富山鹿島町教会

礼拝説教

「マリアの歌」
イザヤ書 9章1〜6節
ルカによる福音書 1章39〜56節

小堀 康彦牧師

 アドベント第三の主の日を迎えています。先週は「友の会」のクリスマスがあり、昨日は刑務所でのクリスマス、市民クリスマス、中高生のクリスマス会とありまして、すでにクリスマスの祝いが、幾つもなされています。まだクリスマスを迎えておりませんけれど、すでにクリスマスの喜びの中に私共は包まれ、生かされております。世界で最初のクリスマス、主イエスがお生まれになられた時もそうでした。主イエスがお生まれになられる前に、すでにその誕生を喜んでいた人がいました。たくさんの人ではありませんでしたけれども、深い喜びに包まれながら、主イエスの誕生を待っていた人がいました。主イエスの母マリアとバプテスマのヨハネの母エリサベトです。二人とも、不思議な神様の御業によって、子を宿した女性でした。
 マリアは天使ガブリエルによって、聖霊が降って神の子を産むと告げられました。先週見ました様に、マリアはこの時、天使から何を言われているのか良く判りませんでしたけれど、「神にできないことは何一つない。」とまるで叱られる様にして宣言され、これを受け入れました。マリアは特に信仰深かったという訳ではなかったかもしれませんけれど、もう受け入れざるを得ない所まで追い込まれ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白しました。マリアはどのような成り行きにせよ、この天使のお告げ、神の言葉、神様の御心を受け入れたのです。そこでマリアの中に動きが起きました。私共は、この受胎告知と言われる、マリアが天使のお告げを受ける所は良く知っているのですが、その後でマリアがどうしたのか、その所は読み飛ばしているというか、あまり良く読んでいないのではないかと思います。マリアは、このお告げを受けて動き出したのです。天使のお告げを受けて、じっとしていたのではないのです。お告げを受け、それを受け入れると、動き出したのです。御心を受け入れた時から、人は動き出すのでしょう。じっとしていられないのです。
 39節に「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」とあります。マリアはユダの山里の町へ行ったのです。しかも、急いでです。一体どこへ行ったのでしょうか。ザカリアの家です。後にバプテストのヨハネの母となるエリサベトに会う為です。どうしてマリヤがそのような行動をとったのか、聖書には何も理由は記されておりません。しかし、私は事はそれ程複雑ではないと思います。マリアが天使のお告げを受けた時、マリアは天使から「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」と告げられた。そこで、マリアはエリサベトに会いに行ったのでしょう。天使の告げたことが本当かどうか確かめたいという思いもあったかもしれませんけれど、それ以上に、不思議な神様の業の中で身籠もった者同士、その喜びを分かち合いたい、そんな思いがマリアを突き動かしたのではないでしょうか。年老いて身ごもったエリサベトと乙女であるにもかかわらず身ごもったマリア。共に神様の御業の中で身ごもった二人の女性です。年令は親子以上離れていたかもしれません。しかし、この二人には共に神様の御業を我が身に宿すという、そしてその恵みの御業の中で喜びに包まれるという共通の体験をしているという連帯感があったに違いありません。56節を見ると、マリアはエリサベトの所に三ヶ月もの間滞在したと記されています。どの様な日々であったのか想像するしかありませんけれど、共々に主の御業をほめたたえ、喜びを分かち合う、祝福に満ちた時であったに違いないと思います。男のひがみかもしれませんけれど、この場面には、マリアの夫ヨセフもエリサベトの夫ザカリアも出て来ません。神様の御業によって子を宿した、二人の女性しか出てこない。これは、もう仕方のないことなのでしょう。妻が子を宿している十ヶ月の間、夫が出来ることと言えば、妻にお腹の子が動いたと言われれば手をお腹に当てて、「本当だ」と言うぐらいのもので、我が身に子を宿すという感覚は、判りようがない所があります。41節「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。」44節「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」これはもう、女性にしか判らない言葉です。しかし、私はここにすでに教会の姿があるように思うのです。主イエスの誕生の前に喜びにあふれている。神様の御業の中に巻き込まれた者として共に喜び合っている者の姿です。神様の救いの喜びは、一人で喜ぶものではないのです。共に喜ぶ。神様の救いの御業に与った者どうし、共に喜ぶ。そういうものなのです。私共がここに集っているのはそういうことでしょう。このマリアとエリサべトの喜びの交わりの姿、ここには、世界で最初のアドベントを祝っている教会の姿があるのではないでしょうか。そしてその意味で、45節のエリサベトの言葉、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」これは、私共に向けられた言葉として聞いて良いのであります。私共も又、主の言葉は必ず実現すると信じる者として、ここに集っているからであります。主が再び来られると告げられた言葉を信じる者として、ここに集っているからです。主イエスが「貧しい者は幸いである。」と告げられた言葉を真実な言葉として受け取ってここに集っているからです。何と私共は幸いな者たちなのだろうかと思います。

