富山鹿島町教会

元旦礼拝説教

「向こう岸へ渡ろう」
イザヤ書 43章1〜7節
ルカによる福音書 8章22〜25節

小堀 康彦牧師

 今年は1月1日、元旦が主の日となりました。共々に主の日の礼拝を守り、聖餐に与って、この2006年の新しい歩みを始めることの出来る幸いを感謝しております。週報にありますように、今日からルカによる福音書から御言葉を受けてまいります。昨年の9月25日に8章19〜21節の御言葉を受けました所からの続きになります。その後、創世記のアブラハム物語から御言葉を受けてまいりましたので、3ヶ月ぶりにルカによる福音書に戻ることになります。

 さて、今朝与えられております御言葉には、嵐を静められた主イエスの言葉と御業とが記されております。22〜23節「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」とあります。この湖とはガリラヤ湖のことです。この湖はそれ程大きな湖ではありません。多分、向こう岸までは10kmもなかったと思います。元漁師であるペトロ達にとっては、数時間あれば着くことの出来る距離だったと思います。彼らが乗った舟は、多分、私共が公園で見るボートをほんの少し大きくしたくらいの、小さな舟だったでしょう。漁に使う舟です。ですから、漁師であったペトロやアンデレ、ヤコブとヨハネといった弟子達にとっては、毎日操っていた舟であり、毎日漁をしていた湖であり、実に安心して手慣れた仕草で、舟をこいでいったのだろうと思います。ところが、向こう岸に着く前に、突然、突風が吹いてきて、波が激しくなり、舟が沈みそうになってしまったのです。ガリラヤ湖に似ていると言われる琵琶湖でもしばしば突風が吹くようですが、ガリラヤ湖でも山から吹き下ろしてくる風が突風となって湖面を駆け抜けることがあるようです。ペトロ達は、元々ガリラヤ湖の漁師ですから、舟を操りながら、何が危険なのかを知っていました。プロとはそういうものでしょう。何も知らない素人が平気でやってしまうような危険なことは決してしません。何が危ないことなのか、良く知っている。そして、その危険なことから回避する道も知っている。それがプロです。その彼らが、「おぼれそうだ。」と思ったのですから、本当に危なかったのです。この波と風を乗り切ることは出来ないのではないか。そうプロの漁師であるペトロ達は思ったのです。波は高くなり、舟の中にもどんどん水が入ってくる、そんな状況だったのかもしれません。風でとても舟を操ることが出来ない。ただ、波と風にもみくちゃにされ、木の葉のように揺れる。そんな状況だったのでしょう。
 問題は、この時の主イエスです。主イエスはどうされていたかというと、眠っておられたというのです。舟は揺れに揺れ、風と波の音が激しくなり、弟子達が舟に入った水をかき出し、一生懸命舟をこいでいる時、主イエスは眠っていた。私などは船酔いする方ですから、こんな状態で眠っているなどということ自体、とても信じられない程ですけれど、実に周りの騒がしさに対して、実に主イエスだけは静まっておられる。平安と言っても良い。嵐さえも破ることの出来ない静かな平安が、この時も主イエスの所にはあったのです。
 一方、弟子達はおぼれるのではないかと恐ろしくなり、主イエスを起こし言うのです。「先生、おぼれそうです。」弟子達は、主イエスを起こし、主イエスに何とかして下さいと願ったのです。当然のことでしょう。私共だってそうするに違いありません。主イエスは弟子達に起こされると、起き上がって、風と波とを叱り、静められました。そして弟子達に言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」この言葉は、信仰があれば、このような時にも、恐れ、あわて、うろたえることはないはずだということなのでしょう。そして、その信仰の大安心の姿を、主イエスは眠っている姿でお示しになっていたのだろうと思います。

