富山鹿島町教会

礼拝説教

「主は近くにおられる」
イザヤ書 55章6〜11節
フィリピの信徒への手紙 4章2〜7節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共は一つの小さな、しかし、とても大切な言葉に注目させられます。それは、「主において」という言葉です。場合によっては、「主によって」「主にあって」とも訳される言葉です。英語では”in the Lord ”と訳されています。元々のギリシャ語では、 「エン・キュリオー」 です。主という意味の「キュリオー」の前にエン、英語では inとなる前置詞がついた言葉です。これをどう訳すのか、なかなか日本語になりにくい小さな言葉です。しかし、事柄にそって大胆に訳すとすれば、「主の中で」とか「主につつまれて」とも訳すことが出来るのではないかと思います。この小さな一句は、パウロの手紙の中に、それこそ、何十回と出てきます。小さな、しかし、とても大切な一句なのです。
 ある説教者は、この個所を説教して、「一見関連のないように見える、しかし美しい真珠のような言葉が、一つの糸で結びつけられている。」と申しました。その全ての真珠を結びつけている糸に当たるのが、「主によって」「主において」という小さな言葉なのです。具体的に見てみましょう。4章1節「主によって、しっかり立ちなさい。」4章2節「主において同じ思いを抱きなさい。」4章4節「主において、常に喜びなさい。」4章7節は少し形は違いますが、同じことを示しています。「キリスト・イエスによって守るでしょう。」
 「しっかり立ちなさい。」「同じ思いを抱きなさい。」「常に喜びなさい。」「神の平和が守るでしょう。」これらの勧め、励まし、希望が、全て「主において」という小さな言葉によって結びつけられているのです。もし、「主において」という、この小さな言葉が抜けているのならば、これらの勧め、励まし、希望の言葉は、何の意味もなさない、力のない気休め、無理な要求といったものになってしまうでしょう。「エン・キュリオー」・「エン・クリストー」 、主の中で・キリストの中で・主につつまれて・キリストにつつまれてという、この私共に与えられている恵みの現実の中で、これらの勧め、励まし、希望は意味のある、力を持つ言葉となるのであります。

 パウロがこの手紙を送ったフィリピの教会には、小さなこととして捨てておけない、二人の婦人の対立がありました。エボディアとシンティケという二人の婦人です。この二人について、私共はここに記されていること以外には何も知ることは出来ません。二人の名前は、聖書の中でここだけにしか出てこないのです。どうして、何が原因で、この二人の婦人が対立してしまったのか、それも判りません。判っていることは、この二人の婦人はパウロがフィリピでの伝道をし、教会の礎をすえた時に、パウロと共に福音の為の戦いをした者であるということです。二人はフィリピの教会の古くからの信徒であり、それ故にフィリピの教会においても指導的な立場にいた人達だったのではないかと思われます。ですから、二人の対立は単に個人的な問題に留まらず、教会全体をまき込んだ、深刻な問題となっていたのではないでしょうか。パウロは、この二人に和解の道を示します。それは、「主において同じ思いを抱きなさい。」というものでした。仲たがいをし、対立している二人が、どうして同じ思いを持つことが出来るのか。感情的な対立・もつれもあったでしょう。この様な場合、人間的に考えれば、和解をするのはとても無理だということになるのかもしれません。しかし、「主において」です。主の中で、主につつまれるならば。主イエス・キリストの和解の福音に共に与っている者、共にキリストの血と肉とに与っている者なら、このただ一つの恵みの中に共に立つのなら、道は開かれていく。パウロはそう確信しているのです。それは、パウロの個人的な確信ではありません。約束された福音の力に対しての信頼なのです。福音は平和を与えます。神の平和をもたらします。それは神と人との間だけではなくて、人と人との間にも平和を与えるのです。教会に、家庭に、世界に平和を与えるはずなのです。パウロはここで、この二人の婦人の人間的な資質に期待しているのではありません。「主において」です。私共に和解が可能であるのは、共にキリストの恵みの中におり、共に神の国への道を歩んでいる者であるという事実に目を向けることによってでしかありません。お互いを見ていれば、気が合わないこと、腹が立つこと、どうしてそうなのかと言いたくなることは山ほどある。しかし、お互いがただ一つの目標、神様の栄光の為に、み国に向かって共に歩んでいることに気付きさえすれば、同じ思いを抱くことが出来るはずなのであります。
 私は神学生時代、同じ教会で奉仕していた先輩の神学生がおりました。性格も考え方も、全く違う二人でした。議論をすれば、ほとんど一致するということがない二人でした。しかし、今、この教会で自分達は何をしなければいけないのか。その点において二人は食い違ったことはありませんでした。実に良いコンビでした。互いに最も深く信頼し合っておりました。今でも、その交わりは変わっていません。議論をすれば食い違う。しかし、互いにキリストを愛し、教会を愛していることにおいては、一つになれたのです。教会の一致、主において同じ思いを抱くとは、そういうことなのではないでしょうか。

