富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ信仰によって」
創世記 15章1〜21節
ローマの信徒への手紙 4章1〜12節

小堀 康彦牧師

 10月31日は、宗教改革記念日でありました。1517年、今から500年程前、マルチン・ルターがヴィッテンベルグの城教会に95ヶ条におよぶ提題を掲げた日であります。「95ヶ条の提題」、それは、時のローマ・カトリック教会に対して問うた、公開質問状とでも言うべきものでありました。その中心にある教理は、信仰義認です。行いや業によらず、ただ信仰によって義とされる。神様が私共の一切の罪を赦し、義と認めて下さり、滅びから救いへと私共を移して下さるのは、私共の中に良き業があるからではなく、私共が神様を信じた、ただその信仰によってではないか。この信仰義認の教理、ただ信仰によって神様に義と認めていただく。これが、私共福音主義教会、プロテスタント教会の旗印となったのであります。もちろん、これはルターが発明したものではありません。新約聖書の中で、最も教理的な文書と言われる、ローマの信徒への手紙の中心をなしている教理であります。使徒パウロは、この信仰によって義とされるという救いの筋道を、アブラハムの歩みから見出しました。今朝与えられている御言葉のローマの信徒への手紙4章1〜3節に「肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」とある通りであります。この「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた。」との言葉がどこにあるかと申しますと、これも先ほどお読みいたしました創世記15章6節にあるのです。この創世記15章6節は、創世記をスーッと読んでいますと、特に注目することもなく読み飛ばしてしまうようなまことに小さな一句であります。しかし、この一句こそが、私共に救いの筋道を明確に示す大変重要な一句となったのであります。
 ところで、この信仰によって義とされるという教理は、ローマの信徒への手紙ばかりでなく、全てのパウロの手紙に明らかに記されていることなのでありますけれど、どういうわけか16世紀の宗教改革の時代、これはほとんど忘れ去られたようになっていたのです。私共が救われるのは、信仰だけでは十分ではなく、良き行いが必要である。時のローマ・カトリック教会はそのように教えていたのです。これほど重要な、そして聖書において明らかに示されている救いの筋道が、1500年間の間にねじ曲がってしまっていたのです。これは一体どうしてなのでしょうか。それは、こういうことではないかと思います。ただ信仰によって義と認められるというのは、どうも人間の理屈に合わない。良いことをすれば義とされ、悪いことをすれば裁かれる。それが当たり前のことではないか。それを、ただ信仰によってというのでは、あまりに虫が良すぎる。そんなことでは、世の中良き業に励む者などいなくなってしまうではないか。良いことをしなさい、悪いことはやめなさい。それが世の中を導く教会の教えでなければならない。そういうことではなかったかと思います。つまり、神様の福音がこの世の常識によって曲げられたのではないかと思うのです。
 この信仰によって義とされるという教理は、実に人間の常識に逆らっています。これは、神様の恵み、憐れみを示しているのですから、人間の常識に合わない、それを超えているのは当然のことなのです。ところが、何故か人間は、この神様の恵みさえも、自分の常識の範囲内に押し込めようとするのであります。それは、中世のカトリック教会ばかりではないのです。信仰義認の旗印のもとにある私共でさえ、いつの間にかこの信仰義認という神様の恵みによる救いという教えを、自分の業によって救われようとする教えに、ねじ曲げてしまうということがあるのです。つまり、それはこういうことです。私共は信仰によって義とされる。だから私共は信仰がなければ救われない。その為には、もっと熱心に、もっと確信を持って信じなければならない。もっと聖書が判らなければ、もっと教理を学ばなければならない。そんな風に考えてしまう所があるのではないでしょうか。信仰というものを、自分の心の確信や決断、頭での理解というものだと考える。そうなると、信仰も又、私の心の業というものになってしまう。しかし、聖書が示す信仰とは、そんなものではないのであります。そのことを、今日の創世記15章の御言葉から見てみましょう。

