富山鹿島町教会

礼拝説教

「シメオンの歌」
イザヤ書 52章7〜10節
ルカによる福音書 2章22〜38節

小堀 康彦牧師

 先週、スマトラ島沖の地震による津波で、12万人を超える人々が亡くなりました。突然の惨事です。私共は、その被害に遭われた人々の上に慰めがあるようにと祈ることなしに、今日の礼拝をささげることは出来ません。このような出来事が起きるたびに、なぜ神様はこんな悲惨な出来事を起こされるのかとの思いがわいてきます。愛する者の突然の死。12万人を超える人々には、それぞれ家族がいた。愛する者がいた。それが一瞬にして壊された。被災地では、どこに向ければ良いのか判らない怒り、悲しみ、嘆きが満ちていることでしょう。そうであればこそ、神様がおられなければならない。死を超えた命があることが告げ知らされなければならない。神様のみ許にある命の慰めが示されなければならない。そう思うのです。主よ、来て下さい。あなたの慰め、あなたの平和、あなたの希望を与えて下さい。そう祈るしかない私共であります。

 今朝与えられている御言葉において、二人の老人が登場します。シメオンとアンナです。アンナについては84才であったと37節に記されておりますが、シメオンについては何才であったのか記されておりません。しかし、教会の歴史の中では、シメオンもまた老人と考えられてきました。私もそう思います。聖霊によって、メシアに会うまでは決して死なないとのお告げを受けていたこと、又、幼子である主イエスを見て、「もう、死んでも良い」と言い切ったことなどから、そう考える訳ですが、この二人の老人が見てきた現実も又、神の民イスラエルがローマによって支配され、不当に扱われるという悲しみと嘆きに満ちていたものあったと思う。そういう中で、シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」そう25節には記されています。アンナについては、37節で「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」と記されています。何を祈っていたのか。多分、シメオンと同じように、イスラエルが慰められるのを祈っていたに違いないと思うのです。この二人の老人は、自分のことや家族のことばかり祈っていたのではないのです。神様に造られたこの世界が、嘆きや悲しみに満ちている。それを見つつ、そのただ中で、主の慰めを祈り求めていた。それを祈り求めることが、この二人の老人の生活の全てであった。私は、シメオンとアンナというこの二人の老人の姿は美しいと思うし、私も又、こうなりたいと思うのです。主の慰め。それは個人的な心の平安というものを突き抜けて、この世界に住む、全ての人々に及ぶ出来事とならなければならないものなのであります。二人はそれを願い、求めていた。何故なら、それが旧約聖書以来の神様の約束だったからです。具体的に言えば、それがメシア、救い主の到来だったのです。救い主が来る。そして、神の平和、神の慰めが、この世界を包む。彼らは、その日を待ち望み、祈り続けていたのです。

