富山鹿島町教会

礼拝説教

「新しい旅立ち」
創世記 12章1〜9節
ヘブライ人への手紙 11章8〜12節

小堀 康彦牧師

 信仰の父と呼ばれるアブラハム。これからしばらくの間、アブラハムの歩みをたどりながら、私共の信仰のあり様を整えられてまいりたいと願っております。
 今朝与えられております創世記12章からアブラハムの物語、アブラハム・ストーリーが始まるのですけれど、その直前の11章27節以下の所に、大変興味深い記述があります。アブラハム、この時はまだアブラムですが、彼の父はテラ、兄弟にはナホルとハランがいた。彼らは、もともとカルデアのウルに住んでいたというのです。このウルという町は、古代メソポタミア文明の中心地です。現在、発掘もされ、中学生の地図にも載っています。チグリス川とユーフラテス川が合流する所の近く、現在はイラク領になっている所にあった町です。このウル、当時の世界最大の文明都市と言って良いでしょう、そこを出発して、ユーフラテス川を700km程北上して、ハランという町に住んでいたのです。そして、アブラムの妻サライは不妊の女、子どもが産めない体であったというのです。アブラムとその妻サライの家系は、これで終わる。そういうことになるはずだったのです。アブラムはすでに75才、妻のサライは65才でした。しかし、突然、アブラムに神様の言葉が臨んだのです。12章1節「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」いったい、これはどういうことなのでしょうか。4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」とあります。神様が「わたしの示す地に行きなさい。」と告げ、アブラムは、その言葉に従って旅立った。ここに「信仰の父アブラハム」が誕生したのです。その後、私共に至るまで綿々と続く「神の民」の歴史が、ここに始まったのです。「神の民」とは、実に神様からの「わたしの示す地に行きなさい。」との言葉を受け、それに従って旅立つ者としてあり続けてきた者達のことなのです。この地上における富や財産よりも、神様の言葉に従うことを、何よりも大切にする民、それが神の民です。アブラハムは、その神の民のあり様を、神の言葉に従って旅立つことによって、あざやかに示したのです。このことを、ヘブライ人への手紙はこのように記しました。11章8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムは、この時具体的な行き先を知りませんでした。神様が示す地というのが、今自分が住んでいる所よりも豊かな土地なのか、住みやすい土地なのか、何も知りませんでした。しかし、彼は旅立ったのです。ただ、神様が「行きなさい。」と言われたからです。
 私の知っている牧師の一人に、十年で任地を移ると決めていて、転任した教会での最初の説教は必ず、この創世記12章でやることにしていたという方がおりました。彼は、自分の人生をアブラハムのそれと重ね合わせていたのでしょう。ちなみに、その方の一人息子の名前は基(もとい)でした。別に牧師でなくても、私共は、人生の中で必ず生きる場所を変えなければならないことがあります。生まれた家を生涯離れることなく、そこに住み続けるという人は、ほとんどいないでしょう。私も、栃木県に生まれ、東京、横浜、埼玉、東京、舞鶴、そして富山に来ました。それぞれ転居する時には、大学に行く為とか、就職の為とか、自分の社会的状況の変化があり、それにともなう転居であった訳ですが、しかし今振り返ってみますと、そこには神様のご計画、導きというものがあったということを思わざるを得ないのです。それは、あの土地でこんな良いことがあった、あんな素敵なことがあったからというのではないのです。もちろん、そういうこともありますけれど、それだけではない。あそこからそこへ、そこから又あちらへと移っていく中で、自分は天に備えてある神の国への旅をしている、神の国への旅の途中であることを知らされ続けたからです。自分で求めて転居したことは、あまりありませんでしたけれど、移り住んだ所で、信仰の友が与えられ、共に祈り、共に神の国への道を歩んできたのです。ここが大切な所です。移り住んで、その土地であまり良いことがなかったという思い出を持つ人もいるかもしれません。しかし、そこを通ることによって、神の国への思いはいよいよ確かなものにされたのではないでしょうか。それこそが大切なことなのであります。神の民は、この地上においては、どこにおいても、旅人だからです。神の国への旅人なのです。

