富山鹿島町教会

礼拝説教

「神に従う人」
創世記 第6章9節〜第7章6節
マタイによる福音書 第4章36〜44節

小堀 康彦牧師

 神様の愛と神様の義しさ。この二つはしばしば矛盾しているように、私共には思えます。愛は全てを受容し、全てを赦す。一方、義しさは一切の罪を赦さない。この二つは私共の頭の中では、スキッと一つになることはありません。しかし、聖書によって示される神様は、どこまでも愛の方であり、どこまでも義しい方なのです。私は、このスキッとしないという所が大切なのだと思っています。神様というお方は、どこまでいっても私共の頭の中にスキッと収まっては下さらない。私共の頭の中に入りきらない。それを無理矢理スキッとさせようとしますと、そこにあるのは生ける神ではなくて、人間の作り出した神という名の偶像になってしまうということなのではないでしょうか。神様はご人格を持っている。生きて働かれる方である。だから判らないのです。
 私はいつも思うのですが、妻の富士美さんと結婚して17年になります。毎日、一緒に生活しているのですが、これがなかなか判らない。娘の真祈子との生活は16年になりますが、これはもっと判らない。いっしょに生活しているのですから、行動パターンといいますか、こう言えばああ言うだろうとか、そんなことは判ります。しかし、どうして、そんな風に言わねばならないのか、それは判りません。人格を持って生きているということは、そういうことなのではないかと思います。まして神様のことが、私共の頭の中にスキッと入るように判るなどということはあり得ないのだと思うのです。私は妻や子どものことを全部判っている訳ではないけれど、愛していますし、信頼もしています。神様に対してもそうです。全部判っている訳ではないけれど、私を決して見捨てない方であることを信じていますし、この方と一緒に生きていくのが自分には一番幸せなことだと思っています。神様は私を造って下さり、両親を与え、妻を与え、子供を与えて下さいました。必要の全てを満たして、一日一日私を生かして下さっています。しかも、愚かで自分のことしか考えることが出来ないような私を愛して下さり、私の為に愛する独り子を与えて下さり、私を神の子として下さいました。永遠の命を与えるとまで約束して下さいました。この方を離れて、どこで生きていくことが出来るのだろうかと思います。

 ノアもきっと同じ思いで生きていた人なのではないかと思うのです。ノアも神様のなさることを全て理解できていたわけではないでしょう。しかし、彼は神様の言葉に従い、神様と共に生きることが、自分の生きる道であるということを知っていたのだと思うのです。9節に「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」とあります。神様に造られ、生かされているのを忘れて、自分の思いのままに生きている人々の中にあって、ノアだけは神様を忘れず、神様と共に生きた人だったのです。「ノアは神に従う無垢な人であった。」とあります。口語訳では、「正しく、全き人であった。」と訳されていました。「神に従う」が「正しい」、「無垢な人」が「全き人」と訳されていた訳ですが、これは足して二で割ると良いと思うのです。そうすると、こうなります。「ノアは神に従う、全き人であった。」つまり、ノアは神様に従うということにおいて、全き人であったということであります。それは、具体的には、22節と7章の5節に繰り返し告げられていることに現れています。22節「ノアは、全て神が命じられたとおりに果たした。」これは、神様のご命令である箱舟を造ったということでしょう。
 この箱舟の大きさは、長さが300アンマ、幅が50アンマ、高さが30アンマでした。これをメートルに直しますと、長さが135m、幅22.5m、高さ13.5mとなります。材料はゴフェルの木です。この木が何の木なのかは良く分かりませんけれど、いずれにしても木です。私は元技術屋ですので、こういう数字を見ますと、材料が木ではこのような大きな船を造るのは無理ではないかと思ってしまうのです。長さ135mといえば、現代の大型タンカー並の大きさでしょう。木では強度が足りません。平らな地上に置いておくだけなら何とかなっても、水に浮かべたら、5秒ともたずにあっと言う間に壊れてしまいます。しかし、ここはそういう風に読んではいけない所です。そういう読み方をしますと、この洪水の話そのものが、地球上の水の量は決まっているのであって、雨が続いたといってもそれはその地方だけのことで、地球の全面が水におおわれるということはあり得ない。そういう話になってしまいます。このノアの洪水の話は、歴史上の出来事というよりも、神様の造られた世界とは、歴史とは、人間とは何かということを記している話です。創世記の11章まで、アブラハムが出てくるまでは、歴史上の出来事というよりも、歴史の元、言うなれば、一つの受精卵から、細胞分裂を繰り返してして体の組織が全て出来るように、歴史の全てがここから始まる。歴史の元、全ての歴史の元、しかしまだ歴史にはなっていない。これを「原歴史」という言い方をします。このノアの洪水も「原歴史」として理解しなければなりません。
 ここで聖書が告げようとしていることは、ノアはとんでもない大きさの舟をただ神様が言われるからという理由だけで、神様が命じられたように造ったということなのです。このノアの造った箱舟は、どんなにバカげた大きさであったかということを、聖書は数字を上げて示しているのです。もっとても、実際に世界中の全ての生き物を入れるのなら、この大きさでも、全く足らないでしょう。聖書が言いたいのは、そういうことではありません。ノアがこの箱舟を造ったとき、まだ雨は降っていない訳ですから、ノアのしていることは、他の人から見れば実にバカげたことであったに違いないのです。しかし、ノアはそれをしたのです。神様がそうしなさいと言われたからです。これが、ノアが「神に従う人」であったということの具体的な現れなのです。そして、これこそが神様の裁きをまぬかれた者の姿だと聖書は告げているのです。神に従うとは、具体的な神の言葉に従うことであり、それこそ神様に選ばれた救われる者の姿だと告げているのです。
 私は、このノアの姿に心が動かされます。他の人からバカ者と思われようと、神の言葉に従い、箱舟を造り続ける者。もし、洪水が来なければ、ノアのしたことはまったくのムダになる訳です。これ程の大きな舟を造るのに、一体どれ程の時間と労力を要したのでしょうか。ノアは来る日も来る日も箱舟を造った。人からどう思われようと、ただ、神様の言葉であるという理由だけで従った。どこまでも神様の言葉に従っている。愚直も思えるこの姿。私は、このノアの姿が美しいと思うのです。この美しさは、キリストの十字架への歩みに重なって見えるのです。
 私共キリスト者の歩みも同じなのではないでしょうか。もし、主が来られないのなら、終末がないのなら、永遠の命がないのなら、私共の信仰の歩みの一切はムダなことなのです。パウロがコリントの信徒への手紙一15章17〜19節で言われている通りです。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなた方は今も罪の中にあることになります。……この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちは全ての人の中で最も惨めな者です。」しかし、私共は神様の言葉を信じ、神様のご命令に従って生きている。日曜日のたびに礼拝を守り、主が再び来たり給うを待ち望んでいる。他の人から見れば、これはまことに愚かなことなのではないでしょうか。しかし、この愚かさ、神様の言葉に愚直に従っていく者の姿であり、そこにこそ、聖書が告げる真実な生き方があるのでしょう。私はこの愚かさに徹したいと思うのです。
 キリスト教の歴史の中で、この箱舟は教会を示していると理解されてきました。舟は教会のシンボルとしても用いられてきた程です。私共はノアが励んだように、神様の救いの舟としての教会を建て続けているのであります。人からは愚か者のように思われたとしても、これこそが最も価値ある、大切なことだと信じているからであります。

