富山鹿島町教会

礼拝説教

「復活の主の大号令」
ヨナ書 4章1〜11節
マタイによる福音書 28章16〜20節

小堀 康彦牧師

 主イエスがご復活され、弟子達は主イエスに命ぜられた通りガリラヤに行きました。そこで山に登ります。この山がどの山であったのか、現在のガリラヤ地方のどの山なのか、それは判りません。ただ、このマタイによる福音書においてガリラヤの山と言えば、5章以下の所で、あの有名な「心の貧しい人々は幸いである。」で始まる「山上の説教」を語られた山ではないかと想像することは許されるのではないかと思います。弟子達に、又多くの人々に主イエスが教えを語られたあの山で、弟子達と復活の主イエスが再び会ったのです。そしてこの時、弟子達は復活の主イエスの前に「ひれ伏した」と聖書は告げます。「ひれ伏した」というのは、主イエスを拝んだということです。これは、弟子達が初めて主イエスを拝んだ時でありました。弟子達は主イエスと3年間生活を共にしておりましたけれど、主イエスを拝んだことはありませんでした。主イエスの数々の奇跡を見、驚き、この方は一体誰であろうかとつぶやいたことはありました。又、主イエスに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われ、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白したこともありました。しかしその時も、弟子達が主イエスの前にひれ伏して拝んだことはなかったのです。しかし、復活された主イエスと再び出会った弟子達は、主イエスの前にひれ伏し、主イエスを拝んだのです。それは、この復活された主イエスこそ、まことの神の子、神そのものであるという信仰が与えられた、弟子達は復活の主イエスを神様として信じたということなのであります。ここに、キリスト教は誕生したのです。
 主イエスを拝む。それは私共にとっては当たり前のことであります。しかし、弟子達が復活の主イエスと出会い、主イエスを拝んだということは、決して当たり前のことではなかったのです。それは、聖書の神様は天地を造られた神様ただ一人であり、それ以外の者を拝むこと、神とすることは十戒において厳しく禁じられていたからです。ユダヤ教の伝統の中で生きていた弟子達にとって、これはとても重要なことでありました。ここで弟子達は、十戒の戒めを破って、主イエスを拝んだということなのでしょうか。そうではないのです。復活された主イエスこそ、天地を造られた神様の子、神そのものであることを知らされたのであります。
 キリスト教の根本教理は、三位一体と言われるものです。天地を造られた父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が、ただ一人の神であるという教理です。この三位一体という教理は、本当に難しい。どうして、三が一で一が三なのか。父・子・聖霊の三人の神様がいるというのなら判りやすい。しかし、神様が三人いるのではない。神様はただ一人だという。又、神様は天地を造られた父なる神様だけで、イエス・キリストは神ではないというのなら、これはこれで判りやすい。しかし、そうではないという。この三位一体という教理は、判ったようで判らない。判らないようで何となく判る。そういう所があるのでしょう。洗礼の準備をする時に、私は牧師としてどうしてもこの三位一体の説明をしなければなりません。これが根本教理ですから、これを信じ、受け入れなければキリスト教にならない訳です。しかし、これを洗礼を受ける人が納得出来るような形で説明することは、実はほとんど不可能なことなのではないかと私は思っているのです。それは、この三位一体という教理は、私共が信じ、拝んでいる神様の本質に迫る教理だからです。神様の本質というものを、人間がその知性で完全に捉えることは出来ることではないからなのです。三位一体とは、理解すべきことである以上に、信ずべきことなのだと言わざるを得ないのだと思います。
 三位一体という言葉は聖書の中にはありません。後でキリストの教会が自分達の信仰を言い表す為に用いた言葉です。しかし、もちろん、三位一体の信仰はすでに聖書の中にあるのです。それを示す大切な箇所の一つが、この復活の主イエスを弟子達が拝んだという所なのであります。復活の主イエスがもし神様でないとしたら、弟子達は偶像礼拝をここでしたということなのであり、キリスト教は旧約聖書以来の信仰の伝統から切り離されたものになってしまうのであります。しかしそうではなくて、主イエス・キリストは天地を造られた唯一の神と同じ神であられる。その信仰が弟子達に与えられ、弟子達は復活の主イエスの前にひれ伏し、拝んだのであります。
 聖書はここで「しかし、疑う者もいた。」と記しております。確かに、主イエスが神であると言って良いのか、主イエスを拝んで良いのか、疑う者がいたのです。三位一体の教理は、325年のニケア会議において確定されるまで、いや確定されて後も、様々な議論が繰り返されたのです。その議論が終結していく中で、最も力を持ったのは、キリスト者の日常の信仰生活、礼拝生活だったのです。主の日の礼拝の中で、代々の聖徒たちは主イエス・キリストを拝み、ほめたたえている。この復活の主イエスと出会った時の弟子達以来の礼拝のあり方、主イエスの前にひれ伏し、拝んでいるという事実が、様々な議論に勝利したのであります。

