富山鹿島町教会

礼拝説教

「神には出来ないことはない」
創世記 18章1〜15節
ルカによる福音書 1章26〜38節

小堀 康彦牧師

 アドベント第二の主の日を迎えています。私はクリスマスを迎えようとするこの時期になると、毎年、自分はあと何回クリスマスを迎えることが出来るだろうかと思うのです。あと何十回か判りませんけれど、数えることが出来る程です。だから、大切にしたい。真実に迎えたい。全力を注いで迎えたい。そう思うのです。我が家で毎年クリスマスが終わると必ずなされる会話があります。12月24日の深夜の会話です。クリスマスを迎える前から、終わった後の話をするのは少し変かもしれませんけれど、こういう会話です。「今年も良いクリスマスだったね。そう、今までで一番良かったね。」毎年、この言葉を交わすのが習慣になりました。一番良かった。それは、去年までに比べてここが良かった、あそこが良かったというのではありません。今年も、圧倒的なクリスマスの恵みの中に、自分達が生かされたということを表現してのことです。新しく、クリスマスの恵みをいただいたということです。クリスマスは毎年やって来ます。しかし、今年のクリスマスは今年だけです。クリスマスは、決して当たり前のことにならない。いつでも新しく私共に神様の恵みを、愛を私共に教えてくれる時なのでしょう。今年も、「一番良いクリスマスだったね。」と言えるクリスマスを迎えたい。そう願っています。

 今朝与えられている御言葉は、おとめマリアに天使ガブリエルが主イエスの誕生を知らせる場面です。いわゆる「受胎告知」と言われる場面です。これまで、たくさんの画家達によって描かれている場面の一つです。皆さんも、何枚かの絵を思い浮かべることが出来るでしょう。どの絵も、突然の出来事に驚き、畏れ、御使いの前にたたずむマリアの姿が描かれています。どの絵にも、マリアが楽しそうにしている表情はありません。クリスマスの出来事は、誰も想像することも出来なかった、考えたこともなかった出来事だったのです。神が人となる。しかも具体的な一人のまだ少女と言っても良いマリア。研究者によって違いますけれどこの時のマリアの年齢は14歳程度と考えて良いと思います。そのような若いというより幼いと言っても良いようなおとめから生まれる。私共には慣れ親しんだクリスマスの出来事ですけれども、この出来事が起きるまでは、誰一人想像することさえ出来なかった驚くべき出来事だったのです。マリアは、ある日突然、目の前に天使が現れ、「あなたは神様の子と呼ばれる男の子を、聖霊によって身ごもって産む。」と告げられたのです。
 マリアはこの時、天使の言っていることが一体何を意味しているのか、正直な所、少しも判らなかったのではないかと思います。後に、自分の産む子が十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇り、まことの王、神の子として人々に拝まれる者となること、自分自身が「神の母」と呼ばれるようになること、そんなことは少しも判らなかったと思います。この時、マリアがかろうじて判ったことは、「自分が男の子を産む」ということだけだったと思います。確かに天使はマリアに説明しています。32,33節にある「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」というのがそれです。生まれてくる男の子が、どういう者であるかを天使ガブリエルは説明しているのです。しかし、この時マリアに、このことが理解出来たとは私には思えないのです。これは丁度、急に体調が悪くなって病院に行くと、すぐに入院しなければいけないと言われて病気の説明を受けた時のようなものではないかと思うのです。お医者さんは、病気のことを判っていますので病名を告げ、それがどれだけ深刻な状況であるかを説明します。しかし、説明を受ける側は、病気の名前を言われても、それが何を意味しているのかさっぱり判らず、ただ、すぐに入院しなければいけないということだけが判った。それと似たようなことが起きたのではないかと思うのです。そういう時、私共は自分の病気の深刻さよりも、すぐに入院と言われても、やりかけているあの仕事はどうしようか、洗濯物を誰が取り入れるのだろうかといった、どうでも良いことに気が取られてしまうように、この時マリアは自分が救い主・キリストの母になるということの重大さよりも、自分が男の子を産むなんてことはどういうことなのか、だってまだ私は男の人を知らない、ヨセフと婚約しているけれど、まだ一緒に住んでもいない。そっちにばかり気が取られてしまいました。それが証拠に、彼女の口から出た言葉は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」ということでした。それ以外のことは、彼女の頭の中に入りきらなかった、判断不能という状態だったのではないでしょうか。無理もないことです。マリアが聞かされていることは、今まで誰も考えたこともない、驚くべきことだったからです。天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」これも大切な説明です。しかし、これもマリアにはよく判らなかったのではないでしょうか。天使は、さらに加えて、近頃起きた出来事、マリアの親類に当たるエリザベトが、高齢で不妊の女と言われていたのに身ごもったという出来事を告げます。天使は何とかマリアを納得させようとします。
 しかし、最後に、「神にできないことは何一つない。」と告げます。この「神にできないことは何一つない。」という天使の言葉は、マリアに対しての丁寧な説明をしているというような言葉ではありません。もう、「ゴチョゴチョ言わず、この神様の御業を受け入れれば良いのだ。」というような強い言葉であります。天使はここでマリアを叱りつけているのだ考えて良いと思います。この言葉は、創世記の18章において、アブラハムとサラが来年までには子をもうけると神の人に告げられて、それを信じることが出ずに笑ってしまったときに、神の人によってアブラハムとサラに向かって告げられた言葉と同じです。不信仰を責められ、叱られたときの言葉なのです。マリアとて、もうここまで言われてしまえば受け入れるしかない。
 マリアは、主イエスをその身に宿すという、誰一人マネの出来ない神の奇跡に用いられました。誰もマリアに変わることは出来ません。その意味で、マリアの立場は人類史上、唯一の、独特な位置を占めていることに間違いはありません。しかし、マリアは特別に信仰的に立派で、私共があがめなければならない存在というのではないと思います。マリアは、神の奇跡を自ら進んでその身に引き受けたというよりも、何も良く判らないままに、天使に説得され、叱られ、受け入れ、用いられたのではないかと思うのです。マリアが選んだのではなく、神様がマリアを選んで用いられたのです。神様はこの人を用いて事を起こすと決められたならば、必ずそれをなさいます。「神にできないことは何一つない。」という言葉は、単におとめからも子を産ませることが出来るということだけを示しているのではないでしょう。神様はその救いの御業を実現する為には、どんなこともなさいますし、又、お出来になるということなのだと思います。

