富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の新しさに生きる」
エゼキエル書 18章21〜32節
ルカによる福音書 5章33〜39節

小堀 康彦牧師

 主なる神様は、預言者エゼキエルを通して「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。」と告げられました。又「新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」と告げられました。神様は、たとえ罪人であっても、それが滅びることを喜ばない。悔い改めるならそれを赦し、生きるようにする。だから、悔い改めて、新しい心、新しい霊に生きよ。わたしに立ち帰れ。そう呼びかけられました。この神様の御心を、具体的な一人の人間として完全に現されたのが、主イエス・キリストであります。主イエスは、罪人として蔑まれ、疎外されていた徴税人のレビ、後に使徒となったマタイに目をとめられ、彼を弟子として召し出したのです。彼は喜びました。主イエスの弟子として新しく神の子、神の僕として生きる者となったのです。彼は喜び、主イエスを招き、友人達を招き、盛大な宴会を催したのです。
 ところが、これを見ていておもしろくないと思った人々がいました。「徴税人レビは悔い改めたのではなかったのか。だったら、どうして宴会をしているのだ。断食こそが、悔い改めにはふさわしいのではないか。宴会はおかしいだろう。」そう思ったのです。そして主イエスに言いました。33節です。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」この言葉を文字通りに取れば、彼らは主イエスのことを責めているわけではない。弟子達が断食しないことを取り上げている。しかし、彼らの矛先が主イエスご自身であることは明らかでしょう。「ヨハネもファリサイ派の人々もしているのに、どうしてあなたは断食をしないのか。」そう、主イエスに言いたいのでしょう。これを言った人々の気分は良く判るのです。「本当に自分の罪を知り、それを悔いたのなら、とても宴会をする楽しい気分ではないだろう。断食することの方がふさわしいのではないかと思う。それが自然ではないのか。」これは、もっともなことのように思えるのですが、しかしここには「反省」と「悔い改め」の混同があるのではないでしょうか。反省と悔い改めが同じならば、なる程そういうことになるでしょう。反省するということは、自分の犯した罪、自分の生き方、それが本当に嫌になり新しくなりたいと思うことでしょう。悔い改めは、これに大変良く似ているのですけれど、決定的に違うのは、悔い改めというものは、反省のように自分を見つめて、自分を嫌になるということだけではなくて、神様の御前に立つのです。神様の御前で徹底的に自らのあり様を明らかにされる。あれをしたから悪いとか、しない方が良かったとか、そんなことだけでなくて、もっと根本的に、自分は神様に反逆して生きていた。神と人と自分に対して間違っていた。そのことを知らされる。しかし、その時、悔い改める者は、神様の赦しという光の中に招かれている。その光の中で、悔い改めということが起きるということなのです。ですから、確かに反省ということならば断食がふさわしいのかもしれません。しかし、悔い改めという事柄には神様によって新しく生まれ変わる、新生の喜びというものが伴っているのであり、それ故レビは宴会をしないではいられなかったのでしょう。この新生の喜びに生きるということこそ、まことにキリスト者にふさわしい、キリストの教会にふさわしいあり方だ、そう主イエスはお考えになったのだと思うのです。ですから、宴会を催したレビをとがめることなく、それどころかその招きに与ったのであります。
 このことは、私共が催すクリスマスやイースターの祝い会にも通じることだと思います。クリスマスやイースターの最大の喜びは、受洗者が与えられることでしょう。クリスマスやイースターの祝い会でのメイン・ゲストは新しく洗礼を受けた人達です。私が洗礼を受けた教会でも、私の前任地であった教会でも、クリスマスやイースターの祝い会には、ヒナ壇が作られます。この講壇の上に、イスとテーブルが上げられ、その日洗礼を受けた人が座るのです。私はよく「このような所に座るのは、結婚式と洗礼式の時しかありませんよ」と言っておりました。まさに、洗礼式は結婚式と同じ様な喜びに満ちた時であります。いや、それ以上かもしれません。洗礼の時、その喜びは、この会堂いっぱいに広がるだけでなく、天上においても大いなる喜びが満ちるからです。しかし、洗礼式というのは、まさに悔い改めの式に他ならない訳でしょう。、でも、洗礼式の時に暗い顔をしている人は誰もいないのです。本人も、その洗礼の証人として立ち会っている私共も、皆、喜びに包まれています。新生の喜びに包まれるのです。悔い改めというのは、そういうことなのでしょう。キリストと共に生きる新しい人間の誕生だからであります。人は、反省するだけでは新しくなれないのです。圧倒的な神の恵みの御業の中でしか新しくなれない。徴税人レビは、この時、主イエスの招きの中で、その圧倒的な神の恵みの御業、救いの御業に与ってしまったのであります。だから、喜ぶしかなかったのです。
 もちろん、ここで主イエスは断食というものを完全に否定された訳ではありません。その後のキリストの教会の歴史においても、断食はされましたし、受難週の断食の習慣は、今でも少し残っていると思います。断食が無意味だというのではない。しかし、「私と出会って救いの恵みに与った。この時がそれにふさわしいのか。この恵みに生きるのに、断食がふさわしいのか。」そう主イエスは言われたのでしょう。人々が主イエスの行動をあやしんだ理由は、主イエスがもたらす新しさ、罪の赦しの新しさ、神様の御業による新しさというものが良く判らなかったからなのではないのかと思うのです。