 私はこの「しかし、疑う者もいた。」という大変短い言葉は、とても重要だと思うのです。これは、単に復活の主イエスに出会った11人の弟子達の中に何人かの疑う者がいたというだけではないと思うのです。いつの時代のどのキリスト者の群の中にも「疑う者」はいるということなのではないかと思うのです。キリストの教会というものは、いつの時代でも、どの教会であっても、疑う人が一人もいない、完全で立派な信仰者だけが集まっているというような教会など、今までも無かったし、これからも無いのだと思うのです。しかし、大切なことは、そのような疑う者が混じっているような、不完全な、欠けの多い群であるにもかかわらず、復活の主は、この群に大切な務めを委ね、命ぜられたということなのです。私共の群が完全になったら、この主イエスのご命令に従えるということではなくて、不完全な、欠けの多い私共が、この主のご命令に従っていく。その歩みの中で、私共は確かな主の守りと栄光を味わっていくということなのであります。私共の中に疑う人がいるというのは、あの人が、この人が疑っているというようなことではなくて、この私の中に疑う心があるということでもあるのです。そしてそれにも関わらず、この私に主イエスは大切な務めを委ね、お命じになられていると言うことなのであります。
 主イエスは言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」この主イエスのご命令は、復活の主の大命令、グレート・コマンド、大いなる命令と呼ばれるものです。この復活の主のご命令に従って、弟子達は実際に全世界へと出て行ったのであります。そして、その波は二千年の後、この富山の地にまで届いているのであります。この復活の主の大号令は、二千年前に、復活の主が弟子達に一度だけ告げたのではありません。キリストの教会の中に、この主イエスの大号令は、いつも響いていたのです。この主イエスの大号令を自分に告げられた言葉として、代々の教会は受け取り続けてきたのであります。
 私が20数年前に神学校に入りました時に、同級生の中に、「自分は宣教師として少数民族の中に行き、聖書を翻訳したい。」という女性がおりました。バプテスト教会の女性の信徒でした。私は自分が神学校に行きました時、そのような思いは少しもなく、ただ何となく、自分は日本にある田舎の教会で牧師をするのかなと思っていただけでしたので、大変驚くと同時に、この復活の主の言葉を、自分はどう聞くのかと問われたように思ったことを覚えています。
 主イエスは「行って、すべての民を」と言われました。国家も民族も超えて、「すべての民を」です。ここには、国家も民族も超え、天地を造られ、全ての被造物をその御手の中に治められる神様の憐れみが示されています。先程、旧約のヨナ書をお読みいたしました。ヨナは神様によって、当時世界最大の町であったニネベに遣わされました。ニネベは世界帝国アッシリアの都でした。ヨナは自分の国を痛めつけるアッシリアなど滅べば良いと思っていたのではないかと思います。しかし、神様は神の民イスラエルの敵であるアッシリアの民が滅ぶことを喜ばず、これを惜しんだのであります。その御心は、この主イエスの大号令の中にも現れています。主イエスは、ユダヤの民だけが救われれば良いとはお考えにならなかったのです。全ての民が、神様と和解し、神様の救いに与ることを求めたのです。その御心を実現する為に、弟子達を全世界へお遣わしになったのです。
 もちろん、私共が皆海外宣教に行かねばならないということではありません。私共の日常においては、自分の家族や友人が「すべての民」の具体的のものなのだろうと思います。しかし、主イエスが「すべての民」と言われた広さ、豊かさを忘れてはならないのです。国、民族、あるいは社会的立場といった、目に見えるいかなるものも、主イエスの「すべての民」を小さく、狭くすることは出来ないし、あってはならないのです。

