富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ、一言あれば」
詩編 147編1〜20節
ルカによる福音書 7章1〜10節

小堀 康彦牧師

 以前、教団議長をやり、東神大理事長もなされた教師の最後の説教、引退される時の送別説教を聞いたことがあります。それは、少しも自らを誇ることなく、淡々と、「ふつつかな僕です、なすべきことをしたに過ぎません。」と語るものでした。それは大変私の心に浸みわたるものでした。神学生であった私は、将来、自分もこのように語って牧師としての歩みを閉じることが出来ればと思いました。「ふつつかな僕です。なすべきことをしたに過ぎません。」本当にそうだと思います。
 私共はしばしば自らの力を誇り、業を誇り、業績を誇ります。しかし、それは神様の御前においては、何の意味もないのです。私共は、ただ神様の憐れみを受けるしかないからです。詩編の詩人は、今お読みいたしました147編10〜11節で「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」と歌いました。主は、私共の力や能力を求めるのではなく、主を畏れ、主の慈しみを待ち望むこと、それだけを求めておられるのです。私共の力も能力も、神様が私共に与えられたものです。何も誇ることは出来ません。神様が私共に求められるのは、ただ主をまことに畏れうやまい、主の慈しみ、主の憐れみを求める信仰なのです。神様は、私共にただ信仰だけをお求めになられるのです。ですから、自らの力や自らの業を誇る、一切の傲慢は打ち砕かれなければなりません。
 私は、何度も「熱心な信仰者にならなくて良いのです。」と語ってきました。私共は熱心な信仰者であろうとしますが、この熱心というのがなかなかの曲者だからです。熱心は知らず知らずの内に、自らの業を誇り始めるからです。私共は熱心というよりも、淡々と、神様の御前になすべきことを、忠実に、誠実になしていく者であれば良いのであります。信仰というものは、一生のものだからです。熱心というのは、疲れるのです。無理をするからです。だからなかなか10年とは続かないでしょう。それでは困るのです。そして、熱心な信仰は、しばしば「あの人はどうの」「この人はどうの」と、人を裁くのです。知らず知らずの内に、自らの業を誇り、それを頼りとしてしまうからでしょう。熱心は、律法主義的信仰へとつながっていく所があるのだろうと思います。
 主イエスの時代、イスラエルの人々の信仰のあり方は、ファリサイ人達に代表される律法主義でした。自らの良き業によって、神様の救いに与ろうとするものでした。主イエスは、この信仰の根本的誤りを、様々な所で指摘されました。今日与えられております、ルカによる福音書7章1節以下の百人隊長の話も、そのような文脈の中で理解することが出来ると思います。ここには律法主義、あるいはファリサイ派という言葉は直接には出てきていませんが、暗にそのことが示されています。それは9節の主イエスの言葉です。9節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」ここで主イエスは、この百人隊長、彼は明らかに異邦人です。ユダヤ人ではありません。当時のユダヤ教の常識から言えば、神様の救いに与ることは出来ない人です。この異邦人である百人隊長の中に、主イエスは「イスラエル」の中でさえ見たことのない信仰、まことの信仰、本物の信仰を見たと言われたのです。ここには、イスラエルの人々の信仰のあり方に対しての批判が明らかにあるのだと思います。では一体、この百人隊長の信仰の何が、主イエスをして、このように言わしめたのでしょうか。それを見ていきましょう。