 アブラハムは全ての信仰者の父、全ての信仰者の先頭に立っています。それは、彼が神様を信じ、それによって神様から義とされたからです。では彼は、神様をどのように信じたのでしょうか。神様によって義とされた彼の信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。彼は、「あなたの生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にする。」という神様の言葉を受けて、旅立ちました(創世記12章)。しかし、彼には中々子どもが与えられませんでした。彼は旅を続けていました。しかし、神様の約束は少しも実現しそうにありませんでした。そういう中で神様は再びアブラハムに現れ、こう告げるのです。15章1節「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」これに対してのアブラハムの反応は、2〜3節です。「アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉をついだ。『御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。』」アブラハムはこう言っているのです。「神様、あなたは「あなたの受ける報いは大きい」と言うけれど、自分には子どもがいない。だから自分の家は跡継ぎがなく、自分が使っている使用人の一人、ダマスコのエリエゼルが継ぐしかないのです。どんな大きな報いを受けても、それが何になるのでしょうか。」そうアブラハムは神様に言うのです。ここで、アブラハムは神様の言葉が信じられないでいるのです。
 この信じられないアブラハムに対しての神様の答えは、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」というものでした。神様は揺らぎません。神様は、あくまでもアブラハムに子が与えられ、その子孫が増えるようになると言うのです。そして、神様はアブラハムを外に連れ出し、アブラハムに空の星を見させるのです。そこには満天の星が輝いていました。そして神様はアブラハムに告げます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。ここで神様は信じられないアブラハムの為に、何か証拠を与えたというわけではないのです。ただ、空の星を見せ、あなたの子孫もこのようになると言われただけなのです。これは啓示でしょう。アブラハムは、満天の星を見上げながら、自分に子を与えると言われている方が誰であるかを知ったのです。天地を創られた方で、全てを知り、全てを支配されておられる方。彼は、自分はこの方の御手の中にあるということを信じ、受け入れたのであります。この時のアブラハムが見た空の星は、この富山の町の中で夜空を見上げて見えるようなものを想像したのでは、どうもピンと来ないのではないかと思います。アブラハムの時代、町の光も、スモッグもありません。まさに、満天の星だったのです。きっと立山の頂上で見上げるような星空だったに違いありません。アブラハムは、満天の星を見上げながら、これを創られた、天地の造り主なる神様の力、大きさ、偉大さを改めて示されたのでしょう。そして、その神様の御手の中にある自分を改めて発見し、「あなたの子孫はこのようになる」という神様の言葉を信じたのです。そして、神様はそれを義と認められたのです。

 どうでしょうか。神様によって義と認められたアブラハムは、一所懸命に努力して、信仰を手に入れたのではないでしょう。神様がアブラハムを選び、召し出し、声をかけ、神様の言葉を信じることが出来ないアブラハムを、信じる者へと変えて下さっているのです。全部が神様の主導権の中で事柄は進んでいるのです。神様が信じられないアブラハムを、信じる者へと変えてくださっているのです。これが、信仰は手に入れるものではなく、与えられるものだということなのです。信仰は手に入れるものではなく、与えられるものです。神様が選び、守り、導き、支えてくださるのが私共の信仰なのです。ですから、それは私共の手柄にはならないのです。信仰によって義とされるということは、私共がどこまでも神様の前で誇れる手柄はなく、ただ神様の恵み、恩寵によって義とされる、救われるということなのであります。信仰も又、私共の手柄にはならないということなのです。
 今朝洗礼を受けられる二人の方の試問会を先々週の礼拝後に行いました。このお二人の洗礼を申し出るまでの歩みの中に、長老会は神様の選び、導きを認め、洗礼を行うことに決めました。試問会というのは、その人がどれだけキリスト教の信仰を理解しているかを試験する場ではないのです。そうではなくて、この人を神様は選び、導き、救いへとともなっていかれようとされているのかどうか、その神様の御心を尋ねる場なのです。もちろん、その人が洗礼を受けたいという思いが与えられている、このことの中に、すでに神様の選びと導きとがあるのでありますけれど、その上でその神様の選びを信じ、それに応えて歩もうとしているのかどうか、そのことが問われるのであります。この二人の姉妹の口から、はっきりとその志も又、長老会は確認いたしました。ですから、長老会はお二人に洗礼を施すことが、神様の御旨であるということを確信し、洗礼を施す決議をしたのです。今日、お二人は洗礼を受ける。これから生涯、キリストに結ばれた者として生きることになる訳です。しかし、信仰の歩みというものは、いつも順風満帆である訳ではありません。疑いの心がムクムクと頭をもたげる時があり、試練の時もあるでしょう。しかし、良いですか。洗礼を受けた者であるという事実は、くつがえすことは出来ません。たとえ、サタンであっても、この事実を取り消すことは出来ないのです。どうか、様々な試みの中を歩まなければならない時、「自分は洗礼を受けた者だ。」、この事実に目を向けていただきたい。神様は、弱い私共をご存知であり、そのような私共が生涯、神の子、神の僕として生きる為に、洗礼という事実を私共に与えて下さったのです。洗礼は、神様との永遠の契約です。信仰は単なる心の動きではなく、この神様との契約という事実によって与えられる、神様との新しい関係なのです。