 教会の歩みというものは、いつもこの主イエスによって与えられた罪の赦しによる新生という新しさの中に生きているものなのです。主イエスは、ここで三つのたとえを話されました。「だれも新しい布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。」又、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない。」「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。」ここで主イエスが言われたことは、要するに主イエスがもたらした罪の赦しという福音を盛るには、新しい器、新しい信仰のあり方というものが必要なのだということでありましょう。自分の良き業をもって、神様の前に立とうとする信仰ならば、断食がふさわしいかもしれない。しかし、私が与えるものはそのようなものではない。何もない罪人が、ただ神様のあわれみによって罪赦され、命へと招かれることなのだ。どうして、この恵みに与る喜びの中で断食などしていられようか。私が与える罪の赦しによる永遠の命という恵みに応えるには、喜び。喜ぶしかないではないか。そういうことなのでしょう。
 人は古いものは良いものだと思う。特に信仰の世界、宗教という世界においてはそうであります。しかし、古いから良いとは限らない。かといって、勿論新しいから良いというものでもない。ここには伝統の連続と非連続、伝統の継承と革新という大きな問題があるのでしょう。キリストの教会は、何を継承し、何を革新してきたのか。又、これからしていくのかという極めて重大な問題が、ここにはあるのです。
 このルカによる福音書が記された時、生まれたばかりのキリストの教会において、この問題が重大な問題となっていたのです。ユダヤ人キリスト者と言われる人々は、救われる為には割礼に代表されるような律法を今まで通り守ることが必須の条件であると考えた。一方、パウロに代表される人々は、割礼や何を食べるかといった問題は救いとは関係ないと主張した。この辺のことは、パウロの手紙を読みますと分かります。では、キリストの教会はこの問題を、どの様にして乗り越えていったのか。それは、「キリストの新しさに徹底して生きる」ということにおいて乗り超えていったのであります。それは、具体的に言えば、洗礼と聖餐という、キリストの命に与るということこそ自分達が継承していかねばならないことであるというこの所において、一致していったということなのであります。新しい革袋としてのキリストの教会は、洗礼と聖餐によって、罪の赦しによるキリストの命という新しいぶどう酒を入れる器を整えていったということなのであります。これにより、礼拝は安息日としての土曜日から、主の日の日曜日へと変わっていったのであります。これは、大転換でありました。
 そして、私共はこのような大転換が起きた時として宗教改革の時期を考えて良いだろうと思います。この時に、新しい革袋としての教会改革がなされたのであります。神の言葉としての説教を、キリストの命を伝承する新しい革袋として刷新したのです。この改革は、新しい讃美歌の登場もうながしました。ドイツではコラールが生まれ、ジュネーブでは詩編歌が生まれました。又、少し後のウェスレーによるアメリカでの信仰復興の時には、リバイバル聖歌と呼ばれるものも生まれました。宗教改革は、まさに礼拝改革だったのです。そしてそれは、教会堂の形をも変えていきました。キリストの教会は、まことに伝えるべきキリストの命の新しさに押し出されて、いつでも新しい革袋を整えてきたのであります。私共は、改革派教会の伝統にある訳ですが、この改革派というのは、「絶えず御言葉によって改革され続ける教会」という意味でありますが、この「改革され続ける」ということは、新しい革袋を整え続けていくということを示しているのでしょう。しかし、それは御言葉によってですから、時代の流れなどというものによっては変わらないのです。

