を見る時に、何よりもここから見なければならないということなのではないでしょうか。私という人間は何者か。会社員である。主婦である。夫である。妻である。誰の子である。それは皆、社会的に自分を位置づけるものでしょう。もちろん、私共は皆、それぞれに社会的な立場、位置というものを持っています。しかし、それらは時と共に変わっていくでしょう。あるいは、自分はこんな性格であるとか、こんな能力があるとか、そういう面で自分を見ることもあるでしょう。それは意味のないことではありませんけれども、第一のことではないのです。私共は、自分が何者であるか問いに対して、何よりも神さまの救いのみ業の中においての自分、つまり「キリスト・イエスに結ばれた者」という自分を見なければならないのであります。これは、どんな状況になっても変わらない「私」というもです。死さえも打ち破ることの出来ない「私」です。それが「キリスト・イエスに結ばれている私」なのです。
 私共が告白している1890年に制定された日本基督教会の信仰の告白には、「我らが神と崇むる主イエス・キリストは、神の独り子にして、・・・・・・・おほよそ、信仰によりてこれと一体となれる者は赦されて義とせらる」とあります。「信仰によりてこれと一体となれる者」とは、実に素晴らしい言葉です。主イエス・キリストと一体とされている。これは信仰において与えられている救いの出来事を、見事に言い表しています。私共は信仰というものを、自分の意識のレベルと申しますか、「私が信じている」というような所で理解してしまいがちです。しかし、それだけでは十分な理解とは言えません。そのような理解では、洗礼を受けたということや、聖餐に与っているということが、良く判りません。信仰というものは、もっと客観的と申しますか、私共の意識の中でとらえきれない面を持っているのです。私共の「信仰の意識」というものは、しばしばゆれ動くのです。フラフラするのです。しかし、そのようなことで、私共がキリスト・イエスに結ばれているという救いの現実は少しもゆらぎはしないのです。そして、このキリスト・イエスに結ばれている者という自己理解は、キリストにあって一つという、交わりをも生み出していくことになるのです。
 私は富山に来て、三週間になろうとしていますけれど、その間に出会ったほとんどの人々は、私が牧師であるが故に出会った人々です。もし、私がキリストに結び合わされていなかったのならば、多分、一生、出会うことのなかった人々です。教会とはまことに不思議な所です。生まれも、育ちも、性格も、考え方も、社会的な立場も、趣味も、全く違った人々が集まり、一つとされている。互いにキリストに結び合わされているから与えられている交わりなのです。この交わりは、共に御言葉に与り、共に聖餐に与り、共に祈りを合わせることの出来る交わりです。毎週、この礼拝の場に身を置く中で、私共は自らがキリスト・イエスに結び合わされた者であることを思い起こすのであります。これが喜びの源となるのです。私はいつも言うのですが、礼拝に来て隣の人を見る。気が合う人、合わない人。色々です。しかし、この人とのお付き合いは、死んでも終わらないのです。死んで後も続く、そういうお付き合いをする交わりなのです。

 最後に「聖なる者たち」という言葉に思いをめぐらして終わりましょう。これは聖人、saints、とも訳せる言葉ですけれども、言うまでもなく、品行方正、清く正しく美しく生きている人々という意味ではありません。この「聖なる」という言葉は、本来神様にしか用いられない言葉です。聖なる方は神様以外にはいないからです。フィリピの教会の人々が、そして私共が「聖なる者」と呼ばれるのは、聖なる神様の清さに与っているからに他なりません。それは、キリスト・イエスの御力によって、罪赦された者とされているということでありますけれど、それだけじゃない。「聖なる者」とされている。神さまの聖さに与っていると言うことは、罪と戦い、それに打ち勝つ者とされているということでもあるのです。これも又、私共の喜びの源なのです。人は、なかなか、自分を変えることが出来ません。判っちゃいるけどやめられないと申しますか、言わんで良いことを言ってしまい、悪いと判っていても、ついついしてしまう。私共の歩みはそういう連続であります。しかし、私共はあきらめる必要はないのです。何故なら、私共には出来なくても、神には出来ないことはないからであります。何度でも、やり直すことが出来るのですし、やり直す力と勇気を私共は神様から賜っているのです。何故なら、私共は聖なる者とされているからなのです。

この一週間、キリスト・イエスの僕とされていること、キリストに結び合わされていること、聖なる者とされていること、このことを思い起こしつつ、神さまの御前を喜んで歩んでいきたいと思います。

[2004年4月18日]

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