 アブラハムは、神様の言葉を信じて、義とされました。しかし、アブラハムも又、弱い一人の人間に過ぎません。神様は、アブラハムとの関係を確かなものとする為に、契約式を行って下さいました。それが、15章7節以下に記されていることなのです。神様は、アブラハムに、三歳の雌牛と三歳の雌山羊と三歳の雄羊と山鳩と鳩の雛を持ってこさせ、それらを真っ二つに縦に切り裂き、左右に向かい合わせに置きました。これは、当時の契約の儀式なのです。私は約束を破ったら、この動物のように真っ二つに切り裂かれてもかまいません。そういう意味です。真っ二つに裂かれた動物の間を、契約を結ぶ者が通るのです。17節「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」とあります。この「煙を吐く炉と燃える松明」というのは、文字通り受け取りますと何を言っているのか判りません。これは、見えない神様の象徴なのです。つまり、神様はここでアブラハムと契約を結ばれたのです。ですから、18節に「その日、主はアブラムと契約を結んで」と記されているのです。神様ご自身がアブラハムと契約を結んだのです。
 実に神様は、アブラハムに信仰を与えるだけではなくて、その信仰が確かなものであり続けるようにと、契約を結んで下さったのです。私共の信仰とは、この神様と結んだ契約という事実の中を歩んでいくということなのであります。
 しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神様はここで夜空の星をアブラハムに見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束され、アブラハムはそれを受け入れ、信じ、そして神様はアブラハムと契約をも結んで下さいました。しかし、アブラハムはここですぐに我が子が与えられた訳ではないのです。ここで、アブラハムの目に見える現実は、何一つ変わっていないのです。サラは不妊のままなのです。私共の信仰の歩みとは、こういうものなのではないでしょうか。私共の信仰の歩みというものは、神様の約束を信じて、少しも変わらないように見える現実の中で、それでも神様への信頼を失わないで「持ちこたえていく」という歩みなのではないでしょうか。神様は、そのような私共を必ず祝福し、守り、支え、導いて下さるのであります。何故なら、神様は真実な方だからです。私共の揺れ動く心の中に、信仰の確かさはありません。変わることなき神様の真実こそ、私共の信仰の根拠なのです。この神様の真実が出来事となって現れたのが、主イエス・キリストの十字架なのでしょう。私共罪人の救いの為に、御子さえも惜しまれず十字架におかけになる神様の真実。この永久に変わることの無い神様の真実、ここに私共の救いの確かさがあるのです。どうか、この方を信じ、この方に全てを委ねて、共々にこの一週間も主の御支えの中で歩んでまいりたいと思います。

[2005年11月6日]

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