 しかし、そんなに平然としておられるものでしょうか。私には自信がありません。もし、自分がこのような状況に陥ったのならば、私もやっぱりうろたえ、恐れ、「イエス様、神様、何とかして下さい。」そう言うに決まっています。それがダメなのでしょうか。そうではないと思います。主イエスは、勿論、そのように祈り願うことをダメだと言っているのではないのです。ただここで主イエスは、「あなた方の信仰はどこにあるのだ。」と言われているのです。私を頼るな、起こすな、そんなことを言われたのではないのです。そうではなくて、「あなた方は、私がここに居る。私が共にいるということを忘れてはいなかったか。私が共にいるということがどういうことなのか、あなた方は判っているのか。」そう言われたのだと思います。「あなたは、何を信じているのだ。」、「あなたが信仰を持っているということはどういうことなのか」、そう問いただされているのです。
 私は、ここで主イエスが風と荒波とを静められたことと、「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言われたことの、順序が大切であると思うのです。確かに、主イエスは弟子達に、「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言われました。しかし、それは主イエスがその神の子としての力をもって、すでに風と波とを静められた後なのです。良いですか。主イエスは、主イエスに助けを求めてくる弟子達の求めを退けて、「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言われたのではないのです。そうではなくて、弟子達の助けを求める叫びを聞き、これを受け止め、願いを聞き、嵐を静めて、それから「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言われたのです。つまり、主イエスの「あなたの信仰はどこにあるのか。」との言葉は、既に弟子達を安全なところに移して、その上での言葉であるということなのです。
 どうでしょうか。私共も、「あなたの信仰はどこにあるのか。」との神様の言葉を聞くことがあると思うのです。本当に、こんな情けない信仰でどうするのか、そう思うことだってあるでしょう。しかし、私共はその時、大いに喜ぶべきなのです。何故なら、その言葉を聞く時、すでに神様は私共の為に風も波も静められた後だからです。風も波も静めて、すでに安全な所に私共を置いて下さって、主イエスは言われるのです。「あなたの信仰はどこにあるのか。」そして、そのような経験を何度も重ねていく中で、私共は「主が我らと共におられる」、インマヌエルという事実がどんなに力ある平和をもたらすものであるかを、知らされていくのではないでしょうか。何度も何度も、「あなたの信仰はどこにあるのか。」と言われながら、まことの信仰の力、信仰の平安へと導かれていく。それが私共の歩みなのでありましょう。主イエスと共にいても、嵐にあうことはあるのです。しかし、大丈夫なのです。
 先程、イザヤ書43章をお読みいたしました。私が大好きな聖句の一つです。1〜2節「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。水の中を通らねばならない時がある。火の中を歩まねばならない時があるのです。しかし、私共は押し流されないし、炎は燃えつかないのです。主が私共と共におられ、私共は主のものとされているからです。確かに、主イエスが共におられるならば、どうしてこんなことが起きるのか。どうして、こんな目に会わねばならないのか。そういうことが起きるのです。しかし、そのような時こそ、私共は主により頼んでいくのです。そうすれば、必ず、インマヌエルの恵みを、本当に味わうことになるのです。
 私は今まで、そのような信仰者を何人も見てきました。はたで見ていても心が痛む程、次々と苦しい所を通らざるを得ない人がいました。しかし、御言葉にすがり、ただ神様をより頼んで、一年、二年、三年と歩み続ける中で、心から主をほめたたえる賛美が、その人の口からもれ出してくることを、私は何度も見てきました。それこそ、信仰の勝利です。私共は、この信仰の勝利、神様の勝利をます為に召された者たちなのであります。7節には「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」とあります。私共はクリスチャン、キリスト者と呼ばれる者です。キリストの名によって呼ばれる者です。それ故、私共がどんな嵐の中にあっても守られていることが、神様の栄光を現していくことになるのです。神様は、私共を守られることによって、ご自身の栄光を現されていくのであります。私共がどんな嵐の中にあっても沈まない、ダメにならない、大丈夫である。そのことによって、私共キリスト者を守られる方は誰であるのか、その力ある方は誰であるのかということが証しされていくのであります。

 ここで、もし弟子達が主イエスを起こさず、主イエスが眠り続けていたとしたら、この舟はどうなったかを考えてみましょう。嵐は止まず、水は舟の中に入り、弟子達は必死に水をかき出し、舟をこぎ続ける。しかし、弟子達の努力のかいもなく、この船は沈み、弟子達は皆、おぼれ死ぬ。そういうことになったでしょうか。決して、そうはならなかったはずなのです。何故なら、この舟には、主イエスが乗っていたからです。主イエスが乗り込んだ舟。それは沈まぬ舟なのです。この舟は、主イエスが共におられる以上、決して沈むことなく、主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた通り、必ず向こう岸へ着くことになっているのであります。この舟は、教会を指していると、教会の長い歴史の中で考えられてきました。教会のシンボルは今は十字架になっていますけれど、この舟も又、長く教会のシンボルとして使われてきたのです。主イエスが乗り込まれた沈まぬ舟です。英語では皆さんが座っている席、会衆席をnave(ネイブ)と言います。これはラテン語のnavis(ナビス)から来た言葉です。このnavisというのは、舟という意味なのです。皆さんは、主の日の礼拝に集うたびに、この沈まぬ舟に乗り込み、向こう岸に向かって旅をしているということなのです。この教会が沈まぬ舟なのです。この沈まぬ舟に乗っている私共も又、決して沈むことも、おぼれることもないのです。私共はクリスマスを迎える時、何度もインマヌエル、「神、我らと共にいます」という恵みのメッセージを受けました。このインマヌエルという恵みの事実は、私共の船は、私どもの人生は決して沈まないということを意味しているのです。
 私どもは困難な目に遭いますと、神さまが、イエス様が奇跡を起こして助けてくれることを願い求めるものであります。しかし、そのような信仰の有り様を主イエスは、「あなた方の信仰はどこにあるのか。」と問いただされたことなのでありましょう。たとえ主イエスがただ眠っているだけだとしても、つまり嵐を静めるめこともなく、波を静められることがなかったとしたも、私共の船は決して沈まないのです。そのことを信じ、安心して、向こう岸に向かって舟をこぎ続けること。それが、主イエスが私どもに求めておられる信仰の有り様なのではないでしょうか。勿論、イエス様がこの舟に乗り込んでいるから大丈夫だと言って、嵐が来ても何もしないで、お祈りさえしていれば良いというのではないでしょう。私共は、「向こう岸へ渡ろう。」という、主イエスの命令を受けているのでありますから、嵐の中も必死に舟をこぐのです。水が入ってくれば、必死で水をかき出すのです。向こう岸に向かって舟を進ませていかねばならないのであります。主イエスが共にこの船には乗り込んでくださっているのだから、決して沈まないことを信じて、大安心の中で、為すべきことを為していく。船を向こう岸へと漕いでいく。それが私どもの為すべきことなのです。
 「向こう岸へ渡ろう」という主イエスのお言葉は、まことに象徴的であります。向こう岸とは、まさに神の国を指しているのでしょう。私共は、向こう岸を目指して、この一年、主イエスが乗り込んで下さったこの舟に乗って、精一杯舟をこいでいきたいと思うのです。嵐が来ても、水が入ってきても、この舟は沈まないのです。私共は、この一年の間に、病気になるかもしれないし、ケガをするかもしれません。思いもかけなかったような困った出来事が起こるかもしれません。しかし、大丈夫。主イエスが共におられるのですから。この舟も、この舟に乗っている私共も、決して沈まないのです。インマヌエルがもたらす、大安心の中で、この新しい一年も歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2006年1月1日]

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