 シメオンは待ちました。どのくらい待ち続けたのかは判りません。しかし、半年や一年というような単位ではなかっただろうと思います。何年も何年も、シメオンは祈った。祈っても祈っても、神様の慰めはどこにあるのかというような世界、辛いローマによる支配の日々は少しも変わらなかった。しかし、祈った。祈りつつ、待ったのです。アンナも待った。アンナは若い時に嫁いで、7年間夫と共に暮らしたけれど、夫と死に別れ、その後ずっとやもめ暮らしをしていた。16,17才で嫁いだのでしょうか。とすれば、23,4才でやもめとなり、60年間、女一人で生きてきた。当時のイスラエルにおいて、女性が一人で生きていくというのは、本当に大変なことでした。女性の仕事など無いのです。ですから彼女自身、とても恵まれた生活をしていたとは考えられません。しかし、彼女の祈りは、自分の生活のことや、体のこと、そんな事柄に終始していたのではないのです。祈りつつ、主の慰めの出来事を待ち望んだのです。
 私はこのシメオンとアンナの姿は、本当に美しいと思う。祈りに生きる者の姿は美しいのです。私もそうなりたいと思う。信仰の継承ということが、しばしば語られます。大変だ、難しい、そんな話がされる。しかし、私は、このことはそれ程難しいことではないと思っているのです。父と母が真実に祈る姿を子供が見ていれば、必ずその姿に子どもの心が動くと思うのです。祈りに生きる者の姿は、それを見る者の心を動かさないではおかない。そういう美しさを持っていると思うのです。昨日、元旦礼拝で「神の武具を身につけて」という御言葉を受けました。そこで私は、「私共の武具は祈りと御言葉しかない」と語りました。実に、信仰の継承ということについても、同じことなのです。ポンポン信者(週日聖書を棚に置いたままで開くこともしない。日曜日の朝に聖書をポンポン叩いて埃を落として教会に来る。)に信仰の継承は出来ないと思います。御言葉を読み、祈っている父と母の姿を、同じ家に住む子供はちゃんと見ている。見せようと思わなくても、子どもは見ているのです。その姿は、子どもの心の中に明確に美しい父と母の姿を刻み込むのではないかと思うのです。
 さらにこれは私の想像ですけれど、シメオンとアンナは、知り合いであったに違いないと思うのです。エルサレムの神殿にて祈る、二人の老人。どんなに真実に主の慰めの出来事、救い主の到来を待ち望んでいるか、きっとお互いに語り合い、祈り合っていたのではないか、そう思うのです。これは楽しい想像でしょう。「やあ、アンナさん。」「おや、シメオンさん。」そんな風に会話を交わす間柄だったのではないでしょうか。そして、二人で祈りつつ待っていた。そう思うのです。

 主イエスがエルサレムの神殿に連れていかれた時、この二人の老人が主イエスに出会ったのです。主イエスが神殿に連れていかれたのは、子供を生んで40日後、いわゆる出産のけがれがなくなった時に、主イエスを神殿にささげる為でした。これは、特別なことではありませんでした。日本のお宮参りのようなものを考えていただければ良いと思いますけれど、当時のイスラエルの人々は誰もがしていたことです。イスラエルでは長男は神のものとされていました。それは、出エジプトの際の過越しの出来事にさかのぼるのですが、過越しの出来事において、イスラエルの民以外のすべての初子は神様に打たれて死にました。しかし、イスラエルの民のものはこれを免れました。それ故、イスラエルの民の長男はこの時助けていただいた故に、本来神様のものとされ、それを神様から買い取って自分の子としなければならない。その代金として、いけにえをささげる訳です。この本来神様のものとされるはずの長男達に代わって、神様の為に仕えるのがレビ人、レビ族の人達だったのです。レビ人達が祭司であるというのは、そういうことだったのです。このいけにえも、家に余裕のある場合は子羊をささげますが、貧しい家の場合は、鳩で良いということになっていました。主イエスの家は貧しかったので、山鳩か家鳩をささげたのでしょう。ここでルカはこの長子のあがないの記事をわざわざ記しているのは、主イエスが、新しい神の民、教会の長子となられたということを示す為ではなかったと思います。