 私共は守るべき伝統と、変えても良い習慣をちゃんと区別する目を持たなければならないでしょう。私共が受け継ぎ、そして伝えていくべきは、キリストの命であります。そして、このキリストの命には、ふさわしい革袋がいつも求められるのであります。この革袋は、新しければ良いというものではない。穴があいた革袋は、どんなに新しくても役に立たないのです。しかし、古ければ良いというものではないのです。この新しい革袋として、キリストの教会は聖書正典、信仰告白、洗礼・聖餐を含めた教会の制度としての職制を整えていったのです。
 実は20世紀の世界の教会は、こぞって礼拝改革を行いました。アメリカの改革派教会、長老教会、メソジスト教会、そしてスコットランドの教会も、礼拝式文の大改訂を行いました。その礼拝改革の中心にあるのは、聖餐によって伝えられているキリストの命こそ、礼拝の中心であるという理解でした。私共の教会は、まだそのような礼拝改革をしてはいません。明治に日本にキリスト教が伝わって来たその当時の礼拝の仕方とほとんど変わっていません。しかし、その動きと方向性について、私共は、理解していかねばならないでしょう。古ければ良いのではないのです。しかし、新しければよいというのでもない。この礼拝改革の根本にあるのは、古代からの礼拝の歩みを丁寧に調べ、そして明らかにされたこと、キリストの教会の礼拝の中心としてのキリストの現臨とキリストの命、それを再び中央に据えるということから始まったということは知っておいて良いでしょう。本当の新しさは、いつでもキリストの新しさなのです。そのキリストの命の新しさに押し出されて、キリストの教会は新しくされていく。教会の外の時代の要請の中で新しくなっていくのではないのです。キリストの命の充満、そこからしか教会の新しさは生まれてこないのです。

 私共は、今年度「若者は幻を見、老人は夢を見る。」という御言葉に導かれ、歩み始めました。6月19日の礼拝の後で、「夢を語る会パートT」を開きます。そこでどのようなことが語られるのか、私自身大変楽しみにしています。これに先立ちまして、婦人会の親睦会では、互いに夢を語り、夢を聞くということが為されました。とても楽しい時でした。その語られた夢が、すぐに実現するとは限らないかもしれません。しかし、神様によって与えられた夢は必ず実現すると信じて良いのですし、そこに向かって、私共は少しずつでも変えられ続けなければならないのでしょう。
 キリストの命の新しさ、それは私共を突き動かし、新しい教会の歩みを創り出していくのです。私自身は大変保守的な人間ですけれど、そのようなことは大した問題ではないのです。キリストの命に真実に与り、キリストの新しさの喜びの中に生きるなら、私共は動き出さざるを得なくなるからです。どうしたら、この恵みを一人でも多くの人に伝えていくことが出来るのか。この恵みを証しする事が出来るのか。そこに、私共の語る夢も集中していくことになるのだろうと思います。新しい革袋を整える業は、喜びの業なのです。この喜びに溢れるとき、その楽しさは教会から溢れ出て、周りに伝わり、周りを巻き込んで行くのです。
 私共はただ今から聖餐に与ります。この聖餐に盛られているキリストの命こそ、私共を新しい歩みへと導かずにはおかない力の源なのです。まことに悔い改め、その恵みに喜び、感謝をもってこれに与りたいと思います。

[2005年6月5日]

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