富山鹿島町教会

礼拝説教

「私の誇り」
詩編 34編
フィリピの信徒への手紙 3章1〜9節a

小堀 康彦牧師

 今日与えられておりますフィリピの信徒への手紙第3章の始めの部分。ここは、パウロの息づかいと申しますか、これを書きながらかなり興奮しているパウロの様子が伝わってくる、そういう所ではないかと思います。当時の手紙の書き方は、口述筆記が一般的でありますから、パウロは手紙のこの所に入って、激しい口調、語調で語ったのではないかと思います。次々と激しい言葉をくり出しながら、それこそまくしたてているパウロの姿を思い浮かべるのです。ここでのパウロの語り口は、ていねいに一語一語を選びながら、論理を展開しているというものではありません。パウロの肉声が出てきている所と言って良いでしょう。2節を見ますと、「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。」とあります。「犬ども」「よこしまな働き手」「切り傷にすぎない割礼」と激しい言葉が続きます。そして、「注意せよ」「気をつけよ」「警戒せよ」となるのですが、この三つの言葉は原文では皆同じ言葉です。「警戒せよ!!」と三回同じ言葉が続いているのです。大変激しい言い方です。こういう所を読みますと、パウロという人は、なかなか激しい人だったのだなと思います。
 しかし、それは単にパウロの性格というよりも、ここで告げられ、論じられている問題が、福音の中心であり、パウロの救いがかかっている問題である故に、自然と力が入り、興奮してしまっているということなのだろうと思います。ここで問題になっているのは、キリスト者は何を頼りとし、何を誇りとしているのかということです。それは、何によって自分は救われ今日あるを得ているのかと言い換えても良いでしょう。パウロにしてみれば、これは議論の余地は無い程、明らかなことでありました。「自分は主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって救われ、キリストのものとされた。それは、ただ信仰によるのである。」これがパウロの福音でありました。彼は、このことを異邦人達に宣べ伝える伝道者として召され、生きているのです。
 ところが、こともあろうにキリストの教会の内部から、この福音に反し、敵対する教えを伝える者達が現れてきたのです。彼らの主張は、主イエス・キリストを信ずる信仰は大切だけれども、本当に救われる為にはそれだけでは十分ではない。律法を守るという行ないも必要である。特に異邦人の人達は神の民であるユダヤ人に加わる為に、どうしても割礼を受けることが必要だと主張していたのです。彼らは、多分ユダヤ人キリスト者であったと思われます。救われるために必要なことは、信仰プラスαということになるでしょうか。
 この問題は、単にパウロの時代だけにとどまらず、二千年のキリストの教会の歴史において、常に問題となってきた事柄でありました。つまり、私共が救われるのに必要なのは信仰だけなのか、それとも他に良き業も必要なのかという問題です。パウロはもちろん、「信仰のみ」であると告げている訳であり、16世紀に起きました宗教改革も又、「信仰のみ」という旗印のもとになされたのであります。私共も、もちろんその立場に立つ訳です。しかし、16世紀に宗教改革が必要であったということは、長い教会の歴史の中で、いつの間にかこの問題があいまいになっていたということでありましょう。

 どうしてそういうことになってしまうのでしょうか。私には、そこに「誇り」というものを上手に利用するサタンの知恵があるように思えてならないのであります。「誇り」というものは、私共にとってとても大切なものです。パウロ自身、様々な手紙の中で「誇り」ということを何度も記しております。確かに、誇りというものを何も持たないというのは、問題でしょう。自分はこれこれの者であるという誇りを持つ、プライドを持つ、だからそれにふさわしくない生き方はしないということになる訳でしょう。武士としての体面を重んじるということもそうでしょう。私共はキリスト者である。キリストのものとされているという、キリスト者であるという誇りを持っています。だから、キリストの顔に泥をぬるような生き方はしたくないと思う。これは大切なことだと思います。私は富山鹿島町教会の牧師であります。人が見ていようが見ていまいが、いつでも牧師です。いつでも、牧師として生きていたいと思っています。牧師としていかがなものかと思われる歩みは、したくないと思う。それは牧師に限らず、キリスト者である者は皆同じでしょう。
 問題はキリスト者であることを誇るとは、何を誇りとするか、何を頼りとするかということなのです。3節b「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない…。」とあります。パウロは、ただキリスト・イエスを誇りとする。ただキリスト・イエスだけを頼ると言うのです。「誇る者は主を誇れ」であります。一方、ここで「犬ども」とまで言われている人々は、自分は割礼を受けている、自分は律法を守っている、自分達はユダヤ人である、そういうことを誇りとしていたのであります。パウロは、ここでそれらのことを総称して、「肉に頼っている」と申しております。自分の生まれ、自分の業、自分の熱心、それを肉と言っているのです。イエス・キリストを誇りとしないで、自分の肉を誇っている、頼っている。それによって、救いに与ると思っている。これは、根本的には、神様を頼りとしないで自分を頼りとしているということでしょう。人に対して誇る以上に、神様に向かって誇っているのでありましょう。もし、この肉の誇りを認めるならば、主イエス・キリストの十字架は無駄になってしまうのです。キリストが十字架につかなくても、救われることになるからであります。パウロが真剣に、興奮してまで語気を荒げて告げなければならなかったのは、このことなのです。キリストの十字架を無駄にしてしまう教えに対しては、断固戦わなければならないのです。誇りは悪くないのです。大切なものであり、必要なものです。しかし、その誇りの中に、「自分を誇る」というものを潜入させようとする、サタンの知恵がそこにあるのです。「自分を誇る」ならば、キリストの十字架は無駄になるのです。だからパウロはここで、言葉を荒げ、語調も激しく語らないではいられなかったのであります。ここは断じて譲れない、決して妥協出来ない所だったのであります。

