富山鹿島町教会

礼拝説教

「力に満ちた権威ある言葉」
申命記 18章15〜22節
ルカによる福音書 4章31〜37節

小堀 康彦牧師

 主イエスは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムで安息日に人々に教えを語られました。すると人々は、主イエスの語られる言葉に、その教えに大変驚いたと聖書は記しております。どうして驚いたのかと申しますと、その言葉には権威があったからです。主イエスの言葉には権威があったのです。同じ記事を記しておりますマルコによる福音書1章22節を見てみますと、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。当時、安息日に会堂で人々に教えるのは律法学者達が多かったのですけれど、この人達の教え方というのは、律法学者とは良く訳したと思いますが、まさに学者のそれだったのです。つまり、聖書を読んで、この聖書の個所はこういう意味である。何故なら、昔の誰々はこう言っている。又、他の誰々はこう解釈している。そういう説明を行っていたのです。ところが、主イエスの語り方はそうではなかった。昔の偉い律法学者の名前を出して、それらの人々の権威を借りて、教えを述べるというようなものではなかった。自らが権威ある者として、聖書にこのように記されているのは、こういう意味である。そうお語りになったのでしょう。それはちょうど、前回見ました様に、今日のカファルナウムでの出来事の前に記されておりますナザレの町の会堂において、イザヤ書を読んで、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」とお語りになった様な語り方であったに違いありません。それは、聖書に告げられている言葉が聖霊なる神様の導きの中で与えられているものならば、その同じ聖霊を持つ者だけが語り得る権威が主イエスの言葉にはあったということなのでありましょう。
 ここで少し、権威ある言葉ということについて考えてみたいと思います。主イエスの言葉に権威があったというのは、主イエスは神の子でありますから、当然のことであると思います。しかし、私共は、この様なものではない偽りの権威、ニセ物の権威ある言葉というものもあるということをも知っておかなければならないと思うのです。それは、自らが神でも、神の使いでもないのに、そのように語る「権威ある言葉」です。世間にはそのような言葉もあるのであって、私共はきちんとそれを見分けることが出来なければならないのだと思うのです。具体的に考えてみましょう。先日、地下鉄サリン事件から十年ということで、様々なメディアがこれを取り上げておりました。あの事件を起こした宗教団体、これを信じているいる人たちには、この教祖の言葉は、まさに神の言葉のように権威ある言葉であって、誰もこれに逆らうことは出来なかったのです。ですから普通では考えられない、あの様な悲惨な事件を起こしてしまった訳です。私は、狂気だけが持つ力というものがあるのではないかと思っているのです。これは聖霊なる神の権威ではなく、デモーニッシュな権威、悪魔的な権威と言って良いものだと思います。もっと言えば、権威というものは、しばしば悪魔化してしまうと言っても良いのではないかと私は思います。自分の持つ力と権威によって人々の上に立つ時、それは自らが小さな神になることを意味するのではないかと思うのです。それは宗教家に限りません。政治家も軍人も企業家も、自らの権威ある言葉をもって人を支配し、人を動かし、人々の上に君臨する時、悪魔化してくるのだと思います。聖霊ではなく悪霊の器となってしまう。そういうことがあるのだと思うのです。ここで、ヒットラーの演説によって心を動かされた人々のことを思い起こしても良いだろうと思います。私は以前、教会員のお子さんが新興宗教に入ってしまって、そのお子さんから「これを聞けば判る。」と言って、その宗教の教祖の話が入ったテープを渡され、これを聞いたことがありました。これは本当に力のある、説得力のあるものでした。語られている内容ではありません。その話し方に力があったのです。そして、私はその時に、狂気、狂った人だけが持つ力というものがあるものだと思いました。その話はまことに雄弁でした。その教祖は、自分が本当に神の化身と信じているのです。だから力がある、説得力があったのです。しかし、それは狂気の力、悪魔的な力とも呼ぶべきものであったと思います。

 しかし、その様な悪しき力、狂気と結びついた権威ある言葉と、主イエスの言葉とを一緒にすることは出来ません。では何が違うのか。二つあると思います。
 一つは、主イエスの言葉によって、悪霊が騒ぎ出したということです。33節を見ると、「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。」とあります。悪霊は、主イエスの言葉によって、主イエスが誰であるかを知ります。そして、自分と係わらないでくれと言い出したのです。主イエスの言葉は、悪霊が騒ぎ出す様な反応を生み出した。これは、とても大切な点です。悪魔的な力を持つ雄弁、デモーニッシュな権威は、決して悪や罪と戦わせ、悔い改めを求めるということはないからです。主イエスの権威は、何よりも悪霊、あるいは罪というものに対して、そのままに放っておくということをさせないものなのです。
 私共はここで、コリントの信徒への手紙一14章にあります、パウロが教会の礼拝というものについて語っている所を思い起こすことが出来るでしょう。こうあります。24~25節「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」ここで言う預言とは、現在の礼拝の説教と考えて良いと思います。人々が説教しているのを聞いたら、信者ではない人も、教会に来て間もない人も、自らの罪を指摘され、神を礼拝するようになると言うのです。私共の礼拝はそういうものでなければならないのでしょう。キリストの教会に、神の霊が働いているとするならば、それは何よりも、そこにおいて罪が明らかに示され、悔い改めるということが起きるということなのであります。
 牧師は主イエスのような権威ある者として語ることは出来ません。牧師は神の子ではないからです。しかし、かと言って律法学者のように語る訳でもない。主イエス・キリストの霊、聖霊の器として語る。罪を示し、悔い改めが起き、まことの神を拝むということが起きる。ただそのことだけを願って、祈って準備をするのです。説教は、聖書の説明ではないのです。説明をするだけなら、注解書を読めば誰にでも出来ます。それは、説教ではなく、講義でしょう。私は、現在日本基督教団の教師検定委員をしています。毎年、百人以上の牧師になろうという人たちの説教を読みます。そこでいつも思わされことは、このことなのです。皆さん試験ということで、正しいことを言わなければならないと思って原稿を書くからなのでしょうけれど、どれもこれも正しいのです。一生懸命、聖書の説明をしているのです。そこで、「この聖書という命の言葉によって心動かされた『あなた』は何処にいるのですか。」と問わざる得ない。聖霊の器として語る。このことを抜きにして説教は成り立たないのです。
 牧師は、「今日は、良い説教をありがとうございました。」という言葉を受けることがあります。こういう言葉を聞く時の牧師の心は少々複雑です。「今日は良い」ということは、先週は良くなかったのだろうか、とか。「良い説教」とはどういう説教を指しているのだろうか。まさか気持ちが良いということではないだろう、とか。色々考えてしまいます。それは、牧師は、「良い説教」というのは、まことの悔い改めが起きる説教だと考えているのですが、はたしてそういう意味で良い説教と言っているのだろうか。そう思ってしまうからなのです。神の言葉の権威とは、神の恵みを知らせ、それによって神に逆らっていた自らの罪を示し、悔い改めて新しく神の子、神の僕として生きる者を誕生させる、そういう権威なのです。どうして、聖書は権威ある書なのか。それは、このような出来事が聖書の言葉によって、二千年の間起き続けてきたからに他ならないのであります。