 主イエスは、クリスマスの時と同じ様に、ここでも何もしません。生まれたばかり、生後40日の幼子でありますから、当たり前のことです。しかし、ここでシメオンやアンナと出会い、二人を喜びで満たしたのです。私共は、主イエスについて思いめぐらす時、主イエスの語られたこと、主イエスのなされたこと、つまり主イエスの業について考えるのですけれど、クリスマスもそうですけれど、この時の主イエスは何も語らず、何もしない訳です。私共はここで、存在としての主イエスと言いますか、神の子が人の子となったという出来事、そのものへと思いを巡らさざるを得ないのではないかと思うのです。主イエスは、十字架にかかり復活したから神の子なのではなくて、神の子が人となり、その神の子が十字架におかかりになり、復活された。それが聖書の告げていることなのでしょう。この何もしない、何も語らない幼子イエスの存在そのものの中に、愛する独り子を人の子として生まれさせられ給うたという出来事の中に、神様の私共へのあわれみ、私共への救いの熱い揺るがぬ意志とでも言うべきものが現れているのであります。シメオンはこの時、そのことを見たのです。何も語らない、語れない、何も出来ない幼子イエスの存在の中に、神様の救いの意志、この方によって始まる全ての民の慰めの出来事を見たのであります。
 27節を見ますと、「シメオンが”霊”に導かれ神殿の境内に入って来た時」とあります。何気ない表現ですが、主イエスとシメオンとの出会いが、聖霊の導きの中で与えられたことが示されています。「メシアに会うまでは決して死なない」と約束された聖霊が、このような出会いを与えられたのです。私はいつも思うのですが、「出会い」というものは神様が与えて下さるものです。私共はこの人と出会いたいと思って出会う訳ではない。出会いは、いつも向こうからやって来ます。人と人との出会いもそうですが、何よりも神様との出会いは、向こうからやって来るのです。聖霊の導きとしか言いようのない出会いが私共に与えられるのです。ですから、私はこの出会いを大切にしたいと思うのです。この聖霊に導かれた出会いの中で、私共は神様をほめたたえるという恵みの中へと導かれていくのであります。シメオンがメシアの到来を待つ間、シメオンの口から、「主よ、いつまでなのですか。主よ、いつまで待たねばならないのですか。」という祈りが、何度も何度も捧げられたことだろうと思います。しかし、この時、シメオンの口は、喜びに満ちた、驚くべき讃美の歌があふれてきたのです。シメオンは、幼子を腕に抱きます。これは、おじいちゃんが孫を抱くよりも、もっともっと大きな喜びでした。神様の救いを抱いたからです。イスラエルの慰めを待ち続けていた、全ての日々が、全ての祈りがむくわれる。私の生涯はこの子を見る為にあった。その命の充満、わき上がる喜び、それがこの時のシメオンの心を満たしていたものだったのでしょう。形の上では、シメオンが幼い主イエスを抱いている。しかし、この時シメオンの命の全てが、今までの日々、これからの日々、その全てが、幼い主イエスに抱かれているのです。シメオンの命が、主イエスの命に包まれているのです。
 シメオンはこう歌い始めます。29節「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」この歌は、「今、去らせてください。」という、ラテン語の最初の言葉をとって、ヌンク・ディミトゥスと呼ばれてきました。もう死んでもいい。そうシメオンは語り始めたのです。何故か。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」主イエスを見た、主イエスの中に神の救いの御心、確かに出来事となる神様の救いの御業を見たからです。幼子イエスをその腕に抱く老人の口からあふれた言葉です。年をとっていたからシメオンはそう言えたのでしょうか。そうとは言えないでしょう。人間はいくつになっても、死ぬのはイヤなのです。シメオンが、こう言い切れたのは、自分の死さえも飲み込んでしまう、命の充満、新しい命の到来を見たからです。異邦人を照らす啓示の光、万民の為の救いを見たからです。シメオンは、主イエスの存在に、この万民の救い、異邦人さえも救わないではおかれない神様のご意志を見た。その啓示の光に照らし出されたのです。
 このヌンク・ディシトゥスという歌は、教会の歴史では、一日の終わりの祈り、晩祷の時に毎日、歌われてきたのです。私は二ヶ月ほどの間、修道院で修道僧達といっしょに生活させていただいた時があるのですが、この時も、晩祷の時、毎回この歌を歌いました。一日が終わり床につく。明日の朝、目を覚まさないかもしれない。しかし、それでも自分は満足だ。主イエスの救いを見たから。中世の修道院の平均寿命は40才に満たなかったと言われています。そこで、この歌が毎日歌われていた。私共が死の力に対抗し、その悲しみ、嘆きを乗り超えていく道は、このシメオンと同じ所に立つしかないのではないでしょうか。そして、事実、私共は同じ所に立てる者として、同じ所に人々を招く者として、召されているのでしょう。宗教改革者カルヴァンは、この歌を聖餐式の後で歌うように定めたことがありました。なる程と思います。私共が聖餐に与るというのは、そういうことなのであります。私共は聖餐に与るたびごとに、シメオンになり、アンナになるのであります。
 ただ今から、聖餐に与ります。肉体の死を超えた主イエス・キリストの命の祝福に、共に与りたいと思います。

[2005年1月2日]

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