 パウロにしてみれば、肉において誇るのであれば、あの犬どもと比べても何ら遜色のないものを自分は持っている。キリストに出会う前の自分は、それを頼りとし誇りとしてきた。5〜6節「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベンヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」パウロは、ユダヤ人の中でも信仰的エリートだった訳です。しかし、一体それが何になるのか。キリストの救いに与る為には、何の役にも立たない。キリストの救いに与った今、それらのものは塵あくたと同じだと、パウロは言うのです。8節「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」とあります。パウロは、主イエス・キリストを知ってしまいました。それまでは、自分の力で、自分の努力で、自分の熱心で救われようとしていた。だから、熱心に律法を守り、キリストの教会を迫害さえしてきた。しかし、主イエス・キリストを知り、主イエス・キリストによる救いに与った今、今まで大切だと考えていたそれらのものが、まったくどうでも良いものになってしまったというのです。
 これは良く判るのではないでしょうか。私共も、キリストと出会い、救いに与り、パウロと同じ価値観の転換と申しますか、生き方の転換と申しますか、そういうものを経験してきたのではないでしょうか。大切なものが変わったのであり、求めるものが変わったのでありましょう。キリスト者となるということは、この「変わる」ということがあるのです。キリスト者になっても何も変わらないということはないのです。何が自分の人生において大切なのかという所において変わるのであります。私が若い時に求めていたのは、出世して、富を得て、きれいな奥さんをもらうこと。そんなことでした。しかし20才でキリストと出会い、キリスト者となり、それからそれらのことはどうでも良いと思うようになりました。勿論、洗礼と共に、一瞬にしてそれらのものはどうでも良いと思うようになったわけではありません。少しずつ、少しずつ変えられていったのです。しかし、大学を出て就職する時も、教会生活がきちんと守れることというのが、自分の中の絶対条件でした。「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさ」を知ってしまったからです。これを知ってしまった以上、もうそれ抜きに全てを考えることは出来なくなったのです。これがキリストを知ってしまった私共なのではないでしょうか。

 私共の教会の伝統において、とても大切にしている信仰問答の一つに、ジュネーブ教会信仰問答があります。宗教改革者カルヴァンが書いたものです。これの問い1は、とても有名なものです。問1「人生の主な目的は何ですか。」答「神を知ることであります。」問3「では、人間の最上の幸福は何ですか。」答「それも同じであります。」ここには、パウロと同じ様に、主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさを知ってしまった者の姿が示されていると言って良いでしょう。私は、前任地の教会で教会学校の子が中学生になると、この言葉を教えました。聖羊会といって、月に一度、一緒に夕食を食べてから、信仰の学びの会をしていたのですが、その会の初めに、毎回、「人生の主な目的は何ですか。」「人生の最上の幸福は何ですか。」と問います。子供たちは、「神を知ることであります。」と答える。多分、意味は判らないのでしょう。しかし、若い時に覚えたこの言葉は、決して忘れられることなく、彼らのこれからの人生を照らす道しるべになるのではないか、そうなって欲しいと願っていました。
 神を知る。それは神様がいるとか、いないとかいうことではありません。神様を愛し、神様をあがめ、神様に従うということです。神様の救いの中を生きるということであります。
 神を知ること、それが人生の目的であり、最上の幸福なのである。これは、私共が自分の日々の生活をもって、次の世代の人達に伝えていかなければならないことなのでありましょう。キリストと出会い、救いに与り、神様を知る者とされた者は、ただキリストだけを誇る者となるのであります。自分の持つ様々な肉的なものを一切誇ることがなくなるのです。ここに、キリスト者の品性、キリスト者の人格というものが生まれてくるのではないかと思うのです。
 詩編の詩人は歌いました。34編9節「味わい、見よ、主の恵み深さを。」私共も味わい、見るのです。主イエス・キリストの恵み深さを。その時、私共は本当に頼りとし、誇りとし、喜びとするものが、主イエス・キリスト以外にないことを知るのでありましょう。主イエス以外の肉的なものは、全て過ぎ去っていくものだからです。私共は、決して過ぎ去っていくことのない、真実な誇りを与えられているのです。この恵みの中に留まり続けたいと心から思います。

[2004年7月18日]

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