 さて、第二の点でありますが、それは主イエスの言葉にはそれが出来事となる力があったということなのです。それは単に人の感情に訴えるような力ではなく、実際に出来事となったということなのです。35節「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」とあります。主イエスが、悪霊に対して、「黙れ、この人から出て行け」と言うと、その通りになったということであります。主イエスの言葉の権威は、この実際の力というものと結びついたものであったということなのであります。この出来事を起こす言葉とは、創世記の1章において、神様が天地を創られた時に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」と記されている。あの言葉と同じ様に、言葉がそのまま出来事となる、そういう力ある言葉であったということなのであります。更にこの言葉は、先程お読みいたしました、申命記18章22節「その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。」とありますように、神の言葉を託された預言者の言葉の系譜にあるものであったとも言って良いと思います。主イエスは、まことの教師・預言者であったということでもあります。また20節には「ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」とありますように、語ったことが起きないような預言をする者は、死なねばならない、つまり殺されなければならないということなのでありますから、これは大変なことです。ここで、主イエスが、悪霊に対して「黙れ」と言っても黙らず、「この人から出て行け」と言っても出て行かなかったのならば、これはニセ預言者ということになってしまうのです。

 最後に、悪霊ということについても、少し考えておきましょう。私共が福音書を読んでいて、少しとまどってしまうのは、この悪霊とか、悪魔とかいう言葉に出くわす時ではないかと思います。私共現代人は、こういう言葉に出会いますと、これは古代の迷信に満ちた社会での言葉だと思ってしまう所があります。しかし、そうではないと私は思います。もちろん、テレビなどでやっている、霊能力者という人が出てきて話すことを、私は相手にしません。それは、それを語っている人自身が、悪霊に使われている者だと思っているからです。彼らは聖霊を知らないからです。主イエスの戦いは、まさにこの悪しき霊との戦いでありました。悪しき霊の支配の中にあった私共人間を、神様の支配の中に連れ戻す為の戦いをなされたのです。悪しき霊は、様々な手段を用い、人間の罪を増幅させ、私共を神様から離れさせていくのです。ですから、悪霊は、何もこの個所に出てくるように、個人に付いているとは限らないのです。文化や社会の中に、悪霊の業とは思えないようなあり方で、隠れつつ、潜みつつ力を発揮していることが少なくないのです。これはいくつか、具体的に考えれば、すぐに判ることです。例えば、売春というものがあります。日本は戦後、売春防止法というものを定めました。その為に力があったのが、矯風会というキリスト者婦人の会であったことを知っている人は多いでしょう。売春という行為、又これを正当なものと考える文化、この中に悪霊が働いていると、聖霊に導かれたキリスト者の婦人達は見抜き、これを廃止する為に戦ったのです。私は、これと同じ様に、うなぎのぼりに増えている離婚という出来事の中にも、あるいは、薬物依存が若者にさえも広がっている現実、又「イジメ」の問題、そういう所にも悪霊は働いていると考えています。そして、更に最大の悪霊の業は戦争だと思います。誰も戦争が良いなどと考える人はいません。しかし、なくならない。戦争には、いろいろ理由が付きます。しかし、本当にそれを正当化出来る理由などあるのだろうかと思います。悪霊は今も、私共の上に暗い陰を広げているのです。

 しかし、私共は知っています。悪魔も悪霊も、主イエスに勝利することは出来なかった。主イエスが、悪霊に対して、「黙れ、この人から出て行け」と言えば、悪霊は出て行くしかないのであります。私共は聞かなければなりません。この主イエス・キリストの権威ある、力ある言葉を。今朝、この言葉は私共に向けて語られたのです。そうである以上、私共から悪霊は駆逐されたのです。この神の言葉によってしか、私共自身も、この世界も変えられていくことはありません。
 私共は今から、聖餐に与ります。主イエス・キリストは聖霊として、ここに臨んでおられます。このキリストの命に与る者は、キリストの権威と力のある言葉によって新しくされた者です。そして、この神の言葉によって新しくされた者は、この言葉をたずさえ、この言葉を語り伝える者とされているのです。その為に、私共には聖霊が注がれているのです。その恵みと、使命とを思い、共に祈りを合わせたいと思います。

[2005年4月3日]

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