 さて、主イエスはここで、三つのことをお命じになられました。@すべての民を主イエスの弟子としなさい。A父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。B命じておいたことをすべて守るように教えなさい。この三つであります。この三つについて、一つずつどういうことなのか思いをめぐらし、展開することも出来ますが、今はその時間がありません。そもそもこの三つは、別々なことを言っているというよりは、一つのことを告げていると見て良いと思います。それは、第一番目の「すべての民を主イエスの弟子とする。」ということです。主イエスの弟子となるということは、父・子・聖霊の名によって洗礼を受けるという道を通らなければなりませんし、主イエスの教えを学び、それを守るという歩みをなし続けなければならないからです。私共は主イエスの弟子なのです。主イエスの弟子にとって大切なことは、主イエスの弟子となるということと、主イエスの弟子であり続けるということです。一度、洗礼を受けて主イエスの弟子になれば、それで全てが終わりという訳にはいかないのです。生涯、主イエスの弟子であり続けなければ意味がないのです。主イエスの弟子であり続ける為には、主イエスの教えを聞き続け、学び続け、その教えを実践し続けていかなければなりません。そしてこのことは、私共はキリスト者としての訓練を受け続けなければならないということでもあろうかと思います。訓練などと言うと、あまり自分は受けたくないと思う方もおられるかもしれません。しかし、私共は実に弱く、忘れやすい者なのです。どんなに感動的に主の赦しの恵みに与っても、「ノド元過ぎれば熱さ忘れる」で、半年、一年もしない内に、その感動は薄れ、主の弟子としての歩みがフラついてくるのです。そのような私共でありますから、御言葉に聞き続け、それに従う生活を整えていく訓練を受けていかなければならないのであります。
 しかし、私共は自らの体にムチ打って、信仰の歩みを為していく訳ではありません。訓練というのも、単に自分の努力によって成し遂げるということではないのです。主イエスは、この三つの大号令に続いて、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。主イエスが共にいて下さる、このインマヌエルの事実こそ、私共の一切の伝道、信仰生活、訓練が為されていく根拠、力の源なのであります。復活の主が私共と共にいて下さっている。だから「すべての民」に向かって一歩を踏み出していけるのですし、御言葉を受けることが出来るのですし、訓練を受けて主の弟子としての歩みを全うしていくことが出来るのです。そして、そのような歩みを続けていく中で、いよいよ、主イエスが私共と共にいて下さっているということが、確かなこととして私共に判ってくるということなのでありましょう。神我らと共にいますという、インマヌエルの神の導きと守りの中で、いよいよ、インマヌエルの事実に出会っていくのであります。ここに、私共の信仰の歩みの確かな保証があるのです。
 先日、ある牧師と話をしておりました。私は三日坊主にもなれない。日記など一日書いて、二日目はもう止めたくなる。何をやっても続かない。そういう人間であることを話しました。これは性格ですから、なかなか直らない。ダイエットなど良い例で、一年中、ダイエットをしている。いつも失敗しているからです。何か理由をつけては、今日は食べてもいいか、といった具合です。そんな話をしておりましたら、その牧師が、「じゃ、伝道は?」と言う。そう問われて、これは不思議なように続いている。洗礼を受けて30年。伝道するのを止めよう、止めたいと思ったことがないのです。これは不思議なことですね。しかしこれは、伝道ということが、私の性格の問題を超えていることだということなのでしょう。この主イエスの大号令に従うということが、インマヌエルの神の御手の中で、インマヌエルの事実に目を開かれ続ける中で歩んできたし、今も歩んでいるからに他ならないのでありましょう。私は、この幸いを心から喜び、感謝するのです。そして、この歩みを、皆さんと共になし続けてまいりたいと、心から願うのであります。

[2006年4月23日]

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