 さて、3節に「なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。」とあります。この真実な協力者とは誰なのかは判りません。しかし、この二人が互いに「主において同じ思い」となる為には、二人を支える人が必要だったということなのでしょう。和解のつとめをはたす人が必要だったのです。これは、どちらかの味方をするというようなことではなくて、二人が互いに「主にあって」という恵みの中にあることを知らせるつとめであると思います。これが「とりなし」ということであります。キリストの和解の福音を与えられた私共には、この「とりなし」のつとめがあるのです。神と人との間の和解を受けた者は、人と人との間の和解を造り出す者として召され、遣わされているのです。この「とりなし」という言葉は、対立している者を互いにキリストの十字架の前に連れていくということでしかありません。キリストの十字架の前に真実に立つ時、自らのプライドも思い上がりも打ちくだかれ、ただ、主の為に何を為すことが出来るのか、人と比べるのでもない、なすべきことを主にささげていくだけという、謙遜な思いが与えられるのでしょう。そして、そこで初めて、私共は「主にあって、同じ思いを抱く」ことが出来るのであります。

 4節、パウロは二人の婦人の対立の故に、厳しい状況の中にあるフィリピの教会の人々に向かって「主において常に喜びなさい。」と励まします。私共は、しばしば厳しい状況の中で、喜ぶことを忘れるのです。目の前の厳しい状況が全てであるかのように思ってしまうのです。しかし、どんな厳しい状況が私共の前に立ち現れてこようとも、それは全てではありません。主においては、主の中では、それらの問題は、既に解決されているのです。そのことを信じ、主に委ねるのです。主は私共の全てをご存知です。そして、全てを支配しておられるのです。私共の小さな頭の中では、もうどうにもならないと思ったとしても、主においては、すでに解決されています。フィリピの教会の人々にとって、エボディアとシンティケの問題は解決不可能な問題に見えたかもしれません。これによって教会も混乱していくばかりと人々は思っていたかもしれません。そういう中で、フィリピの教会の人々は、「主において喜ぶ」ことを忘れていたのです。だからパウロは、「主において喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と告げているのです。信仰に生きるということは、主において喜ぶ者、常に喜ぶ者として生きるということと同じなのです。「私はキリストを信じている。しかし、喜べない。」そういう人がいたとすれば、それは、本当の所でキリストを信じてはいないということなのではないでしょうか。キリストの愛は、私共をそのままに捨ておかれるはずがないし、キリストの力は私共のどんな状況をも打ち破ることがお出来になります。私共には出来なくても、神には出来ないことは何もないのです。今、イザヤ書55章を読みました。11節に「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。神の言葉、神の約束は、必ず私共の上に成就するのです。私共は、そのことを信じる者として生かされているのです。
 6節で「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」とも言われています。ここには、「主において」という言葉は付いていませんけれど、内容から言えば、ここにも「主において」が付いていると考えて良いでしょう。「喜べ」とか「思い煩うな」と、ただ言われても、「ハイ、喜びます。」「ハイッ、思い煩うのはやめました。」そんな風に言えるものではないでしょう。誰も好きで思い煩っている訳ではないのですから。しかし、「主において、思い煩うのはやめなさい。」と言われれば話は別です。あなたの思い煩っていることは、主においては、主の中では、主につつまれているならば、すでに全て解決されている。あなたには、この主が備えて下さっている明日がある。それは、あなたを苦しませ、悩ませ、悲しませるようなものではなく、あなたに喜びと平安と感謝と讃美とを与えるものだ。だから、あなたはもう思い煩わなくても良いのだ。そう告げられているのであります。だから、次に、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と続いているのです。「キリスト・イエスによって」 「エン・クリストー・イエスー」、キリスト・イエスの中で、キリスト・イエスにつつまれてです。

 よいですか、皆さん。主イエスの中で、私共の全てはすでに知られ、すでに担われ、すでに解決しているのです。イエス・キリストが私共の主、主人であるとは、そういうことなのです。イエス・キリストが、私共の人生の主人となって下さっているとは、そういうことなのです。この恵みの現実に目を向けなければなりません。まるでキリストがいないかのように、目の前の出来事が全てであるかのように考えてはならないのです。それでは、キリストが復活したにもかかわらず、死んだら全ておしまいだと思っているのと同じです。もし、私共が喜んで生きられないとするならば、それは私共の置かれている状況が厳しいからではなく、主の中で、主につつまれて生きている、生かされているということを、きちんと受け取っていない、忘れているからなのではないでしょうか。私共は思い起こさなければなりません。
 パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます。」これには、二つの意味があります。一つは、主イエスはすぐにやってこられる、主の再臨は近いという意味です。もう一つは、主は私共のすぐそばに、私共と共におられるという意味です。これは、どちらか一方に理解するのではなく、二重の意味で私共に告げられていると思います。主が私と共におられ、まさに私が主の中に、主につつまれてある。その私の近くにおられる主が、再び来られる。その日には、私共の涙はことごとくぬぐわれ、全き平安の中に生きる者とされる。その日に与えられる恵みを、私共は信仰において先取りして与えられているのです。私共は、この世界に生きつつ、半分神の国の恵みの中に生き始めているのです。神の国に突片足をっ込んで生きているのです。神の国において完成する神の平和が、すでに、私共を包みこんでいるのです。この恵みに目を注ぎつつ、互いに同じ思いを持ち、常に喜びつつ、この一週も又、主と共に歩んでまいりたいと思います。

[2004年8月8日]

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