 マリアを選ばれた神様が、私共を選ばないとどうして言えるでしょうか。私共も又、神様に選ばれて、神の民の一員とされ、ここに集っているのです。私共一人一人の上に、神様のご計画があり、神様は私共を用いて、その救いの御業を実現しようとされているのであります。マリアが、その召された時に、その意味をよく判らなかった様に、私共も又、一体、自分の身の上に何が起き、それがどのように神様に用いられることになるのか、よく判りません。それは、マリアに限らず、神様に用いられた者は、皆そうなのです。ペトロも主イエスと出会い、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて、主の弟子として召された時、自分がキリストの教会を導いていく者になるとは思ってもみなかったでしょうし、パウロがダマスコ途上で復活の主に出会って召された時、自分の書き記す手紙の多くが、その後何千年にわたって神の民を導く書になるということなど、考えてもいなかったはずです。皆、将来のことは判らずに、しかし、ここでマリアが「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と語った様に、自分自身を、自分の人生を主に委ね、ささげたのであります。
 マリアは自分のことを、「わたしは主のはしためです。」と申しました。「はしため」とは奴隷の女という意味です。奴隷は主人を持つ。マリアはここで、「神様、あなたがわたしの主人です。どうか、御心のままに、わたしを用いて下さい。」そう言っているのであります。神様の求め、神様のご計画、それが良く判ったから、マリアはそう言っているのではないのです。良く判らないのです。良く判らないなりに、神様が私を用いようとされているのならば、それが良い。マリアは聖なる神様の御前に立ち、畏れをもって、主に全てを委ねたのであります。神様の御業というものは、「この身に」起きるのです。頭の中で起きるのではないのです。神様は私を用い、私の人生に突入し、私共の人生を造り変えられるのであります。マリアは、そのように神様に用いられた者として、私共のモデル・模範になったなのだと言って良いと思います。

 伝道部が計画をして、昨日からクリスマスの案内のポストカードの配布を近隣の家々に行っています。又、キャンドル・サービスの案内のハガキも出来上がって、受付に備えられています。どうか、このチャンスを皆さんに用いて欲しいのです。これは誰にでも出来ることです。このことを通して、神様が救いの業を、今一歩前進させようとされている。そしてその為に、この教会が、私共が用いられようとしている。このことを、私共は信じて良いのです。神様に用いられるチャンスを、自分から捨てるような愚かなことをしないでいただきたいのです。私共は、主のはしためです。自分には力もありません、能力もありません。不信仰な者です。その通りなのです。私共は皆そうなのです。それでも良いのです。そのような私共を主が用いると言って下さっているからです。私共は、あまりに自分を見すぎます。自分の足らない所ばかり見すぎます。良いですか。主はマリアを用いたように、私共をも用いる為に召して下さったのです。「神にできないことは何一つない」のです。私共は、今、自らの小ささから目を転じて、そのような私をも用いようとされる、神の大きさに目を移しましょう。かたくなってはいけません。マリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言ったその場所にとどまっていてはならないのです。そうではなくて「神にできないことは何一つない。」この神の言葉によって説得され、納得させられ、動かされ無くてはならないのです。そして、「主よ、我を用い給え。」と大胆に主の御前に進み出たいと思います。
 もう少しで、クリスマスです。今までで、一番良いクリスマスだったと言えるように、心を尽くし、力を尽くして、主を迎える備えに励みたいと思います。

[2004年12月5日]

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