 アブラムは、神様によって「行け」と言われたから旅立ったのですが、その時神様は、ただ闇雲に「行け」と言われた訳ではないのです。神様は、この旅の涯に備えているものを約束して下さったのです。2〜3節「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」最初に申しました様に、アブラムとサライの間には子どもがおりませんでした。サライは不妊の女だったのです。ところが、神様の約束は、その事実をくつがえすものでした。神様は、「あなたを大いなる国民とする。」と約束されたのです。これは、アブラムを大きな民族、国民の祖とする、祖先とするということでしょう。その為にはアブラムとサライの間には子どもが与えられなければ、あり得ないことです。神様は、現在のアブラムとサライの状況から見れば、全く不可能としか思えないような約束をしたのです。アブラムは、この約束を信じました。この約束を信じて旅立ったのです。確かにアブラムは、具体的にどこに行くのかは知りませんでした。この旅の途中で何が起きるのかも知りませんでした。不安もあったでしょう。しかし、アブラムには、神様の約束がありました。この神様の約束、ただそれだけを信じて旅立った。ここに神の民は誕生したのです。
 私共も明日を知りません。その意味で、不安が全くないと言えば嘘になるでしょう。しかし、神様の約束があるのです。私共を守り、支え、導き、神の国へと、復活の命へと招くという、約束があるのです。この神様の約束を信じて、私共は旅立つのです。自分が慣れ親しんでいたものから離れて、新しい局面へと、一歩を踏み出していくのです。
 私共は今年は、「夢を語る」というものを行っています。先週の礼拝後もパートUが行われました。11月23日には、教会修養会として、パートVが行われます。この「夢を語る」ということの一つの目的は、私共が新しい一歩を踏み出していくということです。神様の約束、神様の祝福を信じて、新しい一歩を踏み出していくということです。
 アブラムが与えられた約束は、自分一代で何とかなる、何とかする、そんなものではありませんでした。何十、何百代後に成就する壮大な神様のご計画による約束だったのです。彼一代のことで言えば、イサクという一人の息子が与えられるということだけだったのです。もちろん、生まれるはずもない子が与えられるのですから、これも又、大変なことであるには違いありません。しかし、それは、この壮大な神様の約束と比べるならば、まことに小さなことであります。しかし、それは始めの一歩なのです。
 私共はよく、小さな信仰、大きな信仰という言い方をします。それはどういうことかと言いますと、神様を小さくする信仰、神様を大きくする信仰ということだろうと思います。神様の祝福の御業を、自分の考え、自分の生きている間、そういう制約の中で小さくとらえてしまう。それが小さな信仰ということなのでしょう。私共は、もっと大きな信仰を与えられたいと思うのです。神様の御業を、自分の理解や、自分の見通しや、自分の今置かれている状況を超えて、神様の本来の力、本来のご計画に従ってとらえ、信頼し、それに向かって一歩を踏み出していく信仰であります。この富山の地の全ての民が、主の祝福を受けていかねばならないのです。私共の家族も皆、主の祝福を受ける者なのです。

 アブラムは、「祝福の源となるように。」との言葉を与えられました。全て神様の祝福を受ける者達の基礎、ここから全ての祝福が始まる、そういう存在にあなたはなるのだと言われたのです。この言葉は、イサク、ヤコブ、そしてイスラエルの民に受け継がれてきました。そして主イエス・キリストの到来によって、まさに全世界へと広がり、私共の所へと伝えられてきたのです。このアブラハムによって伝えられた神様の祝福を今担っているのは、私共なのです。神様の祝福は伝えられ、広げられていきます。そして、地上の全ての民が神様の祝福に入る、神様の救いに与ることになるのです。このアブラハムの祝福を受け継いだ者は、皆、小さなアブラハムになるのです。私共は、最早、自分の救いという所にとどまることは出来ません。全ての民が、この神様の祝福に与ることを願い、求め、用いられることを喜びとする者とされるのです。
 先週の「夢を語る会パートU」において、ある婦人が、「自分は大きな夢を語ることは出来ないけれど、自分の友人や知人の前で、イエス様の御名によってお祈りすることが出来るようになれたらいいと思う。」と語って下さいました。本当に、そうだと思います。教会に来ていない人であっても、自分が愛し、親しくしている人が病気になる。その人の為に、その人に求められて主イエスの御名によって祈る。それは、まことにアブラハムの祝福を受け継いでいる者にふさわしい姿でありましょう。私共は、神様の祝福を担い、神様の祝福を伝え、広げる為に召し出された者達だからです。私共は祝福を告げるのです。もちろん、いやがられても祈るなどということはすべきではないでしょう。そういう場合は、家で祈っていれば良いのです。私共は、主の祝福を受け継ぎ、主の祝福を伝え、広げる為に召されている。このことの喜びと誇りとを思うのです。

 アブラムがどのような人であったのか、それ程、くわしいことは良く判りません。少なくとも、アブラムが神様の祝福の源とされて召し出された時、アブラムがこのような人であったので神様はアブラムを選んだというようなことは、一切記されていないのです。それは、私共が選ばれたのと同じことなのです。無から有を生み出される神様の救いの御業は、アブラムの人間的な能力によって実現されていくべきものではないからであります。強いてアブラムが神様に選ばれた理由として挙げるならば、彼には子どもがいなかったということだろうと思います。子どもがいない。だから、大いなる国民の祖となることは不可能。アブラムの能力・力によったのでは実現不可能なことです。この人間的に見れば不可能であるが故に、神様の働きは一層確かになり、明らかになるのです。神様によらなければ実現しないからです。実に私共もそうなのです。私共が神様の祝福を受け継ぎ、これを伝える者として選ばれた理由は、私共が有能で、信仰深く、愛に満ちた者であるからではありません。まさに、それと正反対な者であるが故に、私共を選ばれたのではないかと思います。ですから、私共は自分の力のなさを嘆くには及ばないのです。無から有を生み出される神様の力を信じていけば良いのです。アブラハムに生まれるはずのないイサクを与えられた神、主イエスを十字架の死から復活させられた神、この神の力を信じて、委ねていけば良いのです。
 私共の旅立ちは、実際に旅に出ることだけを意味しているのではありません。私共の人生の全てが、神の国への旅の途中であることを受けとめ、真実に神の国を求めつつ、全ての民を救わんとされる、神様の壮大なご計画の中に生かされていることを信じ、主の御前を歩み出すということなのです。神様を小さくしてはいけません。私共は小さい。しかし、神様は大きいからです。
 ただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共の旅がどこに向かっての旅であるのか、私共の受け継いでいる祝福が何であるかを示しています。世々の聖徒達は、皆、この聖餐に与り続けることによって、この地上の旅を神の国へと為し続けたのであります。私共もこの聖餐に与り、神の国への旅人としての心を確かなものとさせていただきたいと思います。

[2005年10月2日]

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