 マリアは、このエリサベトの言葉に応える様にして、歌を歌いました。これが最初のアドベントの讃美歌の誕生と言っても良いでしょう。このマリアの歌は、ラテン語の最初の言葉をとって、マグニフィカートと呼ばれ、長い教会の歴史の中でも、とても大切に歌われ続けてきた歌です。マグニフィカートとは、「主をあがめ」と訳されている。「あがめる」という言葉ですが、それは「大きくする」という意味を持っています。「わたしの魂は主を大きくする」とマリアは歌い始めたのです。そして、続いて「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえる」と歌います。「神を喜ぶ」と歌うのです。マリアは、神様を大きくし、神を喜ぶと歌うのです。実に素晴らしい讃美です。私共は、しばしば自分を大きくしようとします。そして、神様を小さくしてしまうのです。その代表的な人がヘロデ王です。彼は王でした。それ故に、まことの王として生まれた主イエスを受け入れることは出来ず、自分を大きくし、その結果主イエスを殺そうとしたのです。しかし、クリスマスを喜び祝う者は、皆、この神様を大きくする、そして自分は小さくなるという所に生きるのだろうと思うのです。
 先日、ある集会の中で、謙遜と言うことについて話されました。謙遜ということは、長いキリスト教の歴史の中で、最も大切な徳目として考えられてきたものです。しかし、この謙遜ということは、それ程判りやすいものではないのではないかと言われました。そうだと思います。謙遜というと、皆さんはどういうイメージを持つでしょうか。伏し目がちにして、自分の意見も言わず引っ込んでいる。そんなイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。しかし、聖書が告げる謙遜とは、そういうものではないのです。私を小さくして、神様を大きくするということは、神様の大きなみ業に圧倒され、神様の大きな御心に圧倒され、自分の小ささを思い知らされる。そして、神様の大きな神様の御手の中に自らを委ねるということなのではないかと思うのです。マリアは、ここで少しも卑屈になっていませんし、引っ込んでもいない。我が身に起きた、神様の大きな御業、私のような者をも心にかけ、いつくしんで下さる神様の大きなあわれみを、声を大にして誉め讃えているのです。ですから、マリアは神を喜んでいるのです。謙遜は、神を喜ぶことと結ばれているのです。
 ここでウェストミンスター小教理問答の問1、「人の主な目的は何ですか。」「人の主な目的は神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです。」を思い起こすことも出来るでしょう。ウェストミンスター小教理問答が語るキリスト者の人生とは、このマリアの心をもって生きることに他ならないのだと思います。マリアは続けて、48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」、49節で「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」と歌うのです。どうして、私は神様を大きくし、神を喜ぶのか。それは神様が、私のような者に目をとめ、注目し、神の奇跡を我が身に起こして下さったからだ。どうして、神様をほめたたえないでおられようかと歌っているのです。私共も、このマリアと共に歌うことが出来るのではないでしょうか。私共は、マリアのように神の子を我が身に宿した訳ではありません。けれど、マリアが歌ったように、神様は私に目をとめて下さった、私の人生の中に入ってきて下さり、出来事を起こし、出会いを与え、私を信じる者にして下さった。神様なんて関係ないと生きていた私を、自分を大きくすることにしか心も思いも至らなかった私を赦し、愛し、神の子、神の僕として生きる道を拓いて下さった。そう言えるはずです。
 神様からいただいている恵みは、皆、一人一人違います。それは人と比較出来るものではありませんし、比較するものでもありません。一人一人が皆違った、それ故に特別な恵みをいただいているのでしょう。パウロが、「神の恵みによって今日の私があるのです。」(コリント一15:10)と語った時、その心はこの時のマリアと同じものであったと思います。自分のようなキリスト者を迫害していた者を神様は召して下さり、福音を宣べ伝える者にして下さった。パウロは、あのダマスコ途上の復活の主との出会いを生涯忘れることがなかったと思います。マリヤも受胎告知された日の出来事を、生涯忘れることがなかったに違いありません。ペテロも、あの主イエスを三度知らないといった日のこと、復活の主イエスによって再び召された日のことを、生涯忘れることがなかったに違いないのです。私共も、彼らと同じような「あの日」を持っているのではないでしょうか。聖書を読みながら「これは自分のことが書かれている。自分に告げられている神の言葉だ。」と畏れを持って知らされたあの日。講壇から告げられる説教の言葉が、自分に向けられて語られていることを知らされたあの日。そして、「あの日」を持っている人は、誰でも皆、「自分の救いのストーリー」を持っているはずなのです。この「自分の救いのストーリー」を語る者は、誰でもこのマリアと同じ思いの中で、この歌を自分の歌として歌うことが出来るのだと思います。

 マリアのこの歌は、しばしば革命の歌とも呼ばれます。それは51〜53節の言葉を見てそう言われるのですけれど、私はあまりそれは正しい読みではないと思っています。特に52,53節などを見ますと、それはまさに革命の歌のように見えるのですけれど、ここを文字通り革命の歌として読むのは間違いだと私は思っているのです。どうしてかと言いますと、今までここで言われている様な革命は、歴史の上で何度も起きてきました。しかし、そこで人々は本当に幸せになれたか、人々は神様をほめたたえる者となったか、神の国は来たか。来ていないのです。新しい支配階級が生まれ、新しい人間の支配が行われただけです。大切なのは「主はその御腕を振るい」ということです。人間がその力に頼って革命を起こす、そんなことではないのです。マリアがここで歌っているのは、そんなことではないのです。この世で力を振るい、権力ある座にいる者も、神様の御前においては、全く力がない。無に等しい。そのことを悟れと言っているのでしょう。そして、身分の低い者も、飢えている者も、決して神様の御前において小さな者ではない。この私を見よ。そう高らかに歌っているのであります。マリアは主の御業の証人として、主の大いなる御業を歌っているのです。クリスマスの歌とは、そういうものなのです。単に、昔こういうことがあったと言って歌うのではなくて、あのクリスマスの出来事があって、その神様の救いの御業が、私の上にも来た、そのことを喜び祝い歌うのです。キリストはこの世に来た。全人類の救いの為に来た。その通りです。しかし、キリストは、何よりも私の所に来たのです。私の救いの為に来られたのです。この説教の後で、讃美歌175番を歌います。このマリアの歌を歌った讃美歌です。私共は、この讃美歌を、マリアの歌としてではなく、私の歌として歌いたいのですし、私の歌として歌える者として私共は召されているのです。

[2004年12月12日]

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