 この百人隊長は、自分の部下が病気で死にかかったので、主イエスに助けを求めたのです。ここで「部下」と訳されている言葉は、僕、奴隷を意味する言葉です。口語訳では僕と訳されておりました。その方が良いと思います。当時奴隷は、家の家具と同じ様に売買の対象であって、奴隷が死にそうになったとしても、主人自らが何とかしようと動くことは、稀なことであったと考えられています。この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人の会堂を建てたりと、大変、慈しみの心にあふれた人であったように思われます。あるいは、彼はまだ割礼は受けていなかったにせよ、ユダヤ教の信奉者であり、いわゆる現代の私共の言い方をすれば、求道者というような関わりをしていた人なのかもしれません。求道者の信仰が、教会員の信仰に比べられて、主イエスに賞讃されている。そう考えても良いでしょう。そういうことは、起こり得るのではないでしょうか。週報にありますように、私共の教会では、毎週、何人もの方々と洗礼の準備会をしています。今年のクリスマスにも、何人かの方が洗礼を受けます。その学びの中で、いつも思うのは、一人一人の神様に対しての「新鮮な畏れ」とでも言うべき信仰のありようです。慣れていない。それは信仰において、とても大切なことなのではないでしょうか。信仰とは神様の御前に立つということであり、これは決して慣れてはならないことであり、本来、慣れるなどということが起こりえないことだからであります。
 この人の主イエスに対しての接し方、僕のいやしを願う、そのあり方が、実に特徴的なのです。彼は、主イエスのもとに直接来て、僕のいやしを願ったのではありませんでした。ユダヤ人の長老達に仲介に入ってもらうのです。そして、その長老達の仲介よろしく、主イエスがこの百人隊長の家の近くにまで来ると、更に友人を使いに出して、「ご足労にはおよびません。」そう言うのです。何故、彼はこのように人を間に立てるような面倒なことをしたのでしょうか。それは、6.7節の彼の言葉に表れています。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのもふさわしくないと思いました。」そう彼は言います。つまり、彼は主イエスをまことに聖なる方、神の人として、畏れうやまうが故に、自分のような異邦人が直接主イエスにお会いして、お願いすることを憚ったということなのであります。彼の仲介に立ったユダヤ人の長老達は、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言います。つまり、ユダヤ人の長老達は、この百人隊長の良き業を見て、主イエスの憐れみ、神の憐れみを受けるにふさわしいと考えている。ところが、当の本人は、少しもそんなことを考えていないのです。自分は、主イエスのもとに自分の方から伺うことさえふさわしくない。自分は主イエスの憐れみを受けるに値しない者である。そう考えていたのです。自分はユダヤ人の会堂も建ててやったのだし、神の憐れみを受けても当然であるなどとは、少しも考えていないのです。この背景には、自分は異邦人であり、それ故神様の憐れみ、神様の救いを受ける者ではない、ふさわしい者ではないという当時の救いの理解があったのは確かでしょう。しかし、このあり様こそ、詩人が歌った、「主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」ということなのであります。自らの中に、何ら誇るものを持たず、自分が救われるのは当然であるなどとは少しも思わず、ただ、神の憐れみ、慈しみを願い求める者であります。当時のイスラエルの人々は、自分はアブラハムの子孫であり、律法を守っており、神の憐れみを受けるのが当然であると思っている所があったのです。しかし、この人には、そのような神様の御前における高ぶりがないのです。「新鮮な畏れ」です。これこそ、主イエスが「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。」と言われた第一の点なのです。
 どうでしょうか。私共の中に、自分は洗礼を受けている、礼拝を守っている、献金もしている、だから自分は神様の憐れみを受けるにふさわしい、そう知らず知らずの内に思っている所はないでしょうか。それは私にとっても、人ごとではありません。自分は牧師として生きている。だから、自分は神様の憐れみを受けるにふさわしい。そんな風に思ってしまう所がない訳ではないのです。しかし、私共は本来異邦人なのです。生まれつき、神様を知らず、それ故に神様に敵対して生きてきた者なのです。この異邦人の百人隊長がただ主の憐れみを、まことにそれを受けるにふさわしくない者であるにもかかわらず受けた。それと同じなのであります。私共の救いは、どこまでも「ただ恵みとして」であります。