 さて、先程創世記の11章までは歴史の元というか、そこから全ての歴史が始まっていくような「原歴史」が記されていると申しました。その意味では、このノアの洪水の物語は、神様の裁きがあるということを私共に示していることになります。人間が堕落し、神様に造られた者としての歩みを為していかないならば、神様は滅びをもって報いるということであります。この神様の裁きの宣言は、イスラエルの歴史においてはバビロン捕囚ということにおいて現実となりました。そして更に、この裁きの宣言はこの世界の終わり、終末があるということも私共に示しているのであります。これは、神様がどこまでも義しい方であることを示しているとも言えます。神様が義しい方である以上、裁きはなければならないのであります。しかし、この神様の裁きにおいては、ノアという一人の人によって全てを滅ぼすということが免れるのです。ただ一人の正しい人によって、全てが滅びるのをまぬかれる。このノアの存在は、ただ一人の正しい方である主イエス・キリストを指し示していると言って良いでありましょう。ここに、神の愛があります。ノアとその家族から新しい人類が始まっていったように、主イエス・キリストという、ただ一人の正しい方によって、新しい人類が誕生したのであります。ノアは神に従う全き人でありました。神に従うことにおいて全き人、それは人類の歴史の中では、ただ主イエス・キリストしかおられません。主イエスは、自分には、何の罪もないのにもかかわらず、十字架への道を歩まれました。ゲッセマネの園において、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られ、十字架への道を歩まれたのです。主イエスは、十字架の死に至るまで神様に従順であられたのであります。神様に従うことにおいて、全き道を貫かれたのです。このキリストの故に、全て罪ある者を裁き滅ぼさざるを得ない神の義しさは、自らの姿に似せて造られた人間を赦すという神の愛、その二つが一つに貫かれたのであります。神の愛と神の義しさが、このノアの物語には示されており、それは主イエス・キリストの十字架の出来事において歴史の中に現れ、現実となったのです。愛だけなら、全て赦されるだけなら、キリストの十字架はいりませんし、私共が神の言葉に従うことは意味がない。義しさだけなら、私共は誰一人救われることはない。愛と義しさ、この矛盾と思える所に、キリストの十字架はあり、私共の救いがかかっているのです。

 このキリストの御業によって建てられた箱舟としての教会。ここに私共は、人々を招いていくのです。この箱船の扉はまだ閉じられていません。この箱船の扉は、最後の裁きが始まるまで閉じられることはないのです。ノアの箱舟に入った人間は、ノアとその家族だけでありました。キリストの箱舟に入るのは、キリストの家族です。神の家族とされた者が全て入るのです。私共はキリストの家族となる者達を招いていくのです。この扉が閉じられるときまで、一人でも多くの者達をこの箱船の中に招いていかなければならないのです。それが、すでにキリストによって建てられた箱舟を私共が造り続けていくということなのでしょう。

[2004年10月17日礼拝]

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