 今年の教会学校の夏期学校では、夜に高学年と中学科の子供達だけを集めて、晩祷、夜の祈りの時を持ちました。一人一人、一言ずつ祈るということをしたのです。人前で祈るのは初めてという子もいました。祈れないという子がいたらどうしようかという不安もありました。しかし、皆、自分の言葉で祈ることが出来ました。とても、私の心に残る時となりました。その中で、「神様、あなたを父と呼べることを感謝します。」と祈った子がいました。私は、この祈りを聞きながら、この子にこの祈りを与えて下さった神様に感謝をしました。私共は、どこか神様を父と呼ぶことが当然であるかのように思っている所がある。しかし、私共が天地を創られた神様を父と呼べること、それこそ、主イエスの十字架によって与えられた恵みに他なりません。父よと呼び得ない者が、父よと呼ばせていただいている。ここに、神様の恵みがあり、神様の憐れみがあるのでありましょう。神様の恵みを当然のこととしてはならないのです。

 さて、第二の点でありますが、この百人隊長は、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と言うのです。主イエスに、わざわざ来ていただくにはおよびません。主イエスよ、あなたが一言おっしゃって下されば、その一言によって私の僕はいやされるでしょう。あなたの言葉は神の言葉であり、それ故、その言葉によって全ては為されるはずであります。そのような、主イエスへの信頼、主イエスの言葉の力に対しての信頼を言い表したのです。
 先程の詩編147編15〜17節に「主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。羊の毛のような雪を降らせ、灰のような霜をまき散らし、氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。」とあります。ここには、神様の言葉によって、霜や氷も溶けて水となるというように、神様の御言葉による支配ということが歌われております。ここで、天地創造の時の、神は「光あれ」と言われた。こうして光があったという所を思い起こすことも出来るでしょう。
 この百人隊長は、主イエスの言葉を、神様がそれをもって世界を創り御支配されている神の言葉と同じものとして受け取ったのです。この主イエスの言葉の力に対しての信頼。それは、主イエスをまことの神として受け入れ、信頼している信仰の告白と言っても良いでしょう。当時、主イエスを見ていたユダヤ人の多くは、主イエスを不思議な力を持った行者、預言者の類として見ていたのでしょう。そういう中にあって、この百人隊長の主イエスへの信頼は、まことに目を見張るものがあったということなのです。
 主イエスの言葉、御言葉の力に対しての信頼です。私共は日曜の礼拝に何を求めて集っているのか。生ける神の言葉であります。それ以外ではないでしょう。説教を聞き、神の言葉を受ける。そこで私共は、ここで自分に語られた言葉は出来事になる。空しく消えていくことはない。そういう信仰を持って受け取ることが求められているということなのであります。
 礼拝の最後に、私共は共に神様の祝福を受けて、この場から散じてまいります。それぞれ、神様に遣わされた六日間の旅路へと向かう訳です。その旅路において、私共は様々な出来事に出会うでしょうけれど、神様の祝福を受けた者として、それらの一つ一つの出来事に出会っていくのであります。神様の守り、支え、導きが、自分を取り囲み、悪しき一切の力は私共に指一本触れることは出来ないのであります。私共は、そういう神の言葉への信頼を持って、この礼拝に集っているのでありましょう。

 主イエスが、この異邦人の百人隊長の中に見た信仰とは、まことの謙遜とまことの信頼でありました。この謙遜と信頼こそ、神様が私共に求めておられることに他ならないのであります。
 この百人隊長は異邦人でした。当時のユダヤ教の枠の中では救われない人々でした。しかし、主イエスはこの百人隊長の信仰を賞めました。そして、その僕をいやされました。この百人隊長は、その後、パウロを始めとする主イエスの弟子達によって展開されました異邦人伝道の先がけとなっているのであります。その意味で、この百人隊長の姿こそ、私共異邦人キリスト者の雛型と言っても良いものなのでありましょう。謙遜に、そして深い信頼をもって、主イエスとの交わりに生きてまいりたいと願うものであります。

[2005年8月14日]

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